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2004年8月 7日

政治的フーリガン

今日、サッカー、アジアカップの決勝となる。中国の日本に対するブーイングは、聞きしに勝るもののようだ。

「欧州のフーリガンは、もっと凄い」という指摘もあるが、フーリガンは政治問題なんかピッチに持ち出さない。中国の場合は、明らかに政治的に煽動されたものだ。

試合中の熱狂についてどうこう言うつもりはないが、国歌斉唱の際のブーイングは単なる「非礼」の域を超えたものだろう。スポーツにことさらに政治を持ち込むというのは、センスがよろしくない。

日本のマスコミも過敏な取り上げ方をしすぎと言われる。開催地の重慶は中国でもスポーツに熱狂的な土地柄なのだから、あのくらいは当然と言う自称「中国通」もいる。そんなことも知らずに過敏に反応するのは、中国を知らなすぎるとしたり顔だ。

しかし国際的常識に反するマナーを指摘するのに、どうして中国ローカルの常識に沿う必要があるというのだ。これは単なるスポーツの問題というよりは、政治問題に足を踏み込んでいる。相手方が過激に政治問題を持ち込みすぎるのだから、日本側の反応はまだおとなしいぐらいのものだ。

中国には、今後 4年間でオリンピック開催国としての資質をきちんと身につけて欲しいと思う。

欧州の場合は一部のフーリガンが騒いでも、当然ながらマスコミはそれを批判的に取り上げる。ところが中国の場合は、ジーコ監督の記者会見で「準々決勝、準決勝の日本の勝利は『幸運』によるものではないか」などという質問が飛ぶ。プレスまで一緒になってはしゃいでいる。

これでは、まともに相手にするだけ馬鹿らしくもなろうというものである。「いわゆる運という言葉はコイントスのようなときに使われるもの。幸運を呼び寄せるためにはそれだけの練習を積まなくてはいけない」と応えたジーコ監督は、さすがである。

ただ今夜の決勝戦で、もしかして秩序正しい観戦などということになったら、それはそれで気持ち悪いだろうが。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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