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2003年8月に作成された投稿

2003年8月31日

顧客は常に正しい?

米国の中堅スーパーである ステュ・レナーズ の店内には、「規則 1: 顧客は常に正しい」 という社訓が飾ってある。

「規則 2: もし、顧客が間違っていると思える場合には」 と、さらに社訓は続く。 「もう一度、規則 1 を読むべし」(参照

Our Policy

Rule 1 
The cusutomer is always right!

Rule 2
If the Customer is ever wrong, reread Rule 1.

6月に米国に出張したとき、実際にニューヨーク近郊の店を視察し、この有名な社訓が掲げてあるのを見た。「ふーむ、なるほどね」 という感じだった。

この社訓は、いろいろな教訓を含んでいる。最も一般的に論じられるのは、「徹底した顧客志向」だ。マーケティングの教科書には、「顧客の振る舞いは全てを語る」と書かれている。しかし最新の教科書では、顧客にも「いい顧客」と「そうでもない顧客」というのがいて、全体の 2割ほどを占める「いい顧客」だけがいつも正しいみたいなことになりつつある。

しかし、私はちょっと別のことを考えている。というのは、この社訓がバックヤードではなく、店内の一番目立つところに飾ってあるという点に注目したいのだ。この社訓は、実は社員に見せるよりは、お客に見せるためのものと考えた方が納得がいく。

「お客はいつだって正しい」 と宣言することによって、ステュ・レナーズの店に来るお客は、いつも正しく振舞ってみせるのである。つまり、自ら「いいお客」になって、気持ちよく一杯買い物をしてくれるのだ。

「言葉の力」というのは、大したものなのだ。

【2021年 7月 15日 追記】

この「ステュ・レナーズ」という社名は、日本の世の中に紹介される時は「スチュー・レオナルド」なんて呼ばれるのが主流と、この記事を書いた直後に知って驚いた。これについては、2003年 9月 4日付の「表記と発音」という記事で書いている。

 

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2003年8月30日

IE が修正されるかも

マイクロソフトが、インターネットエクスプローラ (以下 IE) の修正を検討中だそうだ。例のプラグインの関係で訴訟されたことが関係しているようだ。

これに伴い、Web ページの多くが影響を受けかねないという。

私はインターネット・ブラウジングには、ネットスケープを使っている。現在のバージョンは 7.02 で、複数のウェブサイトを表示するにも、一つのウィンドウの中で、タブ表示できる。なかなか便利に使っている。だから、IE の修正の影響云々がいわれても、私にとっては知ったことじゃない。

そもそも、このサイトは ネスケでもっともきれいに見えるように作りこんである。世の中の大勢が IE を使っているようなので、しかたなく IE でも表示確認をしてはいるが、その度に、「はぁ~、ネスケの方がシャープに見えるなぁ」 と溜息をついている。

ネスケを使っているのは、IE とアウトルックエクスプレス (以下 OE) のセキュリティ問題を考えてのことだ。ネスケが特別安全というわけでもないのだろうが、ウィルスを開発する奴は、当然にも同じだけの努力をすれば効果の大きい方を選ぶだろうから、当然、IE と OE は常に攻撃目標として世界中から狙われていると思った方がいいようだ。

ネスケは無料なのだから、インストールだけでもすればいいのにと思う。少なくとも、メーラーだけでも Netscape Mail を使えばいいのにと思うのだが、ほとんどの人は IE と OE だけで済ませている。このあたりは、よくわからないことである。

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2003年8月29日

ハーレーダビッドソン創業100周年

ハーレーダビッドソンが、創業100周年を迎え、本社のあるミルウォーキーでは記念行事が行われているそうだ。

最終日の 30日には、世界中から集まった 1万台のハーレーが、市内をパレードするらしい。さぞかし見ものだろう。

私はハーレーダビッドソンのオーナーたちには、かなりいいイメージを持っている。時々高速道路などで、グループでツーリングをしているのを見かけるが、結構な年配のオッサンたちが、きちんと節度をもった運転をしている。

この 「いいイメージ」 を築き上げ、維持するために、ハーレーダビッドソン社とオーナーズクラブは、かなりの努力をしているだろう。それはリスペクトに値する。

それにしても、ハーレーダビッドソンというのは、フェティシズムをくすぐる何かをもっているようだ。遠くから見てもそれとわかるデザイン。独特の重低音を響かせる走り。他のバイクとは明らかに違う。

「ベスト・ワン」 ではないかもしれないが、明らかに 「オンリー・ワン」 である。マニアにとっては、他の選択肢なんか存在しない。

今回オーストラリアから参加したという男性は、「多分 200周年にも H.D. に乗っているだろう」 と言っているらしいが、その気持ちはよくわかる。

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2003年8月28日

横スクロールはだめよ

「ホームページを作る上で、気をつけることは何か」 と聞く人は、多分多くの人に助言を求めていることだろう。

どうせいろいろな視点の答えが出るだろうから、私は一つに絞ることにした。それは、「横スクロールはだめよ」 ということだ。

何がうっとうしいと言って、横幅の広すぎるサイトの右に出るものはない。ウェブサイトのほとんどは横書きだから、読み進むに従っての縦スクロールならば、あまりストレスは感じない。しかし、1行が画面からはみ出すことによる横スクロールは、ジグザグ走行しなければならないのだから、読み手無視といわれてもしかたがない。

そんなページがあるのかというと、現実にいくらでもあるのだ。いくらコンテンツが面白そうでも、そうしたサイトからは早々に立ち去ることにしている。眼が疲れて仕方がない。

横幅で言えば、プリントアウトしたときに A4 縦位置から右端がはみ出してしまうのも考え物だ。だから、横幅は700ピクセル以下にしておくのが無難だろう。

その他の点で言えば、やれ GIF アニメの多様はウザいだの、キリ番報告せよとはうっとうしいだの、タイトルに自分の名前をつけるのは生意気だのと、いろいろな意見もあるが、私はその 3点はすべて無視している。

その辺りはほとんど趣味の問題だ。とくにGIF アニメについて言えば、最近はブロードバンドが普及していることだし、昔みたいに表示されるまで 1~2分も待つなどということはなかろうと、ご容赦を仰いでいる。

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珍しいものを見てしまった

何だか、とても珍しいものを見てしまった。Yahoo の 「新着ピックアップ」 で紹介されていた 「中村江里子 - Eriko Nakamura Official Site」 というサイトである。

