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2003年9月に作成された投稿

2003年9月30日

漱石の作品はすべて面白いか

明治時代の新聞というのは、読朝毎の三大紙といえども発行部数はせいぜい 50~60万部で、現在 (読売新聞は 1000万部を超える) と比べれば、非常に少ない。

それだけに、なかなかハイブロウなところがあり、文芸が売り物の一つだったようだ。

夏目漱石などは、一高教授の職を捨てて、朝日新聞の社員として迎えられ、専属で小説を書いている。当時、「吾輩は猫である」 「坊ちゃん」 で既に高名を得ていたから、朝日に移るときにはずいぶん破格の待遇だったらしい。新聞は高名な文人との契約で 「ハク」 を付けて、部数を伸ばそうとしていたから、多少の無理はきいたようだ。

今日の TBS ラジオの朝の番組に登場した詩人の荒川洋治氏によると、漱石は、高給を取ったとはいえ、生活はかなり厳しかったらしい。妻の生活が派手な上に、義父母の生活の面倒をみていたし、来客もかなり多かった。物要りだったのである。

そのため、朝日に移ってからは、金を稼ぐために矢継ぎ早に 「虞美人草」 「三四郎」 「門」 と小説を書いたが、ようやく調子が出てきたのは 「こゝろ」 あたりからだったという説がある。

亡くなった山本夏彦氏などは、漱石の小説で面白いのは 「猫」 と 「坊っちゃん」 だけで、後はどこが面白いのか、というようなことを書かれたが、こうした話を聞くと、それも一理あると思わせる。私は 「三四郎」 は面白く読んだが、それ以外は確かに退屈だ。文豪の作品だけに、そうはっきりとは言いにくいところがあるが、事実は事実である。

面白くないものを 「面白くない」 と安心して言えないのは、文化的ファシズムである。

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2003年9月29日

企業の無駄と国家の無駄

メーカーは、常に新製品を出し続ける宿命を背負っている。新製品発表のプレスリリースを見ると、販売目標として初年度いくら、3年度目いくらという額が記されている。

しかし、その額をクリアできる製品は、10のうち 3つもなかろう。

すべての新製品がその目標をクリアしていたら、ほとんどの企業の年間売上高は現状の何倍にもなっていなければならない。そうでないということは、多くの企業の新製品開発は、無駄に帰しているというわけだ。

これをどう捉えるかは問題である。

無駄な商品開発を即刻中止すべきだという見方もあるだろう。しかし、本当は無駄に帰した 7つか 8つのの開発があってこそ、残り 2つか 3つのヒット商品が実現しているのである。従来 10行っていた商品開発を 2つか 3つに絞り込んだら、成功するのは、年に 1つも生まれまい。要するに確率の問題だ。

とはいえ、打率を高めることはできるはずだ。マーケティングや調査研究をきちんと行い、従来は 3割以下だった打率を、イチローの打率程度に高めることは可能だろう。その効果は打率を高めるだけではすまない。企業の体質を強化することにもつながるだろう。

この喩えは、企業の製品開発だけではない。国家の事業においても言えることだ。税金の無駄遣いを減らし、国家としての体質を改めることができるはずである。問題は、企業にできることが、国にはできなかったりすることが多いということだ。

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2003年9月28日

イグ・ノーベル賞

久しぶりに大笑いできるパロディにお目にかかった。Ig Nobel Prize (イグ・ノーベル賞) というもので、「下品な」 とか 「不名誉な」 という意味の ignoble にかけている。

くだらないけど、笑えて記憶に残る研究に贈られるものらしい。

1991年に創設されたこの賞の初代受賞者の1人、米国のクエール元副大統領は、「環境を害しているのは汚染ではなく、空気や水の中の不純物だ」 などの珍妙発言で、より充実した科学教育の必要性を満天下に認識させたことが評価された。

スコットランドの医師グループは、トイレでの負傷の原因のほとんどは便器の老朽化によるとして、「便器崩壊の危険を避けるためには、腰を浮かせて用を足すべき」 と提言、1993年に受賞した。(してみると、和式トイレは先進的だ)

イングランドの研究者が 1995年に発表した論文は、トーストを落とすと必ずバターを塗った面が下になるのはなぜかを分析したもので、その結論は、「宇宙はそのようにできているから」 だという。

インドの政府研究機関所属の科学者グループが受賞したのは一昨年のこと。若者の鼻ほじりについて詳細な調査を実施したのだが、鼻をほじる習慣は社会的階層を問わずみられ、指のみを使う人が 8割、ピンセット派と鉛筆派が 1割ずつを占めると報告された。

今年の授賞式は 10月 2日、ハーバード大学で開かれる。主催者のマーク・エイブラハム氏によると、賞品は 「非常に安っぽくて 1カ月もすれば壊れるもの」 だという。

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2003年9月27日

芯なしのトイレットペーパー

我が家のトイレットペーパーは クロネコヤマトの 「得選市場」 ブランドで、電話で注文すると、翌日には届けてくれる。しかも、スーパーで買うより安い。

真ん中にボール紙の芯がないので、1ロールが 140mもあり、長く使える。

1ロールで 140m もあるのは、芯の部分の穴が小さいためでもある。普通のトイレットペーパーを見ると、私は 「どうしてこんなに無駄な大きさの穴を開けているのだろう」 と不思議に思う。あれでは、輸送している時でも、かなりの部分は 「空気」 を運んでいることになる。

クロネコヤマトは、さすがに運送業者である。あんな馬鹿げた大きさの穴のトイレットペーパーには、我慢ができなかったのであろう。 「芯なしシングル」 の穴は本当に小さくて、トイレのペーパーホルダーに取り付けるには、専用の細い芯棒が必要だが、一度取り付けると長く使えるので、なかなかいいものである。

