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2004年6月に作成された投稿

2004年6月30日

ムクドリの大群

私は常磐線取手駅を利用しているのだが、近頃、夕方過ぎに取手駅西口に降り立つと、駅前ロータリーの木にねぐらを作っているムクドリの大群に驚かされる。夜の 10時を過ぎても、何千羽というムクドリの「キュルキュル」という鳴き声が響き渡り、かまびすしい限りである。

野鳥の鳴き声というのは、決してうるさくなく、耳に心地よいものだと思いこんでいたが、このムクドリの大群の声はすさまじい。いくらなんでも、近所は大迷惑しているに違いない。うるさいだけでなく、多分、糞害もすごいだろう。

一体どうしてこんな大群が、取手駅周辺に襲来するものか。この駅は20年来利用しているが、これまでで一番の大群になっているような気がする。木の枝だけでなく、ステーションビルや周辺のビルの屋上にも、びっしりと止まっている。ヒッチコックの映画を思い出すほどだ。

インターネットで調べてみると、案外あちこちでムクドリの大群には悩まされているらしい。初めのうちは、天敵であるカラスの鳴き声をスピーカーから流すといなくなるらしいが、ムクドリは結構学習能力が高いようで、実際に危害が加えられないとわかると、すぐに戻って来るという。

取手駅ロータリーのムクドリは、今後一体どうなるものか、しばらくウォッチしてみたい。こういうのも、「バードウォッチング」というのだろうか。

 

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2004年6月29日

オジサンの手の洗い方

実は、ずっと以前から気に掛かっていたことがある。公衆トイレを利用した時の、オジサンたちの手の洗い方である。

「洗い方」 というより、まったく洗わずに行ってしまうオジサンだって少なくない。そして、たとえ洗ったとしても、あまりにもおざなりなやり方が多いのである。

オジサンたちが公衆トイレで用を足した時の、典型的な手の洗い方を、ここに描写してみよう。(女性はこの光景を目の当たりにする機会がないだろうから、読んでみて、ゲゲっとなるかもしれない)

まず前提として、オジサンたちは片手にカバンを提げていることを確認しておこう。そのカバンは、アタッシュケースだったり、ブリーフケースだったりするが、とにかく、片手はふさがっているのである。

彼らは公衆トイレに入ると、まず用を足す前に、用意周到にもズボンのポケットからハンカチを取り出し、口にくわえるのである。そして、そのままの姿で小用の便器に向かい、片手だけを使って器用に用を足す。

用を足し終えると、手洗いの水道の栓をちょいとひねり、たった今使ったばかりの片手の指先に、ほんの少しだけ申し訳程度に水をたらし、すぐに栓を閉める。それはそれは、素晴らしい早業である。

繰り返すが、水をたらす(そう、「かける」というより「たらす」のである)のは、片手の指先だけだ。しかも、それは見たところ、親指と人差し指、中指だけのようなのである。3本の指先を蛇口の下でこすり合わせるのは、ほんのコンマ数秒間に過ぎない。

最後にその指先で、前もって口にくわえていたハンカチを取り、ポケットに収めてすべては完了する。そのポケットに収めるという動作の中に、ハンカチで指先をぬぐうという行為は、さりげなく含まれているようだ。

実験で確認したわけではないが、ほぼ確実に言えることは、手の清潔を保つためには、あの程度の洗い方ではまったく不十分であろうということである。もっと言えば、不十分どころではない。乾いた手にわざわざ少量の水分を与えて不十分に拭き取り、体温で暖めるのだから、雑菌の繁殖を助長しているようなものである。

つまり、逆効果なのである。あんな気休めをするぐらいなら、いっそ洗わない方がずっとマシなのではなかろうか。

私は、オジサンたちの公衆トイレでの手の洗い方を見るたびに、この国の「気休め文化」を嘆くのである。やるならちゃんとやればいいし、おざなりなことをするぐらいなら、いっそやらない方がずっとマシなのである。それなのになぜか、逆効果しか生まない気休めを、深くも考えず、ただひたすら律儀に繰り返すのである。

お役所の仕事とオジサンの手の洗い方は、十年一日のごとき手順と、弊害すら多いという意味において、とても共通するところがある。大切なのは、単に「やった」という形式的な「実績」であり、その内容と実際の効果は、元々問題外なのである。

 

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2004年6月28日

投票という制度

昨年12月から、選挙では「期日前投票」という制度が導入されたという。

従来は「不在者投票」として、投票用紙を署名した封筒に入れさせられたりして、「これじゃ、秘密投票じゃないじゃないか」と腹が立っていたが、これからは、そのまま投票箱に入れればいいらしい。

自分が選挙権を得てからの投票を思い起こせば、3度に 2度は「不在者投票」で済ませてきたように思える。なぜか、投票日に予定が入ることが多いという巡り合わせがあり、とくに、ここ10年ほどは、決められた「投票日」に投票したことが 2~3度しかないような気がする。

「不在者投票」は、自分の都合のいい日に投票に行けばいいのでありがたいが、投票用紙を、署名した封筒に入れて保管されるのが、とても不満だった。あれでは、私が誰に投票したかがバレバレになるではないか。

まぁ、私が誰に投票したかがわかったところで、実際には痛くもかゆくもないが、不愉快であることには変わりない。今回の制度改革で、直接投票箱に入れればいいということになったので、不愉快さが薄れることはありがたい。やればできるじゃないか。

しかし、だったら、これまでのあの制度は何だったのかということになる。意味のないことで有権者に面倒を強いて、妙ちくりんな封筒で紙を無駄に使っていたわけだ。

個人的には、早いことインターネットによる投票を実現して欲しいと思っているが、お役人たちは、セキュリティだの IT への信頼性だのと言って、消極的である。そんなことを言えば、従来の「不在者投票」ではセキュリティなんてないに等しかったし、「信頼性」なんて言っても、従来方式だって、集計の間違いや集計漏れなど、細かい点で不明瞭なことがいくらでもあるではないか。

少なくとも、汚い文字や誤字だらけの手書き投票用紙の判読でもめたり、人力で集計したりする煩雑さを思えば、IT 導入の方がずっと確実だと思うがなぁ。

「機械操作に慣れない人がいる」なんて言っても、今は、「オレオレ詐欺」に引っかかるようなボーっとした老人でも、ATM を使った自動送金なんていう複雑な手続きができてしまうのだから、投票ぐらいの単純なことは、できないことはないだろう。

 

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2004年6月27日

「公示」 と 「告示」

昨日、選挙の「公示」と「告示」の違いについて、ちょっと筆が滑って「あまり意味がありそうにも思えない」などと書いてしまったが、よく調べるてみると、ちゃんと「根拠」があるのだった。

しかし、その「根拠」そのものが、なんだかおかしいのである。

一般的には、「公示」は衆議院総選挙と参議院の通常選挙だけで用い、地方選挙は「告示」ということになっているが、同じ国政選挙でも、補欠選挙の場合は「公示」ではなく「告示ということになっているようだ。

これに関して、「意味のないことで複雑な言い回しをしてるなぁ」と思っていたのだが、よく調べたら、憲法に「天皇の国事行為」として次の規定がある。

第7条 国事行為 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

(1,2略)

3 衆議院を解散すること。

4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。

つまり総選挙の施行は、「天皇の国事行為」として「公示」されるのだった。そのほかの地方選挙などは、選挙管理委員会が「告示」するのである。そして、同じ国政選挙でも、補欠選挙は「総選挙」ではないから、天皇の国事行為にはならず、従って「告示」なのだろう。

しかし、一般的には、「総選挙」 というのは衆議院選挙のことで、参議院選挙は含まれないのではないかという疑問がおこる。

朝日小学生新聞のサイトの 「ニュース DE ジャンケンポン」 という Q&A コーナーでは、

衆院議員は480人いるんだけど、全員をいっぺんにえらび直すから「総選挙」といっている。参議院は3年ごとに選挙があって、半数ずつ交代するから総選挙とはいわないんだ。

と、明確に参議院選挙は「総選挙」ではないと言っている。まてよ、そうしたら、参議院選挙のスタートは、天皇の国事行為である「総選挙の施行を公示すること」ではないから、「公示」という根拠が消えてしまうのではないか?

