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2003年7月に作成された投稿

2003年7月31日

単数形と複数形

BBS(シンクロ型)に細かいことを書いてしまったが、日本人が欧米語を扱う際に間違いやすいのは、単数、複数の区別である。

マーケティング論で セグメンテーションによる「世代」として語るのならば「ベビーブーマーズ」と複数形にしてもらいたいのだ。

何のことか、BBS を読みに行かなければわからないと思うので、簡略に記すと、Google で検索してみたら、「ベビーブーマー」のキーワードでは、マーケティング関連のサイトを中心に 2,500件以上も見つかるのに、「ベビーブーマーズ」と複数形にすると、とたんに 20件しか見つからないというお粗末なのである。この言葉は本来は "baby boomers" と複数形で使われることが圧倒的に多いのだが。

逆に、単数形にすべきところをつい複数形にしてしまう代表例は「ジーンズショップ」である。これなんかは、もう日本語化しているから目くじら立てても仕方がないのだが、本当は「ジーンショップ」が正しい。

文法的には「名詞を形容詞的に用いる場合は単数形にする」という決まりがあるらしく、アイテムとしての名前は「ジーンズ」だが、下に「ショップ」がくっつくと、単数形で「ジーンショップ」になる。同様に、松井秀喜選手が活躍するニューヨーク・ヤンキースのホーム球場は、「ヤンキース・スタジアム」ではなく「ヤンキー・スタジアム」 になる。(もっと言えば「ヤンキー・ステイディアム」だが、どうせカタカナでは表現しきれないから、固いことは言わない)

となると、阪神タイガースがキャンプを毎年行っている安芸市営球場のある高知県安芸市のキャッチフレーズ 「タイガースタウン」 も、本当は 「タイガータウン」 でなければならない。

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2003年7月30日

「がんす」と「のぅ」

映画「たそがれ清兵衛」をご覧になった方はお気付きのはずだが、庄内弁ではなんでも語尾に「~がんす」さえ付ければ丁寧な言い方になる。江戸山の手の「ざます」、鹿児島の「ごわす」同様、「ござります」の変化である。

「ござります」が「ございます」に音便化し、頭の「ご」が弱まって消えると「ざぁます」 「ざます」になる。さらに「ござんす」から変化したのが、相撲取りの「ごんす」だ (今どきの力士が「ごんす」なんて言うのは聞いたことがないが) 。

また、「ござる」が「おじゃる」に変化するという流れもある。鹿児島弁の「ごわす」は「おわす」の流れも混じっているような気がする。そして「がんす」は、「ござんす」の流れを脈々と引いている。

庄内弁では、「そうだ」は「んだ」と素っ気ないが、「そうです」は「んでがんす」と、ややニュアンスが加わる。

その否定形は、ちょっと高等技術になる。「そうじゃない」は単純に「んでね」 。 「そうじゃないんです」は、「んでねなでがんす」とも言うが、そう言ってしまうとややニュアンスがきつくなる。上品に言おうとすると、「んでがんすねのぅ」になる。

「んだ」の否定形「んでね」を直接的に言ってしまうより、「がんす」の方に否定の「ね」を付けて婉曲化するのである。「の」は関東弁の「ね」に相当するが、「のぅ」と言うと、ややおっとりした感じになる。庄内弁では、「の」と「のぅ」はどこにでも付く。

複雑化するのはこれ以降である。「がんす」という助動詞を否定してしまうので、「そうじゃないんですか?」と言うためには、もう一度 「がんす」 を重ねて、「んでがんすねなでがんすが?」になる。

「そうじゃないんではないですか?」は「んでがんすねなでがんすねが?」、それをおっとり言うと 「んでがんすねなでがんすねがのぅ?」 …… もう、言っている方もだんだん自分で何を言っているかわからなくなる。

とにかく、「がんす」と「のぅ」は、庄内弁の肝(キモ)である。それさえ把握すれば、初めて庄内に行って、土地の者が何を言ってるのかさっぱりわからなくても、それほどの疎外感を感じもせずに、ゆったりと漂うような時を過ごすことができる。

 

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2003年7月29日

ブランド品の値段

質屋を経営する知人に聞いたのだが、近頃の質草は、アクセサリーやバッグなどの、高級ブランド商品が多いのだそうだ。

どこかのいけない「パパ」にもらったブランド品を、若い娘がさっさと質入れしてしまうらしい。「パパ」はいい面の皮である。

こうした「高級ブランド品」の値段というのは、どんな意味を持つのだろう。

例えばルイ・ヴィトンのバッグにしても、主な素材である塩化ビニールには高級塩ビや安物塩ビの区別はない。塩ビは塩ビである。あるのはあの独特のプリント・ロゴと、それをきちんと縫い合わせたという結果である。縫製にしても、丁寧ではあるが特別の縫い方というわけではない。

それでいて、あの「素晴らしい」値段というのは、「モノ」としての価値を買うのではなく、言い古されたことだが、「満足感」を買うのである。その満足感は、「これは高級ブランドですよ」という看板からくるのだ。つまり、高級ブランド商品の値段というのは、いわばメーカーに対して「未来永劫に、このブランド・ステイタスを維持してくれるだろうな」という委託金を預けているようなものだ。

だからいったんその信用が崩れると、質屋の市場での相場はガックリと落ちてしまう。最近の "P" ブランドのバッグがいい例である。

見方を変えれば、私なんぞは、そんな委託金を預ける趣味などないから、時計やバッグは、安い値段で「機能性」だけを買ってしまうのである。

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「恋人」と「愛人」

先日の NHK山形の「爆乳キャスター」さん関連で、書こう書こうと思いながら忘れていたネタを、今日書かせていただく。

早稲田小劇場の鈴木忠志氏が30年近く前、大学の授業で突然 「君たち、田中角栄のお妾さんを何と言う?」と言い出した。

彼は週一の非常勤講師として、「演劇における身体性」 の講義を受け持っていた。楽しみな講義だった。

話を元に戻すが、彼は、田中角栄のお妾さんを「愛人」と言ってしまっては、ちょっと違うだろうというのである。

「これが、ジスカール・デスタン (当時のフランス大統領: 貴族の出) だったら、どうなると思う?」 彼は言った。「フランス人なら、ためらわず『恋人』と表現するだろう」

「庭でステテコはいて鯉に餌やってるおっさんのお妾さんは、『恋人』という感じではないなぁ」
「いや、それは偏見ではないか?」
「恋人と愛人は、どう違うんだ?」
「独身なら恋愛の相手は『恋人』だが、浮気の相手は『愛人』だ」
「ならば、独身は恋して、妻帯者は愛するとでもいうのか?」
「愛人の方が、淫靡だ」