「思わずあこがれてしまう華麗なライフスタイル」 なんだそうである。

「Bari島から飛行機で30分足らずのLombok島にいます」 とか、「大好きなホテル西洋でロイヤルミルクティーを飲んできました」 とか、確かに 「華麗」 なことが書いてある。"Bali" を "Bari” なんて間違えているのは、ありがちなことだから、特段どうこう言うつもりはないが、わけがわからないのは、"about this site" という小さなウィンドウに書いてある中身である。(以下、赤字部分は引用)

本サイト内の画像や文章などの無断転載・引用は禁止いたします。

とあるが、既にきちんと文章を一部引用させていただいた。別に引用許可は取っていないが、この程度の引用は、誰が考えたって常識の範囲だ。無断転載を禁じるのは当然だが、引用まで禁止というのは、あまり例がない。

さらにわからないのは、

当サイトへのリンクは基本的にフリーです。
リンクされる場合、リンク先はトップページ
 http://www.eriko-nakamura.com/
として下さい。
またリンクを貼られる際は下記のメールアドレスまで該当ページのURLをお知らせ下さい。

とあるのだが、こんなに制約をつけて、どうして 「当サイトへのリンクは基本的にフリーです」 なんてことが言えるのかということだ。私の理解の外にある。

いちいち先方に知らせるのも面倒だから、ここではあえてリンクなんかしない。しなくても、URL は上記の引用部分に書いてあるので、行きたい方はどうぞ。

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2003年8月27日

税制とネット販売

米国の E-コマース市場が発展した要因に、州ごとに異なる税制も挙げられる。

ご存知のように、米国では消費税にあたる間接税率が州によって異なる。その上、州を越えて物品をやり取りする際には、消費税がゼロになるのだそうだ。

これはおいしい制度である。インターネットで買い物をするのだから、広い米国中、どこからでも買い物できる。そして、消費税が要らないというのだから、ちょっと高いものを買えば、運送費を支払ってもお釣りが来る。小さくて軽くて、値段が張るものほど、インターネットで買い物する方が得になる。

日本人なら、洋服や靴を試着なしで買い物するのは抵抗があるようだが、米国人は平気でネットで買ってしまう。届いて着用してみてから、サイズが合わなかったりしたら、平気で返品してしまう。制度自体が返品しやすいものになっている。

売る側としては、そんなに簡単に返品されたらかなわないように思えるが、逆からみればこうして返品しやすい制度があるからこそ、ネット販売の総量が増えるということも言える。

「損して元取れ」 とはこのことか。

米国人にはタバコを吸う人が少ないが、タバコを買う場合などは、ネット販売が最適なのだそうだ。売る方としても、サイズが合わないとやらでの返品リスクもないし、おいしい商売のようだ。

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2003年8月25日

マイク・タイソンは 「大貧乏」

大金持ちというのがあるのなら、大貧乏というのがあってもいい。さしずめ、マイク・タイソンはその大貧乏の最たるものだろう。

彼は、18年間のボクサー生活で稼いだ 3億ドルをすべて失い、自己破産した。そして、今回、日本の K-1 と契約した。

普通の感覚からすると、約 300億円もの金をどうしたら使いきれるのか不思議だが、彼は実際に使い切ってしまったのである。

別れた妻への慰謝料やら、とてつもない浪費やらというのもあるだろうが、元々、稼いだほどには手元に入っていなかったのではなかろうか。マネージャー、トレーナー、ボディガード、その他もろもろの取り巻きへの支払いが結構多かったはずだ。

タイソンに限らず、たった数年で何億円もの収入を得たら、あとは死ぬまでのんびりと暮らせばいいようなものだが、なかなかそうはいかないもののようだ。というのは、スポーツや芸能の世界では、たった一人で仕事をするのではなく、ほとんどがチームワークである。だから、「もう一生分稼いだから、引退する」 とは、なかなか言い出せないのだ。スターが一人引退してしまったら、その取り巻きの何十人もが食い詰めてしまう。

だから、スターは簡単には引退させないようにしなければならない。そのため、当人にはなかなか金がたまらないように、「浪費のシステム」 が構築してある。金のかかる遊びをさせる。しかも、取り巻き連を引き連れて遊ばせる。その境遇を維持するために、スターは永遠に稼ぎ続けなければならない。ふと気付くと、破産しているかもしれないのだ。

いくら高収入があったとしても、こういうのは 「大貧乏」 というのだろう。

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2003年8月24日

懐かしい WordPerfect

米国のベンチャーキャピタル Vector Capital によるCorel 買収が認可されたそうだ。

Corel といっても、ほとんどの人には馴染みがないだろうが、あの WordPerfect というワープロソフトを展開しているといえば、少しは知ってる人もいるかもしれない。

私は一時外資系団体に勤めていたことがあり、そこで使っていたのは、WordPerfect というワープロソフトだった。MS-DOS の時代である。とても懐かしい気がする。

当時、MS の Word はそれほどのシェアではなかった。Word が圧倒的優位を占めたのは、Windows 3.1 用の Office Suite として、Word, Excels がセットになってからだ。それまでは、英語の世界ではワープロといえば WordPerfect、表計算といえば、Lotus 1-2-3 だった。

WordPerfect の前には、WordStar というのがあった。私は、これをワープロ専用機の OASYS に MS-DOS を走らせて使っていたことがある。しかし、WordPerfect と比べたら、よくよく初期のワープロという感じがした。

思えば、Word Star は日本で言えば「松」にあたり、WordPerfect は 「一太郎」 だったのだと思う。そして、今や全世界で Word が天下を取ってしまった。Corel が WordPerfect をまだ展開していたなんて、今回のニュースで初めて知った。

DOS 時代の WordPerfect は、WYSWIG でないため、画面を上下に分割し、上段にテキストのみを表示し、下段にセンタリングやフォントなとの編集タグの入った、いわば「楽屋裏」を表示していた。

今になって、インターネットの HTML のソース画面を眺めていると、当時のWordPerfect の下段のタグ入り画面を思い出して、10年以上前に戻ったような気がするのである。

 

 

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2003年8月23日

「歩む」 と 「歩く」

言葉というのは、意識して使うとずいぶん素晴らしい表現ができるものだ。今日は、「歩く」 と 「歩む」 の違いを初めて知った。

万葉集では、この二つはきちんと区別して使われていると言う。日本人はいつの間にその区別がつかなくなってしまったのか。

「歩む」 は目的を持って着実に進行するという意味で、「歩く」 はぶらぶら歩きなのだそうだ。

そう言われてみれば、その痕跡としての使い分けはかすかにしているような気がする。修練による進歩のことは、「歩み」 と言う。「遅々たる歩み」 などと表現するが 「歩き」 とは言わない。この場面で 「歩き」 と言ってしまうと、ちょっとふざけているような気がする。

