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2003年10月に作成された投稿

2003年10月31日

小津はいい

妻が録り貯めしておいてくれた小津安二郎の映画のビデオを連日見ている。

昨日は「晩春」 、今日は「宗像姉妹」、明日は「小早川家の秋」を見る。小津はいい。黒澤よりずっと贔屓である。「気張ってます」という気張り方をしないのがいい。

今日見た「宗像姉妹」の中に、いい台詞があった。田中絹代の扮する姉が、高峰秀子の妹にいう台詞なのだが、「本当に新しいというのは、いつまでも古くならないもの」とかいうのである。これは小津の映像そのものにもいえることだ。

この頃注目の北野武監督の映像も、系譜を辿れば小津である。そうじゃないという人もいるかもしれないが、黒澤でないことは確かである。

黒澤もいいのだが、「気張ってます」がわかりすぎるのが、私の好みではない。小津だってよく見ればかなり気張っているのかもしれないが、やはりさらりとした感じで見せてしまうのがいいのである。

とにかく小津の映画は、クライマックスみたいなクライマックスがないというのもいい。日常の何の変哲もない暮らしの中で、登場人物がちょっとだけあたふたして見せて(その中で唯一あたふたしないのが笠智衆なのだが)、それで何となく区切りがついて、終わりになってしまうというのが小津スタイルである。

それでいて、枯れすぎた感覚のないところもいい。私の選ぶ日本の映画監督ナンバー1である。

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ブタでも同じ?

マニフェスト選挙だなどと言われているが、自民党立候補予定者に読売新聞がアンケートをしたら、党のマニフェストに従うと答えたのは、わずか 12%だったという。

マニフェストの元祖みたいな顔をしている民主党でも、44%だったらしい。

この調査は、「党のマニフェストと自分の政策が相反する場合、どちらを取るか」というものだったので、必ずしも自民党候補者の 88%がマニフェストを無視しているというわけではない。しかし、それにしても低い数字である。何でも非主流派が軒並み反旗を翻したらしい。

共産党は多分 100%だろうと思ったが、80%台にとどまっていたように記憶している。へぇと思った。最近はこの党も党の方針以外のことを平気で主張できるようになったのだろうか。

それにしてもマニフェストというのは、候補者が自らの政党の政策として高らかに訴求するからこそ意味があるのであって、個人的な考えと相反した場合は個人を優先するというのでは、政党政治とはいえまい。マニフェスト選挙だなんて、ちゃんちゃらおかしいということになる。

二大政党制を堅持する英国では、「支持政党から自分の選挙区に立候補したのが、例えブタであっても、そいつに投票するのが政党政治」と言われている。1960年代後半、アメリカのイッピーたちはこの格言を揶揄して、テキサスで文字通りブタを立候補させた。名前を「ピガサス」といった。なかなかチャーミングなブタだったようだ。

投票率の低下が問題になっているが、選挙に行かない若年層は、心の底で「誰がなっても同じ、ブタでも同じ」ぐらいに思っている。

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2003年10月29日

トラフィック・エクスチェンジ

ふとしたことで、「トラフィック・エクスチェンジ」なるサービスがあることを知った。

「確実にアクセスアップを実現」という触れ込みで、要するに会員になって他の会員のサイトに 1度アクセスすれば、自分のサイトにも必ず 1件の「お返し」が来るらしい。

早く言えば、会員同士の「アクセスの交換」である。なるほど、そういう仕組みなら確実にアクセスアップを図れるだろう。自分が他のサイトに行った数だけ、自分のところのカウンターも上がるのだから。

しかし、そんなにしてまで見かけ上の数字が欲しいだろうか。考えてみるがいい。自分が他人のサイトにアクセスする動機は、そのサイトをじっくりと見るためではない。単に数字を稼ぐためのみに、「心ここにあらず」の状態でアクセスするのである。とすれば、その「お返し」として得られるアクセスだって、まともなものではないことぐらい、容易に想像がつく。人間ではなく、システムを相手にしているだけだからだ。

自分が 1日に 100件のアクセスをすれば、100件のアクセスが返ってくる。アクセスカウンターは正直だから、その分上がり続ける。しかし 100件のアクセスが得られたからといって、まともに読んでもらっているわけではない。無意味に数字のみが積み重ねられていくだけだ。世の中は、自分がやっただけの報酬しか得られない。数字を稼ぐためだけの行為には、中身は伴わないのだ。これは考えるだけで空しくなる作業である。

一度、実地体験をしてこのサイトでレポートをしてみようかとも思ったが、どうにもその気にはなれない。そんなことに時間をつぶすくらいなら、きちんとしたコンテンツを作り続ける方がずっといい。そして常連同士で相互リンクをはる方が、ずっと中身のあるサイト運営ができるというものだ。

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2003年10月28日

「エスカロップ」という料理

ラジオで仕入れたネタなのだが、「エスカロップ」という食べ物をご存じだろうか。

ある町では非常にポピュラーで、そこの人たちは日本中で食されているものと信じているが、実はその町を一歩外れると誰も知らないという、とてもユニークな料理らしい。

ラジオでは、そこから先の話しは「来週の謎解きのお楽しみ」ということで、明らかにされなかったのだが、気になって、Google で検索したら、呆気なく調べがついた。今や、Google は百科事典より役に立つ。

これは根室の町では知らぬ人とてないという有名料理で、ほとんどの喫茶店やレストランのメニューにあるらしい。地域限定料理の隠れた大ヒットといえる。どんなものかというと、こんなものである。バターライスにカツを乗せ、デミグラスソースで和えたものというのが、最大公約数のようだ。

語源は、フランス語で「薄く切った肉」ということのようだが、確認したわけではないので、間違っていたとしても責任は取りたくない。

その昔、根室のあるレストランのシェフが考案して広まったものらしいが、根室以外にはまったく普及しなかったという点がとても興味深い。根室の人たちにとってはあまりにも身近な洋食なので、日本中のレストランのメニューにあると思っているというのも、すごくいい。

一度根室で食べてみたいものである。

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2003年10月27日

「みゃー」

名古屋を中心とした尾州は、毛織物の本場である。以前、羊毛関連の仕事をしていた頃、毎月のように名古屋に行っていた。

ところで、名古屋では「みゃー、みゃー」言うというが、それは本当のようなのだ。「旨い」も「お前」も「みゃー」と聞こえる。

ところである時、韓国から出張してきた妙齢のご婦人を交えて夕食を食べていると、彼女は満足そうに「みゃー」と言う。そんな言葉をどうして知ったかと聞くと、案の定、名古屋オフィスの○○氏に教わったという。