議論百出した。

言えることは、フランスだったら柱谷氏は監督を辞めなくて済んだだろうということだ。アメリカなら、やっぱり辞めることになるかもしれないが。

アメリカはピューリタニズムが案外幅を利かせているが、フランスは色恋沙汰では野暮は言いっこなしよという感覚がある。日本の場合は、その場その場の雰囲気だ。恋人だったり、愛人だったり、お妾さんだったりするので、一概に決め付けられないのだろう。

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2003年7月27日

時間の止まる夏

久し振りに晴れた。ようやく梅雨明けかと思ったが、関東ではまだらしい。気象庁では 8月と同時に梅雨が明けると言っている。

風がまだ涼しい。どうかすると、秋風のような感じさえする。農家は大変だ。7月一杯で作物が育たないと出荷に影響するという。

田んぼの稲を見ても、7月下旬にしてはなんだか妙に小さい。8月にきちんと日が照ってくれれば、実はつけるらしいが、そうなってもらいたいものだ。

ところで、夏の景色をみると私はいつも「フリーズ」という言葉を連想する。カッと熱い日差しがあればあるほど、景色は「凍りついている」ように見える。夏の景色は、いつも 「動かない」 のである。

白い田舎道が、緑の田の真ん中を一直線に続き、その向こうには青空に入道雲が湧く。しかし、何も動かない。微風はあるが、草をそよがせるまでにはいたらない。音も聞こえない。実際には蝉時雨なのだが、それは聞こえる音ではない。時間が止まっている。

夕暮れになって、ようやく家々から浴衣を着た娘や祭半纏を着た若衆が出てくる。しかし、夏祭りは止まった時間のままで進行する。夏祭が一巡すると、盂蘭盆が営まれる。

そういえばお盆までには夏らしくなってくれないと、こうした情感が湧いてこない。気象庁の言うように、8月の声を聞くと同時に梅雨が明けてくれればありがたい。

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2003年7月26日

”Enya” は「エンヤ」じゃないのか

今日は私の誕生日である。で、なぜか急に田舎の民謡「最上川舟歌」が聞きたくなり、探したら戸沢村のサイトで聞けた。

なんと日本語、英語、韓国語の 3バージョンがある。ただし「ヨイサノマカショ、エンヤコラマカセ」の部分はどれも同じ。

何度も「エンヤコラマカセ」を聞いて、急に思い出したのが、ここ数年来、密かに抱き続けてきた疑問、「アイルランド・ミュージックの『エンヤ』の本当の発音」である。

<「エンヤ」のスペルは、"Enya” である。

力仕事の掛け声や、忠臣蔵の「塩谷判官」じゃあるまいし、いくらなんでも「エンヤ」はないだろうと思うのである。ヨーロッパ系の言語で、「ン」に続く「ヤユヨ」が、リエゾンされないはずがない。現地に行って「エンヤ」と言っても、絶対に通じないだろう。また、ローマ字読みしかしらない小学生だって、これは「エニャ」と読むだろう。

多分、英語っぽく言って「イーニャ」か、あるいは「エニヤ」「エニア」だろうと、漠然と思っていたのだが、改めて調べてみたことがない。そこで、 「エンヤ/発音」のキーワードで、Google 検索してみた。

芸能人辞典 IIというとてつもない労作のサイトで「エンヤ」を引くと、

* アイルランド人(かなり年配の男性)の発音は、”エニャ” に近い感じに聞こえた。
* アイルランドの人は、”エニャ” に近い発音をしてた。

との記述があった。やっぱりである。

また、アイルランド・ミュージック・フリークを自認する「かず」さんのサイトでは、「英語の発音はアーニャに近い」としている。まあ、カタカナで正確に表現することはできないにしても、「エニャ」「アーニャ」 に近い発音であることは確かだと判明した。

しかし、Fairy Tails 妖精物語 といういかにもアイルランド関連らしいサイトに、「ENYA 情報」というページがあり、そこには "Enya" という名前の由来が当人へのインタビュー形式で、以下のように紹介されている。

("Eithne" という、彼女のゲール語の本名のスペルについて)
A(エンヤ).エンヤ。同じ発音です。ゲール語で前半が「エ」、後半は「ンヤ」です。誰もゲール語で書かれた私の本名を読めませんでした。でも母国語の本名は私にとって捨てがたく、エンヤという発音をそのままアルファベットにしました。

こうなるとわからなくなる。当人自身が「エンヤ」と答えているのである。しかし、このコメント自体がそもそも日本語で書かれているので、当人が本当に「エンヤ」と言ったのか、あるいは「エニャ」に近い発音をしたのを、このように書き取ったのか、判断できない。さらに「発音をそのままアルファベット化」したのなら、どうしたってもとは「エニャ」に近い発音だろう。

しかし、あるいは、本当にゲール語では「エンヤ」と発音するのだが、今となってはアイルランド人の多くも 本来の発音を忘れてしまって「エニャ」と発音するようになってしまったのか。

日本に "Enya" を初めて紹介した人は、ローマ字の読み方さえ知らない素っ頓狂だったのか、あるいは、ゲール語のエキスパートで、今日のアイルランド人さえ知らない本来の発音をきちんと知っていてのことだったのか。

あぁ、私の積年の疑問は、ますます深みにはまり込んでしまったのだ。

【2021年 8月 7日 追記】

この記事のことをふと思い出して、YouTube でググってみたら、2つの動画が見つかったので紹介しておく。

  1. そのものズバリ "How to pronounce Enya" (Enya をどう発音するか)というもの。

    再生してみると、カタカナ表記するとしたら「エーニヤ」という音に聞こえる。もっとも、ことさらゆっくり言っているようだから、普通には「エニヤ」か。

    ただ、コメント欄には「マジに、このように発音してはならない」とか、「私の親友の名前は Enya だが、彼女は Eneeja (エニージャ)と発音しているとか、「ムムム・・・」となってしまう指摘がある。
  2. Enya . Enya explains what means her name Eithne on the Irish mithology . Interview.
    (Enya. Enya がEithne という彼女の名前のアイルランド神話学的な意味を説明する)

    これは当人へのインタビューだから、まず間違いなかろう。そして当人は「"エニヤ" はゲール語の名前よ」と言っている。

というわけで、結論!

元々のゲール語からもってくる際に、いろいろなバリエーションが派生しているようだが、あの歌手の Enya に関する限りは、「エニヤ」ということにしておいて問題がない。

以上!

