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2004年12月に作成された投稿

2004年12月31日

この1年 「 毎日更新」 を達成

いつもは日付の変わらないうちに、翌日分のコラムを書き終えてアップロードすることが多い。しかし、今日は正真正銘、日付が変わって大晦日になってしまった。
30日は部屋の大掃除をし、たまった書類をごっそり捨てたりしていたので、知らぬ間に時間がずれ込んだのだ。

とくにどんなネタにしようということもなく書き始めて、ふと気付いたのだが、平成 16年は 1日も欠かさずに「今日の一撃」を更新することができた。しかも閏年だから、366のコラムを 1年で書いたことになる。

そういえば、今年の正月は、「毎日更新」という謳い文句を文字通りに実行してみたいという、漠然とした思いを抱いていたのだった。その漠然とした思いが、1年経って実現してしまった。

5月には米国に出張し、日付変更線を行き来しなたら、辛うじて毎日更新をキープしたし、都心で飲んだくれて酔っぱらって帰ってきても、二日酔いでガンガンする頭を抱えながら、半ば意地で書き続けた。「正真正銘、毎日更新をした一年」という記録を残しておきたかったのである。

考えてみれば、この 1年、健康には恵まれたのであった。寝込むような病気とは無縁だった。毎日更新が実現できたのは、健康のおかげである。

さて、これからベッドに入り、起きてからやり残した仕事を少々片づけ、夜になったら、Pride と K-1 の格闘技を夢中になって見ることになる。それが終われば、「行く年来る年」で、除夜の鐘を聞きながら、平成 17年の最初の「一撃」を書くことになる。

それでは、月並みだが、よいお年を!

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2004年12月30日

スーザン・ソンタグの死

スーザン・ソンタグが死んだというニュースが飛び込んできた。死因は急性骨髄性白血病の合併症だったそうだ。享年 71歳。

彼女は、私がペーパーバックで読破した最初の 10冊の内で、最も七面倒くさい内容の本の著者である。つまり、難しくても面白かったから、最後まで読めたのだ。

私がペーパーバックで最初に読破したのは、 "American Graffiti"(アメリカン・グラフィティ)。映画を小説化(米国ではよくあるパターン) したもので、一気に読み終えた。その次が "Catcher in the Rye"(ライ麦畑で捕まえて)。 翻訳は全然つまらなかったが、オリジナルは本当に面白かった。その次が、レイモンド・チャンドラーの "Long Good-Bye"。 ハードボイルドの魅力にしびれた。

シンプルで読みやすい英語のものばかりの中で、スーザン・ソンタグの本は、難解極まるというわけでもないが、結構歯ごたえのある英語である。それでも放り出さずに読み終えることができたのは、やはり、それだけの魅力があったのだ。

私の読んだのは、"I, etcetra" という短編集である。この本は日本語訳が出ていないと思っていたのだが、たった今、Google で検索したら新潮社から 『わたし、エトセトラ』 というタイトルで出ているのだった。

この短編集の最初に載せられた "Project for a Trip to China" (中国旅行のプロジェクト) という作品は、二十代の頃、自分でも私的に翻訳した。なかなか趣のある自伝的な詩的短編である。翻訳したことで、私の文体形成に多少ながら影響されることがあったと思う。

私はこの翻訳には密かに自信を持っている。新潮社の本の翻訳は誰だか知らないが、一度比べてみたい気もする。

スーザン・ソンタグは政治的発言でもかなり注目された批評家・小説家だったが、私は彼女の思想的影響はほとんど受けなかった。影響を受けたとすれば、そのレトリックである。鋭い直観に裏打ちされた理知的で詩的でさえある文体は、とても魅力的だったのである。

レトリック面での影響を受けてはいるものの、四方田犬彦ほどスーザン・ソンタグ直訳調の文体にならずに済んでいるのは、一重に思想的な影響を拒否して、リベラル派知識人になることから身をかわし続けてきたからである。

私はスーザン・ソンタグの文体は好きだが、思想的には、別に好きでも嫌いでもないという、変な読者だった。

彼女は、ベトナム反戦運動以後の米国で、最も理知的な存在の一人だったと思うのだが、この場合の 「理知的」 とは、論理的というより直観的という趣が強い。論理より直観を好む私が、彼女の文体に惹かれたのは、当然だったかもしれない。