そこで調べてみると、やはりその矛盾を指摘している人がいた。

(以下、http://www12.ocn.ne.jp/~s-k/tango/sousenkyo.html より引用)

ⅰ 相対的に広義の総選挙
  憲法7条4号の 「総選挙」

全国のすべての選挙区にわたって実施される選(「総」"区"「選挙」)

衆議院議員について、任期満了および衆議院の解散により実施される選挙、のみならず、
参議院議員について、3年ごとに議員の半数について実施される選挙、をも含む

ⅱ 相対的に狭義の総選挙
  公職選挙法の 「総選挙」

<一院を基準に>すべての議員について実施される選挙 (「総」"員"「選挙」)
衆議院議員について、任期満了および衆議院の解散により実施される選挙、のみ。
参議院議員について、3年ごとに議員の半数について実施される選挙、は、
すべてでなく半分の議員について実施されるにすぎないので含まない。

(理解しやすくするため、引用者が重要ポイントを赤字にした)

要するに、憲法と公職選挙法が矛盾するのである。選挙管理委員会は、長年にわたり憲法違反をしてきたことになる。参議院選挙は「総選挙」ではないというのなら、日本中の選挙管理委員会が連名で「告示」すればいいではないか。

そもそも、参議院選挙が「総選挙」ではないと言い張ることに、具体的メリットがあるわけでもなんでもないではないか。天皇陛下に「公示」していただいてるいるくせに、どうでもいいところで、わけがわからないことを言っている。

もう、本当にこの国は、自衛隊といい、総選挙といい、憲法の条文を曖昧に解釈したままのご都合主義的運用が基本になっていることがわかる。この「ご都合主義」が、社会全般に悪影響を与えている。このあたりからして、憲法見直しは急務だろうなぁ。

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2004年6月26日

参院選公示はされたが

そう言えば、参議院選挙が公示されたのだった。のっけから申し訳ないが、今回も投票率の低下は止まらないだろう。

普段、ごまかしにごまかしを重ねたような政治運営をしておいて、選挙の時だけ、政治に関心を持てと呼びかけても、それは虫がよすぎるというものだ。

私自身は、今回もちゃんと投票をするつもりだが、個人的にもあまり盛り上がらない。なにしろ、茨城選挙区の場合は、改選数 2 に対し、自民党と民主党の現職 2人に共産党新人 1人の、合計 3人しか立候補していない。

茨城選挙区がさらに 2分されていて、それぞれが 1人を選ぶというのなら、まだ盛り上がるだろうが、これでは、結果は見え見えだ。参加意識を持てといっても、あまりに実感がない。

それに、最近は若年層ほど投票率が低い。彼らの政治に対する無関心を非難する前に、この国の政治が、これまで彼らの期待に添えるような運営をしてきたかを反省するがいい。のれんに腕押しのような政局に、参加意識を持てと言っても、それは無理だ。

この国の政治は、民主主義というよりは、とっくの昔から官僚主義政治だから、選挙の時だけ民主主義を取り繕っても、もうごまかしがきかないのである。民主主義の理念を崩さないためには、きちんとそれなりの運営をしなければならないというのは、当然の話なのだが、それができていないから、若者は政治に関心を抱かないのである。

実は、このコラムを書き始める時も、今回の参院選のスタートが「告示」だか「公示」だか、調べなければわからなかった。なんだか知らないが、この 2つの術語は、あまり意味がありそうにも思えないが、ちゃんと使い分けがあるらしいのだ。枝葉末節でそんなアホらしいことをしているから、付き合いきれないのである。

 

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2004年6月25日

田舎の交通事情

父50年、長男20年、三男15年!無免許親子を逮捕」というニュースには、恐れ入ってしまった。他でもない、我が居住する茨城県発のニュースである。茨城は、案外交通マナーが悪い。「いがっぺ運転」とか言ったりするが、無免許で「いがっぺ」とは厚かましすぎた。

信号で、青が黄色になっても突っ切ってしまうことはよくある。下手に急ブレーキをかけるよりは安全だからだ。黄色になるとスピードアップすることもないではない。しかし、茨城では、赤信号に変わって何秒か経過していても、何台か続いていたら、尻馬に乗って突っ切るのが普通のことである。

信号が赤になりかけているのに突っ切ってしまい、「ちょっと強引すぎたかな」と反省して、ふとバックミラーをのぞくと、自分の後から 5台も 6台も、完全に赤になった信号を突っ切って来るのが見えて、ぞっとする。

「イタリアでは、青は進め、黄色は急いで進め、赤はもっと急いで進め」というジョークがあるが、イタリアでなくても、ここ茨城で、それは日常茶飯事である。ただ、「皆で渡れば怖くない」精神の延長であることは、特徴的だが。

福島でもすごい目にあったことがある。友人の車に乗せてもらい、雪の坂道を下っていると、突然、カーブの向こうから、道路の真ん中を昇ってくる車が見えた。こちらはポンピング・ブレーキをしながらハンドルを思いっきり左に切ったが、向こうは道の真ん中で、よけもせずに止まってしまったので、お互いの右前部がぶつかってしまった。

警察を呼ぼうとしたが、向こうの車を運転していたオッサンが出てきて、それには及ばないと言う。全面的に自分が悪いから、修理代はすべて負担するというのである。

後で聞くと、そのオッサンは、何十年も無免許運転していたらしい。道理で、警察を呼ぶのを嫌ったわけだ。「あのおやじめ!」となったが、すべて相手の負担で修理し終わっていたため、それっきりにしたという。田舎というのは、そういう話がそれほど珍しいことではないようだ。

無免許ではないが、取得した運転免許はいつも神棚にあげていて、自分で携帯したことがないという人も知っている。なかなか一筋縄ではいかないのが、田舎の交通事情なのである。

 

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2004年6月24日

フランス語訛り

当サイトの BBS で、英語の通じる国、通じない国、英語の訛りなどが、ひとしきり話題になっている。

フランス人は英語もかなり訛るが、日本語だって訛る。「ワタシ、ニオンゴ、アナセルヨ」なんて言われると、「ソレ、オントカ?」とツッコミたくなるのは、私だけだろうか。

国によって、発音のウィークポイントというのがある。

日本人は "L" と "R" の区別が下手なので、「フリーマーケット」を「自由市場」だと思っている人が多い。本当は "flea market" で、 「蚤の市」は直訳そのものなのだが。

韓国人は単語の頭にくる濁音が苦手な代わりに、途中の音は濁音になりやすいようだ。「下駄箱」が「ケダパコ」になったりする。

フランス人は "H" の音を発音できない。フランス語で "haute couture" を「オートクチュール」と発音する分には一向に構わないが、"history" が「イステリ」になり、 "hairbrush" が「エアブラシ」になり、「日本語」が「ニオンゴ」になり、「日本人」が「ニオンジン」になるのは、ちょっと気になる。

"H" の音なんて、発音する気になればいくらでも発音できると思うのだが、どうもフランス人はそれを発音しないことに、ある種の「プライド」を感じているのではないかと思われるほどである。

それは、日本中どこに行っても関西弁で押し通す関西人と、共通したところがあるのではないかと思っている。

 

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2004年6月23日

自衛隊はイラクから撤退すべき

今月 28日の 「一撃」 のように、「自衛隊は元々軍隊 …… 」みたいなことを書くと、タカ派だと思われかねない。

誤解のないように書いておくが、私は平和主義者である。ただ、口先で「平和、平和」と唱えさえすれば平和がくるなどという幻想は、もっていないというだけだ。

こんな言い方をすると、ますます誤解を招きかねず、今回の多国籍軍参加にも賛成していると思われてしまうかもしれないので、具体的に私の立場を書いておこう。

もうそろそろ、自衛隊はイラクから引き上げる潮時だと思うのである。

今回のイラク戦争の「大義」については、あえて触れない。大量殺戮兵器がついに発見されていないということで、「大義なき戦争」だったと結論づけるのはたやすい。しかし、客観的にみれば、サダム・フセインの戦略上の大間違いが、米英の侵攻を招いたという側面も否定できない。