逆に、目的もなく歩くのは 「そぞろ歩き」 と言って、決して 「そぞろ」 と 「歩み」 はくっつかない。

人間は今、大きな目的を自覚して 「歩み」 を進めているようには思われない。それぞれがあてもなく 「歩いて」 いるだけのように見える。

しかし、大きな視点で見れば、やはり一定の方向に 「歩んで」 いるのだろう。その 「歩み」 の目的を知るため大きな視点とは、超越的なものでなければならない。

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2003年8月22日

冷夏と地震と甲子園

今、仙台から帰ってきた。上野駅に着いて地下の新幹線ホームから地上の在来線ホームに上がってきたら、むっとする熱気が立ち込めていた。「あぁ、夏って、こういう感じだったんだ」 と思い出した。

こんな日は、今年は何日もなかった。

宮城県方面の今年の夏は大変だったようだ。冷夏長雨の影響は宮城と岩手でとくに大きく、米作農家にはつらいことになっている。それに加えて、北部の大地震である。泣きっ面に蜂だ。

それだけに、甲子園野球で地元の東北高校が準決勝を勝ち上がったのは、うれしいニュースになっていた。妻の実家の次男坊が東北高校で、ここまで勝ち上がると、父兄としては寄付金をはずまなければならないようだ。まぁ、めでたいことだから、いいだろう。

私は高校野球にはそれほど思い入れはないのだが、奇しくも決勝戦は妻の実家の宮城と、我々の現住所の茨城の対決になってしまった。雨にたたられながらも全日程がようやく消化されそうで、とりあえずは、よかった。

「今回は宮城県は大変だったのだから、東北高校が優勝するといいね」 と言ったら、茨城は茨城で、常総学園の木内監督が今年限りで引退のため、花道を作りたいという事情があるらしい。う~む。難しいところだ。

まぁ、結果はそんな情緒的な要素よりも、「強い方が勝つ」 ということになる。それでいいのだ。

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2003年8月21日

仙台、石巻出張

今日は取材で仙台、石巻方面に来ている。ようやく一仕事終わり、夜の10時過ぎに石巻のホテルに入った。

仙台から石巻まで、仙石線快速電車で 1時間弱のはずが、先月の地震の影響がまだ残っていて、1時間半かかってしまった。

地震の後、快速電車が塩釜より先は各駅運転をする臨時ダイヤになっており、それが、なんと今日まで続いてた。Yahoo のサイトで検索できる乗換え案内は 「駅スパート」 のものだが、そんなことはまったく無視されて平常ダイヤで計算されていたので、訪問先に入る予定がちょうど 30分ずれてしまって、あわてた。

先方では笑って許してもらえたが、もしこのせいで重要案件がオジャンになるようなことがあったら、Yahoo と駅スパートは、訴えられかねないぞ。

というわけで、後は押せ押せになり、ゆっくりおいしいものを食べている時間も取れなかったが、夕食にほたてフライ定食なるものを食べた。これは取れたてのほたてをフライにしたもので、熱々でいただいたが、大変おいしかった。今回の旅は、おいしいものはこれ切りになる可能性が高い。せいぜい、笹かまぼこを買って帰ろう。

地震といえば、石巻市街はあちこちに陥没したところがあった。歩道にしいてある石畳に明らかな段差がついているので、相当な揺れだったのだろうと想像された。土地の人は、2ヶ月の間に 2度の大地震に合い、しかも懸念される 「宮城沖地震」 はまだということで、かなりナーバスになっている。

拠って立つ足元が地鳴りをたてて揺れるのだから、相当なストレスだったろう。これから来るであろう 「本番」 の地震では大きな被害のないよう、祈るのみだ。

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2003年8月20日

長期予報は当たらない

かくして、今年の夏は予測に反して、冷夏で終わりそうだ。思えば、気象庁の長期予測はマトモにあたった例がない。

考えてみれば、3ヶ月先の天気を当てるなどというのは、「二階から目薬」 をさすようなものではなかろうか。

昔は、賞味期限の切れかかったものを食べるときは、「天気予報、天気予報」 と唱えるといいと言われた。もちろん、「あたらない」 という洒落である。

しかし、今どきの天気予報というのは、翌日の予測というレベルでは、かなり的中精度が上がっているらしい。ところが、翌々日のレベルになると、その制度はグッと落ちてしまう。それは、不確定要素が時を追うにつれて相乗的に増大するからだ。

近頃も、「明後日には夏の日差しが戻る」 と何日も言われ続けて、今日になるまで戻らない。かくまでに、翌々日の天気予測は、不確定要素に悩まされる。

翌々日ですらこの調子なのだから、3ヶ月先の予報が当たるわけがないと言ってしまえば、案外腹も立てずに済みそうだ。それにしても、これほどまでに当たらない長期予報を、もっともらしく出し続けるというのも、お役所でなければできないことかもしれない。

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「ゾッキ」 という言葉

「ゾッキ」という言葉をご存知だろうか。繊維用語で、「絹ゾッキ」といえば「絹 100%」のことだが、今どき、こんな言葉を使うのは相当の年配者しかいない。

大抵は「ピュア・シルク」「 ピュア・ウール」などと言うようになっている。

ところが、ストッキングやパンストの業界では「ゾッキ」という言葉が生き残っている。ナイロン糸とサポート糸を絡ませて編むのを「交編(こうへん)」と称するのに対し、サポート糸のみで編んだものを「ゾッキ」という。元々は 100% という意味なので、理屈では、ナイロン糸のみで編んでも「ゾッキ」 なのだが、今どきそんな商品はないので、いつのまにかサポート糸オンリーのものを「ゾッキ」と言うようになってしまった。

語源は北関東の方言というのが有力だ。麦だけで炊いたご飯を「麦飯ゾッキ」などと言ったらしい。そこから織物産地の桐生あたりで、「絹 100%」の織物を「絹ゾッキ」などと言い始めたという。元々、あまり高尚な語源ではない。隠語的な扱いの用語が、ストッキング業界という狭い世界で専門用語に昇華したものとみていい。

ところが、最近、出版業界にも「ゾッキ」という言葉があるのを知った。大量返本などで余った在庫を古本の流通ルートに乗せて売るのを「ゾッキ本」と称するらしい。青空古本市などで平積みにされる B級本の類だろう。

