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2003年6月10日

胃袋と文化

ニューヨークではさすがにあまり感じないのだが、シカゴに来ると、人間の横幅が急に広くなっているような気がする。

中西部では、ニューヨークほどにはシェイプアップが至上命令ではないのだろう。皆、でっぷりとした腹を突き出している。

シカゴの街を歩いて、ショーウィンドウに映る自分の姿を見ると、ものすごくスマートになった気がする。しかし、これが大きな落とし穴だ。自分がやせたわけではなく、周りの腹が大きすぎるので錯覚しているだけだ。

こちらの人たちは、本当によく食べる。私も20~30代の頃はかなり食べた方だが、最近はさすがに枯れてきて、もりそば1枚で充分だ。ところがこっちでは、オジンでも妙齢のおねえさんでも、私の20代の頃と同じくらいにわしわし食べる。

今日の夕食は、日本にも支店があるらしい 「ローリーズ」 というステーキハウスで食べた。充分に用心して、最初に出てくるパンなんかはまともに食べない。パンで腹がある程度できてしまったら、ステーキで殺される。ステーキだけでも大変なのに、マッシュポテトとほうれん草で、まさに裏返しの兵糧攻めだ。

アメリカ人というのは、これだけ大食いをして、なおかつその後でシェイプアップに金をかけているわけだ。飯の量を減らせば、かなり合理的になると思うのだが、そこはそれ、長年の文化である。皿の上の盛りが少ないと、言い知れぬ寂寥感に襲われるに違いない。

そうしてみると、彼らの胃袋の大きさは人種的な生物的遺伝だけとは考えられない。かなりの部分、文化によって規定されているのだろう。

文化とは大したものである。胃袋の容量までも決めてしまうのだ。

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