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2004年7月に作成された投稿

2004年7月31日

とんんでもない思い違い

人間誰しも、とんでもない思い違いをしていたということがある。
私の場合、最近の思い違いの中で最大のものといえば、宇宙飛行士の向井千秋さんを、長い間、男性だと思いこんでいたことである。ご当人には大変申し訳ないことである。

言い訳をさせていただくとすると、私はあまりテレビを見ない。だから、ご当人の声を聞いたり、立ち居振る舞いを拝見するということがなかった。

さらに、新聞などの写真では、ショートカットのすっぴんに、宇宙服を着ておられる姿しかお目にかかっていないので、あまり性別を意識しないでニュースに接していた。

それに加えて、最近のニュースは、ことさらに「女性宇宙飛行士の向井さん」などとは言わない。「宇宙飛行士の向井千秋さん」という取り扱いである。こうなると、彼女が女であるということは、ついぞ発想されなかった。

女だからどうという、性差別的なことは、私の中には毛頭ない。それが特別どうのこうのというわけではない。私は迂闊にも、ずっと男だと思いこんでいたという事実があるということで、それは大変失礼なことであったと思っている次第である。

ただ、ジャズ・ミュージシャンが白人か、黒人かということは重要なポイントだと指摘する人もいる。人種差別的な視点からはまったく離れた上で、それでも、きちんと把握して聞くのと知らないで聞くのとでは、違うというのだ。

ある種、その指摘と共通した感覚で、私は向井さんが女であったという事実を、最初からきちんと知っておきたかったという気がする。

 

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2004年7月30日

文化庁こそ言葉の意味を取り違えてるぞ!

文化庁の「国語に関する世論調査」によると、「檄(げき)を飛ばす」や「姑息(こそく)」などの言葉の意味を、7割前後の人が取り違えているという。

「姑息」の意味を「卑怯」と間違えている人が圧倒的に多かったのは、世の中のお姑さんたちに気の毒かもしれない。

<国語世論調査>「姑息」7割が違う意味で理解

それにしても、この調査、なんだかちょっと誘導尋問ぽい気がするし、結論の出し方に違和感を覚えるところもある。

例えば、「檄を飛ばす」の意味は、確かに「自分の主張や考えを広く人々に知らせて、同意を求めること」というのが正解だが、岩波書店の「広辞苑」では、1991年発行の 4版から「刺激して活気づける」の意味も加えられている(参照)というではないか。10年以上も前から広辞苑に載っている「定着した解釈」を「誤用」と決めつけるのは、なんだか「エラそう」である。

「姑息」というのも、正解は確かに「一時しのぎ」である。しかし、「姑息な手段を弄する」なんて使い方をすると、「ちまちました手段でこっそり場を取り繕う」というやり口の連想から、「卑怯」というイメージが喚起されるのも、不自然なことではない。

この二つの「誤用」は、実際の言葉の使用ケースを想定してみても、あまり不都合なことは起こらないだろう。それほど声高に言うほどのことかなぁと思うのだ。

しかし、まぁ、ここは 「言葉の『本来の』意味」 にこだわっているのだろうと、取り敢えず、矛を収めよう。しかし、「さわり」という言葉に関しては、ちょっと見過ごせないのだ。

「さわり」に関しては、「話などの要点」という「正解」よりも、「話などの最初の部分」という誤答が多かったと報告されている。

しかし、これは文化庁のチョンボだ。「さわり」という言葉の意味の「本当の正解」は、 「話の要点」ではなく、「話のクライマックス」である。

元々は「さわり」というのは、義太夫(人形浄瑠璃の語り物)の一番の「聞かせどころ」のことを言うのであって、決して「要点」という意味ではない。「さわりだけ聞かせてよ」と言ったら、本来は「時間がないから、前の方は端折って、一番グッとくる最高潮のところを演ってよ」という意味合いである。

それを 「話の要点」 と言ってしまうと、「かいつまんだ要約ポイント」というニュアンスが強い。「一番いいところ」を演じてもらいたくて「さわりだけ、お願い」と言っているのに、「話の要点」を淡々と聞かされたら、しらけ果ててしまう。

少なくとも、文化庁の姿勢には一貫性がない。一方では広辞苑に載ったほどの定着した意味合いを「誤用」としながら、他方では「さわり」の「本来の意味」を無視して「話の要点」などと言っている。これでは、調査のあり方のコンセプトからして、 「ブー」 である。

人間国宝まで輩出している文楽・義太夫の世界に申し訳がない。そういえば、人間国宝は当の文化庁の管轄だろうに。

「文化庁、お前こそ、言葉の意味を取り違えてるぞ !」と、私は言いたいのである。それから、「マスコミも、このくらい気付けよ」とも言いたい。

実は、文化庁はこの調査報告を毎年出しているのだが、そのたびにツッコミどころ満載である。(例:「確信犯」について

 

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2004年7月29日

お役所サイトの PDF 濫用

イインターネットで資料を探している時、PDF のページばかり検索されて、むかつくという経験をしたことがないだろうか。
普通の HTML 文書ならストレスなく閲覧できるのだが、PDF だと、表示させるだけでも面倒だ。それに、内容がお役所仕事的で読みにくいものが多い。

PDF というのは、例の Acrobat Reader などで読む形式のファイルをいうのだが、元の資料通りの表示が、パソコンの画面で確認でき、しかもそのまま形を崩すことなくプリントアウトもできるので、使い方さえ誤らなければ、便利と言えばとても便利である。

しかし、最近の政府関連を初めとするお役所のサイトでは、この PDF を濫用しているのではないかという気がする。PDF にする必要のない文書、あるいは、PDF ではかえってユーザビリティが低下する文書まで、単なる機械的なプロセスとして、安易に PDF にしてぶちこんでしまっている場合が多いような気がする。

典型的なのは、例の「人名漢字拡大」のケースである。「見直し (拡大) 案」の「追加される漢字 (578字)」というのは、PDF で表示される。

以前にも指摘した憶えがあるが、こんなのは、わざわざ PDF で表示するよりは、HTML のベタ打ちにしてくれた方が、ずっと見やすい。

しかも、少なくともこの「追加される漢字(578字)」に限って言えば、HTML のベタ打ち以上に見にくい、ガキの使い的なもので、さらに、作り方がいい加減なためか、「テキスト選択ツール」で全ての文字をコピペしようとしても、できない字がかなり多く発生してしまう。

画面に表示させた字のうち、ちょっと並びが上下にずれている文字が、ことごとく「テキストコピー」で拾えないのだ。(ただし、これは私の閲覧環境での特殊現象かもしれないので、そうでないケースがあったら、下の「コメント」欄でお知らせ頂ければ幸いだ)

もし HTML のベタ打ちでは、「文字化け」の畏れがあるので、PDF でなければならないというのなら、そもそも、そんなことで文字化けするような漢字なら、後になって問題が起きることが確実だから、拡大案になんか加えなければいいのである。

PDF の多用は、気持ちとしてはわからないこともない。お役所の担当者が「紙の文書」を想定して作成した資料を、HTML に変換するのは、ちょっと手間がかかる。それなら、オリジナル文書作成者から渡されたファイルを、そのまま PDF に変換してしまう方が手間はずっと省ける。

それに、インターネットの担当者としても、余計な加工を加えて後で妙な責任を追及されるよりは、何も考えずに自動的に PDF にしてしまう方が、気が楽だ。

かくして、お役所の広報は PDF のオンパレードとなる。しかし、ほとんどの場合、報道発表資料や報告書みたいな、固い内容そのままなので、わかりにくいことおびただしい。一般人に向けた「まともな広報」ではなく、「最近、プレスや関係者向けにこういう資料を出したから、お前らも興味があるんなら、読むだけは読んでみてもいいぞ」ってなもんである。