語源は「そぎや(殺屋)」が転じたというもののほか、神奈川あたりの方言で「ひとまとめ」を意味するという説もある。「ひとまとめ」説は、繊維用語の「ゾッキ」と共通するところがあるだろう。

さらに、第三の「ゾッキ」というのも登場した。いわゆる「族」つまり暴走族のことを「ゾッキー」または「ゾッキ」と言うらしい。これも「ひとまとめ」 になっているというのがおもしろい。

いずれもカタカナ表記されるが、由来の怪しい日本語である。

 

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2003年8月19日

ポカリスェットの味

30年近く前、広告代理店にいた頃、「ポカリスェット」 の試作品の試飲をさせられたことがある。

4~5人ぐらいで別の会議をしていた時に、「画期的新製品だから、ちょっと皆で飲んでみてよ」 と言われて、神妙に味見をした

当時はアイソトニック飲料なんてものは他になかったので、第一印象は変てこりんな味だった。そこで、こんな会話になった。

「どう、おいしい?」
「いや、まずいね」
「 …… いや、これはね、そういうんじゃないのよ。発汗で失われた体内の成分を補うための健康飲料だからさぁ」
「フーン、だからまずいんだ」
「いや、だからさ、うまいまずいで飲むもんじゃないのよ」
「それで、まずいのね」
「違うんだってば、だから、うまいまずいより、健康にいいのよ」
「それでまずいわけだ」
「そうじゃないんだってぇ」
「でも、まずいよ」

と、完全にかみ合わない会話に終始してしまった。

あの時、あんなに変てこりんな味に思われたポカリスェットも、今では完全に定番飲料となり、皆、抵抗なく飲んでいる。私も二日酔いの時なぞによく飲む。

思えば、初めてコーラを飲んだ時は、もっと変てこりんな味に感じられた。味覚というのは、慣らされてしまうものである。

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2003年8月17日

無理偏にげんこつ

昔、某団体に勤務していた頃、元琴風の尾車親方の講演会を催したことがある。親方はとても話し上手で、好評だった。

2~3日後、事務局に電話が入った。「講演を聞いた者だが、いくら調べてもわからないので、お聞きしたい」 という。

「どんなことでしょうか?」
「『あにでし』 という字は、どう書くんですか?」
「それは兄弟の 『兄』 に、お弟子さんの 『弟子』 だと思いますが」
「でも、尾車親方の言っていた 『あにでし』 は、別の字でしょう」
「はぁ?」

ここで、私も一瞬、頭に思い浮かんだ。そういえば、尾車親方は講演の中で、「相撲の世界では、『無理偏』 に 『げんこつ』 と書いて、『兄弟子』 と読ませるくらいですから …… 」 と、おっしゃっていた。ほとんどの人は冗談として聞いたはずだが …… .。

「漢和辞典で調べてみたんですが、『無理偏』 というのが、いくら調べてもないんで、どんな字か教えていただきたいと …… 」

あれは相撲界の体質 (「『無理偏』 に 『げんこつ』 と書いて、『上官』 と読ませる」 という軍隊バージョンもある) を言う有名な冗談なのだと説明したのだが、この人は結局わかってくれなかった。

「だから、それが一体どんな字なのか、知りたいんです」 というわけだ。思い込みと言うのはコワイ。

それから、こんな話もある。

大学時代の友人が、ある人に 「達筆ですねぇ」 と誉められた。謙遜のつもりで、「いやぁ、私のは金釘流ですから」 と言うと、相手は、「ほほぅ、カナクギ流ですか。道理で …… 」 とますます感心してしまったので、彼は何も言えなくなってしまった。

世の中には真面目すぎる人がいるので、注意が必要だ。

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2003年8月16日

ウィルス騒ぎ 2

8月 16日になっても、例の Blaster ワームが Windows Update サーバにそれほど猛烈な DoS 攻撃を仕掛けている様子はない。

一安心だが、問題はお盆休み明けの企業の PC だ。多分 Windows Update もウィルス定義も更新していないだろうから。

このサイトの別宅をもつ 「楽天広場」 というところでも、Blaster ウィルスはかなりの話題になっているのだが、「自分も感染してしまった」 という書き込みの多いのに驚いた。正式に届出のあった被害件数の、おそらく何十倍、何百倍の感染があるだろうと思われる。

それらの書き込みを見ると、ほとんどのケースは、ウィルス対策ソフトを入れず、Windows Update もしばらくしないままに、インターネット接続だけはガンガンしていたというものだ。そして、Blaster に感染してしまい、ワクチンソフトを何とか手に入れて、駆除に成功したという報告もかなりある。

しかし、問題はその後だ。駆除に成功しても、その中の一部のユーザーは、予防対策、つまり、ノートンやウィルスバスターの導入まで進まないのである。これでは、早晩また感染する。

私は他人に相談されたら、ウィルス対策ソフトなしにインターネット接続をするのは、裸で街をあるくようなものだと言っている。何もなかったら、それは奇蹟のようなものだ。

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2003年8月15日

ビールの流儀

ドイツのバーでビールを注文すると、日本のようにはサッと出てこない。結構な時間、手持ち無沙汰に待たされる。

カウンターで見ていると、きちんと適量のきめ細かい泡を実現するために、やたらと時間をかけているようなのだ。

彼らは、まずジョッキに生ビールをすごい勢いで注ぐ。大変な勢いなので、ジョッキの 8割ぐらいが泡になる。日本人なら、「あぁ、あぁ~」 なんて言いそうな場面だが、彼らにとっては、それが正しい流儀である。ほとんど泡で満たされたジョッキを、まずは、そのまま放っておくのである。

2~3分すると、泡が消えてきて、泡とビールをあわせてもジョッキの半分以下になる。この時点で、普通の日本人ならば、残りの分量をそっと注ぎ足して出せばいいではないかと思う。ところがそうはならない。

彼らはまたしてもものすごい勢いでビールを注ぎ足す。今度は泡がジョッキの 5割ぐらいになる。そして、再び放っておく。

このあたりで、冷たいビールをグッとあおりたい私は辛抱できなくなる。そこで、バーテンに言う。

「日本人とアメリカ人は、生ぬるいビール (ウォーム・ビア) は飲まないんだ。お願いだから、そっとピッチして、早めに冷たいビールをサーブしてはくれまいか」

ところが、ドイツ人のバーテンダーは言うことを聞かない。カクテルは 「ソルティドッグ」 も 「ギムレット」 も知らないくせに (本当にそれなりのホテル・バーのバーテンダーでも知らなかったりする) 、ビールに関してはものすごく頑固である。人差し指を立てて横に振り、 「チッチッチ」 と舌を鳴らして、「コールド・ビア、ノーグッド」 などとのたまう。