(以下、実際は英語での会話)
「彼は、 『デリシャス』は日本語で『みゃー』というと言ったのか」
「そう教えてくれた」
「彼は、とても悪い男である。彼の言うことは、何一つ信じてはいけない」
「どうして?」
「『みゃー』は名古屋アクセントなのである。あなたのような人が東京でそれを言ったら、周りはフリーズする」
「実は『ベリー・デリシャス』も教わった」
「どんな風に?」

彼女はゆっくりと思い出すようなまなざしをして言った。

「どえりゃー、うみゃーて、いかんわ」

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2003年10月26日

国境を越えた入れ歯

CNNニュースが、ギリシャのクレタ島で観光していた英国人が海で泳いでいるうちに入れ歯をなくしたが、2週間後に届けられたという「美談」を伝えている。

このニュースを聞いて、私のギリシャに対する印象は俄然アップしてしまった。

当の英国人は、海中に落とした入れ歯を息子たちまで動員してシュノーケリングでさんざん探したが、見つからなかったため、諦めて帰国したものらしい。ところがまもなく、地元の漁師の網に偶然ひっかかった。

漁師は地元の誰かが落としたものと思って、飲み屋に行って探したが、該当者が見つからない。そうこうするうちに、誰かが「入れ歯をなくして困っていた英国人」のことを思いだしたため、旅行会社に問い合わせて、落とし主が見つかったというわけだ。

なんといういい人たちだ! 来年のアテネ・オリンピックの成功を心から祈りたい。(準備はかなり遅れているらしく、心許ないが)

ところで、このニュースで別の話を思い出した。私の母校の某教授がある時、民俗芸能関係の研究でインドに渡った。ガンジス川を渡る船から身を乗り出して川面を眺めるうちに、教授の口から総入れ歯がすっぽりと抜け、見る間に悠久の流れの中に吸い込まれてしまったという。

教授は大変困ったが、そこはさすがに神秘の国、インドである。「半日で総入れ歯を誂える」という奇跡的な歯医者が見つかった。オリンピック設備の建設がなかなか進まないギリシャとは、そのあたりがちょっと違う。

「やれ、うれしや」と駆け込んで、実際にその日のうちに新しい総入れ歯ができあがった。ところがその総入れ歯を装着してみると、教授の人相は一瞬の間に変容し、インド人そのものになってしまったという。入れ歯、恐るべし。

東京に帰ってきて、入れ歯を作り直したのは言うまでもない。

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2003年10月25日

「マニュフェスト」はまずい

ふとしたことからとても気になっているのだが、「マニフェスト」を「マニュフェスト」と誤表記しているケースがとても多い。

原語は "manifesto" というイタリア語だから、どうみても「マニフェスト」である。「マニュフェスト」を「真に 受けたらまずい。

「マニュフェスト」だと、"manufesto" と綴らなければならない。そんな言葉は辞書を引いても見つからなかったが、文字通り訳すと「小手先のお祭り」になってしまって、「政権公約」という意味合いからすると、大変まずいことになってしまう。

さらに驚いたのは、Google で「マニフェスト」をキーワードとして検索すると、約 65,000件ヒットする(その中のどこかに、ここの「一撃」の 9月分のページもあるはず)のだが、「マニュフェスト」で検索しても、5,110件ヒットしてしまうのだ。

誤表記率、約 7.3%。「うーむ」とうなってしまう数字である。

誰とは言わないが、民主党の立候補予定者も自らのサイトで高らかに「マニュフェスト」を連発している。その数は一人や二人ではない。 「マニュフェストをすべて飲み込んだ」と豪語しておられる立候補予定者もいるが、飲み込む前に、まずきちんと表紙を見直してもらいたかった。

自民党は小泉首相が「政権公約」と言い換えているので、恥をかかずに済むかと思ったら、党の公式サイトで「マニュフェストの導入 …… 」云々などと書いている。アレアレ。

政治家だけでなくマスコミのサイトでも、新聞、テレビを問わず、平気で誤表記している。この辺で、かなり脱力してしまう。

「マニフェスト」がせいぜい「マニュアル」程度に捉えられているのだとしたら、かなりまずい。

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2003年10月24日

コラボレーション・ビジネス

今日、某コンベンションの講演で、ビジネスの信頼関係について面白い話を聞いた。

A社と B社がコラボレーションする場合、お互いに約束を守る場合と、どちらか、あるいは両方が裏切る場合、どのケースが最も利益につながるか。

A、B 両社とも約束を守って、コラボレーションが成功した場合の利益を、A、B 両社とも 10ポイントずつとする。しかし、どちらかが裏切って自分の利益確保のみに走った場合、裏切りを働いた方の利益は 20ポイントとなり、裏切られた方はマイナス 1ポイントとなる。

ということは、「裏切り得」の「裏切られ損」ということだ。だったら皆が裏切りを働いて、より高い利益を確保しようとする。しかし、そうして両社が互いに互いを裏切ってしまうと、その場合はどちらの利益も 0ポイントとなる。

つまり裏切りをはたらくと、初めの 2~3回はそれによって高い利益を得られても、そのうち相手も学んで裏切るようになるから、結局は両社の利益は 0ポイントに落ち着くことになる。

だったらお互いに裏切らず、協力し合って 10ポイントずつの利益を積み重ねていくのが最も得策となる。要するに、5回の共同作業で、20、20、0、0、0 の合計 40ポイントという利益に終わり(この場合、相手は -1、-1、0、0、0 となる)、結果的に信頼を失うよりは、お互いに 10、10、10、10、10 で合計 50ポイントの利益を得て、結果として信頼関係が深まる方がずっといいわけだ。

しかし現実には、「今回は、悪いけど泣いてくれないか」とか「前回は借りを作ったから、今回はこちらが返す番だね」などという話がかなり多い。8、12、10、8、12 で、やっぱり利益は合計 50ポイントで、貸しを作ったり借りができたりの腐れ縁というのが、ビジネスとして一番面白い関係なのかもしれない。