しかし、本来「プロ」である プレスや関係者向けの資料なのだから、そのままの形で放り出すことには問題がある。しかも、お役所の文書なんて「プロ」にもわかりづらいことで定評があるので、一般人にはわからなくて当たり前である。

かいつまんだサマリーとしての前文や、噛みくだいたフォローみたいな説明があればまだマシだが、お役所仕事にそんなことを期待しても、ほとんど無駄だ。

彼らのほとんどは、「噛みくだいた説明」をするための編集能力なんて、致命的に持ち合わせていないし、奇跡的に持ち合わせていたとしても、滅多に使いたがらない。「噛みくだききれなかった部分」 をどうしてくれるなんていう責任追及をされるぐらいなら、下手に噛みくだかない方が安全だし。

PDF というのは、本来とても便利なツールなのだが、お役所仕事にかかると、通り一遍のアリバイ作りみたいな仕事の道具になってしまいやすい。本来の便利さが、作成者側ばかりに利用されて、ユーザーにはしわ寄せがくるばかりである。

 

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2004年7月28日

拝啓 敬具

高校 3年生の全国一斉学力テストで、手紙の書き出しの「拝啓」を正しく書けた生徒が 2割にとどまっていたため、国立教育政策研究所は「社会人として必要な言語能力の育成」が必要だと指摘している。

そんな指摘をしても、今さらのような気もするのだが。

テストの問題は「敬具」で終わる手紙文を示し、書き出しの空欄を埋めることが求められたのだが、正解の「拝啓、謹啓」などを書けたのは 22.4%だったという。平仮名で「はいけい」などとしたのが 10.1%、「拝けい」などの交ぜ書きが 2.4%だった。誤答では、「拝敬」などの誤字が 31.1%、前略、冠省(かんしょう)などが 6%あった。

こう言っては何だが、今時の高校生が「拝啓」を「拝敬」と間違えたところで、別に驚くに値しないと思う。だって、彼らの手紙文は、決して 「拝啓 - 敬具」や「前略 - 草々」なんて言葉を使わないのだもの。知らなくても全然不都合がない。

漢字の表記は別として、3人に 2人が「はいけい」であると知っていただけマシだという気がする。逆に間違いとはいえ「冠省」なんて言葉を知っていたという方が驚きだ。

「社会人として必要な言語能力」と言うが、団塊の世代以後のほとんどの社会人だって、個人的な手紙では「拝啓 - 敬具」なんて使わないだろう。こんなのを使ったら、他人行儀で、かえって違和感がある。

今時こんな言葉を使うのは、いわゆる「ビジネス文書」ぐらいのものではなかろうか。私だって、そんな文書は社会に出て初めて書いた。しかも社会人になって何年か経ったらビジネス文書はワープロ打ちが当たり前になったので、ここ 20年ぐらいは「拝啓」と「敬具」なんて手書きしたことがない。

しかも今時のワープロでは、「拝啓」と入力したら、末尾は自動的に「敬具」になるようにできている。便利すぎて、手書きができなくなると嘆く人もいるだろうが、そもそも手書きではそんな言葉を使わないのだから、別に構わないような気もする。

「時代遅れになりつつある常識」として、「いざとなればいつでも使えるよ」という程度に知っておくぐらいでいいではないか。

私の妻は古くからの友人たちと、しょっちゅう手書きの手紙のやりとりをしているが、「拝啓」で書き出すなんて、意識の外にあると断言してもいい。「拝啓」 始まり「敬具」で終わる手紙なんて、一生に一度も書かないという人だって、そう珍しいことではないだろう。

現代の 「社会人として(本当に)必要な言語能力」というのは、そんな単純な決まり文句を覚えることより、もうちょっと別のところにあるのではなかろうか。

 

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2004年7月27日

「和」「邦」「日」「国」 の使い分け

永六輔さんがお昼の番組でこだわっておられるテーマに、「和」と「邦」がある。

「和菓子」とはいうが、「邦菓子」とはいわない。一方、映画では「邦画」といい、「和画」とは言わない。使い分けの区別はどこにあるのだろうというのである。

辞書で見つかった言葉を、ちょっと分類してみた。(対になる言葉も並べて表示)

「和」

【「和 - 漢」 の流れ】和歌/和詩 - 漢詩、 和語 - 漢語

【「和 - 漢(唐) - 洋」 の流れ】和学 - 漢学/洋学、 和書 - 漢書/洋書、和風 - 唐風/洋風

【「和 - 洋」 の流れ】和学 - 洋学、 和楽 - 洋楽、 和菓子 - 洋菓子、 和裁 - 洋裁、和算 - 洋算、 和紙 - 洋紙、 和式 - 洋式、 和室 - 洋室、 和酒 - 洋酒、和食 - 洋食、 和船 - 洋船、 和装 - 洋装、 和針 - 洋針、 和服 - 洋服

【その他】和文 - 英文/仏文など、 和名 - 学名、 和訳 - 英訳/仏訳など

「邦」

【邦 - 洋 の対応関係があるもの】邦画 - 洋画、 邦楽 - 洋楽、 邦舞 - 洋舞

【「外国」 に対応するもの】邦貨 - 外貨、 邦人 - 外国人、 邦船 - 外国船

【言語関係】邦語 - 外国語/英語/仏語など、 邦字 - 外字/英字など、邦文 - 英文/仏文など、 邦訳 - 外国語訳/英訳など

どうも、「和菓子 - 洋菓子」「和服 - 洋服」など、「和 - 洋」の関係から生まれた言葉が圧倒的に多いようだ。明治の文明開化以後、伝統的な日本式のものを表現する際に「和~」という言葉を使い、西洋式のものを「洋~」と言うようになったのだろう。

そうでないのは、「和歌、和詩」「和語」で「和 - 漢」の流れとして、発生はずっと古く、「和学」「和書」「和風」は古くからあるが、「洋~」  にも対応した例である。

「和」 と 「邦」 の区別は微妙だ。しかし、どうも、「和~」 というと、あまりにも洋風化した日本人自身が。ある種の「非日常的な懐かしさ」を感じてしまうような感覚になっているものが多い気がする。「邦語」 はいわゆる日本語だが、「和語」は日本語から漢語系などを除いた、古くからの大和言葉をいう。

「邦画」「邦楽」「邦舞」は、「洋~」 に対応するところは 「和~」 と似た意味合いだが、少なくとも、この言葉ができた時代では、「懐かしい」というよりは、「日常的」な文化だったのではなかろうか。

また、似た意味の言葉としては、 「和~」と「邦~」では「邦~」の方がややヘビー、あるいはオフィシャルなニュアンスで使い分けられている。

「邦文」の方が「和文」より公式文書的ニュアンスが強く、 「邦船」は「日本船籍の船」だが、「和船」は「日本式の船」である。また、「邦訳」の方が「和訳」よりずっとヘビーで、かなりまとまった文学作品などの翻訳を意味する。

また、「邦貨」、「邦語」などは、「外国」という概念に対するものと言える。

「和」 と 「邦」 の系譜以外に、「日」 あるいは、もろに 「日本」 というのがあって、実はこれが案外多い。 「日本の」 あるいは 「日本式の」 という意味合いで、適当に広く使ってしまえるようだ。

「日」 日貨 - 外貨、 日系 - ○○系、 日舞 - 洋舞

「日本」日本画 - 西洋画、 日本髪 - 洋髪、日本語 - 外国語、 日本史 - 西洋史など、 日本酒 - 洋酒、 日本茶 - 紅茶・ウーロン茶など、日本庭園 - 西洋庭園など、 日本手拭 - タオル?、 日本刀 - 洋刀、 日本舞踊 - 外国舞踊、 日本間 - 洋間、 日本料理 - ○○料理 などなど。

ちなみに、「国 (こく)~」という流れがある。「国語」はほとんど学校の世界でしか使われないが、「国史」「国学」は、ちょっとナショナリズムっぽい感覚がある。

蛇足だが、「和式 - 洋式」というと、ほとんどトイレの話にしかならないというのがおもしろい。

 