以前にも書いたが、大量殺戮兵器をもっているような、いないような曖昧なそぶりをしていたのがいけないのである。口では「もっていない」と言いながら、いかにもありそうなもったいぶった態度を隠れ蓑にして、石油利権を盾に、国際社会での優位を確保しようとしていたのが、間違いのもとだったのである。

そこに突然、テーブルをひっくり返すような乱暴さで殴りこんだブッシュもブッシュなのである。

そもそも、国際紛争に、どちらかが一方的に正義で他方が一方的に邪悪であるなどという構図はありえない。両方とも「欲得ずく」の虜になっているから、争いは起きるのだ。

多国籍軍に参加するという 「既成事実」 を作り、その後の利権にありつきやすいアリバイ工作をするというのも、確かにひとつの考えである。しかし、そんな目先の利権よりも、敢えてそのような利権の構図には関わらなかったという潔さを取りたいものではないか。

 

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2004年6月22日

親と子の絆

21日午後、熊本から帰る機内で、母親がいくらあやしても、床を踏み鳴らして泣き叫び続ける子供がいた。

満席に近い中でこうなると、隣に座った乗客は悲劇である。飛行機の中では、ちょっと離れればさほど気にはならないが、隣だと、神経がずたずたになる。

以前、高知に行った時に、隣の席の子供が延々と泣き続けたことがある。この時は、客室乗務員のおネエさんが、かなり離れたところの空席に移らせてくれて、なんとかなった。その子供の泣き叫ぶ声は、高知に着くまで遠くから聞こえた。

はっきり言わせてもらえば、子供がむずかるのは、病気などの場合を除けば、子供ではなく、親が悪いのである。親が普段からきちんと子供に愛情を注いでいさえすれば、子供というのは親がそばにいてくれるというだけで安心し、泣き叫ぶなんてことはないのである。

子供が泣き叫ぶのは、親のストレスの現われだ。子どもというのは敏感だから、親のストレスが伝染してしまう。親は自分のストレスの原因がわかっているが、子どもはそれがわからず、ストレスだけ感じるのだから、その不安は親以上になる。そして、飛行機の中のような特殊な環境になると、その不安が爆発してしまう。

車内や機内で泣き喚く子供の父親や母親が、自分の子供をあやすのを見ていると、確かに子供への接し方が見事に下手くそである。自分がオロオロしてしまうか、 ヒステリックになるかのどちらかである。両方とも、根っこは同じだ。子どもの気持ちを忘れて、自分の都合だけになっている。

情愛のベクトルが、子どもではなく、自分に向いている。泣き叫ぶ子どもが哀れと思わずに、こんなに泣き叫ぶ子供を持った自分が哀れと思ってしまっている。あれでは、子供はますます不安になる。親のカウンセリングが必要だ。

親の仕事の一番重要なのは、着飾らせることでもなく、いい幼稚園にやることでもなく、「お父さんとお母さんは、いつでもお前と一体だから、何があっても、絶対に大丈夫!」という信念を、子どもに感じさせてやることである。それが基本だ。

我が家は大した子育てはしなかったかもしれないが、3人の娘たちは、私か妻が抱っこしてやれば、どんなに泣いていてもじきに泣き止んだものだ。公共の場で泣き喚いて迷惑をかけたことなど、一度もない。これだけは誇ってもいいが、実はそれほどのことでもなく、当たり前のことなのだ。

 

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2004年6月21日

「どこ吹く風」

仕事で熊本に来ている。出かける前までは超大型台風接近ということで心配していたが、飛行機も無事に飛び、着いてみたら、まずまずの天気で安心した。

土砂降り覚悟だったが、阿蘇の外輪山からきれいな虹まで拝めたので、自分の晴れ男ぶりにますます自信を深めた。

夕べは夜に食事兼「飲み」に出かけ、夜中にホテルに戻ってそのまま「沈没」してしまったのだが、その間、別に雨に降られていないし、今、夜明け前にごそごそ起き出してこのページの更新をしているのだが、窓の外は静かである。路面も濡れていない。

こういうのを、まさに「どこ吹く風」というのだなぁなどと、妙な納得の仕方をしている。酔いが醒めていないので、頭の中はお気楽だ。申し訳ないほどである。

一体どうなっているのだろうと、テレビをつけてみると、台風は、いましも宮崎県の東海上を、四国に向かって北上中のようだ。熊本は暴風域からは見事に抜けている。宮崎県や四国では、大雨で住民が避難している地域もあるらしい。

四国はこれからが大変だ。四国から中国地方、関西は、夜明けの満潮と重なるので、かなりの警戒態勢がしかれているらしい。被害が少なければいいがなぁ。私は、午後になってから熊本空港を発つので、多分大丈夫だろう。

ここの地元の人に聞いたら、「台風なんて、年中行事で、しょっちゅうですわ」という話だった。それでも、時々は駐車している車が「ずるっずるっと動いてる」というほどの大風になって、そんな時はゾッとするらしい。恐ろしい話しである。

 

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2004年6月20日

「隊」 「軍」 そして "force"

19日の ラジオで、永六輔氏が 「自衛隊員は、これまで『隊員』だったのに、多国籍軍に参加してしまったら、『軍人』になる。この違いは大きい」と言っていた。

もっともらしく聞こえるが、実は、その違いはあんまり大きくない。これまでは、日本語の語感でごまかされていただけだ。

日本語では、片方は「隊」で 片方は「軍」だが、英語で言うと、自衛隊は "Self Defending Force" であり、多国籍軍は "Multi-national Force" である。つまり、両方とも "force" なのである。

英和辞書で引くと、force は「部隊; 一軍;(陸・海・空の)軍隊, 軍勢、(協同作業をする)隊」と出てくる。"Army" というと、広義では「軍隊」だが、狭義では「陸軍」になるため、軍隊一般を指す場合は、"force" という場合が多い。

つまり、日本では「自衛隊は軍隊ではない」という言い方がされているが、そんなばかな話はなく、グローバルに言えば、"Self Defending Force" であり、さらに言えば、攻めるばかりで "self-defending"(自衛)をしない軍隊なんて、この世に存在しないのだから、自衛隊は、元々軍隊以外の何物でもない。

「多国籍軍」に参加して、初めて「軍隊」となるわけではなく、元々からして「軍隊」なのである。誰が見たってそうなのであり、そうでないと言い含められているのは、日本の国の中だけのことなのである。

だったら、憲法第 9条に違反するとして解散させるか、あるいは、憲法の方が実情に合わないとして、憲法改正するかのどちらかしかないのである。

「憲法第 9条を守れ」とだけ言い続けるのは、この点において、無責任な態度である。それを言うなら、自衛隊を解散させるところまで踏み込まなければならない。しかし、いざという時に、自衛隊に国を守ってもらいたかったら、憲法を改正するしかない。

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2004年6月19日

人名漢字拡大の怪 その2

昨日の「人名漢字の怪」だけだと、下手をすると、私が規制論者と勘違いされそうなので、続編を書かせて頂こう。

個人的には、「糞」だろうが「屍」だろうが「淫」だろうが、自由に使っていいが、「でも使わないよ」というのが、「常識」というものだろうと思うのだ。

その常識を破って、「不淫」とか「糞袋」とかいう名前を付けるのも一興かもしれないが、それは、本名ではなく、「自己責任」の名において、ペンネームか雅号にでもすればいいと思うのである。(「糞袋」 というのは、禅宗の本を読むと、よく出てくるな)

それでは、何故に今回の「人名漢字拡大」の案を無茶苦茶にけなしたか。それはこういう理屈である。

本来ならば、「人名漢字」なんて制限しなくてもいいのに、既成事実として制限してある。今回の拡大案にしても、依然として制限し続けるという前提に立っての「拡大」である。