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2003年10月23日

「ゆりかもめ」と都バス

今年の 3月までは、新橋から「ゆりかもめ」に乗って「国際展示場正門」という長い名前の駅まで通っていた。そこにつくまでは、レインボーブリッジを渡ってからお台場方面に向かい、大変な遠回りをするのである。

最後までその道のりには慣れなかった。

何しろレインボーブリッジを渡ると、ちょっと左手を望めば目指す TFTビルというのが見える。しかし、それを素通りしてどんどん右手に向かい、フジテレビの前を通って、延々と遠回りする。新橋から 30分かかってようやくたどり着く。運賃は370円もする。

しかし最近ある人に聞いた情報では、東京駅八重洲口から国際展示場(ビッグサイト)行きの都バスが出ており、それなら40分足らずで運賃は 200円だという。

先日試しに乗ってみたら、確かに 200円払えば 東京駅から 40分足らずで着く。JR の東京 - 新橋間を 5分とすれば、実質 5分しか差はない。それで運賃は 170円も差が出る。往復なら 340円である。

しみったれたことを言うようだが、これを考慮すると「ゆりかもめ」の運賃は高すぎる。それに車両も狭苦しくて、ボックス席の座席は非人間的な小ささだ。あのボックス席に大人 4人で座れとは、私なら心苦しくて言えない。あの車両を設計した人の顔が見てみたい。

「ゆりかもめ」はきちんと黒字を出しているとやらで、評価が高いようだが、あのちゃちな車両であの運賃では、黒字ぐらい出て当然だ。これからはよっぽど急ぐのでもなければ、東京駅から都バスに乗ろうと思う。

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2003年10月22日

「なんば」 の動き

近頃、「なんば」が注目である。巨人の桑田投手が昨年 「ねじらない、ためない、うねらない」 と言い出したあたりから 「むむ?」 と思っていたが、陸上の末続選手が 「なんばの動き」 を言い始めて火がついた。

これは日本特有の古武術的動きである。

一般には右手と右足が同時に出る動き (普通の「近代的歩行」 とは逆) とされているが、そう単純に言い切ることもできない。いろいろなバリエーションがある。腰を中心に半身になる動きという方が実際に近いかもしれない。

「なんば」 については、演劇評論家の故・武智鉄二氏が 「伝統と断絶」 という著書の中で詳細に触れている。氏は早稲田大学の講師として演劇論の講義を担当された時、「腕で反動をつけることの下手な日本人は、短距離競走では勝つことができない」 とおっしゃっていた。まさか末続選手のような走者が現れるとは考えなかったに違いない。

武智氏の 「なんば」 は演劇的な、つまり様式美としての視点からみたものだったので、その 「戦闘的実効性」 については、近代的軍隊の集団行動 (行進など) にはまったく向かないなどの他には、あまり考察されていなかったようだ。しかし、古武術のフィルターを通すと、「なんば」 は非常に優れた身体理論だったわけだ。

それは武智氏も勘づいておられて、著書の中で、戊辰戦争における 「農民兵」 は、西洋式身体訓練を経る前は、「武士」 という専門的集団にまったく歯が立たなかったと述べておられる。同じ 「なんば」 でも、農耕生産に密着した身体所作と、武術に昇華させたものでは、質が違っていたようだ。

農耕生産の 「なんば」 の動きとは、とりもなおさず、鍬を振るったりするときの半身の姿勢である。刀や槍を構えるときの姿勢と共通している。しかし、それだけではダイナミックな戦闘的な動きとはなり得なかったようだ。

実は私も古武術の流れを汲む合気道をかじっているので、この 「なんば」 の動きは得意といえば得意である。人混みの中で、人とあやうくぶつかりそうになった時など、さっと身をかわし、一瞬にして相手の後ろに出て、すたすた歩き去ってしまうので、相手は目を白黒させることがあるらしい。だが、このくらいは、ちょっとかじった人ならなんなくできることで、威張るほどのことでもなんでもない。

ウチの娘などは 「おとうさん、その忍者みたいな動き、止めてよ」 と言うのだが、身に付いてしまっていて咄嗟の時は無意識に出てしまうので、自分でもとまどっている。

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2003年10月21日

国際反戦デー

10月21日-10.21 という響きになんだかうっすらとした記憶が呼び覚まされてみれば、今日は「国際反戦デー」だったのだ。

遙か遠い昔のような気がするが、学生時代のこの日は、大騒ぎだったような気がする。街頭はデモ行進に埋め尽くされていた。

私が大学に入ったのは、昭和46年の 4月。70年安保の翌年とはいえ、大学キャンパスは政治の季節のくすぶりがまだ消えておらず、雰囲気だけでも左翼ぶっていなければならない時期だった。私も誘われてこの10.21とやらに参加してみたが、当時「過激派」と呼ばれた政治セクトの連中とは徹底的に話が合わず、馬鹿馬鹿しくなって止めた。

当時は長い長いストライキで、大学に行っても講義は一つもなく、ヘルメットをかぶった学生が内容のないアジ演説を延々と繰り返すのみ。私はアルバイトをしながら、ギターを抱えて歌うしかない毎日だった。一生で一番退屈な日々の続く時期だった。

今、団塊の世代の多くは「あの頃」を懐かしんで熱く語るが、私にとっては本当に空虚な日々だった。ずいぶん時間を無駄にしたものだ。

当時、社会主義思想に少なからぬ影響を与えた 「マオイズム」(毛沢東思想)は、今や完全に色あせてしまった。書店に行っても、その類の本を見つけるのは本当に難しい。当の中国が有人宇宙飛行に成功し、軍事大国になってしまった。

あの当時の喧噪は、「反戦」という名の幼稚な政治主義でしかなかった。

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2003年10月20日

ソフトのバージョンアップ

マイクロソフトの Office 2003 がもうすぐ発売になりそうだが、それを買おうという人を見たことがない。多分、売れないだろう。

Office セットは、XP で十分だ。これ以上バージョンアップされたところで、きっとこなしきれないし、買う意味があまりない。

私も、多分買わないだろう。Office セットは Office 2000 で十分だったが、XP は新しく買ったパソコンにバンドルされていたので、否応なしに使わされているだけである。

だから多分 Office 2003 もハードの新機種にバンドルされて、否応なしに普及していくのだろう。選択の余地がないというのも、あまりいい気持ちのものではない。ソフトはいまや十分に高性能になっているのだから、無原則なバージョンアップによって旧バージョンとの互換がとれなくなる方が、ずっとデメリットになる。

