起きて半畳、寝て一畳
家族 5人で 9日の夜明け前に出発して、高速道路をひた走り、仙台で義理の母(妻の母)の十三回忌に参列した。
午後は本州北部を横断し、酒田に来ている。実家に泊まろうと思っていたが、さすがに寝たきりの母の負担になりそうなので、急遽、温泉スパに宿を取った。
急なことなので、実家の近くで他に泊まれるところがなく、8畳の和室しか空いていない。 5人で寝るのはちょっと窮屈かと思っていたが、布団を敷いてみると、それほど狭苦しくはない。
「起きて半畳、寝て一畳」という言葉を思い出した。昔の人は体格も小さかったから、これで十分だったのだろう。してみれば、現代人の我々でも、8畳に 5人なら、なんのことなく OK だ。
こんなことを考えたのは、義母の法事で、白隠禅師の 「座禅和讃」 というのを聞いたからだ。これは臨済宗の寺院では毎日唱えられる大切なものであるらしい。
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
例えば水の中に居て 渇を叫ぶがごときなり
長者の家の子となりて 貧理に迷うに異ならず六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離なるべき
それ摩訶えんの禅定は 賞嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其の品多き諸善行 皆このうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処に有りぬべき 浄土即ち遠からず
辱くもこの法を 一たび耳に触るるとき
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
況や自ら回向して 直に自性証すれば
自性即ち無性にて 己に戯論を離れたり因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり
この身即ち仏ならば、半畳や一畳なんて、問題じゃない。半畳が無限の宇宙であっても不思議ではなかろう。
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