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2004年7月26日

誕生日

純然たる私事で、誠に恐縮だが、今日は私の誕生日である。生まれた年まで公表してしまっているので、嘘も言えない。当年とって 52歳になってしまった。
ただ、負け惜しみではないが、絶対に 52歳には見られない自信はある。少なくとも 40代前半には見てもらえるはずだ。

昨日までの年齢の 51という数字は、数字に弱い私は最初、素数かと思ったが、よく考えると 17という数字で割り切れる。17歳と言えば、生意気盛りで無茶ばかりしていた。その 3倍生きてしまったのだから、多少は考え方だって成長しただろうという気はしていた。

しかし、今度の 52という数字は、26の 2倍である。たった 1年で、ちょっとした変化だ。3倍と 2倍では、かなりの差がある。それを実感するのは、17歳の自分を思い出すと、ガキだったなぁとは思うが、26歳の頃と比べても、そんなに進歩しているようには思われないからである。

確かに、私は 26歳の頃からあんまり変わっていないと思う。あれから、かなりいろいろなことがあったが、それでも、アイデンティティが大変化してしまうようなことは一度もなかった。これからも、多分このベースのままで歳を取っていくのだろうという気がする。

再来年になっても、27歳の 2倍だからどうのこうのなどと言い出すこともなく、淡々と、このコラムの更新をしていたいものである。

 

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2004年7月25日

人魚の数え方

小学館から「数え方の辞典」というのが出ている。紹介文によると、箪笥は「1棹(ひとさお)」、鱈子は「1腹(ひとはら)」、蚊帳は「1張(ひとは)り」、蔵は「1戸前(いっとまえ)」と数えるそうだ。

遺憾ながら、蔵を 「1戸前」 と数えるとは知らなかった。お蔵が建たないわけだ。

先週か先々週か忘れたが、朝のラジオで詩人の荒川洋治氏がこの本の紹介をしていて、ちょっと興味をもってしまったが、まだ買ってはいない。買ってもいいなと思うが、書店に行く度に忘れてしまっていた。欲しいと思うが、なかなか購入に至らない本や、観たいと思うが、なかなか観られない映画というのがあるが、そんな中の一つになりそうだ。

荒川洋治氏の紹介で印象に残ったのは、鬼や悪魔の数え方である。鬼や悪魔は「一匹、二匹」と数えるのだそうだ。しかし、さしもの鬼や悪魔も、改心して人間世界に受容されると、「一人、二人」 と数えるのだそうである。

一匹、二匹と数えられるような状態は「仮の姿」であり、本心に立ち返れば、人間と区別せずに扱ってもらえるのである。このあたり、日本文化の根本は「性善説」なのだと窺わせるに十分である。

しかし「人魚」には数え方の定説は存在しないのだそうだ。もともと日本文化の文脈にはなかった存在なので、数え方を決めるには、あまりにも漠然としているのかも知れない。

しかも、鬼や悪魔と違って、初めからそれほど邪悪な存在というわけではない。だったら「一人、二人」でいいではないかとなりそうだが、そうは行かない。脚が二本ついていないことには、なかなか人間扱いもしてもらえないのだ。難しいところである。
(このあたり、差別意識は微塵もございませんので、誤解のないように)

文化というのは、意表をつかれるとなかなか態度を決定できないもののようだ。

 

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2004年7月24日

アテネの五輪反対デモ

アテネで22日、オリンピック開催に反対する大規模なデモが行われた。約 5、000人が「(巨額な財政負担などで)国民を犠牲にするな」と訴えたという。

3週間前になって「開催反対」とは、すごい。開催準備も遅いが、反対運動は輪をかけて遅い。面白い国である。

アテネで五輪反対デモ〔五輪〕 - 時事通信 - スポーツ <アテネ五輪>開催反対のデモに5000人 - 毎日新聞 - 海外
“昼夜兼行”会場準備急ぐ アテネ五輪

水泳の会場は、屋根をつけるのを早々と諦めたし、メイン会場となるアテネの五輪スタジアムでは、夜になっても照明をつけて整備しているという。マラソン・コースに至っては、現在、舗装中なのだそうだ。本当に大丈夫なのだろうか。

開催反対運動を今頃になってやるというのも、またお国柄なのだろうか。デモの参加者は、「莫大な予算を組んで、多くの競技施設を新たに建設したことに反対する。学校を造るとか、教育にお金を使うとか、他に優先することはたくさんあるはず」 と語ったという。

「多くの競技施設を新たに建設したことに反対する」というレトリックが、また面白い。過去形に現在形で反対するというのは、日本人の感覚では信じられないが、ギリシャでは大まじめに通用するようで、ある意味、勉強になった。

世界には本当にいろいろの価値観があるものである。

 

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2004年7月23日

打ち水大作戦 2004

昔ながらの「打ち水」でヒートアイランド現象を緩和しようと、「打ち水大作戦」というイベントが 8月 18日から 25日まで、全国各地で行われる。
私も及ばずながら、その「呼び水人」に登録したので、ここで「打ち水」の呼びかけをさせて頂きたいと思うのである。

昨年は、東京都内で1日だけ行われたのだが、冷夏だったにもかかわらず約 34万人が参加したという。今年の参加者の目標は 100万人と、力が入っているが、これだけ暑いと否が応でも関心が高まろうというものだ。8月 18日からなどと言わず、今日からでも実行して頂きたい。

実行委員会の呼びかけている「打ち水のやり方」で重要ポイントとなっているのは、「お風呂の残り湯、エアコンの室外機にたまった水、雨水など二次利用水を使うこと」である。「わざわざ水道の水をつかうのはブー」と注意されている。

考えてみると、我々は水をずいぶん無駄に使っているのである。お風呂の残り湯を、単に流してしまうなんていうのは、無駄の最たるものだ。

我が家は小型ポンプを使って、残り湯を洗濯に利用しているが、それでも残る。夏の間だけでも、それを家の前の道路にまいてしまおう。実際のところ、1~2度の気温低下でも、気分の良さはそれ以上だろう。

中国でチョウチョが羽を羽ばたかせると、アメリカの天気が変わるなんていう「バタフライ理論」てのがあるぐらいだから、あちこちで我も我もと打ち水をしてみたら、案外日本列島がほんの少しは涼しくなったりするなんてことが、あるかもしれない。

興味を持たれたら、ぜひ「打ち水大作戦」サイトに行って、「呼び水人」に登録し、打ち水を始めていただきたいのである。

さぁ、これで「呼び水人」の義務は、かなり果たせたかな?

もし、「呼び水人」 に登録したり、興味を持たれて実行してみようと思われる方がいたら、ちょっと、下の「コメント」を押して、何か一言書いてみていただけるとうれしい。

 

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2004年7月22日

人名漢字拡大の怪 その4

人名漢字拡大案については、当コラムでも過去 3回取り上げて、もうほとんどケリがついたものと思っていたら、また呆れるようなニュースである。

パブリックコメントを募集した結果、削除要望の対象は追加案の 8割超の 500字近くに上ることがわかったというのである。

(参照) Yahoo ニュース      追加される漢字(PDFファイル) - 法務省

上記のリンクから追加される漢字の案にアクセスできる。まぁ、確かに、屍、淫、糞の他にも、腫、尻、塞、疹、蚤 ・・・ など、別に人名漢字として増やしてもらわなくても、どうせ使いたくもない字が多く含まれてはいるが、500字以上の削除要望があったというのは、とんだ過剰反応である。

そんなことを言い出したら、これまでの常用漢字の中にだって、人名にふさわしくない漢字は腐るほどあるのである。実際のところ、人名に使いたい漢字なんて、全体から見たら、どうせほんの一部でしかない。