 

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2003年7月25日

「突然の大きな音」 に弱い私

私は「突然の大きな音」に弱い。道を歩いていて、車のパンクの音や工事現場で鉄板がぶつかる音なんぞが響いたら、本当に心臓が縮み上がるほど、驚いてしまう。

どうしてみんな平気な顔で歩いていられるのかと、不思議に思うほどだ。

大抵のことにはあまり動じないでいられるのに、どうして「音」だけには弱いのか。これはどうも、生まれた直後に受けたトラウマらしいのである。

私は 7月26日に生まれた。田舎では例年、私の誕生日の 1週間から 10日後ぐらいに「港祭り」というのが開かれ、花火が盛大に打ち上げられる。そして、私の生家は港のすぐ近くだったため、花火の音が腹に響くほど間近で聞こえるのである。

大分後になってから母に聞いたのだが、生まれたばかりの私は、花火が打ち上げられるたびに驚いて、体全体でビクンビクンと反応していたらしい。「ホントに飛び上がるほど驚くから、皆、花火よりお前を見て笑ってたんだよ」

「それだよ! それが今でも直らないんだ !!」と、私は叫んだのである。

そうだったのか、自分が「突然の大きな音」に弱いのは、この原体験のせいだったのだ。「三子の魂百まで」と言うが、生まれて半月も経たない無防備な私は、腹に響くほどの大音響で、一晩中、何度も何度も執拗に脅かされたのだ。そして、何と、家族全員でそれを見て笑っていたというのである!

これがトラウマとして残らないはずがあるだろうか。平気でいろという方が無理ではないか。

ともあれ、かくも大らかな家族のおかげで、私もまた、大らかに育つことができた。トラウマは一つ残ったが、ありがたいことである。そして誕生日がまた来る。それは明日である。

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2003年7月24日

米国の爪切りは大雑把

実は、先月米国に行くのに「爪切り」を持っていくのを忘れてしまった。

1週間ほどいる内に爪が伸びてしまったので、ドラッグストアで買おうとしたのだが、英語で「爪切り」を何と言うか忘れてしまっていることに気付いたのである。

米国のドラッグストアというのは、かなりでかい。日本のマツキヨよりは大きい気がする。その中で爪切りを探すのは大変だ。なかなか見つからないので、店員に聞こうと思ったのだが、何でも、"nail cutter" でないのは確かである。

さて、何と言うんだっけ? 店員に近づきながら、"nail..., nail..." と心の中で繰り返していたら、天啓のように思い出した。"Nail clipper!"

以前「一撃」に、物忘れをしても執念で思い出さないと「ボケ」が進むと書いたことがある。このようにして必死に思い出すと、「シナプス」がつながって、「ボケ」の進行が止まるのだそうだ。私のボケの進行は、この瞬間少なくとも 3日は遠のいたのである。

で、店員に聞いてその "nail clipper" のおいてあるコーナーに行くと、3種類の製品があった。しかし、どれもみなサイドにカバーが付いていない。つまり、切った爪はあちこちに飛び散り放題になる。米国の爪切りは、かなり大雑把なコンセプトで作られているようなのだ。

このあたりのパテントの関係がどうなっているのか知らないが、米国で日本流の 「爪が飛び散らない爪切り」 を売り出したら、一儲けできないだろうか。

ちょっと興味がある。

それとも、米国人は爪が飛び散るくらいはなんとも思わないから、全然売れないだろうか。

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2003年7月23日

アクセス解析でわかったこと

最近、当ページのアクセス解析ソフトがバージョンアップして、トップページだけでなく複数ページの解析ができるようになった。

そこで主だったページの解析をしてみたら、「なおざり と おざなり」のページに、かなりのアクセスがあることがわかった。

あの「ラリ研」の「アマゾネス」には、Google の検索で勘違いしたオジサンが毎日 40人くらい来るそうだが、それほどではなくても、当サイトの「おざなりページ」にも、毎日 20人以上のアクセスがあるようなのだ。

Google で検索してみると、キーワードを「なおざり/おざなり」の 2語にした場合は、トップにわがサイトのページが来る。ちなみに「なおざり」の 1語だけだと 2位、「おざなり」だけだと 6位である。世の中には「なおざり」と「おざなり」という言葉について、わざわざインターネットで調べる物好きが、毎日20人以上いるということである。

ところが、せっかく「なおざり と おざなり」のページまで来てくれても、そこからトップページに飛んできてくれるのは、1日にせいぜい 2~3人といったところなのだ。10%程度である。多くの人は「おざなり」と「なおざり」という言葉の由来について納得すると、それで満足してどこかに行ってしまうようなのである。

さらに、トップページに来てくれても、「一撃 全文表示」まで読んでくれるのは、50%程度。映画館まで来て、予告編だけ見て帰ってしまうようなもので、皆さん、ずいぶん忙しいようなのだ。

もしも、この「一撃 全文表示」まで読んで下さっているあなたが、たった今しがた「おざなりページ」から入って来られたばかりだとしたら、あなたは知的好奇心の旺盛さでは、間違いなく世の中の上位 5%以内に入る方です!

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2003年7月22日

フランスの E-mail

フランス文化省は18日、政府のすべての省庁、文書、刊行物、ウェブサイトで "e-mail" という呼称を廃止し、 "courriel" (クーリエル) という名称を採用すると発表した。

フランスは国を挙げて、英語の語彙のフランス語への流入防止に躍起になっている。

"Courriel" というのは、"courrier electronique" (電子的な手紙) という言葉をつないで省略した造語である。 「木村拓也」 が 「キムタク」 に、「坂東妻三郎」 が 「坂妻」 になったようなものだろう。

ただしフランス語の "electronique" の最初の e は、アクサンテギュ (左下がりのアクサン記号) 付きらしい。どうかフランス政府は、当サイトにクレームを付けないでいただきたい。このサイトではアクサンテギュを表記できないだけのことで、他意はない。

それにしても、フランスという国は言語についてはガンコなところがある。日本なんて、その点では融通無礙だ。近頃のカタカナ語の増加なんて、フランス人が聞いたら腰を抜かすだろう。

当欄の 4月 28日付でも触れたが、国立国語研究所の外来語委員会というところが「『外来語』言い換え提案」作業の第 1回分最終報告を発表したはいいが、その後、話題としてはさっぱり盛り上がらない。「アウトソーシング」を「外部委託」、「ガイドライン」を「指針」と言い換えるとしているのだが、「アイドリングストップ」を「停車時エンジン停止」と言い換えるに及んでは、「なんだかなぁ」という気がする。日本語は外来語に対して、非常に寛容だ。

もし日本で "E-mail" を「電子的手紙」なんて言い換えることになったら、あちこちから「舌を噛むから止めてくれ」との声が上がるだろう。

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2003年7月21日

デザインのいいトイレ・ブラシ

海外展示会などの視察にパッケージ・ツァーを利用すると、必ずと言っていいほど「おみやげ購入」タイムがあり、ほとんどの人は高級ブランド商品を買い漁る。

ところが、ウチの妻はそんなものは絶対に欲しがらず、はるかに難しい注文をする。

これまでで一番難しい注文だったのは、20年ほど前にニューヨークに出張した時の 「デザインのいいトイレ・ブラシ」(!)というものだった。

デパートや雑貨店に行っても、趣味の悪いプラスティックのブラシしか売っていない。米国という国は、趣味のいいものはすごくいいのだが、悪いとなると、無茶苦茶に俗悪になる。当時は普通の店で売られているのは、その 「俗悪の極み」 みたいな色合いのものばかりだった。

