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2004年9月13日

一筆啓上火の用心

「一筆啓上火の用心 おせん泣かすな馬肥やせ」というのは、徳川家康の家臣、本多作左衛門重次が、戦場から妻に宛てて書いた手紙で、古くから簡潔の極致として絶賛されている。
しかし、私はこれに関しては以前から異論があるのである。

確かにシンプルではある。しかし、これが絶賛されるほどのものだろうか。こんな手紙をもらった妻が、果たして心から夫の愛情を感じて喜ぶものだろうか。手紙としての用をなしているのだろうか。

戦場でしたためる手紙に、こんな当たり前のことばかり書いてどうするのだ。一見簡潔でも、言わずもがなの繰り返しなら、それはくどいのである。短くてくどいというのは、下手すると最悪の手紙である。

その程度の手紙を託され、戦場を横切って国元にまで配達する責任の生じてしまった手下の身にもなってみろというのだ。

この手紙が有名になった本当の理由は、その「見かけ上の簡潔明瞭さ」故ではなく、むしろ、「意表をついた呆気なさ」というところにあったのではなかろうか。意表をつくと、物事というのは図らずも本来の価値以上の評価を得てしまうことがある。

誰か「王様は裸だ」と言うように、「こんな手紙をいつまでも手本みたいに思っていたら、女房に愛想尽かされるぞ」と指摘しなければならない。

いや、実はそのくらいのことは皆わかっている。わかっていながら、実際の価値観とは関係のないレベルで、「ちょっとした話のタネ」として伝わっているというのが、本当のところだろう。

この手紙を後世に残した本多作左衛門の妻は、よほど出来た女性だったのだろう。どちらかといえば、書いた当人より受け取った妻が偉い。 ジョークを解する力と「行間を読む」力の両方があったに違いない。

このような出来た妻であればこそ、この手紙の価値は成立したのかもしれない。ジョークを解し、行間を読み取る力さえあれば、人間関係はとてもうまく行く。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

新しい記事でリンクが張られていたので久しぶりにこの記事を拝読しましたが、ふと、これだけ「簡潔」で(あたりまえの)用件だけ書いた手紙のなかで、「一筆啓上」に四字を費やしているのはあまりに無駄ではないかと思ってしまいました。

投稿: 山辺響 | 2011年8月 4日 10:05

山辺響 さん:

>「一筆啓上」に四字を費やしているのはあまりに無駄ではないかと思ってしまいました。

まあ、七五調に統一したんでしょうね。
その意味では、洒脱なのかもしれません (^o^)

投稿: tak | 2011年8月 4日 11:11

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