だから、話を基本的なところに蒸し返してしまえば、「人名」に使える漢字として拡大提案するにしては、あの案は無責任すぎたのである。

法制審は 23日の人名用漢字部会で、集計結果を踏まえて追加案を再検討するという。批判の集中した漢字を削除するかどうかが案件となるのだろうが、「『人名にふさわしい漢字』 をどう判断するか、基準をめぐって調整に手間取ることも予想される」と報道されている。

ここまで来ると、ボーダーライン上の漢字の取り扱いが微妙なのだろう。例えば、「腺」とか「腔」なんて、それ自体はとくに没イメージの漢字ではないが、何となく「ムフフ」になってしまいそうな可能性もないではない。

どちらか一方を削ったりして、「どうして『腺』は OK なのに、『腔』はダメなのか」 なんて問いつめられたら、誰も答えられはしない。なんともややこしいことになってしまったではないか。

こんなことなら、初めから縁起悪い系と下ネタ系を除いておいて、さりげなく提案するか、元々とくに要望の多かったいくつかの漢字に限定して提案するとか、うまくやっておけばよかったのに。

個人的には、要望の多かった漢字を認めるという、「明確なニーズ対応」にしておくのが、一番自然だと思う。役人と学者の考えで、ニーズもないところまで妙な拡大に走ったのが、そもそもの間違いである。

 

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2004年7月21日

猛暑と「知らぬが仏」

20日は東京大手町で 39.5度になり、東京の最高気温記録を塗り変えた。ちょうどその頃、私は山手線を新橋駅で降り、有明に向かうため、「ゆりかもめ」の駅に向かって歩いていた。

蒸しはしないが、大げさではなく、皮膚がジリジリと焼け焦げるような暑さだった。

39度超の暑さ、原因はフェーン現象…熱中症173人

関東を中心に 170人以上が熱中症で病院に運ばれ、救急車が足りなくなったというから、大変な暑さだったわけだ。

一部では、昭和 8年に山形市で記録された 40.8度の日本記録を、今度こそ塗り替えるのではないかと期待した向きもあったようだが、さすがにそれは無理だった。40度の壁は厚い。(千葉県市原市では越えたようだが)

山形県では 公式記録として摂氏 40度を越えたことが 2度ある。2度目は、26年前に私の故郷酒田市で記録された 40.1度である。山形県というところは、あれでなかなか奥が深い。

その日、私は南アルプスの 3000メートル近い稜線直下で、台風をやり過ごすために一日停滞していた。グラスファイバー・フレームが強風でギュンギュンしなるテントの中で、ラジオのニュースが「山形県酒田市で、40.1度を記録」というのを聞いて、おったまげたのを覚えている。

私に山中の停滞を強いたその台風が、フェーン現象の原因となり、故郷の空気に大変な熱をもたらしたのである。

後で聞くところによると、その日は、壁でも襖でもテーブルでも、触るものすべてが熱かったという。他人の座った座布団に座ると、ひんやりと感じたというから、ただ事ではない。しかし、まだ冷房がそれほど普及していなかった中で、酒田の人々は 「今日はなんだかおかしい」 などとつぶやきながら、普段どおりに働いて暮らしていた。

夕方のニュースで、その日の最高気温が 40度以上になったと聞かされてからである。酒田の人の 9割近くが「だぁ~!」と叫んでひっくり返ったまま、それ以上、体を動かす気力を失ってしまったのは。

「知らぬが仏」とは、よくぞ言ったものである。

 

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2004年7月20日

デザインのし過ぎは、ろくなことにならない

私は、洋服でも車でも建築でも、デザインしすぎるとろくなモノにならないと信じている。これ見よがしなデザインほど使いにくいものはない。
幸いなことに、最近の工業製品のデザインは、適度にシンプルになり、ユーザビリティも多少は向上しつつある。

以前のように、冷蔵庫の扉や魔法瓶の横っ腹にド派手な薔薇の花が書いてあって、高島屋の包装紙状態になっていたりするなんてことは、ありがたいことに、消えて久しい。

ラジカセのトップにやたらと細かいボタンが密集していたり、何をするにも横ちょのカバーを開けて指を突っ込まなければならなかったり、ちょっと触ると、すぐに隣のボタンに触れてしまって、余計な動作が延々と続いたりなどということも、最近はかなり少なくなった。

こうしたことは、「デザイン」ということの考え違いから生じていたのだが、さすがに、工業デザインの世界はこなれてきて、あまりバカなことはなくなった。

しかし、依然としてこなれていないのが、ウェブデザインの世界である。ユーザーインターフェイスに、やたらと余計な要素をぶち込みたがるデザイナーが、まだまだ大勢いる。

最近、某美術館のサイトに行ってみて驚いた。まず最初に、こけおどしの Flash がヒラヒラするのはお約束としても、そこから先にどうして入って行ったらいいのかわからない。それらしき画像にマウスポインタを合わせても、なんだか画像がピラピラ動き回るだけで、さっぱり要領を得ない。イライラするばかりである。

その美術館は、東京と群馬にあるのだが(あぁ、こんなことを言うと、もうわかる人にはわかってしまうではないか) 、そのうちの東京の展示内容を確認するために、私は 5分以上悩んでしまった。

たかだか、その美術館の最近の展示内容を確認するために、何でまた、アートっぽい雰囲気だけを押しつける迷路の中で、右往左往しなければならないのか。作った本人と関係スタッフにとっては、とても自己満足なのだろうが、ユーザーインターフェイスとしては最悪であると断言させていただく。

私のサイト(「知の海」 )にしても、ナローバンドでアクセスすると重いなど、批判がないではないが、少なくとも、トップページで早くも迷子にさせるような作りはしていないつもりだ。

 

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2004年7月19日

日中韓で ICタグの規格統一

日中韓の 3国で、2006年度までに ICタグ規格の統一を行うプロジェクトが動き始めているらしい。(こちら
ところが、ICタグの規格に関しては、欧米も既に動きを開始していて、世界最大の流通業、ウォルマートでは、既に実用化といえるところまでこぎ着けている。

話はちょっとややこしいのだが、ICタグに関しては、欧米、とくに米国の考え方と日本の考え方では、ずいぶん違うのである。

米国では、主に物流管理の目的で ICタグを利用した RFID 技術が研究開発された。ウォルマートでは現在、上位 100社の納入業者に、カートン、パレット単位での RFID 装着を義務づけている。これで、メーカーの配送センターから店舗の納入窓口までの管理はばっちりだ。

とくに 「シュリンケージ」(配送途中で商品が消えてしまうこと) は、かなりの確率で防止できる。米国は、このシュリンケージが大きな問題だったのだ。日本ではほとんど問題になっていないというところが、かなりありがたいところである。

日本の考え方は、トロンで有名な坂村健氏の提唱による「ユビキタス ID センター」の推進するモデルなのだが、物流管理というよりは、素材や生産者、生産方法など、商品の氏素性を明確に表示できるようにして、消費者に信頼と安心感を与えるという、「トレーサビリティ」を重視している。

米国流は、話が単純なので、既に実用化といえるところまで来ているが、発展性は小さい。日本流はかなり理想的なモデルだが、話がややこしい。実際問題として、野菜につける ICタグに、使用した農薬の種類や量など、いちいちかなりな量のデータを入力するというのも骨が折れるだろう。

ある意味、昔の VHS とベータのように、まったく同じモノの規格争いではないから、棲み分けもきくのだろうが、どうなるものやら興味深い。

ただ、坂上氏の 「最新技術はすべて米国からやってくるという考えは間違っている」 という指摘には、大きな共感を持って 「そうだ、そうだ」と言いたくなってしまう。

 

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2004年7月18日

パソコンはストーブみたいなもの

暑い。パソコンに向かって仕事をしていると、上半身、とくになぜか顔が暑い。頭がクラクラするほど火照る。
エアコンをかけているのに、一体どうしたことかと思ったら、自慢の 19インチ液晶モニターが熱を帯びて、顔の真ん前でパネルヒーターと化しているのだった。