Windows 95 の頃は、「自らの製品を陳腐化させること」によるマーケティング手法で次々に新しいソフトが開発され売れまくったが、もう、これ以上はだまされない。なにしろ、買ったソフトがなかなか陳腐化しないのである。

そんなこんなで、マイクロソフトの一極支配構造も徐々に変化していくのかもしれない。別に Windows でなくても、いっこうに構わない。いままでのドキュメントの互換がきちんととれさえすれば、ソフトなんて何でもいいのだ。奢れるものは久しからずである。

ささいなことだが、私は年賀状作成ソフトを、この 5年以上バージョンアップしたことがない。5年前のもので、十分に便利である。これ以上バージョンアップしたところで、うっとうしい余計な機能、それも100年経ってもきっと使わないであろう機能がくっついてくるだけだ。本当に、これ以上の余計なバージョンアップは勘弁してもらいたい。

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2003年10月19日

神舟 5号 と中華思想

中国の人気ウェブサイトで、「あなたが神舟飛行士だったら、どんなふうに地球にあいさつするか」という投稿を募ったという。

香港在住のフリーライター、ふるまいよしこさんが、メルマガ「JFF」で、その内容を興味深く伝えている。

この投稿を募ったのは、http://sina.com.cn/ というサイト。私も試しにアクセスしてみたのだが、大陸流の簡略文字が並んでいるので、日本人にとってはなかなか「わかるような、わからないような」サイトである。

ふるまいさんによると、投稿された内容は、

「地球よ、メシ食ったかい?」 (中国では 「ニイハオ!」 より日常的なあいさつ)
「中国だってアメリカやロシアに比べて引けはとらないじゃないか」
「ハイ! 地球よ、オレ、中国人」
「1949年に毛主席が天安門の楼閣で、中国人民はここから立ち上がったと宣言した。2003年に宇宙飛行士が大宇宙で、中国人民はここから飛翔したと宣言する」

などという比較的まともなものから、

「ここは中国領空だと宣言する」
「宇宙は中国のものだ! どこの国も、宇宙空間で中国に勝てると思うんじゃない!」
「おれたちは中国人だ! アメリカ人なんか死んじまえ!」

などの過激なもの、果ては「日本やアメリカにあてた下ネタもの」に至るまで、ずらりと並んでいるそうだ。(どうして「ロシアやアメリカ」でなく、「日本やアメリカにあてた下ネタ」なのだろう?)

ウェブ上のジョークにさえ、中華思想が強烈に伺えて、「なるほどねぇ」と思ってしまった。

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2003年10月18日

「赤とんぼ」 のアクセント

「赤とんぼ」という言葉のアクセントというのは、実は結構な問題なのである。

普通は「とんぼ」の「と」にアクセントがあるのだが、NHK のアクセント辞典では、最初の「あ」の部分にアクセントがあるらしい。「かとんぼ」である。

山田耕筰は、日本語のアクセントと歌の旋律を極力一致させようと試みた。そして彼の作曲した「赤とんぼ」では、その旋律は「かとんぼ」である。彼の活躍した時代、東京ではそのようなアクセントで発音していたからという。だから東京山の手の言葉を基本とする NHK でも、「あ」にアクセントが付くことになっているようなのだ。

ではなぜ、東京でも現在のように「あかんぼ」になってしまったのか。多分、他の色名のつく言葉のアクセントに準じることになってしまったのではないかと思われる。

例えば、「赤鉛筆」は「かえんぴつ」ではなく「あかんぴつ」だ。他の色にしても、「白装束」は「ろしょうぞく」ではなく「しろショウぞく」 だし、「黒猫」にしても「ろねこ」にはならない 。

それからちょっと深読みすると、「あかんぼ」は、実は関西アクセントに近いのである。お江戸は徐々に上方文化に浸食されているような気がする。そういえば、最近は東京でも自分のことを「うち」と呼ぶ若い子が増えているらしい。(ただし、上方流の 「ち」 ではなく、平板アクセントになっているようだが)

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2003年10月17日

道路のお話

>道路公団問題は、かなりオドロオドロしいことになってきたようだ。またしても、総論的方向を各論でややこしくする構図だ。

総論では、藤井総裁も「民営化推進に協力している」のだという。しかし、各論をみたら誰だって滅茶苦茶だと言うだろう。

各論をどんどんさらけ出したら、まとまる話もまとまらないのは当たり前なのだから、抵抗しようと思ったらどんどんそっちの方向に落とし込んでいけばいい。藤井氏は総裁なのだから、各論の話なら出そうと思えばいくらだって出せる。初めから優位に立っている。

各論に入り込めば入り込むほど忘れ去られるのは、国民の利益である。高速道路の通行料金を始め、現状の道路行政に満足している国民なんて、ほとんどいない。その上、こんな泥仕合を長引かせられては馬鹿馬鹿しくなってしまう。

藤井氏側の論理に、国交省はタジタジになっているという。こうなったらとことんやってもらえばいい。かといって、藤井氏が勝ち誇ったとしても、誰にも喜んでもらえないだろう。それを考えると悲しい。

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2003年10月16日

3億円の砥石

カーラジオで 永六輔さんの「誰かとどこかで」を聞いていたら、世の中には「3億円もする砥石」があると言っていた。

日本刀など、高価な美術工芸品を研ぐためのもののようだが、工芸品よりも、それを研ぐ道具の方が高いとは。

永さんがある工芸品関係の集まりで、30万円もする砥石を見つけて驚いていたところ、「そんなのは、安い方だ」と言われてなお驚いたという。そしてさらに聞いてみると、300万円はおろか、3000万円、3億円の砥石というものが、京都のどこかにはあるというのである。

そんな高価な砥石では、たかだか ン百万円程度の刃物は、もったいなくて研げないだろう(なにしろ、1000円の包丁を研いでも、砥石は砥石だから、減るわけだし)。ホームセンターで、たかだか500円程度で買った我が家の砥石と、どこがどう違うのか知らないが、やはり見る人が見ればわかるのだろう。

ところで、人生には何一つとして無駄な経験というものはないのだという。人生の苦難とは、自分を磨いてくれる砥石のようなものだという。

ならば、なるべく「いい砥石」となる体験に巡り会いたいものだ。その価値基準は、決して値段とは思わない。心の奥できちんと満足して死ねるかどうかの問題のような気がする。そして「いい砥石」で研いでもらえる人間になりたいなどと、我ながら殊勝なことを思ったのであった。