結局、10分近く待たされて、ジョッキの上 4分の1 ほどが、まことにきめ細かいクリーミーフォームで覆われたビールがサーブされる。まぁ、これが実にうまいので、文句を言うわけにもいかない。何でも、その国の流儀で飲み食いする方が理にかなっているのかもしれない。

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2003年8月14日

トビウオラーメン

かなり以前から気になっているものに 「トビウオラーメン」 がある。トビウオで出汁をとったスープが特徴で、Google で検索するとわかるが、庄内地方が本場のようだ。

食った者に聞くと、結構うまいらしい。東京に進出しても、十分勝負になる味という。

トビウオというのは、日本海には結構たくさんいて、酒田港から 「飛島丸」 という連絡船に乗って飛島という島に向かうと、船の横を競うようにしてビュンビュン飛びまくる。飛行距離は、ざっと見ただけでも 100m や 200m というレベルではない。物の本によると 500m飛ぶのもいるらしい。

あんなに飛ぶのだから、その筋肉たるや、大したものだろう。そこからじわりじわりとにじみ出るたんぱく質やらアミノ酸やらは、さぞかし濃厚だろうと想像される。

ただ、この商品が東京に進出するにあたっての弱点は、完成品にはトビウオの影も形もないことだ。トビウオの全ては、エキスとなってスープの中に溶け出しているので、見た目の証拠がないのである。これでは、説得力というか、訴求力というか、要するにマーケティング的にはいかにもパンチ不足である。

かといって、トビウオの出汁殻を麺の上に乗っけたところで、美しいわけでもなければ、それほどうまいものでもない。

「トビウオラーメン」 がヒットするには、即物的な 「百聞は一見にしかず」 的価値観ではなく、ちゃんと口に含んで味わいながら、「フムフム、なるほどねぇ」 と納得できるだけの、きちんとした味覚の客が存在しなければならない。

庄内の人間は、生まれてこの方、活きのいい魚しか食ったことがないのだから、自然に味覚は鍛えられるが、東京の客はどうだろう。そう考えると、甚だ心もとない。

それよりもまず、自分の舌で味わってみたいものである。

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2003年8月13日

ウィルス騒ぎ

お盆開けの企業では、情報システム担当者が休みボケどころではない忙しさになりそうだ。例のウィルスのせいである。

今度の Blaster という代物は、一昨年の Nimida 以上の 「悪辣さ」 をもっている。「悪意」 の明確さが並外れている。

Blaster の広がり方は、メールの添付ファイルを開いたとか、Web サイトの Java Script を拾ったとか、そういうものではない。ワームが勝手に入ってくるのである。Windows 2000、XP などのちょっとした穴を通って、知らないうちに感染してしまう。

問題は、これほどまでに常時接続が一般的になっているというのに、まだウィルス対策ソフトを入れていない人がかなりいるということだ。企業などでも、必要な対策を講じていないところがかなりあるようだ。

今の世の中、対策ソフトなしで普通にネット接続をしていたら、必ずウィルスに感染する。今まで大丈夫だったとしても、これから必ずもらってしまう。それだけウィルスは広まっているのだ。感染しないで済んでいるとしたら、これまでよほど運がよかったか、コンピュータをまともに使いこなしていないかのどちらかだ。

ここまできたら、ウィルス対策ソフトの導入は 「義務」 である。皆に義務を守ってもらうためには、もう少しソフトの価格を下げることも必要だろう。マカフィのウィルススキャンも、来年には販売元が変わって少々値上げになると聞いたが、せいぜい 2,000円代前半に抑えてくれればいいと期待する。

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2003年8月12日

ボブ・ホープ死す

粗忽なことに、ボブ・ホープが先月末に亡くなったのを、今日になって知った。死因は肺炎。享年 100歳だったそうだ。

彼は皮肉の効いたジョークで有名だが、ネイティブ・スピーカーではない悲しさ、あの早口がちゃんと聞き取れたことがない。

私は世代的には、リアルタイムでボブ・ホープのジョークに触れたというわけではない。「腰抜け二挺拳銃」 にしても、私の生まれる前の作品だ。私が知っているのは、相当な年配になってからいろいろなショーのゲストとして登場する、あのちょっとロンドン・パリ気味のおじいちゃんとしてである。

歳をとっても、彼のジョークは早口だった。あれを通訳なしで聞いてちゃんと笑えるようなら、大したものだと思った。

彼のジョークで有名なのをあげると、次のようなものだ。

「ビートルズが米国で初公演した時、フライトの際の荷物がオーバーウェイトだった。そのほとんどは髪の毛だった」

(戦後、来日して GI 向けのショーで) 「日本人は非常に礼儀正しい。ぼくはああいうお辞儀には慣れてない。だから日本に来て5日目なのに、まだだれの顔も見ていないんです」

(スターウォーズの年のアカデミー賞授賞式の司会で) 「今日はいっぱいの俳優・女優さんが集まっていますね。これがホントの 『スターウォーズ』」

今となっては、ややオールドタイミーである。ジョークの古典といったところだ。とにかく皮肉が効いてブラックなところがあると思っていたら、彼はブラックジョークの本場、英国生まれだったと聞いて納得した。

私としては、ボブ・ホープにあこがれて少年時代からジョークの投稿をしていたという、ウディ・アレンの方が身近に感じている。

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2003年8月11日

3D にはまりそう

「視力回復によく効く」 という触れ込みの 「ファンタジー 3D」 という本を買ってきた。例の、ゴチャゴチャしたわけのわからない模様をボーっと見ると、立体画像が浮かび上がるというやつだ。

ところが、これが難しいのである。

最初は全然うまく行かない。何がなにやらわけがわからない。

ところが、我が家の次女はこれが得意なのである。ページをペラペラめくって、「これはハート」 だの、「これは、アレ、なんだ? あぁ、白鳥か」 などと言っている。同じページをみても、私には、ハートや白鳥はおろか、輪郭らしきものすら見えない。