昨年の夏は、CPU が アンダー 1GH の本体に、15インチの液晶モニターだったが、やはり暑くて、小型扇風機の風をあてて、熱を逃がしていた。今年は、2.8GH の本体に、19インチのモニターにグレードアップしてしまったのだから、ちょっと暑さのレベルが違う。

最近、パソコン CPU のクロックの伸びが以前ほど急激でないのは、実は発生する熱対策が追いつかないかららしい。そんなわけで、本体からの熱はある程度覚悟していたが、液晶画面の熱は想定外だった。

液晶画面は顔の真ん前にあって、角度的にも正対しているので、その放射熱はまともに顔に当たっている。小型扇風機を当ててはいるのだが、パソコン本体から出る熱風と違い、ほとんど放射熱なので、風で散らせるというわけにもいかないようなのである。

この夏は、顔にまともに当たる液晶からの放射熱を何とかしないと、頭がぼやけてしまいそうなのである。

 

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2004年7月17日

性同一性障害特例法

性同一性障害特例法が 16日に施行され、性同一性障害を持つ人が、一定の条件を満たせば戸籍の性別を変更できるようになった。

性同一性障害で深刻に悩む人というのは、本音と建前のギャップを容認できないという意味で、純粋なのだろうと思う。

ある意味、器用で如才ない生き方のできる人ならば、普段の生活は戸籍通りの性別を演じ、私生活では本来の生き方をすることもできるだろう。あるいは、それを逆手にとって生きる上での「なりわい」にすることもできる。

昔はそれを容認して、別の世界で生きるという、ある意味での「文化」があった。しかし、ここまで大衆化社会が進展すると、「別の世界」で生きるのではなく、「普通の世界」で生きたいと願うようになるのも当然だろう。ただ、「普通の世界」が、まだそれを容認し切れていないのだ。

「性」には「セックス (性別)」と「ジェンダー(性差)」があり、単純に前者は生物学的な区別、後者は心理的・文化的な区別と言われてきた。しかし、どうも性同一性障害というのは、心理的なものだけでなく、物理的な原因もあるらしいので、「気持ちの問題」で済ますわけにもいかない。やはり救済処置が必要なのだろう。

問題は、法律的に整備しただけでは、社会的意識の面でまだ問題が残るということだ。「多様性」を認める文化を育てなければ、マイノリティは苦労するばかりである。

 

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2004年7月16日

鹿児島弁は本当にわからない

先月に続いてまた熊本県に来ている。熊本県といっても今度は人吉市で、鹿児島空港から高速バスで来るほうが早い。
というわけで、初めて鹿児島空港行きの便に乗り、初めてナマの鹿児島弁というものに接した。聞きしに勝るわからなさである。本当に感動的なほどわからない。

私は根が東北生まれなので、東北の方言なら大抵はわかる。あの恐ろしい津軽弁でさえ、聞けば 7割以上はわかる。ナリワイが繊維関係なので、繊維産業の本場、関西弁なら、自分でもしゃべれるぐらい馴染んでいる。それに、一時羊毛関係の仕事についていたため、毛織物の本場、尾州の言葉だって聞いて困ることはない。

広島、岡山方面も、友人がいるので、かなりわかる。それに北九州方面もそれほど悩まなくてもいい。

しかし、鹿児島弁はすごい。飛行機の中で、近くに鹿児島の人と思しきオッサンの二人連れがいて、なにやら会話をしていたのだが、最初は外国人かと思った。ところが、ところどころに出てくる固有名詞の発音が自然な日本語だし、時々 発せられる形容詞も、どうも日本語のようである。

戊辰戦争の頃、津軽人と鹿児島人が戦場で出会い、お互いにさっぱりわからなかったので、うろ覚えの英語で会話したという話が伝わっているが、まんざらウソとも思われない。日本において共通語が発達したのは、明治の御一新による中央集権政府が、あまりの方言のすさまじさに音を上げたからだろうと実感された。

 

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2004年7月15日

水害の恐ろしさ

今回の梅雨前線の活発化で、新潟、福島の両県では大変な災害になった。テレビで見ると、胸まで水に浸かって歩いている。あんなのは初めてみた。

かくいう私も、20年近く前だが水害で、高台の小学校に非難したことがある。あの時は大変だった。

我が家の一帯は洪水地域であり、最近は下水道整備などのおかげで滅多に大水は出なくなったが、大雨が降ると道路の冠水ぐらいは珍しいことではない。昭和 61年の台風 10号の時は、小貝川の堤防が決壊するほどの被害が出たが、我が家の裏手を流れる小川も、土手のスレスレまで水かさが増え、かなりの危機的状況だった。

それでなくても、道路は冠水して腰のあたりまで水に浸かってしまう。土手は水をたっぷり吸って、まるで豆腐の上を歩いているような気がした。いつ決壊しても不思議ではなかった。空は台風一過の青空なのに、川の水かさだけは上流からの水でどんどん増えてくるのだから、やりきれない。

大切なものと畳はすべて 2階に運び上げたところで、避難勧告が出た。皆でバスに乗って高台の中学校に非難した。当日は、炊き出しのおにぎりが振る舞われ、毛布にくるまって一晩過ごした。

朝になって下を見下ろすと、我が家のあるあたりが朝日にキラキラ反射していた。まだ水に浸かっているということだ。かなり印象的な光景だった。

その頃、妻は 三女を身ごもっていた。二人の幼い子どもと妊婦、そして犬一匹を連れての避難は、肉体的にも精神的にも、かなりの負担だった。こんなことは二度と御免だと思った。

とにかく、水というのは正直なもので、周囲よりも 30センチ低ければ、水に浸かって 30センチの水深となる。1メートル低ければ、1メートル没する。悲しいものである。ごまかしが効かない。雨が止んでしまえば、高台の土地はなんでもないのだが、水害地域は、台風一過の青空のもとで、なお増水に怯える。

洪水対策として、護岸工事だの堤防だのと、いろいろな工事が行われるが、結局は山林の保護が重要なのである。山林を皆伐し、山肌を崩し、経営不振でつぶれるようなゴルフ場を作り、自然を壊してきた報いである。地球温暖化ばかりではない。水害対策にも環境保護は重要なのだ。

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2004年7月14日

たばこ自販機について

財務省はこのほど、たばこの自動販売機を従業員の見える範囲に置かなければ、販売を許可しないと通達した。
これは、WHO の推進する「たばこ規制枠組み条約」を、日本も先月批准したことに対応する動きである。この条約は、年内にも国際的に発効することが確実だ。

たばこ自販機がこんなに多いのは、おそらく世界でも日本だけだろう。そもそも、外国に行ったら自販機というものが極端に少ない。それは、単純に治安の問題である。

屋外の人の目の届かないところに、商品と現金が確実に入っている自販機が設置されるということは、極端にいえば、「どうぞ持ってってください」と言っているようなものだ。日本でこれが堂々と設置されているというのは、治安がものすごくいいことの証明である。

最近では、銀行の ATM ごとブルドーザーで持って行ったりするのがいるらしいが、それでも、世界的にみたら日本の治安の良さはトップクラスである。

皮肉なことに、治安がいいために、未成年者がたばこを買いやすい環境が形成されているというわけだ。法律で未成年者の喫煙が禁じられているにもかかわらず、誰でも自由にたばこが買える自販機が、従業員の目の届かない屋外に設置されているということ自体がおかしいのである。

とはいえ、ことは金銭がらみで、しかも国の税収と街のたばこ屋のなりわいに関することだから、抵抗は大きい。異常な事態がここまで当たり前みたいになってしまったら、是正は難しい。

4年前に青森県西部の深浦町が、たばこ自動販売機の屋外設置を禁じる全国初の条例を施行した際には、販売店の自販機撤去が進まず、全国たばこ販売協同組合連合会も、「自販機は日本の伝統的な商文化」 とし、町と真っ向から争う構えを示した。

たばこ販売 自販機依存に包囲網

「自販機は日本の伝統的な商文化」という主張には、腰を抜かすほど驚いた。自販機そのものはかなり以前からあったらしいが、少なくとも一般に普及したのは、高度成長期以後の話である。それを「伝統的な商文化」と言ってしまったら、ここ 40年ぐらいで普及したことはすべて伝統文化になってしまう。

伝統文化もずいぶん安売りされるようになってしまったものだ。言ってる当人は厚顔無恥だからいいだろうが、聞いてる方が恥ずかしい。

とりあえず、政府の通達が行われたわけだが、いずれにしても早期に十分な徹底が行われるとは考えにくい。個人的には「通達はしたんですがねぇ」というアリバイ作りのようなものと見ている。

 

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2004年7月13日

ご飯でないと疲れが出ない?