こちらも「デザインのいいトイレ・ブラシ仕入れの旅」というわけではないから、そればかり探しているわけにもいかない。これなら「プラダのバッグ」を買う方がずっと楽だ。(決して買わないけど)

ところが、ついに見つかったのである。 それは日曜日に行った "MOMA"(近代美術館) のミュージアム・ショップにあった。米国の美術館というのは、秀逸なものならば、トイレ・ブラシだって売るのである。それは、デザイン関係の賞を取ったばかりのすばらしいものだった。 (どんなものか見たい方は、こちら

私は「デザインのし過ぎ」というのは大嫌いなのだが、これはシンプル・デザインの極致。白と黒の二種類を購入して帰り、大変に喜ばれたのであった。当時は白と黒しかなかったと記憶しているが、最近は、クローム仕上げというのもあるようで、ネットでも買える。便利な世の中になったものだ。

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近頃の人災と天災

近頃の当欄は、努めて軽い話題にしてきたが、もうだめだ。重苦しいニュースが多すぎる。これ以上とぼけてもいられない。

子供関係の嫌なニュースが続いたと思ったら、今度は九州で天災だ。夏らしい気配も薄いし、暗い 7月になってしまった。

長崎の少年のニュースで、ニュース番組ではオジさんたちが一様に 「考えられないこと」というコメントで逃げようとしているが、それは違うだろうと言いたくなる。「考えられない」のではなく、「考えたくない」だけだ。

あの少年少女たちと同じような傾向は、誰でも多かれ少なかれ持っている。持ってはいても、表面に出さなくて済んでいるだけだ。そうではないと言うのは、カマトトか大嘘つきである。「考えられない」で済まそうとするから、社会的な対策が立てられない。「十分考えうること」として検討しなければならないのだ。

「九州では人が死なないと梅雨が明けない」と言われ、毎年毎年この時期には被害が出る。しかしほとんどの人は「自分の所は大丈夫」と信じて、まともな対策を講じない。これはある意味では健康な心理である。「自宅の裏山が明日にも崩れる」などと心配していたら、日々の暮らしは送れない。

しかし、この「健康さ」が落とし穴なのだ。健康さにかまけて、迫り来る危機に思いが至らない。残念なことだが、日本の社会はまだきちんとした危機管理ができていないのである。

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2003年7月19日

プレミアム・クラッカーへの熱き思い

「ナビスコ・プレミアム・クラッカー」 をご存知だろうか。実物を見れば、大抵の人はわかると思うが、小さな穴がポツポツ空いた正方形のクラッカーである。何を隠そう、私はこれが大好きなのだ。

我が家は常に 2~3箱の買い置きがある。

この商品は、少なくとも30年前から日本で売られている。米国ではもっと古くからあるはずだ。フォルクスワーゲン・ビートル、日清チキンラーメンと並ぶ、永遠のスタンダードである。

以前、よく山登りをしていた頃、必ずこのクラッカーを携帯食としてリュックに入れていた。昼飯を先延ばしにして、シャリバテしてしまっても、このクラッカーを 3~4枚ポリポリと食べれば、不思議と元気が湧いてくる。いきなり消化されてエネルギーに変わったわけでもないのに、不思議なことである。

出張などの際にも、ホテルで小腹がすいてしまったときなど、重宝する。6月に米国に出張した際にも、ちゃんとドラッグストアで買った。日本で買うのと違うのは、パッケージに印刷された言語が英語であることだけで、それ以外はまったく同じ。うれしいことである。

家庭ではブルーベリージャムをちょっとぬって、コーヒーで食べればおいしいおやつになる。お酒のつまみにもいい。そのまま食べてもいいが、バターなぞをちょっと乗せてもいい。

つい絶賛してしまったが、この商品のパッケージは何とかならないものかと思っている。いや、デザインのことではない。箱の上部の切り込み線に沿ってポロポロっと蓋を空けた後の、仮止め用の仕掛けである。蓋の片方から突き出た部分を反対側の溝に差し込んで固定するようになっているのだが、これがなかなかうまく機能しない。

とにかく、溝がぴっちりしすぎていて、差し込みにくいし、溝を無理やり広げると、今度は差し込んでもすぐに抜けてしまう。ちょっとした調整で、きちんと機能する仕掛けになるだろうにと思うと、甚だ残念なことである。

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2003年7月18日

「話題のナマ乳ブラジャー」???

最近あちこちで話題になっている広告メールが、ついに来た。自分のところにだけ来ないと、なんだか無視されているような気がしていたが、いざ来てしまうと、脱力ものだ。

「話題のナマ乳ブラジャー」 とやらの購入を勧めるメールである。

以下にそのままコピペしておこう。

★話題のナマ乳ブラジャー★

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TV・雑誌で話題のぷるりんお乳のブラジャー
付けてるのに、ノーブラみたい。
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現在、どこへ行っても定価ですら入手困難です。
背中の開いた服や、タンクトップもかっこよく着こなせます。
とにかく一度見て!

4~5年前に不摂生で太ってしまった頃は、「寄せて上げれば Aカップだね」 なんてからかわれたこともあったが、その後のダイエットのおかげで、申し訳ないが、このメールは出す相手を間違えてしまっているのである。

ちなみに、このメールの発送元担当者の武藤氏というのは、評判がよろしくないようだ。詳細は、こちら

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武士のお金と庶民のお金

先月「パンの購入代金としてのお金と、株式市場で資本として投資されるお金は違う」というミヒャエル・エンデの説を紹介した。

江戸時代には、高額決済に使うお金(小判)と、日常生活に使うお金(寛永通宝)とは別々の体系による通貨だった。

江戸時代の通貨は、金貨(一両小判、一分金、一朱金)、銀貨 (丁銀、豆板銀、一分銀、一朱銀)、銭貨(寛永通宝: 一文銭、四文銭)の 3種類あったらしい。これらは独立した体系の貨幣で、おおざっぱに言えば、金貨は上級武士、銀貨は下級武士と商人、銭貨は庶民の使うものだった。

一両は大体今の 10万円に相当し、両替屋での交換率は、金一両が、銀五十匁(後に六十匁)、銭四貫(四千文)と定められていた。庶民は小判や銀貨を持っていてもしょうがないので、何かの機会にそのような高額貨幣を手に入れることがあっても、両替屋で銭貨に交換していたようだ。

今の感覚で言えば、株券や国債などを持たされても、日常の買い物の役には立たないので、さっさと換金してしまうというようなものか。ある意味、健全な感覚だ。

四千文で一両(10万円)ということは、一文は約 25円に相当する。これではいくらなんでも「おから」ぐらいしか買えないが、四文銭は重宝された。これが大体今の 100円にあたる。