しなやかな直観の人の冥福を祈る。

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2004年12月29日

相田みつをとギター侍

中学 3年の女の子が相田みつをの詩を書き初めに書いたら、国語の教師に「やくざの言葉」とけなされ、いじめにつながったというニュースがあった。 (参照
この国語の教師の言動は確かに軽率だったが、「やくざの言葉」という印象には、妙に共感する向きもあるのが面白い。

この女の子が書き初めに書いたのは、「花はたださく ただひたすらに」というフレーズだそうだ。かなりひねくれた見方をしないと「やくざの言葉」にまでは聞こえないが、聞こえたとすれば、それは鶴田浩二の任侠映画の世界だ。この先生、もしかしたら任侠映画ファンかもしれない。

確かに、相田みつをの詩には独特の芸風があり、それは自称「苦労人」が酔うと必ずしつこく繰り返すありふれた人生訓を、さらっと書いたという趣である。その意味では、「やくざの言葉」というのは決して上手な譬えではないが、それに近い印象をもつのも、わからないではない。

相田みつをの詩は、正直言って私も「どこがいいんだろう」と思っている。そして最近新たに感じた感覚と、ちょっと相通じるところがあるような気がしている。

それは、今年の流行語大賞にまでなった、ギター侍、波田陽区の芸である。私は、あれがなんでそんなに面白いのか、よくわからない。しかし、「何故にわからないか」という理由は、よくわかっている。

彼が斬る「有名人の急所」というのは、多分、とてもテレビ的な感覚に基づいていて、普段テレビを見ている者にはとてもよくわかるのである。ところが、私はあまりテレビを見ないので、あの絶叫部分を聞いても、「へぇ、そんなものかね」と思うばかりで、笑うまでには到らない。しかし、もっとテレビを見てタネを仕入れておこうという気にも、今さらなれない。

相田みつをの詩も、おもむきは全然別だが、構造的にはそれと似たようなところがある。人生において普段感じていることを、短い単純な言葉で象徴的に表現されると、「俺もそう思ってたんだよ!」と共感する人がいるのはわかる。

しかし問題は、この人の詩は「行間だらけ」ということである。隙だらけなほどに行間をたっぷりあけて、読者が飛び込んでくるのを待つのが、相田みつをの世界である。

表面的には超ステロタイプの簡単な言葉だけで、しかも、あの字だもの。いわゆる「達筆」と違って、誰でも苦労なく読める。それを通してさらに「深い味わい」を求めるには、たっぷりとした「行間を読む」という「積極参加」が必要だ。

ただ、その行間を読むという作業は、結局は自分自身の感慨を彼の「詩」の言葉に重ね合わせるということになる。確かに「言えてる」ことではあるが、だからといって、そうまでしてあのステロタイプにシンクロするのは、私にはちょっと気恥ずかしい気がするのである。

ここから先は、単純に趣味の問題だ。相田みつをが好きな人は、こうした「気恥ずかしさ」を超越した人なのだろう。それは決して皮肉ではなく、幸せなことである。私は多分、表現に「一ひねり」が欲しいタイプということに過ぎないのだ。その「一ひねり」は、相田みつを的境地に達すれば、「余分なこと」なのかもしれない。

そういえば、ギター侍の斬り方も単純直截で、大したひねりは効いてないように思う。よくひねってありさえすれば、私だってモトを知らなくても笑えるだろう。しかし、あのくらい単純だからこそ、流行語大賞を取るほどポピュラーになったのだろうし、その意味では「一ひねり」は「余分」 なのかもしれない。

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2004年12月28日

昼食の値段と、「サブウェイ」について

TBS ラジオの朝の番組「森本毅郎のスタンバイ」の世論調査によると、サラリーマンの昼食代は平均 423円だそうだ。
20年前、当時隣に住んでいた叔父と「今どき、昼飯はコーヒー代を入れて 1,000円近くかかるよね」と話した憶えがある。20年の間に、半額になってしまったわけだ。

まあ、20年前だって、そう毎日昼飯の後に 350円かけてコーヒー飲んでいたわけでもないのだが、それでも、まともに昼飯を食えば、最低でも 580円ぐらいはしていたと思う。吉牛でも、280円なんていう値段になったのは、バブル崩壊後しばらくしてからだ。

そう考えると、日本経済は相当なデフレには違いないのだ。バブル最盛期で円高の頃は、米国に出張して昼飯を食うと、かなり安かった印象があるのだが、最近ではフードコートで簡単に済ませても、日本円に換算すると 700円を下らない。結構な割高感がある。

