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2004年8月31日

「国のため」と「自分のため」

アテネ・オリンピックが終わった。始まるまではほとんど興味を持っていなかったし、夜中にテレビに熱中するということもなかったが、終わってみれば、そこそこ「いい大会」だったような気がする。

派手さばかりを狙った過剰な演出もなく、つつましい運営のようにみえたし。

ところで、オリンピックなどの国際スポーツ大会があるたびに、「選手は国のためではなく、自分のために楽しんで競技すべきだ」みたいなことを言う論調がみえるが、「ふ~ん、そんなもんかねぇ」と思ってしまう。

それを言う人は「国のため」というのを「きれい事」とか「押しつけがましさ」のように感じているのだろうが、私は逆に、「自分のため」を強調する方がずっと「きれい事」のように思える。

選手本人にしてみれば、競技している間はただ「勝利」のみを考えて集中しているのだろうから、必要以上に「国のため」を押しつけて金縛りにするつもりは毛頭ない。しかし見る方は、かなりの部分、やっぱり「国」という視点で見ているのである。それは否定できない。

普段の生活ではまったく見ず知らずのくせに、日本人選手というだけで、結構な思い入れで応援してしまうのは、やはり「日本」という共通項を強く意識しているからだ。そうでなければ、表彰式で国旗を掲げ、国家を演奏する意味もない。

見ている方にそうした意識がある以上、選手の方にだって、心の片隅でいいから、「国のために」という意識が少しぐらいあってもいいだろうと期待しても、罰は当たらないだろう。そうした心理をまるでナンセンスのように言うのは、「裏返しの偽善」のような気がするのである。

ぶっちゃけた言い方をすれば、スポーツの練習をするにも、「国の力」というのは強い影を落とす。食うにやっとのような環境では、スポーツ振興もままならないのである。自分一人の力だけでオリンピック選手になんかなれるものではない。周囲の環境、強化支援策など、総合的なものの結果なのだ。

それを無視して、ことさらに「自分のため」のみを強調するのは、よく言って「無邪気」、悪く言えば「恩知らず」というものである。優勝選手が「周囲のみんなのおかげ」なんてコメントするのを「偽善ぽい」と言う人があるが、実はそれは偽善でもなんでもない。事実なのである。それは、コメントした選手が一番よく実感しているはずだ。

スポーツ選手はまったく独立した「個」ではあり得ず、ある種の「ネットワーク」としての何物か(オリンピックの場合は「国」)の「代表」という位置づけから免れ得ないのだ。

それに、「まったく自分のためだけ」に競技するよりも、多少なりとも「国を背負って」がんばる方が、いい結果が出たときの喜びだって、増幅するだろう。「自分のため」を押しつける人は、そうした「より大きな喜び」を奪おうとしていることに気付いていない。

最後に、誤解を避けるために付け加えるが、ここで強調し 「国」は "nation"(国家)と言うよりは "country" に近い意味合いで言っている。ナショナリズムとは一線を画したい。日本語では、この二つが同じ単語なので、ちょっと「国」というだけで、右翼的ナショナリスト扱いされてしまう。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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