「香嚴上樹」 の公案
久しぶりで 「禅問答」 ネタである。 「無門関」 に 「香嚴上樹」 (きょうげんじょうじゅ) という公案がある。
木の枝を口でくわえて、千尋の谷の上にぶら下がり、下から 「祖師西来の意如何」 と問われたら、どうするかというのである。
この公案をもう少しわかりやすく書くと、次のようなことである。
千尋の谷の上に生えた木の枝を口でくわえ、手で他の枝に掴まることもなく、足で別の枝の上に立つこともなく、ただぶら下がる。そして、下を通りかかった僧から 「祖師西来意 ―― 達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意は何か」 と問いかけられる。
この問いに答えなければ、禅家として甚だ不面目で、万死に値する。しかし、答えようとして口を開いたとたんに、千尋の谷に落ちてしまう。さあ、どうすればいいかという公案である。こういうのを、「進退両難」 というらしい。進んでもだめ、退いてもだめということである。要するに、にっちもさっちもいかない状況だ。
私は、初めてこの公案を聞いたとき、「木から下りて、崖の上に立ち、問いかけに答えればいいではないか」 と思った。しかし、そのように答えては、多分、警策 (きょうさく) でぶっ飛ばされるだろう。だったら、どう答えればいいのか。
無門和尚は、香嚴和尚のこの公案について、「こんなことを公案などというのは、馬鹿馬鹿しくて腹が立つ」 と評している。要するに、「進退両難」 などというものは、悟りを開いた者の世界にはないのだと言っているのである。悟りの世界は自由自在であるから、こんな妙ちくりんな制約の上に成り立った問題は、公案の名に値しないというわけだ。
悟りを得る前に、小賢しいことを言ってもぶっ飛ばされるだけだが、一度 「自由自在」 な悟りを得てしまえば、どう答えてもいいもののようなのである。世の中がにっちもさっちも行かないというのは、凡人がそう思っているだけで、仏の世界は自由自在なのだ。だから、馬鹿馬鹿しい制約条件なんて、全然気にしないのである。
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