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2004年12月14日

「いろは歌」の読み方

人力検索サイト はてな」というのがある。質問をすると、参考になるサイトを寄ってたかって教えてくれるという仕掛けだ。

昨日、その中に 「いろは歌の口語訳」を訊ねる質問があった。「いろは歌」なんてものは、そのまま雰囲気でわかると思っていたので、この質問は意外だった。

「いろは歌」とは、例の「いろはにほへとちりぬるを」というアレである。弘法大師の作と伝えられてきたが、その後、いろは四十七文字が定着したのは弘法大師の存命時期よりずっと後なので、これは単なる俗説ということになった。

10世紀半ば以前は、いろは仮名は 47音ではなく、48音だったという。ア行の "i" と  ヤ行の "yi" が、きちんと区別されていたというのが、音韻学の研究の結果わかったのだ。万葉仮名ではきちんと文字も区別されていた。

そんなことは別として、「いろは歌」 は、別に口語訳なんてしなくても、何となく雰囲気でわかろうというものである。

色は匂へど 散りぬるを
我が世 誰そ常ならむ
有為の奥山 今日越へて
浅き夢見し 酔ひもせず

まんまではないか。

と、そう思っていたら、実は、最後の行の解釈に二通りあることがわかった。

一つは、私が上記で書いたように「浅き夢見し」とする説である。現代語では「浅い夢を見た」ということだ。つまり 「"有為の奥山"= "無明 (煩悩) の世界の有為転変" という "浅き夢 = 娑婆の人生" を見てしまったことだなあ」 という解釈だ。

しかし、そうではなく 「浅き夢見じ」 と読む説があることを、初めて知った。最後の「し」に濁点が付くのである。(参照) 。これだと、「浅い夢なんて、見るまい」 と拒否していることになる。合理的意志ともいうべきものが感じられる。そして、なんと広辞苑では、この「夢見じ」説をとっているらしい。

しかし、私としては「夢見じ」説には違和感がある。「いろは歌」は世の無常を歌ったもので、般若心経の「色即是空」に通じるものがある。しかし、「色」がはかなく散ってしまうものだからといって、「色」そのものを否定して「浅はかな夢なんか見ないぞ」と言ってしまっては、かえって底が浅くなるような気がする。

なぜなら「般若心経」では、「色即是空」のすぐ後に「空即是色」と続くからだ。単純に否定してしまってはならないのである。「浅き夢」とは、「娑婆の人生」そのものだ。「浅はかな夢のようなもの」とはいいながら、人生は「娑婆の修行」の舞台でもあるのである。

単純否定を否定すること、そしてさらに、それすらをも否定し尽くすことが、般若心経の哲理ではなかったか。

「浅き夢」を見た上で、「あぁ、夢であったか」と悟った悟りは、夢を一度も見たことのない悟りよりもコクがあるのではなかろうか。

【平成 23年 10月4日 追記】

2011.10.04 の記事に、古代探偵さんという方から次のようなコメントが付いたので紹介しておく。

万葉集には、過去形の「き」を体言止めの「し」で終わらせる例があります。万葉集巻1の105番の大伯皇女の歌、「我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて あかつき露に 我がたち濡れし」が体言止めです。

心強いコメントである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

御説拝見しました。
いわゆるアカデミズムの世界で問題にする文法的齟齬は他にもあります。
「浅き夢みし」説では時制が乱れてしまうのが致命的でしょう。
「浅き夢みし」に、『』で時制を示しますと、「有為の奥山『今日』越えて(『昨日までは』)浅き夢みし」と、(昨日までは)の語を補って解釈することになります。
つまり(今までは)の語が省略されているわけですが、このような省略が日本語で許されるかどうか大いに疑問の残るところです。
例えば
「花子は太郎の家に『今日』行って、(『昨日』は)花子の家にいた」という文章を
「花子は太郎の家に今日行って、花子の家にいた」とすることは許されません。意味がわからない文章になります。

また、内容面から見ても、
「有為の奥山今日越えて」「浅き夢みし」と二つに区切るのではなく、
「有為の奥山今日越えて、浅き夢みじ」と、一続きであると考え、「苦に満ちた現世を今日から越えて、儚い夢のような現世で悩まないぞ」という意思を表明していると理解するのが妥当です。
「有為の奥山今日越えて」とあるところを、実際に有為の奥山を今日越えたと受け取るのはかなりムツカシイのです。
仏教的なムツカシイ事を言えば、「悟った」と思ってしまったら、それは「悟ってない」と考えます。般若心経に「無無明、亦無無明尽」
とあるように、「悟り」は「悟る」「悟らない」という対立を超越したところにあるのです。
そういう前提の下で、仏教者が「今日、悟りを開いたよ」という宣言をするのはかなり特殊な事情下にあるといえます。
それは「いろは歌」に詠まれている諸行無常の範疇を大きく越えてしまいます。

投稿: コノハズク | 2005年10月12日 00:28

コノハズクさん、

含蓄深いコメント、ありがとうございます。

時制に関しては、
「有為の奥山を今日越えながら」 「浅い夢を見た」 と、
現在完了進行形みたいな意味合いを想定していました。
浅い夢を見たのは、昨日までのことというのは、
あり得ないような気がします。
「有為の奥山」 こそ、「浅い夢」 ですから。

「悟る」 「悟らない」 に関しては、
白隠禅師じゃないけど、
「大悟十八回、小悟数知れず」 みたいなこともあるので、
こんな言い方も許されるかなと。

投稿: tak | 2005年10月12日 17:07

学者でもインテリでもありません。幼いとき父親から、いろは歌の奇跡(偉業)をきかされてから、自分なりに「悠久な時の流れとロマンとはかなさを感じる名作だなあ」と感じてました。特に「有為の奥山けふ越えて浅き夢見し」とはなんとうまい言い方だろうと。

ところが、長じてからこの、コノハズク氏曰くの「定説」を知り、がっかりしたのです。なんか、まじめで浅い歌だったんだと、、、

でも、歌から受けた最初の感動を信じたい気がして、検索しました。金田一京介みたいなちゃんとした学者さんが違う説をとなえてないかと・・・

そしたら、庄内さまに行き当たりました。
とてもうれしいです。
 わたしは、学者でもインテリでもありませんが、歌は奥深くあってこそだと思います。

 ありがとうございます。

投稿: 空っ風ふう | 2018年11月12日 20:39

空っ風ふう さん:

改めて考えると、四十七文字を一度ずつ使うという制約の下に作られている歌ですので、文法的な問題は 「えいやっ」 とばかりに敢えてパスしているところがありますね。

その辺りの事情を飲み込むと、一般的な解釈が妥当という気がします。

投稿: tak | 2018年11月12日 23:11

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