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2004年9月30日

庄内弁を話す

私の妻は仙台生まれだが、私の生まれた山形県庄内の言葉を、ほぼ完璧に理解する。最初は実家の母の話などはちんぷんかんぷんだったようだが、いつしかヒアリングだけはバッチリになった。

一方、私にとっては仙台弁なんぞは、いともたやすく理解可能である。

難易度で言えば、庄内弁は仙台弁の 10倍ぐらい難しい。それだけに、妻は大変だったのである。

私の実家に行くと、親戚中が「同じ東北の仙台生まれなら通じるだろう」みたいな勝手な思いこみで、酒田特有の早口の庄内弁をガンガンまくし立てる。妻は、初めは固有名詞ぐらいしか理解できなかったようだ。ご苦労なことであった。

ところが、慣れとは恐ろしいものである。ものの数年も経たないうちに、かなりの部分を理解できるようになり、今では、自分ではしゃべれないが、ヒアリングに関してはほぼ完璧である。「もう、ぜぇんぶ、わかっちゃうわよ」ってなもんだ。

おかげで、私は家にいても、時々興が乗ると、もろに庄内弁で話をすることができる。私の庄内弁は、18歳で上京した当時そのままだから、かなりディープである。その濃い庄内弁がわかるのだから、今の酒田で話されている薄味の庄内弁なぞ、妻にとっては朝飯前である。

一方、今の庄内で暮らす若い夫婦には、家の中の会話は共通語というケースがかなり多いようだ。夫婦のどちらかが庄内以外の土地の出身だったりしたら、どうしてもそうなるだろう。

そうした家に生まれた子供は、よほどのジイチャン子かバアチャン子でなければ、庄内弁を知らずに育つ。テレビばかり見て育つから、せっかく庄内に暮らしながら、庄内弁に接する機会が極端に少ない。

共通語を労せずして話せるということは、悪いことではない。しかし、せっかくバイリンガルになれる環境にいるのに、共通語「しか」話せないというのは、もったいないことである。

方言とか外国語とかを自由に話せることのメリットは、重層的な思考ができるということだ。要するに、人間に奥行きが出るのである。

仙台生まれの妻と関東に暮らしながら、家庭の中では庄内弁で話す夫がいるのである。ならば、せっかく庄内に暮らすのなら、どんどん庄内弁で話してもらいたいものだ。

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