ならば、何故に、一方で制限しながら、「淫」だの「糞」だの「屍」だのにまで、わざわざ「人名漢字」のお墨付きを与えようというような案を作ったのか。こんな漢字まで OK というなら、いっそのこと、制限なんか撤廃してしまえということである。

もし、今回の案がそのまま通ったとして、「糞太郎」なんて名前を役所に届け出る親がいたら、どうするのか。役所の窓口としては、実際問題として、過去に「悪魔くん」 を退けておきながら、「糞太郎くん」なら認めるというわけにはいかないだろう。

しかし、政府のお墨付きで、「糞」の字を「人名漢字」と認めておきながら、窓口ではねつけてしまったら、また余計な訴訟になる。役所の窓口泣かせである。

それに、へんてこな名前のせいで学校でいじめにあった子の親が、「政府がこんな字を人名漢字として認めなかったら、あるいは、役所の窓口が登録拒否してくれさえしたら、自分の子どもがこんな名前にならなくて済んだ」なんていう訴訟だって起こしかねない。こんな字を使うような親なら、こんなアホな訴訟だって起こすだろう。

どうせ制限するなら、そこまで考慮して制限すべきだし、拡大するというなら、いっそのこと、余計なお世話の制限は撤廃して、それこそ「自己責任」ならぬ「名付け親責任」にすればいいのである。そうすれば、いくら無制限でもやたらと妙な名前も付けられない。

ちなみに、自由論者の私も、ある程度の制限は致し方ないと思っている。それは単純な話で、IT による戸籍や名簿の管理が不可欠になった現在、コンピュータで互換表記できない字は、お互いの幸せのために、ご遠慮いただこうということである。

 

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2004年6月18日

人名漢字拡大の怪

今回の人名漢字拡大案に関して「パブリックコメント」が募集されていて、7月 9日までに寄せられた意見を踏まえて、最終案がとりまとめられるらしい。

新聞の論調では「論議を呼んでいる」ということになっているのだが、実際は「論議に値しない」という方が適切だ。

言うまでもなく、「糞」だの「淫」だのという字が、見境もなく盛り込まれている点である。以前、「悪魔くん」の戸籍登録を認めなかった地方自治体の役所の総元締めとも思われない所業ではないか。

この拡大案は こちら から PDF でダウンロードできる。文字をソートするなどして、よく検討してみたいというニーズには、単純なテキストファイルの方がずっと便利なのだが、わざわざ手間をかけて、不便な PDF にしている。しかも、PDF の作りが悪いのか、テキストでのコピーも不完全にしかできない。

さらに、ダウンロードのページには、取って付けたように、以下の但し書きがある。

当該漢字が専ら「常用平易」と認められるか否かの観点から選定を行った。漢字の意味(人名にふさわしいか否か)については一切考慮しなかった。

人名にふさわしいか否かを一切考慮しなかったというのでは、この案を作った「法制審議会人名用漢字部会」という部会の名に値しないのではないかと思うのだが、議事録 を見る限り、以下のような不毛な見解がベースになっているようだということが知られる。

あれでも上に「不」をつけたら「不淫」ですよね。私は淫せずの生き方をやりますというようなことは,理屈の上ではつくのです。

確かにここに挙げられている好ましくない文字は、(中略)自分の子供には決して使わない漢字ではありますが、かつて使われているケースは恐らくあるだろうと思います。

事務当局が提起させていただいているのは、あくまでふやす方のベクトルでございます。

諮問の趣旨は、「見直(拡大)」 と書いてあるのです。ですから基本的には増やすということを考えているわけです。

大した意気込みである。無意味な規制撤廃にも、このくらいの意気込みで臨んでもらいたいものである。ただ、委員の中には、人名にふさわしくない漢字に関して、

この紙の 2枚目の人名用漢字許容字体表,これはもう人名のために我々が選んでいるものだということだから,(中略) 削れないですかということを申しているのです。

と、まっとうな発言された委員もおいでである。しかし、その意見は、なぜかついに反映されず、結果的に 「ガキの使い」 みたいな案が出てきたわけだ。

この案をシレッと公開して、「アリバイ工作」みたいな「パブリックコメント」を募り、「国民のご意見を取り入れて、人名にふさわしくない漢字は外しました」なんてことになるのは見え見えである。

一般常識で、どうみても人名にはふさわしくないような漢字でも、「法律的に難しい」などといった馬鹿馬鹿しいことを言い出して、役所の 「自己責任」 で削ることができず、「パブリックコメント」のフィルターをかけて、ようやく責任逃れをしようとしているとしか思われない。お役所仕事って、こういうものなのだなぁ。

 

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2004年6月17日

奪ったら奪われる

私はあちこちで「一人勝ちの論理」はおかしいと力説している。

とくに、「市場のパイは決まってるから、生き残りのためには、他社のシェアを奪うしかない」という論理は、経験的に間違いであると指摘できる。この論理で突き進んで成功するのを見たことがない。

昨今の日本プロ野球の現状を見ると、ますますその感を強くする。

巨人の戦略は基本的に、有力なアマチュアを金の力で自チームに入団させ、取り逃がして、他チームの主力選手になってしまったのを、今度は FA で横取りするというものである。これでは、自分が相対的に強くはなるだろうが、野球界全体はつまらなくなって、地盤沈下する。

他球団を弱体化させることで、自チームの優勝回数は増えても、それは健全なマーケティングとは言えない。貧乏人だらけの中でお山の大将になるよりも、豊かなもの同士で健全な競合をする方が、ずっと豊かなのである。

本当に健全な市場というのは、よきライバル同士がつばぜり合いをすることで、市場全体が拡大するものである。ファッション業界でも、自分のブランドが特殊すぎては、強力な市場を形成できない。「お友達ブランド」があってこそ、お互いに伸びる。

他社から奪うと、他業界から奪われるのである。

 

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2004年6月16日

ユーザーインターフェイス

パソコンに関しては、仕事柄かなりのことができるので、機械モノには強いと誤解されがちだが、実は私は、ビデオの予約録画もできない人なのである。

ケイタイ電話も、通話とメール以外はさっぱりわからないので、実際のところ、「ツーカー」の機種で十分なはずなのだ。

パソコンの操作に苦労しないのは、Windows という OS と、Microsoft Office の「やり口」を理解してしまえばいいからである。ユーザーインターフェイスの基本的な発想を理解してしまえば、あとは、大抵のソフトは直感的にこなしてしまえる。それは、どんな車でも、運転の仕方は基本的な部分で同じであるのと同様の感覚だ。

自動車が、車種によって運転の方法に大きな違いがあるとしたら、大変なことになる。新しい車に乗り換えるたびに、あちこちぶつけまくって傷だらけにしてしまう。Windows ソフトなら、大抵は直観で使いこなせてしまうのは、免許さえあればどんな車でも一応は運転できるのと同じことである。

同じことをするためのマシンなら、どんな機種でもユーザーインターフェイスにある程度の統一性はもたせておくのが、当然のユーザビリティというものではないか。

しかし、ビデオとケータイはそうではない。操作の方法に、基本的な発想の部分からして、機種によってかなりの違いがある。できることは大抵おなじようなことなのに、そのやり方がこんなに違っていては、戸惑うばかりである。

ケータイをもったばかりのオッサンやオバサンに操作方法を聞かれても、「その機種のことはわからないので …… 」としか答えようがないのは、悲しいことである。Windows ソフトなら、使ったことのないソフトでも、基本的なことなら聞かれたらすぐに答えられるのに。

 

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2004年6月15日

三菱自動車のイメージ

こう言っちゃなんだが、街を走る車の三菱マークを見かけると、「なんだ、三菱か」と思う。イメージが地に落ちている。

かく言う私も、以前は三菱の車に乗っていた。RV のはしりと言われた初代シャリオである。確かにクセのある車で、わけのわからない故障もあった。

それなりに乗りこなしてはいたが、ちょっとどうかと思うことも少なからずあった。例えば、右側のヘッドライトの電球が切れて、交換した時のことである。ガソリンスタンドで交換を頼んだのだが、いくら待ってもできあがらない。

