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2004年1月26日

方言の大切さ

JR で酒田から帰ってくるには、新潟で上越新幹線に乗り換えるのだが、今回はすぐに乗り継げる便が満席で、新潟駅で 40分待たなければならなかった。

途中下車して、PRONTO でコーヒーを飲みながら時間を潰したのだが、回りに飛び交う言葉は東京と変わらない。

それは酒田でも感じたことで、近所の公園で雪合戦をしている子供たちの言葉が、とてもきれいな標準語なのである。今は冬休みが終わって 3学期が始まっているのだから、親の里帰りに付いてきた子供たちではなかろう。酒田土着の子供から、庄内弁が消えているのである。

父に聞くと、「テレビのせいだろう」 という。しかしそればかりでもあるまい。多分、両親が揃って庄内出身というケースが減っているのだろう。

庄内出身者が仙台か東京に出て行って、そこで知り合った相手と結婚する。そして酒田に戻ってきて生活するという場合は、家の中での夫婦の会話は標準語ということになるだろう。その中で育った子供は、庄内弁を知らないで育つ。

由々しき事態である。庄内で生まれ、庄内で育った子供が、庄内弁を話せないというのでは、貴重な文化遺産の喪失だ。私なんかは、今は筑波の里で暮らしながらも、時々は庄内弁丸出しで話し、家族が多少でも庄内弁を理解できるように 「教育」 している。おかげで仙台生まれの妻は自分では庄内弁を話せなくても、ヒアリングに関しては、ほぼ完璧にできる。

方言は財産である。現代に育てば、ほとんど苦労せずに方言と標準語のバイリンガルになることができるのだから、標準語しか離せない東京生まれより 「文化の重層性」 を身につけることができるのだ。酒田に生まれながら酒田の言葉を話せないというのは、とても損なことだ。

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