江戸時代は蕎麦一枚が十六文だから、大体400円。まぁ、今とそんなに変わらない。何ゆえに十六文などという半端な値段だったのかといえば、江戸前の蕎麦は蕎麦粉八割うどん粉二割の二八蕎麦だから、にはち十六文だという説もある。

しかし基本的なことを言えば、庶民の通貨が一文銭と四文銭しかなかったからだ。江戸時代の値段が、八文、十二文、十六文など、四の倍数ばかりがやたらに多かったのはこのためである。

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2003年7月16日

「いや、そうです」という言い回し

目くじら立てるつもりは毛頭ないのだが、近頃、気になる言い回しがある。

「〇〇ですよね」と問いかけられて、 「いや、そうです」と返事する人が多い。とくにタレントとスポーツ選手へのインタビューで頻発しているという印象がある。

野球選手のインタビューを聞いていると、「はい」と答えてしかるべきところでも、「いや」で切り出す場合が圧倒的に多い。 「いやぁ、まったく、その通り」というニュアンスでは決してない。例えば、こんな具合である。

アナウンサー: あの場面は、ホームランを狙っていましたか?
選手: いや、狙ってましたね。あぁなったら、狙うしかないですから!

どうして、素直に「はい、狙ってました」と言えないのかなぁと思ってしまうのである。あるいは、「確かに狙ってはいたが、お前の言うようなレベルじゃない狙い方だったんだ」とでも言いたいのだろうか。

試しに Google で検索してみたら、浜崎あゆみ と まこと (シャ乱Q) の、次のようなやりとりがあった。

まこと: (この番組は) 音楽バラエティですよね?(カッコ内は、庄内による注記)
あゆ: いや、そうですね。

こんな風にみてみると、芸能人やスポーツ選手は、聞き手の話の腰を折ってでも 「俺が、わたしが」 と主張したがるぐらいでないと成功しないのかとも勘ぐってしまう。

最初にも断っておいたが、決して目くじらを立てるつもりはない。ここに出てくる「いや」が、英語の "No" に単純に相当するわけではないということも、十分承知している。それでもやはり、ちょっと気になってしまうのである。

 

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2003年7月15日

日常感覚と天体規模の感覚

このところ、気温の変化が激しい。蒸し暑い日の翌日に涼しいと、とても肌寒く感じるし、その逆だと汗だくになる。

しかし、これをもう一歩引いて考ええみよう。我々はずいぶん恵まれた自然の中に生かされているものとわかる。

暑いと言ってもせいぜい 30数度だし、それが 22~23度になると「肌寒い」などと不足を言う。この季節、たかだか10度くらいの違いで大騒ぎだ。これでは、ちょっと「ヤワ過ぎ」ではなかろうかという気がしてきた。

地球規模で考えれば、摂氏 50度の灼熱地獄に生きている人もいれば、冬にはマイナス 50度になる寒冷地に暮らす人もいる。さらに成層圏、宇宙の領域まで昇れば、その温度差は想像を絶する。我々の日常感覚と地球規模、天体規模、宇宙規模の感覚はかなり相違がある。

もっと言えば「大地震」というものも地球規模で考えれば、ちょっとした表面の「かさつき」程度のものだ。それが、そこに暮らす人にとっては驚天動地の大揺れに感じるのである。「たかがかさつき、されどかさつき」だ。こうしてみると、人間というのは小さいものだ。しかし、その小さな存在をギリギリで生存させている地球という惑星は、大したものである。

この微妙なバランスの上に、生きとし生けるものが活動しているわけだ。日常感覚の快不快は、生きていけるバランスの範囲内であればこそのものである。この微妙なバランスに不足を言えば、結局はせっかくのバランスを崩すことにつながる。それは自殺行為である。

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2003年7月14日

串本節で 「デッカンショ」

一度感動してしまった直後に、ふいに脱力してしまうと、その落差はものすごいものがある。

この感覚を、大分以前の社員旅行で丹波篠山 (ささやま) に行ったときに体験した。それはそれは大変な脱力感であった。

宿に着き、宴会場で夕食となった。見ると、お膳の割り箸袋の裏に、土地の民謡「丹波篠山節」の歌詞が書いてある。別名「デカンショ節」ともいう、有名な「あれ」だ。

「よし、俺が歌う!」 歌の大好きな H氏が、ステージに立ち、アカペラで歌い始めた。

♪たん~ばァ ささァやァまァ、お山のォ猿がァ ……

さすが元同志社大学グリークラブ、音吐朗々たるテノール。民謡独特のジャラジャラ感覚はないが、ドエラク格調の高い「デカンショ節」である。皆、「すごい声量やねぇ、さすがやねぇ」 と感心して聞いている。

♪ …… 花の おえ~どォでェ~ェ 芝居すゥるゥ

ここで、お約束の掛け声、全員で盛大に 「ヨーイ ヨーイ、デッカンショ!

…… あれ、なんだかちょっと違和感が …… 。だが、H氏は構わず二番目に突入する。

♪デカンショ~、デカンショ~でェ 半年ィ 暮らァしィ …… 」 (相変わらず素晴らしいテノールで、皆、圧倒的に聞き惚れる)
♪後のォ半年ァ~ 寝てェ暮ゥらァすゥ~

再び全員で 「ヨーイ ヨーイ、デッカンショ!」 …… でも、やっぱりなんだか、取って付けたような、ぬぐい難い違和感。

「ちょっと、何だか変じゃなかった?」と聞くと、K氏は、
「俺も、なんやおかしい思て、最後の最後で気付いたんやけど、今のは串本節のフシやったわな」

…… ! 串本節ィ!! あの 「ここは串本 向かいは大島 中を取り持つ巡航船」 というやつかぁ!! 「そやそや」

つまり、H氏、串本節のメロディで、デカンショ節を音吐朗々と歌ってしまったのだ。

「道理で、『ヨーイ ヨーイ、デッカンショというよりは、どちらかというと、『アラ ヨイショ ヨーイィショ ヨイショ、ヨーイショ ヨォーイショ』 と付けたくなったわ!」
「そら、そやわなぁ」

あまりにも見事で格調の高いテノールだったため、誰もフシの間違いに気がつかなかったのである。この時の脱力感は、今でも語り草となっている。

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2003年7月13日

パソコンと和歌

教育テレビに「NHK 歌壇」という番組があり、一度も見たことがないくせに、その雑誌テキストだけは時々本屋で見つけて買い求めている。ご大層な短歌雑誌より、素人には取っ付きやすいのだ。

>5月の題に「パソコン」というのがあった。

その入選作に、次のような歌がある。

削除キーの指がためらふ名簿更新富小路とふ白く浮きたり (千葉柏市 宮崎和子)