私は、日本中のトイレットペーパーがこの規格になればいいと思っているのだが、なかなかそうはいかないらしい。最大の理由は、芯なしに切り替えても値上げをしにくいところにあるのだろうと思っている。同じ値段でより長いペーパーを売ることになるのだから、メーカーとしては二の足を踏むだろう。要するに、あれは形を変えた 「上げ底商品」 なのである。

そのため、せっかく芯のボール紙を廃しても、穴の大きさは元のままという中途半端な商品もある。

私がよく行くスーパー銭湯のトイレで使っているのも、「芯なしだが穴の大きさは元のまま」 という中途半端タイプである。ここのトイレには 「このトイレットペーパーは、芯がありませんので、最後まで使えます」 という意味不明の張り紙がしてある。「芯があったって、最後まで使えるじゃないか」 と突っ込みたくなるのは、私だけではあるまい。

従来の 「芯あり」 タイプでは、ボール紙でケツを拭かないと最後まで使ったとは言えないという主張だとしたら、ずいぶん乱暴な話である。

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2003年9月26日

よくわからん理屈

今日は一日がかりで、ある葬式に列席してきたが (詳細は 別宅の日記参照)、帰り道にカーラジオで聞いた某ニュースショーのコメントには、正直言って首をかしげた。

民主党は、マニフェストよりもシャドウ・キャビネットを発表しろというのである。

それは、このような文脈で出てきたことである。

今回の小泉さんの所信表明演説は、イメージ訴求ばかりで具体性に乏しい。従って、民主党はそれにつけ込んで具体的な提案を行い、国民の支持を得るべきである。そのためには、あんなマニフェストなんかより、民主党としての閣僚名簿を発表して、具体的政策の提案をすべきなのである。

と、まぁ、こんな主張なのであった。マニフェストが漠然としていて、閣僚名簿だと具体的だというのである。

よくわからん主張である。なんでシャドウ・キャビネットを発表することが、「具体的政策の提案」 になるのか。土台、我々一般国民は、現実の内閣閣僚の名前さえも、ほとんどよく覚えていない。シャドウ・キャビネットなんか発表されたところで、「それがどうした」 程度ですんでしまう。その意味では、マニフェストの方が、少なくともわかりやすいと思うがなぁ。

一般国民の政治に関する意見を代弁するような格好をして、わけのわからん言いがかりで格好付けるのは、勘弁してもらいたい。

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2003年9月25日

ベストセラーは読まない

たった今、「本好きへの100の質問」 に答え終わって、アップロードしたところだ。答えながら思ったのだが、私は 「ベストセラー」 と称せられるものをほとんど読んでいない。

それは本に限らず、映画でもそうで、「スターウォーズ」 も見ていない。

私は永六輔さんのファンだが、『大往生』 を読んでいない。最近の話で言えば、『バカの壁』 も読んでいない。古くは 『窓際のトットちゃん』 も読んでいない。

よく言われることだが、ベストセラーになる本というのは、普段に本を読まない層が買うから、ベストセラーになるのである。普段から本を読む層というのは、それだけ少数派なのだ。

映画にしても、「スターウォーズ」 や 「ハリーポッター」 を見ている層というのは、「シッピングニュース」 みたいな映画は見ていないだろうと思われる。どうも 「文芸路線」 というのは少数派なのだ。それでも、その少数派の 「文芸路線」 というのが、文化をリードするのである。バカにしたものではないのだ。

面白い本というのは、ベストセラーではなく、採算がようやくとれるぎりぎりのところで生きながらえるような本である。

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民主党と自由党の合同

民主党と自由党が一緒になった。これで民主自由党になればお笑いだったのだが、さすがにそれは避けて、存続政党は民主党なのだそうだ。

昨日の敵は今日の友というが、政治の世界というのは、本当に怪しさ一杯だ。

本来ならば、政策の視点から言えば、誰が見たって、自由党は自民党の右の方の連中と組むのが自然で、民主党は自民左派とどこが違うのかわからないくらい似ている。。しかし、そうすっきりとした組み合わせにならないところがミソで、なんとなく 「怨念」 めいたオドロオドロシサが感じられる。

政策とか政治理念とかいうものよりも、やはりこれまでの行きがかり上のゴチャゴチャしたものがとぐろを巻いているところに、こだわってしまうんだろうなぁ。そのあたりは、政界で飯を食う人たちにだけ現実感のあるところで、我々にとっては、どうでもいいことである。どうでもいいことを面倒くさくしていくのが、あの人たちの論理のようだ。

だいたい、自民党三役なんていう役職があって、今回は幹事長に安部さんが起用されて騒がれているが、幹事長以外の、総務会長と政務調査会長なんていうのは、いったい何をする役割なんだか、どんな説明を聞かされても、今イチわからない。要するに、党三役というのは、
明確な役割分担があるというよりは、何かの時にはゴチャゴチャ相談して決めるための 「顔役会」 みたいなものなのだろう。

プロセスはなるべく曖昧にしておいて、結果だけは 「あのオッサンたちが相談して決めたのだから、仕方なかろう」 と思わせるための顔ぶれにしておくわけだ。最も日本的な政治風土である。

本当に大事なのは、プロセスへの参加だと思うのだが。

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2003年9月23日

秋の日は釣瓶落とし

台風 15号が通り過ぎて、季節は夏から秋に完璧に移ってしまった。これからだんだん布団の中から抜け出すのがつらくなる。

「暑さ寒さも彼岸まで」 というが、こんなにも典型的に実現される年は珍しい。昨年なんか、10月の声を聞いてもまだ暑かった。

正岡子規の俳句に 「毎年よ彼岸の入りが寒いのは」 というのがある。これは、ある年の春の彼岸の入りに、子規が 「寒い」 とこぼしたら、彼の奥さんがそう言ったのを、そのまま俳句にしたものらしい。秋の彼岸だって、そんなに急に涼しくなるものでもない。今年みたいなのは珍しいのだ。