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2003年10月15日

ゲイリー・スナイダーの俳句

ビート詩人のゲイリー・スナイダーは、いくつかの「俳句」を作っている。といっても日本語の五七五ではなく、短い英語詩だ。

彼の "HITCH HAIKU"(ヒッチ俳句)という詩は、19句の英語俳句で成り立つ、なかなか趣のある作品である。

その中の 11句めが、わたしは好きだ。

  After weeks of watching the roof leak 何週間も雨漏りを見つめた後
         I fixed it tonight      私は、今夜それを修理した
  by moving a single board たった一枚の板を動かすことで
 
(詩集 "The Back Country" より)

五七五で訳そうとしてみたが、どうしても訳しきれない。仕方がないので、三十一文字の形に訳してみた。

雨漏りを一夏眺め一枚の板葺きずらし繕ひにけり

原詩は 「何週間もの雨漏り」 だが、この際、強引に「一夏」と訳させていただいた。

長く続いた雨漏りを眺めたが、今夜、たった一枚の板葺きをひょいとずらして修理したという、それだけのことである。おそらく夏が終わり、夜が長くなった頃のことだろう。「長く続いた雨漏り」と「たった一枚の板葺き」の対比がいい。

ほんのわずかな隙間によって続いた雨漏りは、うっとうしいものではあったが、それでも 一夏眺める価値のあるものだったようだ。

季節の変わり目になると、この Haiku を思い出す。

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2003年10月14日

「寝た子を起こす」 いいがかり

>韓国が北朝鮮に 10万トンの肥料を支援するそうだ。なるほど、肥料なら軍関係者の胃袋にはいることもあるまい。

その北朝鮮だが、「日本こそ拉致国家」 というキャンペーンをはっているらしい。うーん、いくら何でも、そういうことまで言うか。

車を運転しながら ラジオニュースを聞いていたところでは、北朝鮮の言い分というのは、

  1. 「拉致問題」 は解決済み
  2. 日本は、「1週間程度の短期帰国」 という約束通り、拉致被害者を北朝鮮に返すべきだ。
  3. 日本こそ、国内で数々の拉致事件を起こしており、拉致国家である。
  4. 日本は戦前、多数の朝鮮人を強制連行しており、たかだか 10数人の拉致とは、比べものにならない。

とまあ、こういうことらしい。

ニュース解説者はこれに関して、「日本政府は『強制連行』などについても、きちんと反論すべきだ」と主張していた。これは画期的なことである。

これまでマスメディアのほとんどは、「強制連行」など、対朝鮮の歴史問題に関しては「さわらぬ神にたたりなし」的な態度を貫いてきた。ところがついに、具体的にどう反論するかまでは言及していないものの、「反論すべき」というところまできたのは、注目すべきである。

もしかしたら、北朝鮮の「とんだいいがかり」は「寝た子を起こす」ことになりかねない。

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2003年10月13日

「集中」 と 「興奮」

11日夜、テレビで K-1 をたっぷり見てしまった。やはり注目はボブ・サップである。

彼はセンシティブで、インテリジェンスがある。演技ができる。それが裏目に出た。コンセントレーションが行きすぎて、戦う前から自分で勝手に消耗してしまったようだ。

いくらスタミナに難があるとはいえ、1分半もしないうちに息が上がってしまうというのは、尋常ではない。あれは戦う前から酸素の供給が過剰になりすぎて、自分で消耗してしまったのだと思うのである。

人間、不思議なもので、あんまり集中しすぎるとそんな時がある。自分で気持ちが高まりすぎて、勝手にエネルギーを消耗してしまうのだ。戦う前に「絶好調です! 気合いも十分です!」と言っている時に限って、コロリと負けてしまうことがままあるのはそのせいではないかと、私は思っている。

実は私も大昔に経験がある。中学校時代のクラス対抗駅伝大会で、我がクラスは、乗りに乗っていた。大会記録を塗り替えようとしていた。私ははやる心を抑えるのが大変なほど、調子がよかった。第3だか第4走者として、2位のたすきを受け取った私は、前を行く 1位の走者を抜き去ろうと、猛然と走り始めた。

ところが、なぜかおかしい。足があがらない。そのくせ、なぜか息が上がる。そのうち、ふくらはぎに痙攣がはしる。前の走者を抜き去るどころが、後ろから来る 3人に抜かれてしまった。

それでも後続の選手ががんばってくれたおかげで、我がクラスは結果的には 3位になった。3位まで大会新記録という当たり年で、私の醜態は目立たずにすんだ。

今から考えると、私は走る前に張り切りすぎで自滅してしまったのである。「集中」はいいが、「興奮」はろくなことがない。

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心残りの英語

英語は多少はしゃべれるがペラペラというわけではないので、あとで思い直して「あぁ、あの時、こういう言い回しをしておけばよかった」 と心残りになることがある。

これまでで一番心残りなのは、23年前に、初めてニューヨークに行った時のことだ。

やっとこさ一日の予定を終えた時にはとっぷりと日が暮れていて、当時は若かったので、腹が減ってしょうがなかった。ホテルの部屋に荷物を置いて、どこかのレストランに行こうとしてエレベーターで下っていた時、急にドアが開いて、目つきの悪い黒人のにいちゃんが乗り込んできた。

彼はこちらをじろりと見て、"Hey, man, give me some money." (おっさん、金をおくれ)と言った。

日本人なら、このくらいの雰囲気で迫れば、たいていはビビッて金を出すだろうといった、なめきった風情だ。こちらは空腹のせいもあって、かなりむっと来た。

"I've got no reason to give you money." (お前に金をやる理由なんかないよ)

すると向こうはすかさず、"I'm hugry, that's the reason." (腹が減ってる、それが理由だ)ときた。減らず口の達者なやつだ。

ますますむっと来た私は、思わず "I',m hungry, too !" (俺だって、腹が減ってるんだ!)と、やや強めの口調で言い返した (「どなった」 と言うべきか) 。すると彼はころりと態度を変え、今度は "Just 50 cents, sir !" (旦那、50セントでいいから)と哀願調になってしまった。達者なのは減らず口だけではなく、なかなか芸達者でもある。

しかしここで金なんか出したら、日本人全体が舐められかねない。エレベーターのドアが開いたのを機に追い出してしまったのだが、後で考えて「しまった、もう少し気の利いた言い方ができたのに」と思った。

"I',m hungry, too !" と言った時に、"and angry, as well." (それに、怒ってもいるぞ) と、付け加えればよかった。そうすれば、"hungry"  "angry" で、きれいに韻が踏めたのに !