夜に車で家路に着く時、カーラジオを聞くと、TBS のナイター中継で、JA グループがスポンサーになっている。
この JA グループの CM に、ずっと首をかしげ続けてきた。意味がわからないどころではない。まったく逆効果のコピーなのである。一体どういうことかと思っていた。

どんな CM かというと、以下のような母と娘の会話スタイルである。

娘: 「お母さん、試合の日はご飯にしてね」
母: 「わかってるわよ。ご飯じゃないと、疲れが出ないんでしょう」

???である。ご飯じゃないと疲れが出ない? じゃあ、ご飯を食べると疲れが出るのか? 試合の日に、わざわざ疲れるためにご飯をリクエストしているのか? 一体何のためにこんな CM を流しているんだ?

最近、ようやく気付いた。もしかして、「ご飯じゃないと、疲れが出ないんでしょう」 ではなく、「ご飯じゃないと、が出ないんでしょう」 の聞き違いではなかろうか。いや、多分そうだ。きっと 「力が出ないんでしょう」 と言っているに違いない。そうでなければ、いくら何でもおかしすぎる。

そう思ったので、件の CM を意識して聞くようにした。結果は、微妙なところである。聞きようによって、「疲れが出ないんでしょう」が六分、 「力が出ないんでしょう」が四分ぐらいに聞こえる。何の予断もなく初めて聞いた時に、自然に「疲れが出ない」に聞こえたのだから、六分でも甘すぎるくらいだ。

「多分『力が出ない』なんだろうな」 と思いながら聞いても、まだ「疲れが出ない」に聞こえるというのは、滑舌の問題としても、相当危ない。

制作側の現場では「力が出ないんでしょう」というせりふが当たり前に前提となりすぎているので、タレントの滑舌がどうであろうと、 「力が出ないんでしょう」としか聞こえなかったのである。だから、チェックの対象にすらならなかったのである。「疲れが出ないんでしょう」と聞こえるなどということは、想像すらできなかったのであろう。

制作者側の思いこみが強すぎると、えてしてこんなことになりやすい。

 

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2004年7月12日

「政治業界」 と 「野球業界」

いつもは日付の変わる前後に更新するのだが、昨夜は一応参院選の結果待ちをしようと、早々と寝てしまった。

このところの多忙でとてつもなく眠かったし、11時頃までの開票速報で、大体の結果が見えてしまったこともある。結局、大して変わり映えしないということだ。

今回の結果は、好意的に受け取れば「国民の絶妙のバランス感覚」ということになる。「小泉政権には反省材料を突きつけ、かといって、政権交代につながるような大きな変化は求めなかった」というわけだ。こうしたトーンのニュース解説は昔から多い。

この手の論法は「ステロタイプ」になりつつあるのだが、この国の政治的雰囲気をなんとなく伝えているような気もする。要するに、日本の政治そのものが「ステロタイプ」で動いているということのようだ。

ステロタイプのもう一つの典型として「二大政党化への移行」という指摘もあるが、実は、まだそんなものではなさそうな気がする。二大政党型というのは、それぞれの党の基盤がしっかりしていなければならないが、現状では、自民党で多少うまくいっている時は自民党が大勝し、ちょっと批判票が多くなると、野党が伸びるといった程度のものだ。

今回の結果だって、よくみればわかることだが、自民党は改選議席を 一つ減らしただけで、民主党の増加分は、共産党の減少分にほぼ等しい。これまで共産党に流れていた純朴な批判票が、ムードに乗って民主党に流れたというだけのことだ。

この構造は、読売ジャイアンツとその他大勢のコバンザメで成り立ってきたせいで、今ガラガラポンしないと存続できなくなった野球業界と似たところがある。スポーツニュースでは「ファン不在」などと言っているが、そのファンだって、これまでちゃんとファンらしいことをしてきたのかどうか、疑問である。

野球ファンの圧倒的多数派は、結局ジャイアンツの尻馬に乗って騒いできただけだ。かなり離された二番手の阪神ファンは、「アホな息子ほどかわいい」などと呑気なことを言って、抜本的なことを要求しないできたし、残りの「アンチ巨人」は、その時々の調子のいいチームの尻馬に乗っていただけである。

結果論で取って付けたような「国民のバランス感覚」がしっくりくるような風土では、「政治という業界」も、野球業界同様、維持できなくなる。きちんとマーケティングしないと、投票率はますますジリ貧になる。

 

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2004年7月11日

「整理できない」症候群

昨日、知人と「机の上を整理できない」症候群の話になった。やはり、ある程度は整理できてないと、捜し物に取られる時間ばかり増えて、仕事がはかどらない。
しかし、何もかもきっちり整理する方がいいかというと、そういうわけでもない。

捜し物に取られる時間も馬鹿馬鹿しいが、整理作業に取られる時間だって、かなりのものである。1週間に 1時間かけて整理作業をしても、その 1週間のうちに、ものを探す時間が合計で 1時間以上短縮されなければ、それはかえって無駄というものではないか。

考えてみると、1時間かけて整理しても、1時間の捜し物時間短縮は容易ではないということがわかる。ROI という言葉がある。Return On Investment の略で、投資に見合った効果が得られるかということだ。その視点からすると、きちんと整理するというのは、時間をかけただけの時間短縮効果があるとは到底思えない。

そもそも、きちんと美しく整理した書類に限って、それから先、あまり使われることもなく、5年ぐらい経って何の価値もない化石と化しても、書類棚の特等席にきれいにファイルされて鎮座ましましているということが多い。そのくせ、一番よくつかう書類は、せいぜいクリアファイルかなにかに放り込まれて、机の片隅に積み重ねられていたりする。

私は、野口悠紀雄氏の「超」整理法 を実践するようになってから、机の上がまだしもましになった。しかし、きれいに整理されているわけではまったくない。きれいに整理されているのと、使いやすく散らかしてあるのとでは、私は使いやすく散らかしてある方を取りたい。

 

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2004年7月10日

人名漢字拡大の怪 その3

先月の 18日付の当コラムでさんざん批判した人名用漢字追加案でパブリック・コメントがまとまり、さすがに「糞」だの「屍」などは削除される方向のようだ。

1000通以上の意見のうち、「糞」「屍」などの文字について「不適切」との意見が半数を超えたためという。

人名用漢字案で一部削除へ 法制審部会が検討 (共同通信)

これを受けて、追加案は正式決定し、今秋にも人名に使える漢字が増えることになるという。

おもしろいのは、追加案にへんてこな漢字がいくつか混じっていたことについての、検討部会関係者のコメントである。(以下引用)

「常用性があり、平易であること」を原則にJIS漢字表から選定。漢字自体が持つ意味が人名にふさわしいかどうかについては「意味を検討し始めると各委員の意見が異なり、収拾がつかなくなる」(関係者)として検討しなかった結果、「糞」などの漢字が含まれることになった。