とはいえ、やはり、春と秋の彼岸は大きくみれば季節の分岐点であることは確かだ。

今年の春分の日に、門口に立てた日の丸を日が暮れてからしまったのだが、旗の布地がなんとなく春の陽に照らされたぬくもりを保っていた。しかし今日は秋の彼岸だけに、旗はひんやりとしていた。

夏至を過ぎて、秋分の日までは、 1日に5分ほどずつ日の入りが早まるのだが 秋分を境に、1日に 15分も速くなっていくらしい。まさに 「秋の日は釣瓶落とし」 だ。

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2003年9月22日

猿はもったいなさを知らない

野生動物による農作物の被害が、今年はとても多いらしい。福島の飯坂あたりでは、猿が桃を食い荒らしていると聞いた。

猿というのは、桃を一口食っては地面に捨てて、また新たな実を採って食うという、甚だもったいない食い方をするらしい。

それを聞いて唖然とした。私は年寄りのいる家庭で育ったので、「食い物をムダにするな」 と仕付けられた。弁当を食うときは、蓋についた飯粒から食い始めるし、とにかく、食い残しをすると罪の意識に捉われるほどである。

人間がそんなにも 「もったいなさ」 を感じているというのに、猿がそんなにゴーマンな食い方をしているとは、かなり腹が立つ。野生動物でも、食い物がふんだんにあると、そんなふうに食い残しをするもののようだ。野生版 「飽食の時代」 である。

とすると、今どきの子供が食べ物を粗末にするのは、猿と同様の行動ということができる。あまりにも豊富にあると、「もったいなさ」 を忘れてしまうのだ。

そこはそれ、人間なのだから、きちんとした食べ方をしたいものだ。食い物をふんだんに作るのは 「文明」 かもしれないが、それをきちんと無駄なく食べるというのは、「文化」 の領域に属することのようだ。

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2003年9月21日

「脆弱性」 と 「愛」

昨日の 「オチ」 の部分で、"Windows の脆弱性」 についてちらりと触れたが、この 「脆弱性」 という言葉、"vulnerability" (ヴァルネラビリティ) という英語の直訳である。

これは 「しっくりくる日本語」 にしにくい英語の代表格だ。

もともとは、軍事問題を論じた文章の中で見かけやすい単語という印象がある。防衛上の弱点みたいな意味で使われている。「ここを攻められると弱い」 みたいなニュアンスだ。

そこから発して、「攻撃誘発性」 という意味をも含んでいる。「弱点を放っておくと、敵としてはどうしてもそこに攻め込みたくなる」 として、「わざわざ攻撃されるような状態を作り出しているという」 ようなことのようだ。まさに、「人間の業 (ごう)」 を感じさせるような発想だ。

ヴァルネラビリティについて、以前にも書いた気がするので、自サイトを検索してみたら、昨年の 11月 1日の 「一撃」 で、「竹中平蔵改造計画」 というコラムの中で触れている。要するに、竹中さんはいかにも攻撃されやすい雰囲気に満ちているので、もう少しコワモテになるべきだというジョークである。

子供の 「いじめ」 の問題にしても、いじめの対象になるのは 「ヴァルネラブル」 な子供である。「ヴァルネラブルな子供」 の多くは、多少世渡りが下手だが、感受性が強く、付和雷同せず、ある種の誠実さをもった子供である。そうした子供に対して、寄ってたかってイジメに走るのは、欲求不満で感受性の鈍い子供だ。つまり、「愛情に満たされていない」 人間は、他のヴァルネラビリティに過剰に反応して、攻撃に走りやすい。

世界の平和を守るのは、「愛」 である。

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2003年9月20日

深夜急行バスの謎

聞くところによると、銀座から柏までは深夜急行バスがあるそうだ。かなり遅くまで運行しているので、残業か飲み会で終電に遅れた場合など、重宝しそうだ。

調べると、柏だけでなく、千葉や横浜方面などにはあるが、取手行きはないようだ。

なんでも、この深夜急行バスというのは、最近になって需要が増えているので、バス会社は増便を行なったか計画中であるらしい。

これは一体なにを意味するのか。

楽天的に考えると、最近になって、桁外れの残業や、遅くまでの飲み会が増えたので、深夜バスの需要が増えたとみることもできる。バブル崩壊以来、残業手当抑制のため、一定以上の残業は控えるようになっていたし、飲み会をしても大概は一次会でお開きで、夜が更けるまで飲み続けるということがなくなった。しかし、最近は二次会、三次会が出てくるほどに、景気が回復しつつあるのだろうか。

しかし、悲観的に見ることもできる。

企業のリストラによって、労働負担が増大し、まともな残業ではこなしきれなくなって、遅くなる一方なのかもしれない。そして、いくら遅くなっても、バブルの頃と違ってタクシー券なんかは出ないので、深夜バスを使うしかない。

一体どっちなのだろう。一説によると、アパレル関連の卸売ベースの業績は回復しつつあるらしい。ようやく景気回復の兆しが見えてきたのだろうか。

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誤読の話題

「代替」(だいたい)を「だいがえ」と読むのは、今や 10人中 8人ほどに達するから、気にしても仕方がないが、某有名コピーライターがラジオで「イチイの人々」と言ったのには、かなり驚いた。

「市井(しせい)の人々」 のつもりらしい。

これは先週の土曜日のことだが、その同じ番組で、今週はある高校の先生が「キウスになりがちな人間関係を …… 」と言っているのにも、また驚いた。「希薄(きはく)になりがちな」と言いたかったのだろう。