次女は得意げに 「お父さん、頭固いんじゃないの」 などという。冗談じゃない。私は頭は結構柔らかい方だ。これは見えないことには沽券に関わる。

必死に取り組んで小一時間。それは、突然やってきた。ある種、感動的な瞬間だった。突然、色鮮やかなハートが浮かび上がってきたのである。

一度見えてしまうと、後は体が覚えてしまう。どのページも楽々見えるようになった。浮かび上がった立体画像は、錯覚とはいえ、非常にリアルに、縦から、横から、斜めから仔細に眺めることができる。 確かに眼の疲れもとれたような気がする。

実は、今こうしてパソコンの画面に向かって文字を入力していても、いつもよりずっとクリアに、そして少々立体的にさえ見えている。

これは確かに、眼にいいかもしれない。ハマりそうだ。

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2003年8月10日

PC の速さへの要求

私のモバイルPC は 2年半前のモデルで、DC で動く と 500MH 以下のスピードだ。

普段使っているデスクトップも、1GH弱で、自慢できるスピードではないのだが、その感覚からしてもかなり遅い。処理を待っていると、前につんのめりそうになる。

それでも、考えてみれば昔のマシンよりはずっと早いのである。これで文句を言っているのだから、我ながら贅沢になったものだ。

Windows 以前の1980年代、私は自宅ではずっとワープロ専用機のユーザーだった。ところが、英文を書くにはやはり英文ワープロソフトが必要と痛感し、当時使用していた OASYS にメモリーを付け足し、MS-DOS を走らせた。その上で、Word Star という英文ワープロが起動できるようにしたのである。

ところが、やはりメモリーの小ささ故、A4 1枚以上の分量を書くと、いつフリーズするかわからないので、1 パラグラフ書くごとに、「ギコギコ」 と音をさせてフロッピーに保存していた。そして、一度フリーズしたら、いちいちフロッピーで MS-DOS を立ち上げ、さらに Word Star を読み込ませた。それほどの面倒に耐えながらも、やはりスペルミスの修正とワード数のカウントという便利な機能には勝てず、手書きには戻れなかった。

当時と比較すれば、そのスピードの進化は比較にならない。それでも、私は 「遅い遅い」 と文句を垂れている。性能を上げれば上げるほど、要求は高くなる。本当に、人間の欲望は果てしないものだ。

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2003年8月 9日

「腑に落ちる」

「腑に落ちない」 という日本語がある。表面的には辻褄が合っているが、どうも納得できないというようなニュアンスだ。

理解というのは、理屈でできるが、最終的には 「腑に落ち」 て 「身体化」 されるところまで行かないと、「納得」 はできない。

国語辞書をみると、「腑に落ちない」 という用例は載っていても、「腑に落ちる」 という言い方は見当たらない。だが、私は 「腑に落ちる」 という実感を大切にしたいと思っている。

理屈を積み重ねることによる理解は、そのプロセスをきちんと踏まないと得られない。しかし、「腑に落ちる」 ということによる 「納得」 は、ある日突然訪れる。それは直観的なものだからだ。

仏教の教義を網羅した 『大蔵経』 を読破したとしても、悟れないものは悟れない。しかし、たった一言で悟りを開くものもある。

昔、中国で若い新参の僧が名高い逍州和尚に指導を仰いだところ、「朝食はとったか」 と聞かれた。「とりました」 と答えると、「それでは、食器を洗え」 と言われた。

若い僧は、それだけの問答で悟るところがあった。 「飯を食ったら、器を洗う」 という当たり前の行為の中に、宇宙森羅万象の真理を見出したのである。これが 「腑に落ちる」 ということだ。

そこに至るまでは参禅し、作務をするという日常の積み重ねがあったのである。ある種の 「準備」 が整うと、インスピレーションは瞬時に与えられる。

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2003年8月 7日

高校野球とギャンブル

夏の高校野球が始まった。以前、ある会社に勤務していた頃は、この時期になると決まって廻ってくる回覧があった。

この大会をギャンブルの対象とした投票用紙である。左端に出場校名があり、その横にオッズが記されている。

オッズ (倍率) は強豪校ほど低く、本命は 3倍か 4倍程度。その横に、各自が何口投票するかを記入する欄がある。新入社員のうちは仕方なく 3口が 4口付き合っていたが、そのうち馬鹿馬鹿しくなり止めた。ほどなく、回覧は私のデスクを素通りするようになった。

これは社内でやっていたケースだが、中には、社外にまで投票を募るところもある。この時期に下請生産を専らにする中小企業を訪問すると、あちこちから投票用紙が FAX されてきていた。元請会社の総務部あたりが胴元になっているのである。

下請けの身としては、A社に付き合って B社を無視するわけにはいかない。うっとうしいとは思いながら、結局はすべての元請会社にお付き合いすることになる。それも、あんまり当たらないように。これを 1年に春と夏の 2度強要されるのだから、かなりうっとうしい。

これって、はっきり言って 「下請けイジメ」 である。

一時、高校野球賭博で企業の摘発が相次いだが、多分、付き合いを強要された下請けがブチ切れて、警察にタレ込んだのだと思う。

最近はそうした摘発がめっきり少なくなったが、業界もくだらないギャンブルにうつつを抜かしている余裕がなくなってきたのかもしれない。デフレにも少しはいいことがある。

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2003年8月 6日

そばの食い方、柏手の打ち方

落語の枕に、江戸っ子の粋人が臨終の間際に、「一度でいいから、汁をたっぷりつけてそばを食いたかった」 と言うのがある。

いかにもありそうだが、実際にはあまり汁を付けすぎると、せっかくのそばの香りが消されて、決してうまいものではない。

本来は、そばの食い方などというのは自由であって、人それぞれ好きなように食えばいい。とはいいながら、これだけは控えた方がいいという悪例が少々ある。

その最たるものは 「二見浦」 (ふたみがうら) という食い方だ。ざるやせいろから、そばをぞろぞろと引きずって、そのまま卓に置いたそば猪口に突っ込むと、ざるやせいろと猪口が、ぞろりと引きずられたそばでつながってしまう。まるで、二つの岩を注連縄 (しめなわ) でつないだ 「二見浦」 のようなので、こう呼ばれる。

本当の 「二見浦」 はきれいだが、そばを食うのにこれをやられると、美しくない。前かがみで髪の毛をかき上げかき上げ、「ズルッ、ズルッ」 とすするようになる。

そばを食うときの基本は、要するに、そば猪口をちゃんと左手で持つことである。そして、右手の箸で手繰り上げたそばの 「下端から」 汁につけていただきたい。このやり方さえ守れば、あとはどっぷり浸そうが、かき回そうが、どうとも自由である。