「糞」だの「淫」だの「屍」だの「癌」だのの意味について、そんなに収拾がつかなくなるほどの、百家争鳴的意見が出るのだろうか。素晴らしく多様な価値観で、しかも互いに譲らぬほど我の強い委員がお揃いのようだが、実際のところ、にわかには信じがたい。

それに、専門家の間でさえ「収拾がつかない」ようなむずかしい問題を、わずか 1000名程度の素人の意見で、しかも、たかだか「半数を超えた」程度のことで、あっさりと引っ込めてしまうというのも、普通に考えればちょっとすごい話である。

こういうのを、ちょっと気取った日本語では「予定調和」と言い、率直な日本語では「出来レース」と言うのである。日本の法務省というのは、なかなか食えないところであるようだ。

人名漢字拡大の怪

人名漢字拡大の怪 その2>

 

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2004年7月 9日

夏の京都

8日は京都に日帰り出張した。夏の京都なんていうと、聞くだけで汗が吹き出すが、確かに暑かった。久し振りに、その「妙な」暑さを体感してしまった。
新幹線を降りたのは午前 11時頃。その時はまだそれほどでもなかったが、「空気の熱」は刻々と増してくる。

近鉄と京阪電車を乗り継いで、競馬場で有名な淀の駅に降りた時は、既にむっとするほど暑かった。淀川の土手から北山、東山を見渡すと、入道雲がもくもくと湧き始めている。体中から汗がしたたる。

屋内に入っても、京都のエアコンというのは、多分東京や大阪よりも設定温度が高い。なかなか汗がひかない。さらにあちこち訪問すると、そもそもエアコンというものを設置していないところもある。窓を開け放して、自然の風だけでしのごうということだ。

しかし、その「自然の風」が熱いのである。「暑い」ではなく「熱い」のだ。息を吸っただけで、肺の中に熱い空気が入ってきて、頭がぼーっとする。京都の夏は、このジトジト感とぼーっとする感覚だったと、思い出す。

先人は、わざわざこの夏暑く、冬寒い土地に都を定めたのである。メリハリの効いたことである。

 

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2004年7月 8日

コンテンツの一部としての Blog

7月 8日を期して、「今日の一撃」は Blog ツールを使うことにした。全文表示の見た目がいきなり変わって、恐縮である。(7月分のバックナンバーは、後追いでアップロードした)

Cocolog を使っているのだが、Blog ツールを使っているからといって、Blog になってしまったとも言いにくい。気分はあくまでも、従来のコラムのままである。

Blog のサイトの作りは、至ってシンプルにした。いきなり Cocolog としてアクセスしてみても、ちっともチャーミングなデザインではないと思う。あくまでも、「知の海」 のトップページからサブウィンドウで開いて見て、初めてしっくりくるデザインにしてある。

考えてみると、Blog ツールというのはかなり使い道がある。これまでは、デザイン面での制約が気に入らなくて敬遠していたのだが、メインサイトのコンテンツの一部にしてしまえばいい。とくに毎日更新するようなコンテンツの場合は、かなり手間が省ける。

Blog のコンテンツ化というのは、うまくしたらトレンドになるかも知れない。そうなったら、私はその先駆けの一人として、自慢してしまおう。

知の海のトップページは、日付が変わる前に 「一撃」 のリードの部分を更新してしまうことが多い。しかし、本文は日付が変わると同時に更新されるように設定してある。このタイムラグの解決が、課題と言えば課題である。

【追記】

ココログへの乗り換えは 7月 8日だが、7月 1日分 6日分までを、遡ってココログに転載させていただいた。

 

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2004年7月 7日

新暦の七夕は興醒めだ・2

この時期になると毎年のように書いているのだが、新暦の七夕だけはなんとかしてもらいたい。月遅れの七夕に馴染んでいた私は、東京に出てきて新暦の七夕をみて、「本気かいな !?」 と愕然とした。

本来の七夕の季節感は、旧暦 7月 7日にこそふさわしく、新暦では早すぎる。

ちなみに、今日は旧暦で言えば、まだ 5月 20日である。皐月である。6月(水無月)にもなっていない。五月雨の季節なのである。今年は空梅雨で、五月雨こそ少ないが、本来の七夕を祝うには、一月半も早すぎるのだ。

今年の旧暦 7月 7日(本当の七夕)は、新暦でいえば 8月 22日になる。お盆を過ぎた頃である。このあたりになると、日の入りもかなり早くなり、夜が長くなる。星がきれいに見え始める頃である。七夕の季節感は、まさにこうした時期である。

さらに、旧暦は月の満ち欠けをもとにしているので、7日といえば必ず半月である。その半月が天の川を横切るのを、織姫と彦星の逢瀬を演出する舟に見立てているのである。なかなか風流な話なのだ。

七夕だけでなく、桃の節句も端午の節句も、みな季節感がおかしいのである。こうした祝い事は、旧暦に戻してしかるべきだと、私はしつこく叫びたいのである。

【2026年 5月 14日 追記】

この日の記事は 22年近く「新暦の七夕は興醒めだ」というタイトルにしていたのだが、2002年 7月 6日にも同じタイトルで書いているのに気付いてしまった(参照)。

というわけで、この記事のタイトルは「新暦の七夕は興醒めだ・2」と変更させていただくので、よろしく。

 

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2004年7月 6日

今回の参院選

私自身は、今回の参議院選挙も期日前投票になるが、ちゃんと行くつもりである。しかし本音を言うと、それが望ましい行動なのかどうか、わからなくなった。

一度投票率を 10%台とかに極端に下げて、国会の権威をスポイルしてしまってはどうかと思うこともある。

読売新聞社が全国の有権者約 5万人を対象に行った全国世論調査では、投票に「必ず行く」と答えた人が 73%で、前回参院選より 4ポイント減少したという。私はこの調査結果を見るたびに、「ウソばっか!」 と思う。

というのは、「必ず行く」が 77%になった前回の参院選でさえ、実際の投票率は 56.44%だったからである。大体において、実際の投票率は読売新聞の調査結果より 20%ぐらい下回る。電話でアンケートされると、ついカッコつけて「必ず行きますよ」などと、心にもないことを言ってしまう人が多いようだ。

こんなことなら、いっそのこと皆で投票をボイコットしてしまってはどうかと思うことがあるのである。ボイコットと言っても、立候補者本人やその親類縁者、選挙フリーク、公明党支持者などはどうしても投票に行くだろうから、結果的には最低でも 10%台の投票率になるだろう。それでも、国会の権威を失墜させるには十分な低率である。

「そんなもんで選ばれた議員なんて、俺たち知らんもんね」と言ってしまったら、どうなるだろう。その時こそ、議員たちも真面目に考えるのではなかろうか。

自民党は惨敗するのではないかと言われているが、そんなことは当たり前である。民間企業でこれだけ顧客サービスを怠ったら、とっくの昔に倒産している。

自民党なんて昔からバラバラだが、今回はとくに輪をかけているようで、行政改革なんかどこかに吹っ飛んでいる。党としては惨敗しても、小泉さんが退陣してくれればうれしいみたいな連中がゴロゴロしているのだら、求心力なんて出るわけがない。

「いろいろ不満はあるでしょうが、とにかく投票に行きましょう」なんていう呼びかけは、こんな連中に議員としてのお墨付きを与えることに通じる。馬鹿馬鹿しくもなろうというものだ。初めから全然投票に行く気のない若者たちの感性は、案外侮れないのである。

 

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2004年7月 5日

長距離ドライブ

酒田を 11時過ぎに発ち、約 11時間かかって帰宅した。途中で 2度の食事で合わせて 2時間弱かかっており、休憩やみやげの買い物などもしたので、正味の運転時間は約 6時間半ぐらいか。
それにしても、最近は長距離ドライブをすると、さすがに疲れるようになった。