ささいな誤読をあげつらって鬼の首を取ったような顔をするつもりはない。私自身も、どこでどんな言葉の誤用をしているか知れたものではない。しかし、言葉のプロのはずのコピーライターや、教育者である高校の先生が、こんなレベルの誤読をするのは、嘆かわしくはないか。

「入水」は、本来は「じゅすい」と読んで、それだけで「身投げ」を意味するので、「入水自殺」(にゅうすいじさつ)というのは誤りだと強く主張する人もいるが、私としては、そこまで頑固にしても今さらしょうがないという気がする。

しかし、「市井」や「希薄」は、それとはわけが違うだろう。

この他に、いつも個人的に気になるのは、「御用達」の読み方である。本来は「ごようたつ」だが、俗に「ごようたし」ともいう。これは認める。しかし「ごようたち」はちょっと認められない。本来「調達」の意であって、「ぼくたち、わたしたち」とは違うのである。しかし、最近は「ごようたち」と読む人がかなり多いような気がする。

この際、ついでだから言ってしまうが、「職人気質」は「しょくにんかたぎ」、「他人事」 は 「たにんごと」でなく「ひとごと」、「奥義」は「おうぎ」 と読んでいただきたいものだ。

それから、最近話題になった 「Windows の脆弱性」 は、「きじゃくせい」 ではなく、「ぜいじゃくせい」 なので、よろしくお願いしたい。

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2003年9月18日

安いサンマと魚種交替

最近はサンマの豊漁が続いていて、今年もずいぶん大きいのが安く出回っているようで、魚好きの私としてはうれしい。

しかし、どうもイワシが高い。今やイワシは高級魚化しているという。実は、私はサンマよりイワシが好きなので、これは困る。

私はサカナの中ではイカとイワシが大好きで (イカは広い意味のサカナとして解釈していただきたい)、好みが安上がりで経済的だと思っていたのである。

舌の上でトロけるような大トロなんかは、「綿アメじゃあるまいし」 という気がして、物足りない。それは高級霜降牛肉でも言える。あれはどう見ても、歯の弱った年寄りの食い物だ。多少は歯ごたえがないと、モノを食っているという実感が湧かないのである。

イワシの動向が気になって調べてみたら、海の中には 「魚種交替」 という現象があるらしい。サンマ、サバ、イワシは三大大衆魚と言われているが、これらは、ほぼ15年周期で順繰りに獲れたり獲れなかったりしているという。

日本の太平洋沿岸で見ると、1990年代以降はサンマの豊漁期になっているというのである。ところが、魚種交替は15年周期なので、サンマはどうも今年あたりで終わりになり、順番から言うと、2020年頃までは、サバの天下になると予測されている。

来年からは、サバの味噌煮を楽しむことになりそうだ。その後、20年代を中心にイワシで、次のサンマ豊漁期は 30年代半ばまで待たなければならない。

となると、安いイワシを思いっきり楽しめるのは、還暦どころか古希 (70歳) になんなんとする頃からである。でも、まあその程度でよかった。70歳過ぎでも、イワシなら苦労もせずに食えるだろう (イカはどうだかわからないが)。

しかし、次にサンマが安くなるのは、米寿に迫る頃だ。そんな歳になって、脂っぽいサンマをおいしいと思えるかどうか、経験がないからわからない。

これはどうしても、今年のうちに安いサンマを心置きなく食っておこう。

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2003年9月17日

ケータイについての複雑な思い

私はケータイの機種変更が嫌いだ。新機種の操作に慣れるまで、3日以上かかる。

新しい車の操作に慣れるには 5分も運転すれば十分だが、どうしてケータイごときで、あんなにも操作法がちがってくるのだろうか。クルマを見習ってもらいたい。

どうして、ケータイは操作法を統一しないのか。統一が難しければ、ある程度のガイドライン程度でもいいから、設定すべきではなかろうか。

それがないので、できれば、ずっと今のままの機種で通したいくらいのものなのだが、いかんせん、長い間使っていると、確実にバッテリーのもちが悪くなる。バッテリーだけ交換するよりも、機種交換の方が安いので、しかたなく変えるのである。

私が今使っているケータイは、カメラ付きなのだが、一度も使ったことがない。インターネットにも対応しているのだが、メール以外で接続したことがない。

メールにしても、ケータイのテンキーで日本語を打つのは時間がかかってしょうがない。あんなもので50字以上のメールを打つ気には到底なれない。

思えば、ケータイなんて、持っていなかった頃には、なくても何の不便もなかった。持ち出してから、家に忘れたりすると急に不便なような気がしだした。いまや、家族全員が持っているのだが、なんとも不可思議な道具である。

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2003年9月16日

本当のタイガース・ファン

今朝、駅について KIOSK で 「週刊アスキー」 を買おうとしたら。後ろから息せき切って駆けつけたおっさんが、ありとあらゆるスポーツ新聞を 1部ずつ買っていた。その目は、完全に 「イって」 いた。

熱烈な阪神ファンが、ここにもいた。

今日はどこに行っても 「六甲おろし」 が鳴り響いていて、耳についてしまった。世の中、こんなに阪神ファンが多かったのか?