英語で啖呵の切れるくらいの語学力が欲しいものだ。

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2003年10月11日

「体育の日」 の寝ぼけたお話

一日遅れで寝ぼけたことを書かせていただくが、昨日は以前ならば「体育の日」だった。最近は違っているが。

晴れの特異日らしく、今年もきっちりと秋晴れだった。さすがに東京オリンピックの開会式に選ばれただけのことはある。

先日、街頭で女子高生らしい二人組が、次のようなやりとりをしていた。

 「あれ、今年の体育の日って、お休みじゃないんだぁ!」
 「うっそぉ!(手帳のカレンダーを見て)、あれ、ほんとだぁ」
 「やだぁ、休みが一日、損するじゃん!」
 「本当だよね、誰がそんなこと決めたんだろう?」
 「でもさぁ、13日が休みになってるよ、あれ、体育の日になってる!」
 「あ、ほんとだ。いつの間に 13日に変更になったんだろ」
 「でも、おかげで今年は、うまい具合に 3連休だよね」
 「ほんとだ。でも、来年はどうなるんだろうなぁ」

私以上に寝ぼけたやりとりで、聞いていてなんだかうれしくなった。

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2003年10月10日

選挙が大好きな人たち

今日の午後、衆議院が解散した。これで、ほぼ 3年ぶりの総選挙となる。以前はもっと頻繁に解散があったような印象で、衆院議員は 3年もたないものと思っていた。

近頃は選挙も金がかかるから、あんまり頻繁なのは避けているのかもしれない。

ところで近頃のニュースショーの政治方面のコメンテーターは、とても生き生きしている。選挙の話が楽しくてたまらないといった風情だ。おもちゃを与えられた子供のように無邪気そのもので、本当に幸せそうである。もう少しクールに語ってくれると、説得力が増すような気がするのだが。

居酒屋で談論風発しているオジサン連中の話題を聞くともなく聞いていると、一番盛り上がっているのは、会社への不満、上司の悪口である。その次に盛り上がるのが、野球とゴルフの話題。しかし選挙の時期になると、政治の話というのは欠かせないネタになる。

政治の話題の盛り上がり方には、2種類ある。現状の政治への不満を述べる「義憤派」と、「いやいや、政治というものはそんなきれい事じゃない」とばかりに、妙な楽屋裏話で盛り上がる「玄人派」だ。義憤派はその名の通り怒りまくっているが、「玄人派」は見ているととても楽しそうで、ゴルフ談義のノリに似ている。世の中には、「ああいう世界」が好きでたまらない人がいるのだなぁと、感心してしまう。

ところで選挙といえば、あの選挙カーの騒々しさが思い出される。ウチのサイトの 「あのページ」 へのアクセスも急増するだろう。

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2003年10月 9日

「とらまえる」の考察

昨年の8月30日の「一撃」に、「サ入り言葉」(「やらせていただきます」など)とともに、「とらまえる」という怪しげな言葉も、勘弁してもらいたいと書いた。

しかし調べてみると、この「とらまえる」は、案外広く使われている方言らしい。

道浦俊彦/とっておきの話」というサイトの「ことばの話1017」の項に載っているので、以下に引用させていただく。

「『全国方言辞典』に「とらまえる。静岡、愛知県中島郡、岐阜県大垣、富山、三重県阿山郡、和歌山県東牟婁郡、大阪、愛媛、山口。とらまゆる。京都(片言)・丹波(丹波通辞)」

とありました。静岡、富山より西の関西圏で、かなり広く使われているようです。

知らなかった。最近になって、カタカナ職業の方々が「捉える」と「掴まえる」を一緒くたにして、気取って使い始めたものかと思っていたのだが、案外古くから使われている言葉だったのだ。

試しに「とらまえる」のキーワードで Google 検索してみたら、なんと 465件もひっかかった。その中の上位 50件の傾向は、次のように 3分類される。

  1. 「とらまえる」という言葉への違和感や反感を表明しているケース・・・16%
  2. 「とらまえる」は方言であるとして紹介しているケース・・・30%
  3. テキスト中に、ごく普通に「とらまえる」という言葉を使っているケース・・・54%

なんと、通常の文章中にごく普通に使われるケースが半分以上を占めている。中には地方自治体の公式文書に使われているケースもある。滋賀県守山市の市議会議事録滋賀県の「市町村合併」に関する文書である。滋賀県は「とらまえる」がお好きのようだ。

上位 50件以下も調べようと思い、試しに「議事録/とらまえる」の 2語で検索したら、なんと 87件も出てきた。中には総務省の「第606回統計審議会議事録」や「参議院環境特別委員会議事録」など、中央官庁や国会の議事録まである。

「とらまえる」はもしかしたら、「日本一でかいツラをした方言」かもしれない。

 

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2003年10月 8日

お役所言葉の理屈

役所言葉がわかりにくいのは周知の事実だが、それを女子大生が改めて指摘したら、話題になってしまったというのは笑える。

女子大生グループが「お役所文章にもの申す !!」 のタイトルで、フリーペーパー「かれっじ☆まがじん」に載せたものだ。

「えんぴつむすめ」という女子大生グループの 5人が各省庁の「白書」などを読み、いかにわかりにくかったかを記事にまとめたのである。その話が農林水産省に伝わり、同庁の白書作成担当者がその女子大生グループを招いて意見を聞いたらしい。

「農業白書」には、1センテンスが 287文字もあり、その中に助詞「の」が 17回も出てくるという、すごいケースがあったようだ。

(ちなみに、このコラムの書き出しから前段の「あったようだ」までがちょうど 287文字で、私は 5センテンスで書いている。これだけの字数を 1センテンスで書き通すだけの持久力と厚かましさは、私にはない)

女子大生たちの意見を聞いて改善の姿勢を見せたことで、農水省は少々株を上げたらしい。しかし私としては、自分たちの文章のどこがまずいのかを女子大生に聞かなければならないほど、農水省のお役人はヤキが回ってしまったのかと、驚いてしまったのである。わざわざそんなことをしなくても、普通に読めば誰だってわかるだろうに。