最近の私のお気に入りは、サブウェイのサンドイッチである。一番カロリーの少ないやつだと、コーヒーを付けても 400円台だ。米国に行っても、昼飯時にフードコートが見当たらないときは、サブウェイに飛び込む。もっとも、米国人の注文するのは "1foot" サイズという、本当にマイケル・ジョーダンのスニーカーぐらいあるやつだが、私はその半分サイズである。

私も 30代までは米国人並みに食べたが、それを続けていたら、今では、多分 1年ぐらいで体重 100キロになってしまうだろう。それを懼れて食べる量を控えていたら、自然に小食になってしまった。おかげで 70キロ台を維持している。

ところで、なんで「サブウェイ」というのかというと、あの形が潜水艦(サブマリン)に似ているからなのだそうだ。食パンにはさむスタイルが通常の「サンドイッチ」だが、それとは一線を画して、米国人は "sub" と呼ぶらしいのである。道理で、地下鉄のない都市でも「サブウェイ」はあるわけだ。

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2004年12月27日

ネットワーク昔話

近頃、あちこちのサイトで、インターネットやネットワークの昔話が流行っている。それで、私もちょっとやってみたくなった。

私のインターネット歴も案外古いのだが、インターネット以前、しかも「パソコン通信」以前の話まである、結構なシガラミを背負っていたりするのである。

1990年代初頭、私は某国際的団体の職員だったことがある。その団体のアジア地域を統括するホストコンピュータは、日本支部の東京オフィスにあった。私の部署の上階にあるコンピュータ室の分厚い扉の奥で、何だかうすらでかいマシンが、オープンリール・テープみたいなものを、クルクル廻していたのである。

当時、インターネットはまだまったくと言っていいほど普及しておらず、それどころか、パソコン通信をしている者だって珍しかったが、その団体内部では、ヒューレット・パッカードが開発したイントラネットの簡易版みたいな "HP Desk" というネットワークが稼働していた。

これは、構造自体は単純でありながら、扱おうとすると案外面倒なシステムだった。MS-DOS 時代なので、基本的にシングル・タスクで、画面を切り替えてのコピペという作業すら面倒だったのである。

朝一番に出社すると、まずその "HP Desk" を開けて、自分宛のメールを確認する。このシステムは英語しか受け付けないので、馬鹿馬鹿しいことに、日本人スタッフ同士のやりとりまで英語である。うっとうしいことこの上ない。おかげで、普段の会話まで自然にカタカナ言葉だらけになる。

緊急に返事の必要なメールがあると、大急ぎで英語の返事を書かなければならない。そうこうしているうちに、時差の関係で韓国や香港の支部の連中が五月雨式に出勤してきて、東京のホストに接続し始める。すると、こちらの PC の動作がガクンと遅くなる。ますますうっとうしい。

ある時、コンピュータ室のスタッフに、香港の連中が出てき始めると途端に重くなるのは何とかならないかとクレームを付けた。すると、彼女は「まあ、レスつけるのに、いちいちホストに繋ぎっぱなしにしてるんですか?」と言う。

レスを書く場合はホストとの接続を切り、スタンドアローンの状態で、HPデスク内のエディターみたいな画面("Work Area" とかいう名称だったような気がする)を使って書けばサクサク動作する。書き上げたらもう一度接続し、"Work Area" から送信ボックスに一気に流し込んで送信すればいいというのである。当時はそんなこともわからなかった。

ところで、私は現在、"co.jp" で終わるメールアドレスを 1個、"ne.jp" "or.jp" のものを各 2個、".com" を 4個持っている。それどころか、役人でもないのに "go.jp" まで持っていた時期もある。昔は役所の運営する特定プロジェクトに参加していれば、部外者にまで go.jp のアドレスを案外簡単に発行してくれたりした。

当時、私は @nifty のアドレスを持っていたから、そんなご大層なアドレスはいらなかったのだが、その頃はプライベートやビジネスで個人のメールアドレスを持つのがまだ一般的でなかったので、ドンブリ勘定的に役所が面倒を見てくれたのである。ダイヤルアップのアクセスポイントまで、そのプロジェクトをメシのタネにするベンダーのシステムに相乗りできていた。

今から思えば隔世の感がある。しかしそんな時代から、まだ 10年そこそこしか経っていないのだ。

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2004年12月26日

汗だくのサンタクロース

「おはよう富良野」 というサイトで提供してくれている画像をみると、素晴らしいホワイトクリスマスである。

関東は相変わらず (?) の小春日和。東京でイブに雪が降ったのは 1965年が最後で、その前は 1891年だそうだ。あと 30年以上待っても、降るかどうかの確率だ。