いつも思うのだが、毎年毎年、優勝する球団の 「にわかファン」 というのが現れる。「お前が○○ファンだったとは、ついぞ知らなかったぞ」 と言いたくなるような手合いが、まるで何十年来の熱烈なファンのような顔をして浮かれている。

みんな 「勝ち馬」 に乗りたがる。考えてみると、巨人というのはこの繰り返しで、こんなにも人気球団になってしまったのかもしれない。

とはいえ、本当に長い間熱烈な 「虎キチ」 をやっているのも少なくない。以前の会社の同僚は、「『六甲おろし』 を日本の国歌にすべきだ」 とまで息巻いていた。「そんなことを言っても、俺は 『六甲おろし』 の歌詞なんて、初めと終わりの部分しか知らんぞ」 と言ったら、「日本にそんなヤツがおるんか」 と、本気で驚いていた。彼こそ、本当のタイガース・ファンである。

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2003年9月15日

ソ連時代のロシア人との交流

30年近く前の夏休み、故郷の酒田でライブコンサートが開かれた。出演者も客も皆、身内だけの、酔いどれライブである。

一通りプログラムが進むと、あとは酔いに任せて飛び入りの連続。そこにロシア人が一人現れて、歌わせろと言い出した。

どうも酒田港に入港しているロシア船の船員らしい。昼から酒が呑み放題のライブに紛れ込んで、しこたま飲んでしまったようで、片言の英語と身振り手振りで、「ギターを貸せ」 「俺も歌う」 と言っている。どこの国にも酔えば歌わずにはいられないヤツがいるようだ。「よ~し、面白い、歌え」 ということになった。

カチューシャを歌えというと、大乗りで歌い始めた。上手ではないが、さすがに本場、味がある。その場で大受けしてしまって、酒をじゃんじゃん振舞うと、このロシア人、ますます酔っ払って悪乗りし、次から次へと誰も知らないロシアの歌のメドレーになって、いつまでもギターを放さない。そろそろうっとうしくなったので、そいつの予定を聞くと、「今日、これから出航」 という。

出航は何時かと聞くと、訛りが強くて聞き取りにくい英語で 「スリー・オ・クロック」 という。時計を見ると、3時 15分前だ。

「おい、やばいじゃないか、誰か送ってやれ」 ということになり、たまたま酒を飲んでいなかったヤツが車を運転して酒田港まで送ると、ロシア船の甲板で待ちかねた連中が、必死こいてタラップを上る酔っ払い船員に向かって非難ゴウゴウだったということである。私はその頃、再びステージに立って延々と歌っていた。ロシア人より始末が悪い。

帰り道、「あのロシア人、きっとシベリアで強制労働だな」 という話になったのであった。

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2003年9月14日

コマーシャルという文化

国際日本文化研究センター (京都市) が、人気CM、約4300作品を集めた動画データベースをつくり、研究を始めたという。

研究テーマは、「コマーシャル映像にみる物質文化と情報文化」 というもの。というからには、TV コマーシャルが中心なのだろう。

私はテレビコマーシャルについては、日本以外では米国のものしか知らないが、両国のものを比較すると、米国の方が、「商品を売るための情報」 としてより直截的であるように思われる。要するに、「この商品はこれこれこういうもので、こんなに優れてるんだから、お買いなさい」 というオモムキである。

非常にダイレクトに訴求できるが、趣味的な観点からすると、おもしろくない。

一方、日本のコマーシャルは間接的である。一見しただけでは何のコマーシャルだかわからない。時には最後の最後まで何のコマーシャルだかわからないのもある。

オモムキはあるが、それで商品が売れるのかどうかはわからない。

日本のコマーシャルは、クライアントの金で作家が遊んでいるのである。それは、施工主の金で好き放題遊ぶ大工や建築家と同様である。出来上がったものには、クライアントの意思よりも、作家の趣味の方がより強く反映されている。

だから、コマーシャルのウケがいいのに商品はさっぱり売れないという現象も生じる。

日本人は、コマーシャルを一個の独立した表現分野として認識しているフシガある。文化としては意味があるだろうが、商売としてみれば、クライアントはいい面の皮である。

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2003年9月13日

「パッチ」 を当てるとは?

Windows に欠陥が発見される度に、「パッチ」 と称するものをあてがうことになっているのだが、この 「パッチ」 、もともとは 「パッチワーク」 という言葉があるように、「当て布」 という意味である。

「肘当て布」 は 「エルボーパッチ」 という。

しかし、世の中には 「もう一つのパッチ」 というものがある。知らない方は辞書で引いてみていただきたいのだが、「パッチ」 には 「股引き」 という意味もある。朝鮮語で袴に似た衣服のことを パチというのが語源という説もあるが、よくわからない。

時代劇の渡世人もので、尻をからげた着物の下にはいているのも、「パッチ」 である。

私は、Windows のアップデートで 「パッチを当てる」 という言葉を聞くたびに、ついソフトウェアが股引をはいて歩いている姿を想像してしまうのである。「ふんどし」 だけでは、スースーして無防備この上ないので、その上に 「パッチ」 をはかせなければならないというような気がしてくる。

そうなると、Windows というのは、何枚ものパッチを重ねばきして、ゴワゴワの下半身の動きが取れなくなっているのではなかろうかと、心配になってくるのである。

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2003年9月12日

米不足の裏側

自主流通米価格形成センターの発表によると、今年の自主流通米の第 3回入札で上場された 9銘柄の平均落札価格は、前年比 44.8%(7324円) 高だったそうだ。

しかし、心配することはない。米は、そのうちどっと出てくるに決まっている。

第一次オイルショックの時の苦い記憶がよみがえる。その頃、私は某燃料店でアルバイトをしていた。巷では灯油の品不足が大げさに伝えられていたが、実際はそんなことはなかった。いつもの年よりは多少品薄だが、「不足」 と言うほどのことはなく、どんどん入荷されていた。

とっくに時効で、今はその店も廃業しているので白状するが、当時、私は店主の指示でせっせと灯油隠しに汗を流していた。どこで仕入れてきたものか、1斗缶が山と届けられ、それに灯油をドンドン詰めて、裏の倉庫に積み上げていたのである。(多分、あれって、石油関係の貯蔵法に違反していたと思う)

そして、顧客には 「入荷が極端に少なくて、品不足なので、値上げさせてください」 と偽っていたのである。恥ずかしながら、悪事に加担してしまっていたのである。一生の不覚である。