大抵のお役所文章というのは、よくよく検証すると確かに理屈だけは通るようにできている (たまに通らない悪文もないではないが)。くだんの 287文字にわたるセンテンスだって、よく読めば論理的には破綻なく首尾一貫してしているはずで、さっぱりわからない文章なんかではないと思う。だから、執筆者にしてみれば 「一体何がいけないというのだ」ということになるかもしれない。

しかし理屈さえ通っていればわかりやすいだろうというのは、迷信である。世の中には、そもそもからして「わかりにくい理屈」というのがあり、法律や行政の理屈というのは、その典型なのだ。そのまま書いたら、わかりにくくなるのは当たり前なのである。それらをわかりやすく書いてこそ、きちんとしたライターというものだろう。

お役人だって、わかりやすい文章を書こうと思えば書けないはずはない。その能力を発揮させないのは、「お役所という連綿たるコンテクスト」なのである。

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2003年10月 7日

行間を読む

よく「行間を読め」と言われるが、今朝のラジオで詩人の荒川洋治氏は、「きちんとした文章ならそのまま読めば充分であり、『行間』など発生しない」と力説していた。

してみると「行間を読む」必要があるのは、「きちんとしていない文章」である。

きちんとしていない文章が書かれる要因には二つある。ひとつは、単純に書き手が下手なこと。もうひとつは、外的制約が大きすぎて、そのものズバリの書き方ができない場合である。もちろん、この二つが重なっている場合もある。

書き手が下手で悪文になっているため、一読しただけでは何を言いたいのかさっぱりわからない場合は、想像力を駆使して、親切に読み取ってあげなければならない。しかし、よほど必要性に迫られている場合を除けば、そんなことには付き合いきれない。

一方、外的制約が大きすぎるため、その網の目を縫うように「本当の意味は他のところにあるから、きっちりと読み取ってくれよ」というメッセージの感じられる文章は、確かに行間を読み取る作業が必要になる。書き手の苦心が忍ばれる。

私自身、業界記者をしていた時代が長いので、そのような記事を何度か書いたことがある。差し障りがあってあからさまには書けないが、読む人が読めば、多分真意が伝わるだろうと期待して書く記事で、いわば妙な形の「高等戦術」である。表向きは尻尾を出すわけには行かないから、核心部分には一言も触れない。しかし多少奥歯に物が挟まったような言い方で、「何か」を感じさせるわけである。

つまり、やむにやまれず敢えて「きちんとしていない文章」を書くわけだ。たまにそうした文章に出会うと、推理ゲームのような感じになって、「よし、真意を汲み取ってやるぞ」 とばかりに熟読してしまうことがある。

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2003年10月 6日

吊革への執着

以前、「知のヴァーリトゥード #24」で、 「我を張らない」ことの重要さを書いた。

要するに「我を張る」ことは、ますます自分自身を苦しめることになると主張したのだが、道路公団の藤井総裁を見て呆れてしまい、改めてその感を強くした。

藤井氏は、電車の中で一度つかんだ吊革を、絶対に放そうとしないで踏ん張り続ける人である。藤井氏が最初に吊革をつかんだ時は、電車がある程度空いていた。ところが、途中駅に止まる度にどんどん人が乗り込んできて、ぎゅうぎゅう押される。藤井氏はどんなに人が乗り込んできて押し合いへしあいになっても、一度つかんだ吊革を放さない。押されても必死に押し返す。その結果、藤井氏の周囲は人の流れが阻害され、窮屈この上ない状態になる。

どうすればいいか、周りからは一目瞭然でわかる。藤井氏は、ちょっとだけ譲って今つかんでいる吊革を放し、人の流れに乗ってほんの少々移動し、行った先で、改めて手近の吊革につかまればいいだけの話である。実は早めに諦めて別の位置に移動した方が、結果的にベターな位置で別の吊革につかまれる可能性が高い。

ところが、当の本人にだけはわからない。今つかんでいる吊革を放してしまったら、人生の終わりのような気になっている。この吊革こそが自分の存在基盤を支えるものと思ってしまっている。

「自分は何も悪いことはしていない」と思っている。確かにそうだ。一度居心地のいい位置でつかんでしまった吊革は、誰だって放したくはない。それに吊革をつかみ続けることを禁止する法律なんてないのだから、周りにどうこう言われるのは甚だ心外だろう。

それでも、放した方がいいものは放すべきなのである。周囲にとっても当人にとっても、結局はその方がずっと楽なのだから。

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2003年10月 5日

ヤバいビジネスの需給バランス

20数年前、初めてニューヨークに行ったのは某業界団体の視察ツァーだったが、添乗員は「42丁目は危険なので、絶対に行かないように」と、釘をさした。あの一画を歩いているのは、「80% はスリか、ごまのはえ」だというのである。

そんな話を聞いて真に受けるのは、よほど純朴な人である。私はその日のうちに 42丁目に単独で出かけた。なかなかエキサイティングな街だった。

1980年といえば、米国が最もだらしなかった頃である。ニューヨークの街も、今とは比較にならないほど治安が悪かった。それでも 42丁目の一画を行き来する「80% がスリかごまのはえ」というのは、いくらなんでもガセネタだ。私がスリならば、そんな同業者ばかりの集まる街には絶対に行かない。需給バランスが悪すぎる。ニューヨークのスリだって、きっとそう考えるだろう。

同様の論理で、私は中国の街で「300人余の日本人客が、500人の売春婦を相手に買春した」というニュースにも疑問を感じている。

「火のないところに煙は立たぬ」というから、まったくのでたらめ報道ではないのだろう。しかし、300人余の客に 500人の売春婦では、まったくの供給過剰である。私が売春婦なら(無理矢理の仮定で、勘弁願いたい) 、そんなビジネス効率の悪い場には赴かないで、他でもっといい客を漁るだろう。

