食べ物の好き嫌い
当サイトからリンクしている「28歳OL。」というサイトの「王様の耳はロバの耳」という日記で、食べ物の「好き嫌い」が取り上げられている。
管理人の Reiko Kato さんは、人前で堂々と「好き嫌い」を表明して食べ残したりするのは、失礼だと主張している。
これは至極もっともなことで、「本来は嫌いはなくす(なくす努力をする)のが望ましいが、仮にそうでなくても、知らん顔をして飲み込むくらいのことはすべきだ。それをしないのは、単なる我儘にしか聞こない」という彼女の主張に、私はかなりの部分で賛成する。
その上で敢えて言うのだが、実は、私は食べ物の「好き嫌い」というのが、よくわからないのだ。よくわからないから、あまり迂闊なことも言えない気もするのである。
私はこれまで食した食べ物の中で、完全に調理法を失敗して「食べ物というよりは焦げた物体」みたいなレベルになってしまったものを除き、「食えないほど不味い」と思ったものは一つとしてない。
いや、決して「味音痴」というわけではない。それどころか、最近は年のせいで多少は味覚が鈍くなったが、味に関してはわかっている方だと思う。単に「おいしい物はおいしく、そうでない物もそれなりに」ありがたく頂いているだけのことだ。
多分、「好き嫌い」における「味覚」の要素は、とても小さいのではないかと思う。それよりも、心理的要素が大きいような気がする。あるものを絶対に受け付けないことによって、精神的安定を確保するとかいうこともあるだろう。
例えば、私がいくら大抵のゲテモノでも食えるからと言って、「ハツカネズミの踊り食い」を供されても困る。白魚や海老の踊り食いと、根本的にどこが違うのだと言われても、こればかりは理屈抜きに断る。絶対に断る。
しかし、私のこうした態度は、「ハツカネズミの踊り食い」を最上のご馳走とする文化圏からみれば甚だ不可解なものに映るだろう。しかし、だからといって、「ご馳走なんだから、食べなさい」と強要されても困るのである。
あるいは、深層意識におけるなんらかのコンプレックスを静めるために、代償行為として、本当は大好きなある食べ物を食することを、無意識的に禁じているというケースもあるだろう。こんな場合は、その食べ物を我慢して食べたことによって、精神的バランスが崩壊することだってあり得なくもない。
単なるわがままのケースは別として、見るだけで吐き気がするとか、泣きながらでもどうしても食えないというほどの病的な好き嫌いが、確かにこの世には存在するらしい。ごく普通の食べ物がどうしても食えないというのは、正真正銘の神経症なのだろう。その人にとっては、ニンジンがハツカネズミなのである。
「わがまま言わずに、ちゃんと食べなさい!」と強要するよりも、心理療法が必要なのかもしれない。しかし、ある種の物が食べられるようになるというためだけに、心理療法に高い金を払う人は稀だろうから、「病気」というより「好き嫌い」で片づけられている。
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