富小路というのは、女流歌人の富小路禎子さんである。「冬池に眠る白鳥の華やぎに似し白菜を厨に殺(あや)む」 という歌がある。厨は「くりや」と読むのだろう。台所のことである。 宮崎さんの入選作の結句 「白く浮きたり」は、この歌を下敷きにしているのだろうか。もちろん文字通り取れば、この名前を選択したために反転して、白く浮いているということなのだろうが。

住所録の名前を消すに消せないで、その人の死後 3年ぐらい経ってようやく削除したことが、私も今までに何度かある。さすがに 3年も経つと諦めがつく。

もう一首、気に入った歌がある。

パソコンをぱたんと閉じて全身で物事を為す世界に戻る<(東京都新宿区 武藤義哉)

う~む。この感覚、あだやおろそかにはできない。

これらの秀逸な歌とは比べ物にならないが、私の以前に作った駄作を少々。

夕暮れの液晶画面に白く浮く肉球のあと猫は知らぬ気
液晶の冷たき文字のその下の腿に伝はる電脳の熱
ホームページの更新終えて日付を打ち終えし頃その日付も変わる

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2003年7月12日

「いちもつ模様」

>当コラムはあまり他人の受け売りをしない方針なのだが、今回はあまりにも秀逸なネタなので、余計な脚色無しに、まんま紹介させていただくことにする。

永六輔さんお気に入りの「いちもつ模様」というネタである。

永さんは既にあちこちでこの話をしておられるので、既にご存知の方も多いかもしれないが、例の「金太の大冒険」でおなじみの、 つボイノリオ氏関連のお話である。

ある日、つボイ氏が CBS ラジオのラジオショッピングか何かで、 「市松模様」の商品の紹介をした。しかしその時、ちょっとカンでしまって、「市松模様」 ならぬ「いちもつ模様」と言ってしまったらしい。しかし、当人も番組スタッフもとくに気に止めず、番組はつつがなく終了した。

ところが、放っておかないのがリスナーである。とくにあのつボイノリオの贔屓筋だもの、ただで済むわけがない。「いちもつ模様」とは何だ? ということになり、多くのリスナーが自分なりの「いちもつ模様」をデザインして局に送りつけてきた。

その中でも最も優秀だった「くたくたさん」のデザインが採用され、オリジナルの「いちもつ模様ハンカチ」なる番組グッズまで作られてしまった。CBS という局は、割と番組グッズ作りが好きなのだが、これは快挙といえるものであったという。

ちなみにこのお話は、本日の TBSラジオの「六輔その新世界」という番組で聞いた。この番組の中で永氏はさらに、かの有名な信楽焼きのタヌキの置物についても言及された。あれは飲食店の店頭に置かれることが多いが、ちゃんと意味のあってのことだという。それは「前金で」ということらしい。

永さんは、割とこの種のネタがお好きのようである。

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2003年7月11日

ADSL の最高速度表示

当サイトが店子となっている Nifty が、ADSL サービスに関する広告では最高速度表示をやめることにしたのだそうだ。

実効速度が「広告内容と著しく異なる」との苦情が多いため、あまり意味のない表示はしないことになったもののようだ。

これを聞いて、「オープン価格」というのを思い出した。そもそも「オープン価格」というのも、「メーカー希望小売価格」と店頭の「実勢価格」というのが乖離しすぎて、価格に対する信頼感が薄れているのを憂慮して導入されたものである。

しかし実際には雑誌などで「オープン価格」と表示されていると、それだけで購入検討対象から外れてしまうことが多いのだ。いくら「実勢価格」とかけ離れていようが、「希望小売価格」というのが表示されていれば、だいたいその 2割引ぐらいが実勢価格と想像がつく。 ところが「オープン価格」となると、取り付くシマがないのである。「値段については、ヒントすら教えてあげないよ」と意地悪を言われているような気がするのだ。

「オープン価格」というのが今イチ普及しないのは、こうした感覚があるからと思っている。

だから「最高速度の表示」も、してくれた方がいいような気がする。「最高速度 8MB」と表示されていたら、そのココロは「いくらなんでもここまでは出ないけれど、1MB 以下にはなりにくいよ」という意味だと思えばいい。「1.5MB は1MB 以下と覚悟すればいいのである。

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2003年7月10日

今年の阪神の 「かわい気のない強さ」

本日、某所で酒を飲みつつ、今年の阪神の「かわい気のない強さ」が話題になった。

ことここに至っては、優勝を逃す方がずっと困難な気がするが、それでもタイガース・ファンの多くは、「そのうち 25連敗ぐらいしてしまうのでは」と心配しているという。

ところが彼らの口から聞くと「心配している」と言うよりは「期待している」と聞こえてしまう。このあたりが、阪神ファンのいわく言いがたい「心の襞」である。

どうも今年の阪神タイガースの勝ちっぷりは、当の「虎キチ」にとってもあまり気分のいいものではないようなのだ。これまでは、一つ勝ったら二つ以上負けるものと思っていたのに、三つ勝ってもなかなか一つ負けない。勝ちすぎて気持ちが悪い。

阪神が大人しく負けてくれさえすれば「このアホンダレ」と悪態をつきながら酒が呑めたのに、あまり勝ちすぎるので酒の呑みようがわからなくなってしまっている。急に裃着せられたような感じらしい。

こうしてみると、巨人ファンと阪神ファンは同じファンでもメンタリティが全然違うようだ。

巨人ファンは勝って当たり前、負けると悔しい。阪神ファンはその逆で負けて当たり前、勝てばうれしい。負けると一応荒れてはみせるが、翌朝にはちゃんとおさまっている。その点、巨人ファンは負けてもあまり大荒れはしないかわりに、翌日まで不機嫌を引きずる。かなり対照的だ。

私の知り合いの有名な「虎キチ」は、甲子園球場でヤクルト戦に負けた帰り、ムシャクシャのあまり、阪神電車のホームでヤクルト・ファンに因縁をつけた。

「くぉるぁ、お前ら、阪神電車、乗るな! ヤクルト電車で帰れ!!」

今年は勝ちすぎて、こんな笑えるギャグも出て来にくいようだ。

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2003年7月 9日

土用丑の日とウナギの養殖

今朝 TBSラジオで気象予報士、森田正光さんのトークを聞き、「土用丑の日」の意味を恥ずかしながら、初めて知った。

四立(立春、立夏、立秋、立冬)の各々の前の 18~9日間が「土用」で、立秋前の「夏の土用」だけではないのだそうだ。

そもそも陰陽五行説では、世界のすべては「火」「水」「木」「金」「土」の 5つの要素から成ると考えられていて、四季も「冬=水」、「春=木」、「夏=火」、「秋=金」 というように区分されている。しかし「五行」 というくらいで、要素は 5つあるのに、季節は 4つしかないから、「土」だけが余ってしまう。そこで、それぞれの季節の終わりに「土」を付けて、「土旺」(どおう)とした。つまり「土の気配の旺盛な時期」ということである。