一体どうしたのかと交換作業を見に行くと、電球一個を交換するのに、周り中の部品を取り外して、大変なことになっている。

「左側のライトの周りはスカスカで、すぐに取り外せるんですけどね。右側は、周りにいろんな部品がびっしり取り付けられていて、なかなか、電球に辿り着けないんですよ」
「そんなのありかね?」
「まぁ、三菱の車では、ないことではないですね。トヨタ車なんかは、こういう部分の設計はとても無難にできてるんですけど、三菱は『冒険した作り』をしますからね」

結局、電球一個を取り替えるのに 1時間以上もかかったのだが、この「冒険した作り」というのが、妙に耳に残っている。これは、普通の日本語に直すと「常識では思いもよらない作り」とでもいうのだろうか。

この車は、エンジン自体は調子がよかったので、とことん乗り続けようと思っていたのだが、なぜか小さな故障が頻発し、8年目に原因不明のギアボックス破損で修理不能となって、そのままスクラップにした。正直なところ、「もう三菱の車に乗るのは、止めた」と思った。

多分、他の自動車メーカーだって、リコール隠しに類したことは皆無ではないのだろうと想像する。しかし、程度問題の話で言えば、やはりあの時の判断は正しかったと思っている。

 

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2004年6月14日

煙草の税金なんて

このコラムでも時々書くので、もう知れ渡ったことと思うのだが、私は元・ヘビースモーカーの、現・煙草嫌いである。

喫煙者の煙草を吸う正当化の論理に「我々は税金を余計に払ってるんだ、文句あるか」というのがあるが、今日は、それについて反撃してみよう。

喫煙者が多少余計に税金を払ったところで、それがどうしたという反撃の材料は、少なくとも 2つある。

一つは、喫煙者は余計に病気になりがちなので、国民健康保険の赤字拡大につながっているという事実である。自分が病気になりやすいだけではない。周囲の非喫煙者にまで煙を吸わせて病気を誘発しているのだから、多少余計に税金を払ったところで、免罪符にはならない。

もう一つの材料は、今の官僚制度では税金は無駄遣いされる一方なので、税金を余計に払うことは、決して社会のためにならないということだ。

考えてみてもわかるだろう。年度末の道路工事の増加、お役所仕事の非効率、無駄遣いとしか思われない補助金ばらまき、目的のわからない公共事業、作っただけで後々の維持費が思いやられるハコもの行政 ……。我々の税金なんて、もっと少なくてもいいぐらいのものなのである。

いつもお役所仕事に腹を立ててるくせに、こんな時だけ得意になることもないではないか。何も社会に害毒になることで、余計な税金なんて払わなくてもいいのである。

 

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2004年6月13日

縮み志向とユーザビリティ

とにかく仕事柄、どこに行っても PC を手放せないので、セカンド PC として、重量 1㎏弱の "Let's Note" を使っている。大きさは B5 サイズより小さい。

とにかく軽いので重宝しているが、米国人が持ち歩いている PC をみると、ほとんどがオールインワンの A4 サイズだ。

トレードフェアのプレスルーム、空港ロビー、飛行機の中など、どこに行ってもノート PC を開いて仕事をしている米国人を目にするが、A4 サイズより小さいノートを使っている姿を見たことがない。彼らのマシンと比べると、私のは本当にかわいらしくさえ見える。連中はさすがに図体が大きいから、重いものを持ち歩くのを苦にしないのかと思っていた。

しかし、考えてみれば、体の大きさで言えば、私だってそんなに負けてはいない。それに、結構小柄な米国女性も同様に、あの重そうな A4 サイズを開いているところをみると、どうも図体のせいではないのではないかと思うようになった。

聞いてみれば、彼らの移動手段が、車であることが多いので、荷物の重さは、あまり関係ないのだという。なるほどね。

それに、B5 サイズの小さなキーボードでは、彼らは打ちにくくてしょうがないだろう。私だって、自分のマシンのキーストロークがもう少し欲しいと思うほどだ。こう言っちゃなんだが、彼らの指先は私以上にぶきっちょみたいだし。

日本人の「縮み志向」はよく言われるところで、小さくて軽い PC にもそれがよく現れている。しかし、単にスペックとしての 「小ささ」 を追い求めると、ユーザーインターフェイスが犠牲になりはしないだろうか。

一時はやった「カード型電卓」のキーは、全然ストロークがなく、私には全然使えなかった。キーボードには、ある程度以上のストロークが絶対に必要だと思うのである。ストロークがあってこそ、マシンとの 「対話」 に実感が出るのだ。

「縮み志向」の優秀さはよくわかったから、あとは数字を追わずに、ユーザビリティを追っていただきたいと思うのである。

 

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2004年6月12日

レイ・チャールズの冥福を祈る

今日は久し振りでパソコン・ネタを用意していたのだが、レイ・チャールズが死んだとあっては、急遽差し替えだ。

50歳前後の者にとって、レイ・チャールズは多分、ビートルズと同格ぐらいの特別な存在である。子供の頃、心に残った英語の歌の多くは、彼の歌なのだもの。

あの頃、ラジオのスイッチをひねれば、歌謡曲と浪花節の世界だったが、その中に、妙に心躍る「英語の歌」がいくつも混じることがあった。

"Unchain My Heart" は否応なしにノリノリになるし、"I Can't Stop Loving You" は、鳥肌が立つほどゾクゾクする。"Hit the Road Jack" なんて、意味も知らずに 「ノーモーノーモーノーモー」と真似していた。これらがすべて、レイ・チャールズという盲目の天才歌手の歌だと知るずっと前から、彼の歌にゾッコンだったのだ。

とくに "Georgia On My Mind" は、誰が何といっても、ビング・クロスビーのさらっとしたバージョンの何倍も泣かせるし、ずっと後になって、ウィスキーの CM で "Elly, My Love" なんて、さりげなくソウルフルに歌っちゃうものだから、腰を抜かしそうになった。やってくれるなぁ。

顔はおっかなそうだけど、歌はものすごく暖かい。一時、彼のようにソウルフルに歌いたくて、声色にも夢中になったものだ (今でも、レイ・チャールズのモノマネは下手じゃないぞ)。この歳になっても、私はカラオケをしたら、"Georgia On My Mind" だけは他人には歌わせないのである。

歳から言えば、エルヴィス・プレスリーの方がいくつか若いはずなのだが、ちょっと年上の団塊の世代が夢中になるほどには、私はエルヴィスには入れあげなかった。レイ・チャールズの後に、すぐにビートルズに行き、アメリカン・フォークソングに行って、ゴスペルとブルースに行った。

そしてもう少し進んだら、そこには、またレイ・チャールズがいた。すごいおっちゃんである。

彼の biography のサイトに行ったら、早くも以下の記述があった。

Ray Charles, one of America's most beloved entertainers, died on Thursday, June 10, 2004 at the age of 73 after a long fight with liver disease

(アメリカで最も愛されたエンタテイナーの一人、レイ・チャールズは、肝臓病との長い闘いの末、2004年6月10日木曜日、73歳で逝去した)

彼のベストアルバムを繰り返し聞きながら、祈 冥福。

 

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2004年6月11日

エスニックジョーク

当サイトの BBS で、エスニックジョーク系の話題で盛り上がってしまった。

エスニックジョークでは、典型的日本人は 「右へ倣え」「指示待ち」に終始する人種として描かれる。時には、自分で作ったわけでもない日本製工業製品の優秀さを、鼻持ちならないほど得意がる。

日本人を典型的に表現したエスニックジョークは、例の大型客船が沈没するときに、婦人と子どもを優先すると、どうしても救命ボートの数が足りないため、男の乗客に自発的に海に飛び込ませるために、船長はどう言ったかというヤツだ。