一方、南半球のブラジルでは、クリスマスは真夏のイベントなので、ホワイトクリスマスなんてなりようがない。とくに熱帯では、冬だとしても雪なんか降らない。それだけに、ブラジルの人たちはホワイトクリスマスというのにあこがれがあるそうだ。

知り合いに日系三世のブラジル人がいるが、彼に聞いたところ、ブラジルでもサンタクロースは、あの赤い服を着ているという。同じ赤い服でも  T-シャツと半ズボンのサンタでは、やっぱりイメージが狂ってしまうのだ。だから、商店街でサンタさん役をする人は大変である。汗だくになってしまう。熱中症対策をしなければならない。

なんだかんだと言っても、今の世界は北半球主導で動いているもののようである。サンタが T-シャツで登場するようになったら、世界の構造が変わったということだ。

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2004年12月25日

ラグジャリーブランドと偽物と日本市場

ラクジャリーブランド商品の値段というのは、一体どういう構造になっているのか、この際、まともに考えてみたい。
価格が 20万円ぐらいのルイ・ヴィトンのバッグの偽物は、せいぜい 2万円以下で手に入る。本物と偽物の違いは、有り体に言えば、ほんの些細な部分でしかない。

専門家が「鑑定」して初めてわかるという程度の、普通に考えれば「それがどうした」程度の違いである。素材に関しては、もとより塩化ビニールなのだから、蛇やワニの皮というわけではない。塩ビは塩ビである。化成品にエンボスしてプリントしただけのものである。

縫い方が丁重だからといって、未来永劫すり切れないというわけではない。修理して再生することが保証されていると言うが、それなら普通の値段の新品を買うという選択の方が、ずっと安いし、変化だって楽しめる。

ルイヴィトンのバッグの値段というのは、そうした視点で見れば、不当に高い値段で、甚だけしからんことになるが、実はそうではない。そのかなりの部分は、モノそのものの値段ではなく、イメージ料なのである。その高いイメージ維持のために、ヴィトンはヴィトンで、かなりの金をかけているのだ。

要するに、「このバッグのイメージを、未来永劫維持してくれるんでしょうね」という保険みたいな意味まで含めての、あの高い値段なのである。プラダみたいに、イメージ維持にちょっと失敗したりすると、急に売れ行きが落ちたり、質屋でまともに引き取ってくれなくなったりする。

偽ブランド商品というのは、本物のイメージ維持努力に「ただ乗り」して商売しているわけで、それは知的所有権云々という難しいことを持ち出さなくても、「アンフェア」であるという一点だけで、十分に「恥」であり、「罪」である。

同様に、偽物とわかってそれを買うという行為も、「アンフェア」なのである。ジョークや「いじましい」というお笑いぐさでは済まない。十分にシリアスな罪であり、どうしても欲しいというのなら、本物を買うべきであるというのは、当然のことなのだ。

さあ、問題はここからである。「持ち物のイメージ維持」程度のことに高い金をかけることの意味を、肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかで、道は両極端に分かれる。大好きか大嫌いかのどちらかで、ニュートラルはあんまりない。あるとすれば無関心派である。

好きな人は徹底的に好きで、同じブランドのバッグや財布をいくつも持ちたがる。一方、嫌いな人は沽券に欠けても一つだって持ちたくない。

肯定派は「いいモノを持つと、気持ちいいじゃないの」ということになるが、否定派は「持ち物の価値に寄りかかるより、自分自身の価値を高めるために投資しなさいよ」と言いたくもなるわけである。

とまあ、こんな議論が出てくるのも、日本という国は、その辺の安い給料のおねえちゃんでもヴィトンを持って満員電車に揺られるという、世界でも希有なマーケットだからだ。

普通の市場ならば、「まあ、それなりの身なりをしなきゃいけないお金持ちの持ち物なんだから、当然の出費なんじゃないの」でケリがつくのだが、日本という国は、そうではない。いい悪いは別として、とてつもなくデモクラティックというか、無邪気なマーケットなのである。

