ソーセージを直接食ってしまうという発想
最近、このサイトを 「知のヴァーリトゥード」と改称するにあたり、従来の「知のヴァーリトゥード」と言っていたものを「知のヴァーリトゥード 本場所」ということにした。(附記: その後、さらに「知の関節技」に改称)
その「本場所」の最初に書いたのが、「三つの願いと発想の転換」という、私にとっては記念碑的コラムである。
この 「今日の一撃(Today's Crack)」というコラムで書いたことを、もう少し肉付けして 「知のヴァーリトゥード 本場所」 の中に収めるということは、何度かしているのだが、最初から「本場所」に書いたものを、「一撃」で改めて触れるというのは、今回が初めてである。
そもそも、このサイトを始めたのは、この「三つの願い」というお話について、子どもの頃から感じていたことをどうしても書いておきたかったからというのが、直接的な動機なのである。
「三つの願い」という有名な童話の中では、ばあさんの鼻にくっついてしまったソーセージを取るために、大切な三つ目の願いを使ってしまった。しかし、そんなことをする必要はまったくなかったのである。
この話を初めて聞いた幼い私は、「自分なら、ばあさんの鼻にくっついたソーセージを直接食ってしまったのに。こびり付いた部分も、前歯でこそげ取ってしまったのに。そうすれば、最後に残った三つ目の願いを、本当に有意義に使えたのに」と、大層悔しいような思いをしたのである。こんな当たり前のことに、どうして今まで誰も気付かなかったのだろうか!
しかし、この「天啓のような」提案は、幼稚園の先生からは鼻であしらわれ、クラスでもあまり共感を呼ばなかったのである。私は幼心に、浮き世においてはあまり画期的なアイデアというのは受け入れられないのだと学んだのであった。
発想の転換は大切だが、転換しすぎると、なかなか相手にしてもらえないのである。世の中というのは、「ほどほど」が肝心なのである。
しかし、「ほどほど」で満足するほどつまらないこともない。それで、こんなコラムを毎日書き連ねる自分がいるのである。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「残暑見舞い」に八つ当たり(2023.08.26)
- ウナギを食わないって、そんなに難しいことなのか?(2023.07.30)
- 入道雲に「三好清海入道」の顔が(2023.07.29)
- そりゃ、エレベーターでのイタズラはヤバいけど・・・(2023.07.25)
- プリゴジンは既に死亡している? ロシアのヤバさ(2023.07.17)
コメント