イギリス人に向かっては、「あなた達は紳士ですから、飛び込めますよね」

アメリカ人に向かっては、「あなた達こそ真のヒーローです」

ドイツ人に向かっては、「これはルールです」

そして、最後に日本人に、「皆さん、そうしてらっしゃいますから …… 」

こうしたエスニックジョークは西洋文化の産物であり、西洋人は自分で自分を皮肉って楽しんでいるのだから、まだ余裕というものがある。「俺たちって、確かにそういうところがなくもないけど、でも、それって、誇り高い民族性の裏返しだぜ」 ってなぐらいのものだ。

ところが、エスニックジョークのやり方で東洋人を皮肉ると、ちょっとキツイところがある。日本人の「右へ倣え」「指示待ち」性向は、日本人が自分で自分を皮肉っているのではなく、西洋人から見た日本人の「ちょっとイラつく姿」なので、「笑える」というよりは、ちょっと「お恥ずかしい」ところがある。

まぁ、それでも笑っちゃうのだから、日本人は大人というか、あるいは、エスニックジョーク好きの日本人は、典型的日本人とはちょっと距離をおいていると言えばいいのか、とにかくそんなところがある。

西洋では「飲兵衛で田舎者」の定番であるアイリッシュでさえ、エスニックジョークの中では、「アイリッシュばかりのところには行きたくないわ」と言うスノビッシュな連中に、「そんなら地獄に行きな、そこにはアイリッシュはいないから」と反撃している。

ところが、日本人が粋に反撃している日本発のエスニックジョークは、まだ聞いたことがない。この分野では、どうも、相手の土俵で相撲を取っているばかりのようである。

 

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2004年6月10日

エスカレーターのベルト

今年 2月 29日の「一撃」で 「自動ドアが嫌い」と書き、3月 2日に「回転ドアってイケてるじゃないか」と書いたら、3月 26日に六本木ヒルズの事故があった。

昨日、エスカレーターについて書いたら、その日のうちに、掛川のホテルでエスカレーター事故があった。何だか気持ち悪い。

単なる偶然というものだろうが、いやな感じである。迂闊なことは書けないような気がしてきた。

掛川のホテルの事故は、片側を駆け上がってぶつかったとかいうようなものではなく、突然ベルトが停止し、それにつかまっていた人が後ろに倒れ込んだのが原因で、将棋倒しになったという。

件の日本エレベータ協会のサイトには、エスカレーターの「正しい乗り方」として、「移動手すりにつかまって乗ること」と明記されている(あのベルトは、オフィシャルには「移動手すり」ということを初めて知った)。日本中の店舗ビルのエスカレーターでも「ベルトにおつかまりになり、黄色い線の内側にお乗りください」などと、「余計なお世話アナウンス」が一日中流されている。

しかし、今回の事故は、その注意通りに乗ったらこけてしまったわけである。ステップとベルトの動きは、常に連動するわけではない。足下のステップが進んでいるのに、止まってしまった手すりに固執したら、後ろに倒れるのは当然だ。

実は、私にも似たような経験がある。だいぶ以前、偶然乗った昇りエスカレーターで、突然ガクンガクンという音とともに、ベルトの動きが不安定になって止まりかかり、私の前に乗っていた老婦人が、後ろ向きに倒れ込んできた。

私は倒れてきた彼女を抱きかかえ、とりあえずベルトにつかまった彼女の手を離させようとしたが、彼女は必死の形相でしがみつくばかりで、金輪際離そうとしない。しかたなく、ちょっと乱暴だが、握った手をこじ開けるようにして離させた記憶がある。

その老婦人は、頭が混乱したのだろうが、その無理矢理の力技にむっとしてしまったようで、上階に着くと礼も言わずに立ち去った。(あの力技がなかったら、あのばあさん、転げ落ちていたところなんだがなぁ)

人間のとっさの判断なんて、えてしてそんなものだが、ベルトのスピードが急に変わったり止まったりというのは、ないことではないのである。朝のニュースによれば、掛川のエスカレーターは、ベルト部分に 30kg 以上の荷重がかかると、ベルトだけが停止するという無茶苦茶な設定になっていたらしい。

いずれにしても、 「移動手すりにつかまって乗ること」という「正しい乗り方」は、かえって危ない場合があるということが判明したわけだ。米国だったら、このインストラクションの総元締めが訴えられるところである。この文言には、早急に何らかの修正が加えられなければならないだろう。「ただし、すがりついちゃダメ」とか何とか。

個人的には、それよりもいっそ、あのこうるさい「余計なお世話アナウンス」がなくなってくれる方がすっきりするのだが。

 

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2004年6月 9日

エスカレーターのマナー

(社)日本エレベータ協会が、エスカレーターを歩いたり走ったりして昇るのは危険とアナウンスしている。それに関連した事故が、毎年何件もあるそうだ。

しかし、そんなことを言い出したら、こけて落っこちる程度のことは、動かない普通の階段だって付き物ではなかろうか。

「日本エレベータ協会」 というところがエスカレーターまで扱っていたというのも初耳だったが、この協会のホームページでは、

「エスカレーターに乗るとき、いそいでいる人のために、どちらかあける」って聞いた事あるけど…」
「そうね、でもそれは間違いよ!」
「えっ…」
「いそいでいる人とお年寄りがぶつかってケガをする事もあるそうよ」

と、対話形式で、エスカレーターで歩いたり走ったりしないように呼びかけている。

しかし、ぶつかって怪我をするのは、基本的にステップの真ん中に乗るから、追い越そうとする人がぶつかりやすいのである。ちゃんと片側に立てば、そんなにぶつかるものではない。それに、ぶつかるのはエスカレーターに限らず、普通の階段でだってあり得ることだ。

普通の階段で止まっているわけにはいかないが、エスカレーターだと、「止まっておれ」 ということになる。それは、「動く歩道」でも同じだそうだ。私は正直なところ、「動く歩道」の両側に止まって立たれると、エスカレーター以上にムカついてしまうのだが。

「歩いたり走ったりしない」ように呼びかけるよりは、「急いでいる人のために、きちんと片側を開ける」ことを呼びかける方が、危険防止効果はずっと高いと、私は確信する。いくら「歩くな、走るな」と言っても、急ぐ人は急ぐのだから。

同協会によると、エスカレーターを分速 30メートルで運行した場合、2列に並んで詰めて乗れば、1時間に 9000人を運ぶことができ、片側を空けて乗るより、多くの人を運ぶことができるとしている。

しかし、この比較はおかしい。3通りのケースののうち、2つしか比較していない。残るひとつは、もちろん、開いた片側を歩いて昇るというものである。(両側とも歩いて昇るというケースを加えれば、4通りになるが、それは無視しておこう)

もっと言えば、同協会のこの比較はナンセンスでさえある。片側が開いていれば、9000人の半分の 4500人しか運べないのは当然だが、実際問題として、片側だけが延々と開いているなんてはずがないではないか。ありえないケースを机上で比較してもしょうがない。

片方を空ければ、その開いた方を歩いて昇る人が必ず出るはずで、その歩く人の出現頻度によって、比較の結果は変わってくる。 歩いて昇る人が絶え間なくぞろぞろと続けば、それが最も効率的な運び方になる。それは、ラッシュアワーの駅でよく見られる光景なのだが、同協会は完全に無視しているわけだ。

というわけで、協会の「歩くな、走るな」の呼びかけは、綿棒を「耳の奥まで入れるな」という PL表示みたいな意味合いなのだろうと、私は解釈している。耳の奥まで入れないで、どうして耳カスを取れというのだ。

どうしてもエスカレーターを歩いてもらいたくなければ、その横に駆け上がることも可能な階段を必ずつけてもらいたい。しかし、現実には JR の駅では、間口の片側が昇り、片側が降りのエスカレーターのみで、普通に歩いて昇り降りする階段がないというケースがかなり見られる。

私がいつも利用する常磐線取手駅がそうで、夕方に下りの電車が着いたら、エスカレーターの下は黒山の人だかりで押し合いへし合いになる。下りエスカレーターはガラガラなのに、階段の間口の半分しか実効しないのだから、イライラは募る。本当に危ないのは、この「イライラ心理」である。

取手駅では、混雑を避けて階段を利用しようと思うと、ブリッジの反対側の上り口にはるばると足を伸ばさなければならない。こうした設計をみると、JR さんは、まだ役人気質が抜け切っていないのだなぁと思う。

