科学的迷信?
世の中には「科学的」であるというだけでむやみに信用する人があるが、私はそれは考え物だと思っている。
世の全てが科学で解明されているわけではない。科学の理解は、いつの世でも限定的なものだ。直観的把握を科学が追いかけるというケースも非常に多い。
誤解しないで頂きたい。私は科学を信じないというのではない。科学をむやみに信じすぎるのも、「妄信」に違いないと言いたいのである。それは、科学の理解は、その時々の限定的な理解でしかないからだ。
例えば身近なところで、「ナス」の栄養を例に挙げよう。
私が大学に入って一人暮らしを始めた頃、自炊のための料理の本を買った。その本には、「ナスは『栄養ナス』と言われ、栄養学的には何もみるべきものがない」と書いてあった。要するに、「おいしいけど、科学的には無意味な食べ物」と言っているのである。
ただ、「油を吸収しやすいので、『脂肪分を摂るための台車』と考えれば、意味がある」とあった。つまり、当時の栄養学的常識では、欧米型の高脂肪食が「望ましいこと」と考えられていたのである。
科学ともあろうものが、単純にカロリー礼賛だったのだ。まぁ、飽食の時代以前のことだから、仕方がないかもしれないが。
しかし、これが科学の限界なのである。現在では、ナスは「栄養学的には見るべきものがない」どころか、あの濃い紫色はナスニンと言って、アントシアニン系の色素、ポリフェノールの一種であり、ガンなどの原因である活性酸素を除去する効果があるとわかっている。
さらに、かつて「脂肪分を摂るための台車」と言われた機能は、今ではすっかり悪役扱いで、「ナス自体はカロリーが少ないが、脂肪を吸収しやすいので、調理法には気を付けなければならない」なんていうことになっている。
さらに、ナスの成分は口内炎などの炎症を抑える作用があり、また、火照った体を冷やす作用もある。これなどは、東洋医学的食養の世界では、数千年前から直感的、経験的に知られたことであるが、現代科学でもようやく認知されるにいたった。
30年前の科学的常識は、現代の非常識と化している。
科学は常に進歩し続けている。それは素晴らしいことであるが、それを認めるからには、現在の科学的成果が、限定的な理解に過ぎず、将来は覆される可能性があるということも認めなければならない。
そうでなければ、「科学的」という信念自体が「迷信」になってしまう。
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