大したものである。何としてでも辻褄を合わせずにはおかないぞという、確固たる意思を感じてしまう。これだけの気合があれば、四季の方でもおのずから理念に合ってしまうというものではないか。それで、ちゃんと「土用波」などというのが立つのである。

ちなみに「土旺」を事に用いるので、「土旺用事」といい、それを縮めて「土用」になったという。昔 「土旺」が言いにくいので、いつの間にか訛って「土用」に変化したという説を聞いたことがあったが、「土旺用事」が縮まったというのが正解らしい。

この 18~9日間のうちの「丑の日」が「土用丑の日」で、年によっては一夏に 2回あることになる。

ところで森田さんによると、今、ウナギが急速に減少中なのだそうだ。ウナギは養殖と言えども、卵から孵化させて成魚にするのは困難なのだそうで、稚魚(シラス)はすべて天然のものを用いる。ところが、4~5年前から、ウナギがスーパーなどで廉価で売られ始めたので、消費量が激増しているにも関わらず、シラスの供給は限られており、成魚になるまで10年くらいかかるので、あと 4~5年すると品薄が顕著になるだろうというのである。

「それは困ったものだ」と思っていたら、希望の持てるニュースが見つかった。独立行政法人水産総合研究センター養殖研究所(三重県南勢町)が、ウナギを卵から成魚まで完全養殖する技術を確立したというのである。

世の中、ちゃんと目ざとい人はいるものである。これで、4~5年後にウナギの値段が高騰することもなく、しかもこの研究所にはかなりの技術料がはいることになるわけだ。森田さんにも知らせてあげなければ。

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2003年7月 8日

皮膚一枚の「内」と「外」

今月のお薦めサイトにある「雑学ドット・コム」 で、イームズの短篇映画 「パワーズ・オブ・テン」 に言及されている。

この映画、実際に見たことはないのだが、話にはよく聞いていて、是非見てみたい。壮大な科学ロマンがテーマである。

シカゴの公園の芝生に寝転ぶカップルを映した1メートル四方の映像が、10秒ごとに遠ざかっていく。10秒後に10メートル四方、20秒後に100メートル四方というように、10の累乗の範囲をカバーする距離まで遠ざかる。そして、観測可能な宇宙をすべてカバーするまでに、5分もかからない。

その後、映像は逆戻りして皮膚細胞を通し、ミクロの世界に入っていく。そして原子にいたるまでには 3分近くの時間しか要しない。本来は、原子の先に素粒子の世界があるので、もう少し時間がかかるのだろうが。

皮膚一枚を隔てて、マクロに達するまでにかかる時間と、ミクロに達する時間とは、そう変わらないのである。このことは、 「大宇宙」と「小宇宙」の存在を直感的に示唆する。 「外」に広がる大宇宙と同じくらいの「果てしなさ」を、我々は自身の「内」にも蔵しているのだ。

そう考えると、皮膚一枚で区切られた「他人」という存在の認識が変わってくる。「私」と同じ「小宇宙」を宿した存在が「あなた」である。両者の内に宿る「小宇宙」がまったく別物であるはずがないという気がしてくる。人間同士が「通じ合える」のは、内部に同じものを宿しているからだと確信されるのである。

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2003年7月 7日

「パンク男」 を返上したい

また車がパンクしてしまった。朝、末娘を駅まで送って戻り、10時頃に再び出かけようとしたら、右の前輪がペシャンコだった。

何の巡り合わせか知らないが、私は妙にパンクが多い。平均すると 1年に 1度ぐらいはパンクしているような気がする。

近所のタイヤ屋の親父さんともすっかり顔なじみになってしまった。「こんなにパンクの多いのも珍しいでしょ」と聞くと、「そうですねぇ。私なんか、年に 1万 5千キロぐらい乗るけど、パンクなんか滅多にしないもんねぇ」と言う。1万 5千キロなら、私も大体同じくらいである。一体何が違うというのだ。

タイヤ屋のお客の中には、「今の車はパンクなんかしない」と信じ込んでいる人も多いそうだ。「そういう人たちは、『最近はタイヤの性能も良くなったから、パンクしなくて済むよねぇ』なんて言うんですよ」と、親父さんは笑う。「そういうわけでもないんですがね。本当にそうなら、私らの商売あがったりだ」

だ言えるのは、「パンクしない」と信じ込んでいる人は、本当にパンクしないらしい。タイヤ交換は磨り減って寿命になった時だけだ。とすると、私がパンクしやすいのは、「パンクはするものだ」と思い込んでいるからなのか。

いやいや、これはきっと「卵と鶏」だ。たまたまパンクしないで済んでいる人が、パンクしないと信じ込んでいるだけに違いない。いや、それとも想念もエネルギーであるから、具象化するともいえるのか。

さすれば、今日を限りに私も「パンクはしない」と信じ込んでみよう。それで「パンク男」を返上できたら、「想念の具象化」というエッセイでも書いてみようか。

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2003年7月 6日

山形には珍しい 「派手ネタ」

私の生まれた山形県は、芸能/スポーツ関係ではめったに全国ニュースに登場しない地味な県なのだが、この度の「爆乳キャスターとの不倫認めた!柱谷氏、監督解任」のニュースには、ちょっと驚いた。

山形には似合わない「派手ネタ」である。

いくらスポーツ新聞とはいえ、「爆乳キャスター(!) というレトリックには恐れ入った。聞けば最近では、彼女の存在はつとに全国に知られるところとなっていたらしい。そういえば、blog の芸能ネタでそれらしい話を目にすることもあったのだが、きちんとチェックするほどには気にしていなかった。

彼女の降板が決定的な今となっては、帰郷してもテレビでそのご尊顔を拝することはできないだろう。もしかしたら、これまでも無意識のうちに放送を見たことがあったのかもしれないが、全然憶えていない。

世の中の出来事と言うのは、かくほど左様に、意識しないと「なかったも同然」ということになってしまう。まぁ、どうでもいいことは「なかったも同然」ということにしておいた方が、精神衛生にはいいような気がする。

しかしこれを機に彼女がタレント・デビューでもしてブレイクしてしまったりしたら、気の毒なのは柱谷氏のみということになる。身は慎んだ方がいいというお話だ。

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明日は本当の七夕じゃない

テレビやラジオで明日は七夕と言っているが、本当に興醒めだ。仙台の例を見ればわかるが、東北では七夕を月遅れで祝う。

去年の今頃も当欄で書いたのだが、梅雨明け前の新暦 7月 7日が七夕というのでは、織姫、彦星に気の毒な話である。

本来の七夕は、旧暦の 7月 7日であり、今年は新暦の 8月 4日がそれに当たる。これはどちらかと言えば早い方で、去年は 8月 15日だった。 だから、東北の七夕は俗に 「月遅れ」 などというが、ちっとも遅れていない。今年はたまたま 3日遅れになるが、普段の年の 8月 7日では、まだ早すぎるくらいのものだ。