 

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2004年6月 8日

蒸し暑い梅雨

梅雨には 2通りあって、一つは梅雨前線が太平洋高気圧で押し上げられて停滞する形で、もう一つは、移動性の低気圧が次々にやってくる形であると聞いた。

今年の梅雨は後者に属するから、冷たい雨の降る梅雨になると聞いていたのだが、とんでもない蒸し暑さである。

昨日今日あたりは、とくに予報の難しい天気らしい。関東は梅雨前線の南側で、湿った空気が流れ込む形になっているが、雨雲はあちこちに散らばっていて、どこで降って、どこで止むのか読みにくいということだ。

間違いないのは、「変わりやすい天気」で、「蒸し暑くなる」ということのようだ。しっとりとした雨模様を期待していたのだが、どうもそうはならないみたいである。汗をかきながら歩き回ることになりそうだ。

昨日、昼食時にふらりと入ったラーメン屋は、エアコンが故障していて、大汗をかきながらラーメンをすすった。考えてみれば、昭和 40年代頃は、普通のラーメン屋ではエアコンなんてなかった。夏にラーメンを食ったら、シャツが汗でびっしょりになった。

あの当時の感覚を思い出した。暑い暑いと文句ばかり言っていても始まらない。

 

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2004年6月 7日

プレゼンテーションと道案内

最近思うのだが、プレゼンテーションのうまさというのは、結局、説明の仕方のうまさに通じるところがある。

その人が説明上手か説明下手かは、電話で道案内させてみればわかる。説明下手な人というのは、自分がいつも通っている道順を、他人に説明できない。

例えば、電話で道を聞くと、「駅前の道をまっすぐに歩いてきてください」などと言う人がいる。ところが、いざその駅前に行ってみると、放射状の道が 5本ぐらい伸びていて、どれが「まっすぐの道」か判断に苦しむことがある。

改めて電話をすると、「○○に向かって歩いてきてください」などと言う。その「○○の方向」がわかれば、苦労はないのである。それがわからないから聞いているのである。

そんな時、電話の向こうで誰かが替わりに出て、「マクドナルドと××信用金庫の間の道をまっすぐにおいでください」とかなんとか言ってくれたりする。かなりの進歩である。これで、少なくとも他の 4本の道ではないということがわかる。

しかし、それから先が問題である。「400メートルほど歩くと右側に白いビルがあります」などと言う。ちょっと待て、巻き尺を持って歩いている人なんていないのである。400メートルなんて、感覚の違いで 200メートルにも 1キロにもなる。

当人は具体的な数字を出しているので、間違いのない説明をしているつもりなのだろうが、実は、こんな不親切な説明はないのである。それに、「白いビル」なんて、どこにでもある。その近くの目印と関連づけて特定してくれないことには、さっぱりわからない。

道案内の上手な人というのは、初めての人にも間違いようのないポイントをきちんと押さえて説明できる人である。プレゼンテーション上手になりたかったら、まず道案内上手になればいい。逆に、道案内の下手な人にはプレゼンテーションをさせてはいけない。時間と経費の無駄になる。

 

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2004年6月 6日

渇きと潤い

水戸方面から南下すると、岩間のあたりで雨が降り出した。関東南部から雨が降り始めるという予報は当たったようだ。

カーラジオは、プロ野球の 3試合が雨天中止になったと言っている。東京都内は、結構な雨になっているようである。そろそろ梅雨入りかもしれない。

以前は梅雨入りといえばうっとうしい気持ちが先に立っていたが、今年は、それほどでもない。というより、これ以上日本が乾いてしまったら、心までおかしくなってしまうような気がして、早く潤いがほしかったような気もするのである。

人の心と気候はリンクしてしまうのだろうか。近頃、心がカサカサになってしまうようなニュースが多い。爽やかな天気はうれしいが、心が乾きすぎるのはコワイ。以前、五木寛之氏がテレビ番組で金沢を案内していたとき、「この湿り気がいいんですよ」と言っていたのを思い出す。なるほど、湿り気というのは大切だ。

私は基本的に晴れ男だが、今年の梅雨は大切にしたい。この梅雨のうちに、心の潤いを取り戻したいと思う。

 

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2004年6月 5日

大臣のピンぼけ発言

今回の長崎の少女殺人事件に関する井上防災担当大臣の 「元気な女性が多くなってきた」発言を、細田官房長官が「不適切」と指摘したらしい。

「不適切」というよりは、普通に言えば「ピンぼけ」だし、よりシリアスに言えば「不謹慎」ということになるだろう。

井上氏は、「間違ったことは何も言っていない。謝罪などは考えていない」と言っているそうだ。まぁ、確かにこんなことで「謝罪」というのもおかしいので、いいのだけれど、「ごめんなさい」とは言わなくていいから、「お恥ずかしい」ぐらいは言ってもいいような気がする。

今回の事件の報道を聞いて、「元気」というキーワードが想起されるという感性が、そもそも尋常でない。聞いてる方が恥ずかしい。

普通の感性ならば「陰湿」とか「短絡的」とかいう言葉が思い浮かぶだろう。どんな思考回路をたどると「元気な女性」になるのか? これでは、世の中の「元気な女性」が気の毒である。

こうした発言につながる要因は、2つしか思い浮かばない。一つは「ボキャ貧」で、二つ目は「根本的に勘違いしてる感性」である。井上氏という人は、経歴をみると東大法学部卒ということになっている。学歴詐称でもなければ、よもや「ボキャ貧」ということはないだろう。

いや、しかし、東大法学部というところは、あの恐ろしくセンスの悪い法律用語というものを操るところだから、もしかしたら、この方、一般的な基準に照らし合わせると、立派な「ボキャ貧」なのかもしれない。いやいや、やはり一応は、そうではないと信じよう。

二つ目の可能性、「根本的に勘違いしてる感性」というのは、案外あり得るかも知れない。「刃傷沙汰」といえばヤクザの出入りみたいな修羅場を連想して、つい「元気」という発言をしてしまうような勘違い感覚を、このおじさんは持ち合わせているのかも知れない。

こんな感性の方が、大臣を務めておいでということに関しては、まぁ、とりたてて言うこともない。大臣に限らず、社長でも、先生でも、案外多いのだから、言い出したらきりがない。

この件で、小泉首相が首相官邸で記者団に「誤解されないように発言は慎重にしなければいけない」と指摘したそうだが、「あんたもね」とツッコミたくなったのは、私以外にも全国で何百万人といるだろうなぁ。

 

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2004年6月 4日

再び Yahoo 検索エンジン批判

今月 1日の当コラムで、Yahoo が新しく採用した自社製の検索エンジン "YST" についての「激しい疑問」を述べたが、それはますますつのるばかりだ。

どうも、この "YST" のロボットは、かなり頭が悪いと思うのである。百歩譲った言い方をしても、未完成である。

これまで、Google の検索では上位にランクされていたページが無視されているというのは、なにも私のサイトばかりではないようである。当サイトと相互リンクしているまこりんさんなどは、「ここまで嫌われるといっそ清々しい」とまでコメントしておられる。

「スタートしたばかりなので、まだロボットが拾いに来ていないのではないか」という推測もみられるが、それは当たらない。というのは、YST のロボットは、遅くとも今年の 2月にはクロールを開始していたという証拠がある。私が 2月に閉鎖した楽天サイトが、検索で引っかかるのだから。

6月 4日現在、「知の海」 のキーワードで検索されたページでは、2、3、4、7、8、9番目に私のサイト関連がヒットする。このうち、2、8番目のランクが、YST がスタートする 3ヶ月以上前に閉鎖した 「楽天」 サイトである。

当サイトのトップページは、その中で最低の 9番目のランクとなっていて、しかも、当サイトに直接拾いに来たわけではなく、ウェブリングの中から拾ったようなのだ。その上位の 5つは、既に消滅した楽天サイトや、ヒットしてもまったく意味のない BBS 管理ページのキーワード入力画面 ( ! )だったりする。