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2004年12月24日

青と緑

9月 9日の当コラムで、"信号の「青」は、実際には「緑」なのだが、「青」と言い習わしている" と書いた。

しかし、よく見ると最近の信号の「青」は、一頃よりずっと「青」っぽくなっているようだ。これは例の青色発光ダイオードの普及によるものらしい。

これは、「塚口オープンページ」というサイトのエッセイ「信号の色」というページに書いてある。ついでに、このページには「昭和 5年に我国に初めて導入された信号機はアメリカ製であったこともあって色は緑、黄、赤となっていた。ところが人々がそれを青と呼んだため、昭和 22年に法的にも世間にあわせて青と表現された」とある。これは知らなかった。

そもそも、日本語でもともと「色」として認識されていたのは 大相撲の土俵の上にぶら下がる房の色に ある「赤 白 青 黒」だけだという説がある。モロコシの五行説では、それに「黄」が加わった 5色が基本である。

日本人に限らず、東洋ではもともと「緑」というものにあまり関心を払っていなかったもののようだ。ヨーロッパでは「緑の党」なんていうのがかなり支持されているらしいが、日本ではからきしである。その代わり、「青」のイメージはかなりいい。最近では英語の影響で「ブルーな気持ち」なんて言い出したが。

これって、実際の見え方によるのではないかという気がしている。普通の山は近くで見ると緑の葉の木に覆われているが、遠く離れてみると、緑はなぜか埋没してしまって、皆青く見えるではないか。「青山(せいざん)」なんていう言い方は、「まんま」なのだ。アメリカでも「ブルーマウンテン」なんていうし。

どうも、青と緑の違いについては、あまり細々としたことを言うのは無粋のようなのである。

今日は日が暮れたらクリスマスイブ。楽しいクリスマスを!

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2004年12月23日

年賀状作り

昨日まで 3日連続で大ネタをかけて、さすがに少々疲れた。今日は小ネタで勘弁してもらいたい。
年賀状はもう書かれただろうか? 私はデザインは割と早めに完成していたのだが、昨日の夕方から、ようやく印刷を始めたところだ。これがなかなか時間がかかる。

今年からインクジェット・プリンターを、キャノンの複合機に替え、パワーがアップしたので、印刷時間は大幅に短縮するだろうと思い、文面のデザインを大幅に凝ってしまった。すると、いくら高性能機でもやはりそれなりの時間がかかるのである。

つい、葉書全面にグラデーション使いの配色を施してしまい、せっかくなので綺麗な仕上げにしようと高品位印刷モードで印刷し始めたら、1枚に 2分半もかかっているではないか。4枚で 10分、40枚で 1時間 40分、200枚で約 8時間半。はがきのセッティングにも余計な手間がかかるので、プリンターは夜中までフル稼働して、まだ終わっていないのだ。

私は普段は筆無精で、大抵のことはメールで済まそうとするのだが、年賀状だけは案外凝るのである。毎年、正月だけの特別企画として、年賀状をホームページで公開しており、ついでに、平成 11年からのバックナンバーも見られるようにしている。

来年も、元旦早々にアップロードするつもりなので、別にお楽しみにはしていただかなくていいが、暇があったらご覧いただきたいのである。

ところで、郵便局では元旦の配達に間に合わせるには 24日までに投函するように呼びかけているが、実際はそれより多少遅れても大丈夫な場合が多いようだ。しかし、それは都市部の話で、私の自宅はかなりの郊外というか田園地帯になってしまうので、本当に郵便局のいう締め切りまでに投函しないと、間に合わない。

というのは、元旦に私の家にとどく年賀状の数からして、そう想像するのである。私が元旦に受け取る年賀状の束は、案外淋しいものなのである。これは、正真正銘、郵便局の呼びかけた期日までに投函した、生真面目な人からの分と思われるのだ。翌 2日は、郵便配達は来ない。そして、3日にどっと届いてほっとする。要するに、私の親類縁者及び友人知人は、年賀状を投函するのに割と呑気な人が多いということのようだ。

それからちらほらと五月雨式に届き、5日頃から、今度は私から元旦に届いた賀状の返事みたいな形のものが増える。世の中には、年内に賀状を書くのは邪道だとして、元旦に届いた賀状のへの返事という形にこだわる人が、案外多い。

そうすると、賀状のやりとりは毎年どんどん少なくなるという。なるほど、それはそれで楽かもしれない。

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2004年12月22日

「早生まれ」 の込み入った事情

「早生まれ」というのは何月何日生まれまでか、正確にご存じだろうか。3月 31日生まれまでと思っている人が多いが、正解は 4月 1日生まれまでである。
法律でそのように決まっているのだが、その筋立てが一筋縄ではいかず、かなり煩雑でややこしい。