近頃では高速道路が整備されたので、自宅から約 15分の常磐道入り口から、山形道の酒田 IC まで、高速道路だけを使って行き来することができる。計算上は、片道に 6時間みれば十分だ。何も 11時間かけなくてもいいのである。

しかし、高速道路がつながった時はうれしかったが、実際には端から端まで高速道路を利用したことはあまりない。福島県の須賀川から山形県の寒河江までは、ほぼ 100%近く高速道路を使っているが、他の部分は、気分次第で一般道を走ることがかなりある。

走ってみればわかることだが、高速道路というのは運転していて面白いことは何もない。まったくつまらないのである。一般道ならば、気が向いたら止まってみることもできるが、高速道路ではそうはいかない。ただ単に速く走れるというだけのことである。

というわけで、最近は一般道走行を多くとっていたが、どうも、この年になってみると、それでは疲れるようになったのである。これからは、高速道路走行の比率を多くとってみようと思っている。つまらないことだが、しかたがない。

その時々で、一般道を走る 「重点ルート」 を変えながら、メリハリをつけおうと思っている。

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2004年7月 4日

独立行政法人の統廃合

政府は独立行政法人の合理化を推進する方針だそうである。現在 109ある独立行政法人の統廃合を検討し、合理化の議論を加速するのだそうだ。
よく引き合いに出されるのが、「国立少年自然の家」と「国立青年の家」はどう違うのかという問題である。

こうした団体とか法人とかいうのは、作るときは簡単に作れるが、必要なくなってもなかなか消滅させることはできないものである。それは、そこに勤務する職員の処遇をどうするかというよりも、そこに天下る必要があるお役人が抵抗するからである。

団体職員の処遇なんて、案外簡単に割り切られるのである。冷たいものである。そのかわり、天下り先確保のお役人の要請というのは、なかなか簡単に割り切ることはできない。既得権の確保というのは、それほど強力な力をもつ。

団体だの法人だのの存続の決まり文句は、その団体・法人が果たしてきた役割は大きく、これが欠けたら損失は大きいとかいうような話になる。しかし、そう思い込んでいるのは既得権の関わる関係者だけで、回りは別段なんとも思っていない。

「自分が休んだら、会社の仕事が回らなくなる」といって無理して出勤するオジサンと同じようなもので、本当は「あんたが 2~3日休んだところで、別に影響ないよ」というようなものと同じである。

逆に、「あんたが妙なところでがんばりすぎるから、進むものも進まないんだよ」という部分だって大きい。本当は、そんな団体があって見当ハズレの答申ばかり出すから、業界がまともに進まないみたいなことは、いくらでもあるのである。

団体や法人の統廃合なんて、どんどん進めてもらいたいものである。

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2004年7月 3日

庄内弁の将来

帰郷する度に、最近の子どもたちの会話から「庄内弁」が消えていく様子を見て、とても残念に思っている。

何しろ、学校帰りに友達と別れる時、「じゃあね!」なんて言っているのである。酒田の子なら酒田の子らしく、「へばの!」と言ってもらいたいものである。

今日、車で酒田に来ているが、途中のファミレスで夕食をとったところ、隣の席に女子高校生らしい 4人が座ったが、なんと、見事な庄内弁なのである。私としては、それを聞いて妙に安心したのである。

聞くところによると、最近の子どもは、小学校の頃は共通語でも、高校生ぐらいになるとだんだん方言に馴染んでくる傾向があるらしい。それは、酒田市外から通学して来る子たちとの付き合いが増えるためもあるようだ。

酒田の街でみかける親子の会話を聞いていると、親たちが共通語で話している場合が多い。多分、両親のうちのどちらかが東京かどこかに出ているうちに相手に出会い、結婚して酒田に戻ったかなにかの事情で、家の中では共通語で話している家庭が多くなっているのだろう。そうなると、そうした家庭の子が庄内弁を学ぶのは、高校に入ってからのことである。 どうぞしっかりと学んでほしいものだ。

とは言いながら、長い目で見れば、庄内弁はだんだんと消えていくことになるだろう。こうなったら、「特殊技能」としてでもいいから、生き残ってほしいと思うのである。

 

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2004年7月 2日

プロ野球の 「タニマチ」 体質

今回のプロ野球「近鉄・オリックス問題」は、普通ならホワイトナイト(救いの騎士)と見られてもいいライブドアが完全に邪魔者扱いされていることからも、「合併 - 1 リーグ制移行」は、ほとんど「出来レース」であることがわかる。
大筋の話は裏で決まっているのだろう。

それにしても、プロ野球のオーナーというのは、かなり狭い特殊な世界で生きているのだとわかった。大相撲の「タニマチ」というのもすごいなと思っていたが、プロ野球のそれは、相撲の比ではない。コンベンショナルな企業同士の非常に「排他的」な集まりである。

この排他的な親方たちが、これまでは球団を持つなんて「宣伝費と思えば安いモンだ」ぐらいのつもりで金をつぎ込んできたのだが、世の中が変わって、なかなかそれもやりにくくなったということで、業界の縮小を画策しているのだと思えば、話は見えてくる。要するに、担ぐ荷物を軽くしたいのだ。

せっかく業界のリストラで話がまとまりかけているところに、どこの馬の骨だかわからないバブリーな IT ベンチャーが乱入してきたわけだから、親方連中としては相当にムッとしているわけだ。自分たちの懐具合が淋しいところにもってきて、「金はいくらでも現金で出す」なんて言われると、ますます反感はつのる。

もっとも、ライブドアにしてもその辺は読んでいて、どうせ歓迎されるわけはないと踏んでいただろう。それならば、行きがけの駄賃だ。記者会見一発で、全国的な認知度を高めてしまえばいい。コストパフォーマンスで言えば、実際に球団を買収するよりずっと効果的だ。

今回の騒動は、プロ野球オーナーに代表される旧来型の一流企業と、新興のバブリーな企業とのつばぜり合いである。そして、プロ野球はやはり、旧来型のオジサンたちの玩具なのである。

 

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2004年7月 1日

月日の経つのは早いもの

6月も終わり、ということは、今年も半分終わったと言うことだ。なんとまあ、月日の経つのは早いものである。

当サイトがスタートしたのは、平成 14年の 1月 16日だから、もう 2年半になろうとしている。この「一撃」を書き始めてからでさえ、2年と 3ヶ月が経っている。

考えてみれば、たまにサボることはあっても、毎日毎日更新し続けて、800本ぐらいの「一撃」を書いているわけで、そのうち、最初の 4ヶ月はほとんど 6~7行程度の単文だったが(「一撃」= crack) というのも、その短さから名付けられた)、多少長く書くようになってからでも、650本ぐらいのコラムを書いていることになる。我ながら、よくネタに窮しないものだと、呆れるほどだ。

ところで、毎日ただひたすら更新しているためか、今年に入ってから、平均して 1日 50人は当サイトのトップページにアクセスしてくれるようになった。大体、50人が 80回以上来てくれるようである。個人サイトのアクセスとしては、健闘している部類に入るのではなかろうか。

このサイトをスタートさせた時は、1日 30人が来てくれるサイトを作ろうと思っていたのだが、それは昨年の初めに達成して、昨年のトータルを平均すると、大体 1日に 40人が 70回来てくれたことになる。今年上半期で、それぞれがプラス 10ぐらいの増加を見せているのもありがたい。

トップページだけでなく、サイト全体ではどうなるかというと、全てのページをアクセス分析しているわけではないので正確にはわからないが、主なページへのアクセス状況から推定すると、大体 1日に 150~160人が、230~250回来てくれるサイトになっているようである。

Google の検索結果から、いろいろなページに飛んできてくれる人が多いのだが、トップページから「一撃」の本文に入るアクセスは、かなり常連化してきている。当サイトへのアクセスのほぼ 3分の 1が常連さんとみることができ、それは私のサイト作りの目指していた方向でもあるので、ありがたいことである。

 

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