当時、灯油隠しをしていたのは、その店だけではあるまい。確実に、流通の各段階で隠せるだけ隠していたはずなのである。そして、そのうちに保管コストの方が重荷になって、堰を切ったようにどっと市場にあふれだしたのだ。

10年前の米不足の時だって、そうだった。あれだけ 「ないない」 と言われた米が、ある時期を過ぎると、あら不思議、翌年の新米が収穫される前に十分に市場に出回ってきて、せっかく輸入したタイ米を捨ててしまっていたではないか。

思えば、人間の業欲というのは、よくよく深いものである。いつもより 5分ほど少ないと聞けば、流通に関わるものは皆寄ってたかって隠しに隠し、3割も 4割も少ないことにしてしまうのである。そして、多少の値上げによる利益などは、隠した手間と保管コストに消えてしまって、残るは不信感だけということになるのである。

今年も秋口のうちは、米が足りないと騒ぐだろう。しかし、それはウソである。どこかに隠してあるに決まっている。隠している悪者が隠しきれなくなるまで待てばいいだけのことである。

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2003年9月11日

アンケートの誘導尋問

いわゆる世論調査のやり方で、気に入らないことがある。○○という施策の効果への期待度の選択肢が、いつも 「期待できる」 「ある程度期待できる」 「あまり期待できない」 「期待できない」 の 4種類なのだ。

まるで他人事のような聞き方である。

こういう聞き方をしたら、大抵は 「ある程度期待できる」 か 「あまり期待できない」 のどちらかを選択するに決まっているのである。そして、結局曖昧な調査結果に終わる。

それは、他人事のように聞いているからである。 本来ならば、「期待できるか」 ではなく、「期待するか」 と聞くべきなのである。回答の選択肢は、 「期待する」 「ある程度期待する」 「あまり期待しない」 「期待しない」 にすべきだ。

そうすれば、回答する方も、自分のこととして答えることになる。「期待できるか」 という聞き方では、「個人的には期待したいのだが、現実的にはどうかなぁ」 と余計なことまで考えてしまい、無難な回答を選択しがちである。それを集計した結果なんて、当たり障りのないものになるだけだ。

大体において、日本の風土は個人の意見が反映されにくい。自由に答えていいアンケートにおいてすら、こんな調子で中途半端なところに落ち着くような誘導尋問的なのだから、困ったものである。

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2003年9月10日

まっとうな論理が通らないわけ

野中さんが 「参院の一部の権力を握る人は、政策も何もない。郵政と日本道路公団の民営化には反対すると言う。なのになぜ小泉首相を推すのか」 と非難したという。

これだけを聞いたら、至極真っ当な論理に聞こえるではないか。

至極真っ当な論理が、何ゆえこれほどまでにピンボケに受けとられてしまうのか。それは、これまでの自民党が、政策面では必ずしも一致しないのに、単なる行きがかり上や、選挙で勝つためのご都合主義だけで離合集散を繰り返してきた歴史があるからだ。

今回の動きを取り上げて、さも破廉恥のように批判しては、自民党の歴史そのものを破廉恥として糾弾しなければならないではないか。

本来ならば、このような真っ当な論理が日常的に通用する政治でなければならないのである。そうでないから、市井に暮らす一般の人は政治に何も期待しなくなる。

先日の埼玉県知事選挙でも、投票率の極端な低さが問題となったが、投票したくない人の気持ちもわかろうというものだ。お上は、投票しない人に対して、せっかくの政治への参加の機会を放棄しているというが、投票したところで、政治に参加している気はほとんどしないのである。いつもきちんと投票している私が言うのだから、本当である。

それは政治家の動きが、理念に沿っているのではなく、行きがかり上のご都合主義に流されているからである。選挙の時の 「約束」 が果たされないからである。投票率の低さは、選挙民の責任というよりは、政治家の責任である。

「あの程度の政治家ならば、選びたくない」 という心理を、政治家はわかっていないのである。一定の利害関係で自分に投票してくれる人だけを相手にしているのである。それだから、「あの程度」 と言われるのである。

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2003年9月 9日

エスカレーターの乗り方

博多に来ている。博多の人は、エスカレーターに乗るとき、きちんと片側を空けて、急ぐ人が歩いて上れるよう配慮している。

大阪もこれについては徹底している。エスカレーターの乗り方では、全国の大都市で一番気の利かないのが、東京である。

自分の前のステップの片側だけがふさがり、片側がガラリと空いているという光景を目前にして、自分が何かヤバいことをしているのではないかと訝しく思わないのは、よほど鈍い人である。東京にはそうした鈍い人がかなりの頻度でいる。大阪でこれをやったら、ヒンシュクものである

しかし、私は面白いことに気がついた。これまでは、西日本ではエスカレーターの左側を急ぐ人のために空けて、右側に乗るものだと思っていたのだが、博多では、東京と同じく、左側に乗って右側を空けている。

どうも、左側を空けるのは、関西特有の風習らしい。

以前、人間の自然な感覚では、左側に位置しやすいという説を紹介したことがある。東京では、エスカレーターでは立ち止まるのが普通なので、自然な感覚として、左側に乗り、右側を空ける。しかし、大阪では、エスカレーターを駆け上るのが普通の感覚なので、エスカレーターで立ち止まるなどという 「普通でない」 人は右側に追いやるという仮説である。

この仮説に従うと、北九州の人は、大阪人ほどのイラチではないようなのである。

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2003年9月 8日

田舎ぐらし

今日帰宅したら、家の中に小さな羽虫が一杯飛んでいる。裏の草薮で大発生し、網戸の目を通って入ってきたらしい。

夏の間に羽化するはずだったのが、冷夏で先延ばしになって、たまたま今日になって、一斉に出てきてしまったのだろうか。

エアコンの嫌いな妻も、今日ばかりは仕方がない。エアコンを稼動させ、白の壁紙にびっしりと止まった羽虫を、ガムテープでペタペタ捕獲している。それにしても、ハエといい、羽虫といい、なぜか白壁が好きらしい。おかげで捕獲ゾーンを絞り込めるので、なんとか駆除できた。