つまり、Yahoo では「知の海」のキーワードでヒットするトップ 10件のうち、半分の 5件は「クズ」なのである。そして、活きているサイトのトップページが、3ヶ月以上前に閉鎖したサイトや、BBS 管理のパスワード入力画面なんていう、まったく意味のない「クズ」よりも、下位にランクされるのである。

これでは、使い物にならない。一部では、Yahoo に特化した SEO (サーチエンジン最適化) 対策が求められるかもしれないという報道があったが、明らかな「クズ」が上位にランクされるシステムに対応した SEO なんて、してもしょうがないだろう。

要するに、YST のロボットはかなり以前から稼働していたものの、クロールする先に偏りがある上に、行った先では、クズに至るまでせっせと拾い集め、さらに、重要性を無視したランク付けをしたがるようなのだ。これでは、いくら多くのページがヒットしても意味がないどころか、使いにくくてしょうがない。

今回の検索エンジン変更に際し、Yahoo が Google 潰しに走っているというニュースも流れたが、逆に、自分の評価を下げることにつながっている。Google の相対的な優秀さが改めて証明されたようなものである。あるいは、もう少し待てば、Yahoo も多少は改善されるのだろうか。

今までは、どうせ同じ Google なのだからと、Yahoo のサイトから検索するケースも多かっただろうが、今後は多少の改善への期待があったとしても、待ちきれずに、Google のサイトに行く人が増えるのではなかろうか。

 

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2004年6月 3日

普通の心理でなくなること

小学 6年生の女の子の同級生殺害事件には、さすがに驚いた。普通の女の子が普通の女の子を、カッターナイフで刺し殺したというのは、衝撃だ。

ネットの書き込みがどうとかいうことだが、加害者の女の子の犯行当時の心理状態は、きっと普通ではなかったのだろう。

「普通の心理状態でなかった」といえばそれで多くを語っているように聞こえるが、問題は、普通の女の子が、そんなに簡単に「普通の心理状態でなくなる」ということだ。

私なんかは、例えば関節技を決めたとしても、相手の腕を脱臼させたり骨折させたりするまで曲げてしまうというのは、ちょっと気持ち悪くてできない。もしやってしまうとしたら、よっぽど追い詰められた心理状態の時だろう。つまり、「普通でない」時だ。

自分が「普通でなくなる」のはどんな時だろうと考えると、「こいつの腕でも折って、立ち上がれない状態にしておかないと、自分が殺されるかもしれない」というような、一種の恐怖感を感じたときだろう。それは、よくよくのことだ。それでも、殺すまではできないと思う。さすがに夢見が悪い。

今回の加害者の女の子は、「夢見が悪い」だのなんだのと考えるような心理状態とは、ちょっと別のレベルに、一瞬にして行ってしまったのである。どうしてそんなに簡単にそんな状態になれるのだろう。これは、かなり大変なことだ。

昔から、「乱暴な子」というのはいた。そうした子は、確かにちょっとハイなレベルにまで簡単に心理が行ってしまう子である。しかし、そんな子でも、殺すまではいかなかった。今回の場合は、普通の女の子が、「乱暴な子」以上の心理レベルにまで、簡単に行ってしまったわけだ。

とすると、これは「乱暴な心理」というのとはかなり違う。事の後先とは切り離された、その一瞬の落とし前のみを動機付けとして行為する、とても特殊な心理状態である。あってはならない心理状態だ。

これが社会的病理であるとすれば、これは一度では済まない。似たような事件が起きる可能性は常にある。我々は、何かを正さなければならない。

 

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2004年6月 2日

英語、米語、怪しい日本語

先日、ニューヨークとロンドンでの勤務経験がある商社マンの U 氏と話していて、英語と米語の違いの話題になった。

私もロンドンに本部を置く団体の職員だったことがあり、それにはずいぶん戸惑った経験がある。何しろ英国では、エレベーターを「リフト」と言うのだから。

私の最初の英語の教科書は、「~を持たない」というのを "have not" と表記していた。これはイギリス英語であるという。ところが、中学 2年の教科書では、何の断りもなく "don't have" に変わっていた。米国式であるらしい。

ところが、私は英国人と話していても、「持たない」という意味で "have not" を使ったことが一度もなく、常に "don't have" で済ませているように思うのだが、それでどうのこうの言われたことはない。これに関しては、かなりグローバルになっているようだ。

しかし、同じものを英米で別の単語で言うのは、かなりある。自動車に関する用語などは、とくに要注意だ。日本語で言うところの「フロントガラス」は、"front glass" ではなく、 "windshield" でいいのだと思っていたが、それは米語で、英語では "windscreen" というらしい。(意味としては、どちらも「風よけ」 だが)

それから、「ボンネット」のことを 「フード」などと言うと、いかにも通ぶって聞こえるが、何のことはない、同じことを、英語で "bonnet"、米語で "hood" というだけのことだ。どちらも、もともとの意味は「帽子」である。

ところが、日本語になるともっとややこしい。「ボンネットフード」という言葉があるのだ。「ボンネットのフード」(ボンネットの覆い)ということか。

しかし、"bonnet" も "hood" も、本来は、その「ボンネットフード」と称する「覆い」の部分を指す言葉であり、その部分を外れたら、「フェンダー」という立派な名称がある。わざわざ、「帽子の帽子」と重ねて言う必要はないと思うのだが、この辺りは、どうもいい加減のようなのである。

この関連で最も傑作なのは、「ボンネットブラジャー」 というものである。ボンネットの傷を防ぐための覆いのようなもので、米国では "hood deflector", "hood mask", "nose bra" とか言われているようだ。「ボンネットブラジャー」とは、「ノーズブラ」(鼻のブラジャー)からの転化なのだろうが、よくぞ名付けたものである。

こうして考えてみると、自動車用語のローカル・ルールが激しいのは、野球といい勝負のようだ。何でも身近になり過ぎると、その用語は換骨奪胎されてしまって、英語だか何だか、わけがわからなくなるようなのだ。

 

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2004年6月 1日

Yahoo 検索エンジンの出来

Yahoo のページ検索は、従来は Google の検索エンジンを使っていた。要するに、ぱっと見は Yahoo でも、その裏側で動いていたのは、 Google だったのだ。

しかし近頃、Yahoo Japan も本国に続いて、ようやく独自の検索エンジンで動き始めたようなのである。

新しい検索エンジンは自社製で、YST (Yahoo! Search Technology) というらしい。しかし、ちょっと試してみたら、この YST というのは、私のサイトにかなりの敵意(?)を持っているらしいということが判明したのである。

私のサイトの「知のヴァーリトゥード」というところにあるコラムの多くは、「自慢コーナー」で自慢しているように、Google ではかなり上位にランクされている。「なおざりとおざなり」を始め、長らくトップを維持しているページも、一つや二つではない。

ところが、今回の YST では、私のサイトは無視されているようなのである。例えば、「なおざり おざなり」の 2語で検索すると、1216件のページがヒットするが、その中には、私のページは含まれていない。(5月31日現在)

Google で同じキーワードで検索すると 541件しか表示されないが、私のページはトップにランクされている。こういっては何だが、YST で検索すると、そのキーワードに関してはあまり重要でもないページがずらずらと際限もなく引っかかるのに、Google でトップにランクされているほどの重要ページ(と、敢えて言わせていただく)は、無視されるということなのである。

それに、私のページはことごとく無視されているのに、私のページにリンクしているページは、そのキーワードでヒットして、ずらずらと表示される。こんなにもあちこちからリンクされている当のページが無視されているというのは、客観的に言っても、YST のアルゴリズムはおかしいんじゃないかと言っていいだろう。

あるいは、Google で上位にランクされているようなページは意識的に無視するようにして、世界中のサイトの SEO(検索エンジン最適化)を自社寄りにしようという戦略か?

とにかく、私のサイトを敵視、あるいは、百歩譲った言い方で「軽視」するような検索エンジンは、誉めてあげないのである。ふんっ!てなもんである。

 

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