一カ所でそんなに多くの売春婦を買い占めたら全体の需給バランスが狂うので、河岸を変えれば、多分もっといいカモが見つかりやすいはずだ。

500人という数字は、何となく「白髪三千丈」的な臭いを感じるのである。

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2003年10月 4日

「香嚴上樹」 の公案

久しぶりで「禅問答」ネタである。 「無門関」に「香嚴上樹」(きょうげんじょうじゅ)という公案がある。

木の枝を口でくわえて、千尋の谷の上にぶら下がり、下から「祖師西来の意如何」と問われたら、どうするかというのである。

この公案をもう少しわかりやすく書くと、次のようなことである。

千尋の谷の上に生えた木の枝を口でくわえ、手で他の枝に掴まることもなく、足で別の枝の上に立つこともなく、ただぶら下がる。そして、下を通りかかった僧から「祖師西来意 ―― 達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意は何か」と問いかけられる。

この問いに答えなければ禅家として甚だ不面目で、万死に値する。しかし答えようとして口を開いたとたんに、千尋の谷に落ちてしまう。さあ、どうすればいいかという公案である。こういうのを、「進退両難」というらしい。進んでもだめ、退いてもだめということである。要するに、にっちもさっちもいかない状況だ。

私は初めてこの公案を聞いたとき、「木から下りて、崖の上に立ち、問いかけに答えればいいではないか」と思った。しかしそのように答えては、多分、警策(きょうさく)でぶっ飛ばされるだろう。だったら、どう答えればいいのか。

無門和尚は香嚴和尚のこの公案について、「こんなことを公案などというのは、馬鹿馬鹿しくて腹が立つ」と評している。要するに、「進退両難」などというものは、悟りを開いた者の世界にはないのだと言っているのである。悟りの世界は自由自在であるから、こんな妙ちくりんな制約の上に成り立った問題は、公案の名に値しないというわけだ。

悟りを得る前に小賢しいことを言ってもぶっ飛ばされるだけだが、一度「自由自在」な悟りを得てしまえば、どう答えてもいいもののようなのである。世の中がにっちもさっちも行かないというのは、凡人がそう思っているだけで、仏の世界は自由自在なのだ。だから、馬鹿馬鹿しい制約条件なんて全然気にしないのである。

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2003年10月 3日

J-Phone からVodafone へ

私は J-Phone のユーザーであったが、10月 1日から J-Phone ではなく、Vodafone になってしまったようなのである。

普通、ブランドを変更するというのはかなりのリスクを伴うものだが、今回は非常にスムーズに運んでいるような気がする。

落語協会会長をつとめる三遊亭円歌師匠ですら、「まだ、『おーい、歌奴』って呼ばれるよ」 と言うぐらいなのだから、名前を変えるというのは大変なことなのだ。だから今回のブランド変更は、非常に周到なプログラムで進められたという印象がある。

その甲斐あって、一昨日から Vodafone に変わって、テレビ CM でも J-Phone の J の字も出てこなくなったが、かなり違和感なく受け取られている。

私なぞは、J-Phone といういかにも国産愛好的ブランドが、いきなりゲルマン的 (のようなイメージがある) なブランドに変わることで、心理的抵抗が生じるのではないかと思っていたのだが、案ずるより産むが易しで、新ブランド名は既にかなり馴染まれていたようだ。これも、結構な期間をかけて、「J-Phone は Vodafone へ」 というキャンペーンを続けたせいだろう。嘘でも 100回繰り返せば本当になるというくらいで、あれだけしつこく訴求されれば、自然に受け入れられるのだ。

新しい要素に馴染むには、単純な話だが、とにかくしつこく繰り返すのが一番だということがわかった。

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2003年10月 2日

「音声入力」 について

10年前にパソコンに手を染めなかった人たちの多くは、キーボードへの抵抗を口にし、音声入力が可能になったらパソコンを使わないでもないと言っていた。

今日、音声入力はとっくに可能になったが、彼らの何人が パソコンを始めたろうか。

GUI の登場以来、OS 部分のユーザーインターフェイスは、マウスでの処理を前提とするようになった。これは、音声入力よりもずっと効果的な方法だ。なぜなら、音声は自分で考えて発することになるが、マウス操作は、あらかじめ用意された選択肢の中からクリックすれば済むからだ。

だから音声入力はどちらかといえば、テキスト入力に使われるとの想定で開発されているように思われる。確かにテキスト入力はキーボードのタイピングよりも音声入力の方が速いだろう。しかし、それなのになぜなかなか普及しないのか。

それは、人間にとって「声を出す」ということが思ったよりずっと、意識的コントロールの外にあるということがわかってきたからではなかろうか。文章として入力したいテキストを声にして発声することは、かなり難しい。キーボードで入力している時にしたって、カーソルは行ったり来たり、一度入力したものを消したりずらしたり新しい言葉を挿入したり、かなりイレギュラーな動きをしている。

それを言葉で言えと言われたら、私なぞはかえって混乱するだろう。「削除」だの「挿入」だの「コピペ だのを、通常のテキスト部分と同じ自分の口で発音していたらかなり疲れると思う。

音声入力に関しては、今の段階より飛躍的に発展したシステムにならない限り、一般的に使われることはなかろうと思う。 単純に考えても、オフィスのあちこちで皆がパソコンに向かってブツブツしゃべっているのを想像しただけで気持ちが悪い。

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2003年10月 1日

この冬は暖冬という予測だが

この冬の気象を予測した「寒候期予報」が発表された。それによると、関東はやや暖冬傾向なのだそうである。

今回の予報は、画期的なプロセスを経たそうだ。スーパーコンピュータで 1週間かけてありとあらゆる計算をした結果らしい。

これまでは以前の似た傾向の天気図から類推したり、いろいろな経験値によって導き出されていたらしいが、今回のはありとあらゆる気象データを入力して、可能な限りの計算をし尽くした結果によるものなのだという。

それで気象庁は、長期予報の当たる確率を 50% にまで高めることを目標としている。

ここでちょっと待ったと言いたくなるのは、私だけではあるまい。

それじゃあこれまでの長期予報の当たる確率はどうだったのかというと、なんと、41% だったのだというのである。半分以上は当たらなかったのだ。長期予報は当たらないという印象を持っていたのだが、その通りだったのだ。

気温で言えば、「高め」「低め」「平年並み」の 3種類しかなく、当てずっぽうに言っても 33% は当たる。それよりも 8% 高い的中率だったのだから、大したものだという見方もあろうが、やはり、半分以上当たらなかったら、威張れたものじゃない。

スーパーコンピュータを駆使して、正解率 50% を目指す程度では、やはり、あまり当てにしない方がいいということだ。今日明日の天気予報はかなりよく当たるので、その点では敬意を表するのだが。

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