郊外と呼ぶよりも田園地帯と呼ぶ方がふさわしい地域に住んでいると、都会の暮らしでは経験できない出来事がある。まず、夏になると日が暮れてからはジョギングができない。蚊が大量発生するので、つい口から吸い込んでしまうのだ。ジョギングは明るいうちである。

一昨日はトンボが家に飛び込んできて、一晩過ごして、翌朝ようやく出て行った。

もうすぐ、里山に入れば栗が一杯落ちている季節になる。冬は筑波おろし。春になれば、ヘビやトカゲが冬眠から醒めてうようよ出てくる。

都会の無機的な感性では、田舎では生き延びられない。

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2003年9月 7日

庄内の芋煮会

今年も山形市で、 「日本一の芋煮会フェスティバル」 が開かれた。直径 6m の大鍋で、3万食が作られたという。

そういえば、早くも芋煮会のシーズンである。山形では、芋煮会をせずには 9月、10月は過ぎないのである。

山形市の芋煮会は馬見ケ崎川の河川敷が有名だが、私の生まれた酒田では、庄内砂丘のど真ん中で、日本海の荒波を見ながら挙行するのである。

中学・高校時代、この季節は何はなくとも芋煮会なのであった。今週はクラスの芋煮会、来週は部活の芋煮会、再来週は仲のいい友達同士の芋煮会、その次は、町内の芋煮会 …… と、毎週日曜日は芋煮会の予定で埋められるのだ。

思えば、山形県生まれの男が自然にアウトドアに強くなるのは、芋煮会の素養である。野外での調理、火の起こし方、大鍋の据え方、すべて高校に入るまでには自然に身に付くのである。

砂丘のど真ん中の芋煮会は、風が吹くと砂嵐である。食い終わる頃の大鍋の底には、砂がたっぷりと沈殿していたりいる。河川敷で行なう内陸式よりも、庄内式はずっとワイルドなものだった。

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2003年9月 6日

昼ゴハンのバラエティ

「 …… できる人、できない人」 式のタイトルの本がはやりだ。それ式にいうと、世の中には、「毎日違ったものを食う人、同じものばかり食う人」 というのがある。

私は、放っといたら、同じものばかり食って飽きない人である。

当サイトの 1万ヒット目を記録した osamu さんという人は、私とは反対に、いろいろなものを食する人である。彼はお馴染みの 「マリーズルーム」 というサイトのほかに 「映画?本?昼ゴハン?」 というタイトルのダイアリーを運営して、その中で、ほとんど毎日、昼ゴハンに何を食べたかを写真入りで記録している。それはそれは見事に、日ごとに違うものを食べ、きちんとしたコメントを付けておられる。

それは見事なデータベースであり、生活文化の表現である。私はこのダイアリーを毎日楽しみに拝読している。

私はこれほどのバラエティのある外食先を開拓するほどの発想もエネルギーも、持ち合わせていなかったのである。自分のサラリーマン時代のランチを思えば、行き先は大体 3~4ヶ所ほどしかなく、一つの店に入れば、頼むものはほぼ決まりきっていた。

「今日の昼ごはん、何にしようかなぁ」 という思いを抱いたことがない。大体決まった店の前を通って、空いていればそこに入り、「いつものメニュー」 を注文するだけだった。手っ取り早く空腹を満たせばそれでよしとしていた。

osamu さんのダイアリーを読むごとに、自分の取り逃がしてしまった楽しみを、隣人の舌と胃袋を借りて、追体験しているような気持ちにさせてもらっているのである。

ただ、自分自身の名誉のために付け加えさせていただけば、業界紙記者時代は、都内随所に取材にでかけたものだが、行く先ごとに 「おいしい蕎麦屋」 を確保して、それぞれの妙味を楽しんでいた。決して 「食い物のわからないやつ」 ではないつもりなのである。

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2003年9月 5日

シンプルな画像表現

高校生の末娘が、近頃、古色蒼然とした 「スーパーファミコン」 を持ち出して来て、何年も前のソフトを走らせて遊んでいる。

「プレステ 2」 の方が、画像とその動きのリアルさでは比較にならないほど上で、スーファミなんて、今や素朴この上なく見える。

近頃、ノスタルジックなハードで遊ぶのがはやりなのかと思ったら、別にそんなわけでもなく、我が家の末娘だけの 「マイブーム」 なんだそうだ。なるほど、末娘だけに、最新のマシンのリアルな画像処理なんて、なんの感動もない 「当たり前」 のものとなっていて、一昔前の 「スーファミ」 の、今となってはトツトツとした素朴表現の方が新鮮に見えるのかもしれない。

後ろから見ていると、たかがゲーム。「スーファミ」 程度の画面でも、多少ドンくさいが、何の不足もない。十分遊べるではないか。リアルさと自然さを追求した結果の 「プレステ 2」 の画面なんて、「それがどうした」 といったもののように思えてくる。

考えてみれば、Windows の画面にしてもそうだ。XP の陰影を強調した立体的なデスクトップなんて、まるで馬鹿馬鹿しく思えてくる。私のマシンは、わざわざ Win 2000ライクに戻してある。たかがデスクトップではないか。

シンプルが一番である。

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2003年9月 4日

表記と発音

8月31日の一撃で書いた「ステュ・レナーズ」という米国のスーパーだが、世の中では別の名前で紹介されていたような気がして、インターネットで調べたら「スチュー・レオナルド」なんて呼ばれているようで、驚いてしまった。(参照