ついでなので、もう一つ。神社で参拝する際の 「柏手」 (かしわで) の打ち方である。最近何だか、日本人の柏手の打ち方が妙ちくりんだと思っていたのだが、どうしておかしいか、やっとわかった。

多くの人は、だらりと下がった位置にある両手をふわりと上げて、そのまま 「ペチン、ペチン」 とやってしまうのである。これだと、順番待ちで後ろから見ていると、かなり間が抜けて見えるし、音も大抵格好悪い。

柏手を打つ際は、背筋を伸ばして、いったん両手を胸の前で軽く合わせていただきたい。この時、肘を曲げて合掌のように胸に近付け過ぎると、手を開いたときに 「あらまぁ」 なんて言ってる漫画みたいな姿になって、形がよろしくない。少し前方に差し出すぐらいの方がいい。

両手を軽く合わせたら、左指先が心持ち前方に出るくらいに右手を少し引いて
、「ポンポン」 と打つのである。こうすると、音も 「ペチン、ペチン」 にならずに済む。試していただきたい。

あぁ、なんだか私も、口うるさいジジイのようになってきた。

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2003年8月 5日

「自由形」と「クロール」

水泳の大会を見ると、「自由形」という種目は「自由」とは名ばかりで、100%「クロール」である。

一番速いタイムを出せる泳法を探求した結果、クロールという泳法に辿りついて、皆がそれを選択しているということだろう。

しかし、昔は違った。「自由形」という種目は、文字通り「自由形」 だったのである。

それは、我が家にテレビというものが導入されて間もなくの頃だったから、東京オリンピックの1~2年前の夏休みだったろうか。たまたま、山形県の水泳大会(多分、高校の大会だったろう)がテレビで実況されるのを見た。画面はもちろん白黒である。

おりしも、種目は女子 100メートル自由形。私はそれまで、「自由形」というのは「クロール」の別称だと思っていた。どんな水泳競技会でも、「自由形」でクロール以外の泳ぎをする選手を見たことがない。

号砲一発、きれいにそろったスタート。しかし、浮き上がって泳ぎ始めると、どこかおかしい。よく見ると、両端のコースの 2選手だけが、明らかに「異様な動き」をしているのである。

一人は「横泳ぎ」。田舎では「ノシ」といった。水泳大会に出て「ノシ」で泳ぐ選手を、私は生まれて初めて見た。

もう一人は、明らかに「背泳ぎ」である。そういえば、この選手だけ飛び込み台からではなく、水中でスタートしたような気がする。ならばどうして「背泳」の種目に出ないのかと思っていたら、50メートルのターンをしたところで「平泳ぎ」になってしまった。どうも「背泳ぎ」では50メートルが限界で、後半は「平泳ぎ」に転換しないと、100メートルもたないらしい。とんでもない水泳選手だ。

アナウンサーが「自由形というのは、本来、このように自由な形で泳いでいいんです」と、真っ当だがかなり苦しい説明を入れる。そうかと思うと解説者は、「そうですね。いろいろな泳ぎ方で記録を伸ばしてくれる選手が、もっともっと出てくるといいですね」などと、無責任なことを言う。そんなことを言っている間に、両端の 2選手は見る見る大差をつけられる。全然フォローにならない。

変わり者好きの私は密かに「横泳ぎ」の選手を応援してみたが、結局「背泳/平泳ぎ」のスイッチ泳法にも及ばず、どん尻に終わった。

なるほど、皆がクロールを選択するのは無理もないと、幼い私は心の底から納得したのだった。

 

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2003年8月 4日

マクドナルドに一言

昨日に引き続き、今日は、マクドナルドのカウンターの応対について一言。

マックなんて、そうしょっちゅう行かないので、システムに慣れていない。そのせいか、カウンターの女の子のトークが早口すぎて、何を言ってるのかわからないのだ。

以前、昼食をゆっくり食べる暇がなかったので、滅多にないことだが、マックに入った。ところがカウンター前の列に並ぶと、思いのほか時間がかかる。「こりゃ、決して 『ファーストフード』 ってわけじゃないな」 と思った。「ファーストフード」 的なのは商品の中身だけで、それを手にするまでの時間は、期待ほどに 「ファースト」 ではない。

ようやく自分の番になって、何とかセットを注文すると、女の子が甲高い声の早口で、何やら聞いてくる。

  女の子 「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
  「?? はぁ??」
  女の子 「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
  「なんだか、わかんない …… 」
  女の子 「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
  「あなたが何を言ってるのか、さっぱりわからないということなんだけど」
  女の子 「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
  「ハァ、もういいです。今までのことは忘れてね。サヨナラ」

カウンターの女の子は、テープレコーダーのように同じことをまったく同じ調子で繰り返すだけ。大げさでもなんでもなく、本当に最後の 「かぁ?」 という質問形しか聞き取ることができなかった。米国のマックでは全然問題なく品物を手にできた私が、母国の日本で、エイリアンを相手にしてしまったのである。

聞けば、マックのマニュアルには、「客一人当たりの応対時間」 まで設定されているらしい。一人の客に時間を掛け過ぎると回転が早くならないので、早口が求められるのだそうだ。

しかし、早口すぎて何度も聞きなおされたら結局余計に時間がかかるということは、考慮されていないようだ。ましてや、気味悪さにかられた客が、注文を取り消して帰ってしまうなんてことは、まったく想定されていないように思われる。その想定外のケースを私が現実に作ってしまったのだが、その後のマニュアル改定に反映されているのだろうか。

第一、さんざん並ばせるだけ並ばせて、カウンターに到着したとたんに、無茶苦茶な早口でたたみかけるなんていうのは、顧客無視の発想である。

それよりも、並んでいる間に情報がわかりやすく提供され、その間に客が注文を決めて店側に伝えられるシステムにする方が、ずっと効率的ではないか。そして、カウンターに到着したらすぐに品物を受け取れるようにすればいい。「ドライブスルー」 で初歩的ながら実施されているコンセプトを、きちんと最適化すればいいのである。

 

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2003年8月 3日

「いらっしゃいませこんにちわぁ」

細かいことを言うのは嫌いなのだが、細かいことでも毎度繰り返されたら、それはエライことなので、言わずにはいられない。

それは、コンビニやファーストフード店の店員の、あの「いらっしゃいませこんにちわぁ」という挨拶の違和感についてである。

あの妙ちくりんな挨拶が日本全国に広まってしまったのは、一体いつ頃からだったろうか? 昔は「いらっしゃいませ」と「こんんちは」は、別々に口にされる挨拶だった。あのように一続きで発音されると(「いらっしゃいませ、こんにちは」ですらなく、「いらっしゃいませこんにちわぁ」なのだ)、こちらとしては、どうしても落ち着かない気持ちになる。

