行間を読む
よく 「行間を読め」 と言われるが、今朝のラジオで詩人の荒川洋治氏は、「きちんとした文章なら、そのまま読めば充分であり、『行間』 など発生しない」 と力説していた。
してみると、「行間を読む」 必要があるのは、「きちんとしていない文章」 である。
きちんとしていない文章が書かれる要因には二つある。ひとつは、単純に書き手が下手なこと。もうひとつは、外的制約が大きすぎて、そのものズバリの書き方ができない場合である。もちろん、この二つが重なっている場合もある。
書き手が下手で悪文になっているため、一読しただけでは何を言いたいのかさっぱりわからない場合は、想像力を駆使して、親切に読み取ってあげなければならない。しかし、よほど必要性に迫られている場合を除けば、そんなことには付き合いきれない。
一方、外的制約が大きすぎるため、その網の目を縫うように、「本当の意味は他のところにあるから、きっちりと読み取ってくれよ」 というメッセージの感じられる文章は、確かに行間を読み取る作業が必要になる。書き手の苦心が忍ばれる。
私自身、業界記者をしていた時代が長いので、そのような記事を何度か書いたことがある。差し障りがあってあからさまには書けないが、読む人が読めば、多分、真意が伝わるだろうと期待して書く記事で、いわば妙な形の 「高等戦術」 である。表向きは尻尾を出すわけには行かないから、核心部分には一言も触れない。しかし、多少奥歯に物が挟まったような言い方で、「何か」 を感じさせるわけである。
つまり、やむにやまれず敢えて「きちんとしていない文章」 を書くわけだ。たまにそうした文章に出会うと、推理ゲームのような感じになって、「よし、真意を汲み取ってやるぞ」 とばかりに熟読してしまうことがある。
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