オリジナルは "Stew Leonard’s" である。

まぁ、"Stew" は、シチューも stew だから、「スチュー」 と伸ばすのもいいかもしれない。しかし "Leonard" は「レナード」だろうなあ。少なくとも、知り合いに Leonard という名前の米国人は何人かいるが、「レオナルド」なんて呼ばれてないぞ。

タイタニックに出てた ディカプリオなら、Leonardo Di Caprio だから「レオナルド」でもいいような気がするが、スーパーの店名の方は、最後にイタリア風の "o" の字が付いてないのだから、米国風に「レナード」と言う方が自然で、舌をかまずに済むような気がするのだが。

そういえば、今、米国で話題のプロレス団体 WWE の会長も、日本では「ビンス・マクマホン」と紹介されている。"McMahon" はローマ字読みすれば確かに「マクマホン」だが、米国では「マックマン」あるいは「ミクマン」に近い発音だ。

オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)に至っては、本当は「ヘボン式ローマ字」のヘボン博士(James Curtis Hepburn)と同じ苗字なのだが、日本では悲惨なことに「ヘップバーン」で定着してしまった。当人にしてみれば、「ヘップバーンって、一体誰のことよ!」と言いたくなるだろう。

まぁ、こればかりは仕方ないかもしれない。英語はヨーロッパ語族の中では、最も表記と発音が一致しない言語の一つだと思う。こんな読み方の難しい言語圏の人間が、戦後、日本語の 「旧かな」 は表記と読みが一致しないからいけないと言って、「新かな」 を押し付けてしまった。

だったら、自分のところも、せめて Leonard を Lenard にするぐらいの改革をしろと言いたくなるではないか。

 

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2003年9月 3日

アンチ・フレームと Netscape

フレームで表示されるウェブサイトが一時流行していたが、今ではかなり少なくなったような気がする。

実は、私が仕事上で最初に手がけたサイトもフレーム表示だったが、あんまりいいものではないと反省、二度と使っていない。

よく考えて見れば、フレームなんかを使うより、フレームなしの方がデザイン的にも自由度が高い。誰も褒めてくれないので、自分で言ってしまうが、当サイトのトップページのデザインは、世にも珍しい "Z” 型の骨組みというコンセプトで作ってある。

メニュー的なものを、上半分では右に、下半分では左に配置しているのである。行き当たりばったりのことではなく、意図してのことなので、以後お見知りおきいただきたい。このコンセプトでページをデザインすると、結構計算して作らないと、真ん中に不恰好な空白が生じてしまう。

この空白が、Internet Explorer で見ると、「今日の一撃」 のボックスの下に、本のわずかながら生じているのだが、Netscape (6.0 以降) でみると、きっちりとふさがれるのである。これだけをとっても、私はやはり Netscape 派を譲るわけには行かないのである。

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2003年9月 2日

リサイクルショップの怪

もらい物というのは、なかなか難しいものである。とくに、結婚式の引き出物など、手に余るときがある。

食器や什器などは、ライフスタイルに合わなければ棚の奥にしまわれて、日の目を見ることがない。置時計なども同様だ。

こんなときに思い浮かぶのが、リサイクルショップである。捨てるのも忍びないというものを引き取ってくれるのだから、ありがたい。別に高い値段でなくてもいい。ゴミにしなくてすむだけ、こちらの心理的負担も軽減される。

そういえば、リサイクルショップの店内は、そうした引き出物系の品物が案外多い。茶器セット、お盆、インテリア時計などなど。心配になるのは、これらの商品の回転である。リサイクルショップに持ち込む方は、厄介払いのようなつもりだから、気軽にどんどん持ち込むだろうが、果たして、あんなものが本当に店で売れるのだろうか。

まだ十分に使い物になるテレビ、ラジカセ、乾燥機のほか、事務机や椅子、シンプルな本棚、たんす、ベッドなどは、十分に商品価値があるというのはわかる。しかし、それらに混じってずらりとならんでいる木彫りの熊だの、武者小路実篤の 「仲よきことは美しき」 と書かれたなすびの絵だの、昔の演歌全集のカセットテープセットだのを買うお客が、本当にいるのだろうか。他人事ながら心配になる。

もしかしたら、世の中はなかなかバラエティに富んだもので、ああしたものを喜んで買うお客が存在するのかもしれない。だからこそ、リサイクルショップとしてもいくばくかの金を出して引き取るのかもしれない。

それを考えると、人生の妙な奥行きを感じてしまうのである。

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Sobig というウィルス

先週の金曜日、ウィルスメールが 70通も来てうんざりしていたら、今日は 123通も来た。全部ハヤリの Sobig というやつだ。

いくらなんでも、1日に 123通というのは尋常ではない。多分、縁のある人間が何人も感染していなければ、こんなには来ない。

というわけで、しっかり防御している方には甚だ失礼なことながら、緊急警報を出させていただく。これを読んでいる方の PC にも、Sobig に感染しているのがあるかもしれないということだ。このウィルスは本当に感染力が強いようなのだ。

緊急にウィルスチェックをしていただきたいのである。もし、まだウィルス対策ソフトを入れていないならば、すぐにでも入れていただきたい。

土日はそれほどのウィルスメールが来なかったことを考えると、感染しているのは企業の PC が多いのではないかと考えられる。だから、自宅の PC は鉄壁でも、会社の PC で私のサイトを見たり、私のメールアドレスをアドレス帳に入れておられる方は、念のためチェックしていただきたいのである。

以前はウィルスに感染するなんていうのは宝くじに当たるようなものだったが、一昨年の Nimda 以降、悲しいことに、ウィルスは本当に身近な存在となった。何の対策もなくインターネットを利用していれば、ほぼ 100% 近い確率で感染する時代になった。これは決して大げさな話ではない。

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