相田みつをとギター侍
中学 3年の女の子が相田みつをの詩を書き初めに書いたら、国語の教師に「やくざの言葉」とけなされ、いじめにつながったというニュースがあった。 (参照)
この国語の教師の言動は確かに軽率だったが、「やくざの言葉」という印象には、妙に共感する向きもあるのが面白い。
この女の子が書き初めに書いたのは、「花はたださく ただひたすらに」というフレーズだそうだ。かなりひねくれた見方をしないと「やくざの言葉」にまでは聞こえないが、聞こえたとすれば、それは鶴田浩二の任侠映画の世界だ。この先生、もしかしたら任侠映画ファンかもしれない。
確かに、相田みつをの詩には独特の芸風があり、それは自称「苦労人」が酔うと必ずしつこく繰り返すありふれた人生訓を、さらっと書いたという趣である。その意味では、「やくざの言葉」というのは決して上手な譬えではないが、それに近い印象をもつのも、わからないではない。
相田みつをの詩は、正直言って私も「どこがいいんだろう」と思っている。そして最近新たに感じた感覚と、ちょっと相通じるところがあるような気がしている。
それは、今年の流行語大賞にまでなった、ギター侍、波田陽区の芸である。私は、あれがなんでそんなに面白いのか、よくわからない。しかし、「何故にわからないか」という理由は、よくわかっている。
彼が斬る「有名人の急所」というのは、多分、とてもテレビ的な感覚に基づいていて、普段テレビを見ている者にはとてもよくわかるのである。ところが、私はあまりテレビを見ないので、あの絶叫部分を聞いても、「へぇ、そんなものかね」と思うばかりで、笑うまでには到らない。しかし、もっとテレビを見てタネを仕入れておこうという気にも、今さらなれない。
相田みつをの詩も、おもむきは全然別だが、構造的にはそれと似たようなところがある。人生において普段感じていることを、短い単純な言葉で象徴的に表現されると、「俺もそう思ってたんだよ!」と共感する人がいるのはわかる。
しかし問題は、この人の詩は「行間だらけ」ということである。隙だらけなほどに行間をたっぷりあけて、読者が飛び込んでくるのを待つのが、相田みつをの世界である。
表面的には超ステロタイプの簡単な言葉だけで、しかも、あの字だもの。いわゆる「達筆」と違って、誰でも苦労なく読める。それを通してさらに「深い味わい」を求めるには、たっぷりとした「行間を読む」という「積極参加」が必要だ。
ただ、その行間を読むという作業は、結局は自分自身の感慨を彼の「詩」の言葉に重ね合わせるということになる。確かに「言えてる」ことではあるが、だからといって、そうまでしてあのステロタイプにシンクロするのは、私にはちょっと気恥ずかしい気がするのである。
ここから先は、単純に趣味の問題だ。相田みつをが好きな人は、こうした「気恥ずかしさ」を超越した人なのだろう。それは決して皮肉ではなく、幸せなことである。私は多分、表現に「一ひねり」が欲しいタイプということに過ぎないのだ。その「一ひねり」は、相田みつを的境地に達すれば、「余分なこと」なのかもしれない。
そういえば、ギター侍の斬り方も単純直截で、大したひねりは効いてないように思う。よくひねってありさえすれば、私だってモトを知らなくても笑えるだろう。しかし、あのくらい単純だからこそ、流行語大賞を取るほどポピュラーになったのだろうし、その意味では「一ひねり」は「余分」 なのかもしれない。
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