悟りの回数
一昨日「座禅和讃」について書いたので思い出したのだが、白隠禅師は「大悟十八回、小悟数知れず」と言ったという。
これに関して、「白隠禅師って、威張りたがりだったんだね」と言う人がいて、驚いたことがある。回数の多さを自慢していると受け取ったらしい。誤解も甚だしい。
悟りの回数なんてものは、いくら多くても自慢にはならない。一度でどんぴしゃりの悟りを得るのが、一番すごいことだからだ。回数が多いのは、悟ったと思っても、浅い悟りだったのだ。白隠禅師でさえそうだったわけだ。
「頓得の悟り」というものがある。突然訪れる悟りである。「頓得のにわか悟り」なんていう言い方もあるように、それで全てを悟ったと慢心しては、かえって修行の障りになる。
しかし、それを軽視してはいけないのであって、そのような「小悟 を積み重ねていくことにより、ある時、不意に大きな悟り「大悟」が訪れる。しかし、その「大悟」ですら、白隠禅師には 18回も訪れたわけだ。
段階的な修行を積み重ねていくことによる悟りは「漸得の悟り」という。一度きりの「頓得の悟り」で満足してしまってはならないのだ。
つまり、人間というものは、「俺も相当に悟ったな」なんてなことを思ったとしても、それはまだまだ初歩の段階に過ぎないということだ。「まだまだ修行が足りないな」ぐらいに思っていてちょうどいいのかもしれない。
その「修行」というのは、「この身即ち仏なり」という「即身成仏」を現すためのものなのだろう。ないものを求めるのではなく、本来の姿を現し出すということか。
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