本来の七夕は旧暦の 7日だから、月の形は決まって半月である。その半月を舟に見立てて、天の川を横切るのを、昔の人は彦星と織姫の逢瀬に重ね、風流とみた。季節感としては、夏の盛りも過ぎて、ようやく夜が長くなってきたのを実感す頃である。夜空の星が冴え冴えと見えてくる時分だ。今どきは梅雨空だから、星を見るどころではない。

私は日本古来の季節感のある行事は、旧暦で祝うべきだと思っている。それが無理と言うならば、少なくとも月遅れにするべきだ。そうしないと、季節感がメチャクチャになってしまう。

季節感というのは、日本文化の重要なポイントである。これだけ四季のメリハリのはっきりした風土だからこそ、日本人は自然を愛でる文化を醸造してこれた。日本人は本来自然を大切に守ってきたのだが、その感覚が失われているのは、文化としての季節感の喪失と無関係ではなかろう。

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2003年7月 4日

カエルが減ってきた

夏の夜。我が家はガマの名所「筑波郡」に位置するだけあって、窓の外はカエルの合唱だ。しかしここに引っ越してきた 20年前は、こんなものではなかった。

最近、本当にカエルが少なくなった。これは世界的現象らしい。

カエルの鳴き声というのは、どんなに壮大な合唱になっていようと、うるさくて眠れないなどということはない。これが近所の犬の鳴き声だったりしたらうるさくてたまらないが、 カエルの声は自然に溶け込んでしまう。太古の昔から、人類はカエルとともに生きてきたので、気にならない遺伝子になっているのかもしれない。

以前は我が家の玄関のドアノブが、カエルにとってはかなり居心地の良い場所だったようで、いつも女性の訪問客の悲鳴のモトになっていた。その悲鳴も、最近ではほとんど聞くことがなくなってしまった。

カエルが減少した原因としては、水質汚染、酸性雨、森林伐採、新種の伝染病など、いろいろな説が発表されているようだが、世界中で同時進行しているので、どうも紫外線の影響が一番強いのではないかと言われている。

確かにカエルは毛が生えていないので、皮膚がむき出しだ。さぞかし紫外線をモロに受けていることだろう。また、カエルの卵には殻がないので、受精卵が直接紫外線を浴びてしまう。生まれる前から紫外線に痛めつけられているわけだ。気の毒ではあるが、カエルに UV カットの服を着せるわけにもいかないので、手の施しようがない。

カエルがこんなに減ってしまっては、訪問客の悲鳴が減るだけではすまない。ハエや蚊などの虫が増えてしまいそうな気がする。カエルは結構役に立つ生き物なのだ。緑色ののアマガエルなんぞは、よく見ると結構かわいいし。

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2003年7月 3日

シャワーカーテンは気持ち悪い

たまたま、「選りすぐり一撃集」 H15年4月11日の「わからないことはわからない」を読み返して、自分で吹き出してしまった。確かに、日本の風呂の入り方は、西洋人には難しいだろう。

しかし西洋式のバスもかなり難解だ。 とくにあのシャワーカーテンである。

世界のホテル王、コンラード・ヒルトン氏が、あるとき全米ネットワークTVのトーク番組に出演した。司会者はヒルトン氏に向かって言った。 「ヒルトンさん、今夜は、全米の視聴者があなたを見ています。テレビをご覧の皆さんに何かおっしゃりたいことはありますか?」

ヒルトン氏はしばらく考えた後に、こう言った。「はい、一つだけ言わせてください。いいですか、シャワーカーテンはかならずバスタブの内側に入れてくださいね。外側でなく、内側に」

これは大ウケしたらしい。

シャワーカーテンをバスタブの外側に垂らして、バスルームの床をびしょびしょにしてしまう日本人が後を絶たず、ホテルは迷惑しているみたいなことを書く旅行案内書が多いが、実は当の米国人も同じ失敗をやらかしているようなのだ。

それは今でも変わらないらしく、今回米国に出張して気付いたのだが、シカゴのヒルトンホテルのシャワーカーテンは、アウターとインナーの二重構造に改良されており、アウターがバスタブの外側、インナーが内側にくるように、つまり、2枚でバスタブの縁を挟み込むような構造になっていた。これで、無理やり 2枚ともバスタブの外側に出してしまうという力技を発揮しない限り、いやでもインナーカーテンはバスタブの内側にくる。

苦肉の策だろう。まんざら日本人対策に限ったこととも思われない。

あのシャワーカーテンというやつは、シャワーを浴びると、流体力学だか何だかのせいで内側の気圧が下がり、そのためになびいて、二の腕や腰骨のあたりにペタペタと貼り付いてくる。確かに気持ち悪い。つい下端を外側に出して、こちらに吸い寄せられないようにしたいという気持ちにもなろうではないか。何とかならないものかと思う。

私は、あのバスタブを上まで樹脂製の屋根で覆って、カプセル状にしてはどうかと思う。そして出入り口をソリッドなドアで開閉させるのだ。そうすれば気圧差で吸い付いてくることもないし、締め切れば蒸し風呂状になって、風呂でちゃんと汗をかきたい日本人にはとてもありがたい。閉所恐怖症にはつらいだろうが。

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2003年7月 2日

「クリップ型扇風機」 は大当たり

今日、有楽町のビックカメラに寄って、「クリップ型扇風機」というのを買ってきた。

パソコンの周囲に熱気が籠もって、仕事をしているとエアコンを点けても局所的に暑くてたまらないので、壁際の本棚の上部の縁にクリップで留めて、上から空気をかき回そうという魂胆である。

やってみると、これが効果抜群なのだ。昨日までは「お座敷タイプ」の扇風機を背後から浴びていたのだが、それよりずっと快適だ。斜め上からからほぼピンポイントで PC 本体に風を送れるので、自分の体に不自然な風を浴びなくていいのがありがたい。

このありがたいデバイスが、なんとたったの 1200円だったのだ。お座敷タイプの扇風機は、安くても 6~7000円するのだが、クリップ型となると、とたんに安くなるのがすごい。高さの調節をしたり、首を振ったり、細かな風量調節をしなくていいだけ、製造コストが切り詰められるのだろう。

考えてみればお座敷タイプでも、風量は「強」と「微風」しか使ったことがない。間に何段階あろうが、ことごとく無駄である。今日買ってきた 「クリップ型」は、"Hi" と "Lo" の 2段階しかないが、それで十分なのだ。ピンポイントで PC に風を送るのが主眼なので、首振り機能も要らない。

こんなに便利なものが、近所のスーパーや電気店には見当たらず、都心の量販店でようやく見つけることができたのである。需要と供給のミスマッチというのは、本当に困りものだ。

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