考えてみるがいい。百貨店の店員に「いらっしゃいませこんにちわぁ」なんて言われたら、980円以上の商品は絶対に買わない。温泉旅館の仲居さんに「いらっしゃいませこんにちわぁ」なんて言われたら、チップなんか絶対に上げない。レストランの入り口を入るなり「いらっしゃいませこんにちわぁ」なんて言われたら、水だけ飲んで帰る。

聞けば、あの挨拶はマニュアルで決められているのだという。そうだとすれば、そのマニュアルを作ったのはエイリアンである。日本語を知っているとは到底思われない。

それから、レジでお釣りの必要がないちょうどの金額を支払った時に、「レシートのお返しです」と言われるのもかなり気に障る。「レシートなんか預けた覚えはないから、返してなんかもらわなくていいよ」という気分になる。どうして、普通に「レシートです と言えないものか。それもマニュアル通りだとしたら、コンビニは日本語破壊の元凶だ。

【2021年 10月 16日 追記】

この件に関しては、以下の記事を併せて読んで頂ければ幸いである。

「いらっしゃいませ、こんにちは」という挨拶を聞かなくなった (2018年 12月22日)

喉元過ぎれば「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜」を忘れる (2019年 12月 18日)

ケッタイな挨拶の絶滅から学ぶこと(2019年 12月 19日)

 

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2003年8月 2日

食べ合わせのフォークロア

ホームページの永代供養」 なんていうコラムを書いてしまったためか、「死」ということを考えてしまった。私は子供の頃、「死」を具体的に意識したことが 2度ある。

一度は 12歳の頃の「新潟地震」 の時だが、それより前、幼稚園の頃にも幼心に「死」を覚悟したのである。

山形庄内の田舎のこととて、私は三世代同居の家で子供時代を過ごしたのだが、祖母は「食べ合わせ」には大変うるさい人だった。「○○と△△」 は一緒に食うなとか、「××と◇◇」と一緒に食ったら死んでしまうとか、コトあるごとに言うのだった。中でも最悪なのが、「イカの塩辛と梅干」の食べ合わせである。これを一緒に食ったら、たちどころに死んでしまうと言うのである。

ところが祖母と二人きりで留守居をしていたある日、私はうっかりと、まさにこの組み合わせのつまみ食いをしてしまった。それがバレた時、祖母は冷酷にも「おぉ、死んでしまう」と言い放ったのである。幼い子供にとっては、これ以上のショックはない。

「本当に死ぬのか」 と聞くと、「イカの塩辛と梅干を食ったら死ぬと、昔から言う」と答えるのである。これはもう、後悔してもし切れない。頭が白くなった。

何よりも切ないことに、祖母はそれっきり私を放っておいたのである。医者を呼ぶわけでもなく、病院に担ぎこむのでもない。何事もないように日常の家事に戻ったのだ。私は、これはどう手を尽くしても甲斐のないほどに 「手遅れ」 なのだと理解した。

それから半日、私は泣き喚くこともなく、ひたすら大人しく自らの死を迎えようとした。死ぬのは仕方ないと思ったが、その前にさぞ苦しかろうと、それが恐ろしかったのを憶えている。

ところが、何時間経っても死ぬどころか、腹痛すら起きない。祖母に「いつ死ぬのか」と尋ねても、「死ぬ」としか言わない。そうは言っても、そのような兆候はまったく現れない。夜になってもまだピンピンしていて、いつの間にか「死」の恐怖は消えてしまった。

「食い合わせ」というのはほとんどが迷信だと知ったのは、小学校 3年か 4年の頃である。それまで私は、「あの時は『運良く』死を免れた」ものとばかり思っていた。

祖母は本当に私が「死ぬ」と思っていたのだろうか? あるいは、死なないと知っていて「死ぬ」と言ったのだろうか。私は長い間、それが疑問だった。後者だとしたら、相当に残酷な話だ。

しかし、その後に私はこう理解できた。祖母の頭の中は、「現代」ではなく、「近代」 、はたまた 「近世」ですらなかったのだ。

彼女は、「はひふへほ」を「ふぁふぃふふぇふぉ」と発音する人だった。これは音韻学によれば、奈良時代の発音である。「歯が痛い」というのを、「ふぁ、病める」と言った。昭和の御代に、奈良時代の物言いを維持する、「生きたフォークロア」 だった。

彼女
の生息する 中世以前」の感性においては、「食い合わせで死ぬという言い伝え」は、「死なぬという事実」 よりはるかに重視すべきテーマだった。伝承によるファンタジーの価値は、実証的事実に勝るのである。

だから大事な孫を目の前にしても、「事実」はどうあれ、「言い伝え」を忠実に繰り返す以外に選択肢はなく、いわば「オートマチック」な反応なのであった。これを現代の感覚から 「残酷」 と非難するわけにはいかない。

私のフォークロア的感性は、昨日や今日に始まったことではない。年季が入っているのである。

 

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2003年8月 1日

「しゃぼん玉」 の歌

既に、このサイトのどこかで書いたような気がしていたのだが、「海域内検索」 で探しても見当たらない。誰かの BBS に書いたのかもしれないので、ここに繰り返す。

何のネタかというと、「しゃぼん玉」 についてである。あの野口雨情作の童謡だ。

しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた

しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

風 風 吹くな
しゃぼん玉 飛ばそ

私は、この歌は涙なくしては歌えなく、聞けないのである。

30年以上前、高石友也のフォークコンサートでこの歌を聞いた。その時に、この歌の本当の意味を初めて知った。これは、いわゆる 「間引き」 で死んでいった子供たちへの鎮魂歌だったのである。

この歌が発表された大正末期、貧困の中にあった農家では、養いきれない子供を生まれてまもなく親の手で殺してしまうことがあった。 この歌は 「生まれてすぐに」 消えていった生命を悲しんで作った歌だという。

一般には、2歳で死んだ自分の娘、恒子の死を悲しんで作ったと言われるが、それだけではないようだ。雨情は、それ以前にも長女みどりを生後 8日目で亡くしている。こうした自身の悲しみも当然あるだろうが、純粋に、不平等に死んでいった小さな生命が、あの世に行って楽しく遊べるようにとの願いを込めて作られたとする方が、より作者の意に沿うような気がするのである。

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