以前の同僚に 4月 1日生まれの女性がいて、彼女の両親が「早生まれは 3月 31日まで」と、ありがちな誤解をしていたため、満 5歳の誕生日を迎えた年に幼稚園(年少組)に入ってしまった。ところが、それだと小学校入学から逆算すると 1年遅いことが発覚し、入園式の 2日後に 「飛び級」で年長組に編入させられたという。

幼稚園の飛び級とは、希有な体験である。親は入学の物いりが想定より早まってしまって、驚いたに違いない。

我が国における年齢を含む「期間」というのは民法によって定められており、その第 143条によると、「其起算日ニ応当スル日ノ前日ヲ以テ満了」とある。言い回しがややこしいのだが、人間の年齢に関して噛みくだいて言えば、誕生日の前日でそれまでの年齢を「満了」する。要するに誕生日の前日に歳をとってしまうということだ。(前日の何時かは定められていないから、前日になったとたんに歳をとるのだろう)

普通、人間は誕生日がくると年をとると考えられているが、民法上は、おっとどっこい、既に前日に年を取ってしまっているのである。これは、かなり意表を突く規定ではある。ということは、4月 1日生まれの子どもが満 6歳とみなされるのも、「いわゆる 6歳の誕生日」 の前日、3月 31日なのである。

私なんか 30歳になった時、往生際の悪いことに、誕生日当日の午後 5時半を過ぎてまで「俺は夕方 6時に生まれたから、まだ 20代だ」と言い張っていたのだが、それは知らなかったとはいえ、見当外れの屁の突っ張りだったのである。

ここまで確認したら、次のステップである。学校教育法第 22条によれば 「保護者 (子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ) は、子女の満 6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、(中略) 就学させる義務を負う」 とある。

ということは、4月 1日生まれの子どもは 3月 31日に満 6歳になり、その翌日 (ここが大事なところだ)、つまり 4月 1日に始まる小学校の新学年に間に合うというわけだ。「最初の学年の初め」(=学校の新学年)というのは、入学式が何日であれ、法律上は 4月 1日と決まっているのである。

ここで、「ちょっと待てよ」と言いたくなるのは、私だけではあるまい。というのは、4月 2日生まれの子どもだって、民法に従えば 「最初の学年の初め」 である 4月 1日には満 6歳になっているわけなのだから、 「早生まれ」 扱いにしてもよさそうなものなのである。しかし、前述の通り 「満 6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初め」という規定を作って、4月 2日生まれを「早生まれ」の枠から巧妙に閉め出しているのだ。

実にまったく煩雑なお話である。普通に考えれば、「4月 1日が誕生日の子は、新学年開始の日に満 6歳になるので、ギリギリセーフで、小学校に入学できる」と考える方が、結果オーライで、ずっとシンプルに済ませられる気がする。しかし民法というのは、他の様々の期間計算 (例えば飲み屋のつけの時効とか)とのからみで整合性をとるために、誕生日の前日に年をとると規定せざるを得ないようなのだ。

そしてさらに、4月 1日は学校における元旦のようなものなので、この日に生まれた子どもは「ご祝儀的に」早く入学させてしまおうという発想が、根底にはあるようなのだ。

「満 6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初め」という、苦しい辻褄合わせみたいな文言は、4月 1日生まれを特別扱いして 3月 31日までに生まれた子と同学年にさせ、さらに、4月 2日生まれと一緒にしないという 2つの目的を同時に果たしているわけだ。このおかげで、幼稚園の飛び級なんて措置を講じさせた、ありがちな誤解も生じるわけだが。

法律というのは、ただでさえややこしいのに、その上、妙なところで情に棹さしているようなところがあって、そのためにますますややこしくなっている。そのあたりは、必要以上に突き詰めて考えてはいけないもののようなのである。

【2020年 7月 28日 追記】

この件に関しては、人は誕生日の前日になった途端に年を取るのではなく、誕生日の前日が終わらんとする一瞬(24時)に年を取るとされているようなのだ。詳しくは、2020年 7月 28日付の "人は誕生日の前日に年を取るわけなのだが" を参照されたい。

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2004年12月21日

日本の改革が進まないわけ

日本って、何をするにしても動きがトロすぎる。アジアの国の中でも、韓国や、マレーシア、シンガポールなどと比べると、日本の諸改革は全然進まない。
これは、日本の人口が多すぎるためだという議論がある。確かに先進国といわれる中では、アメリカの 2億 8000万人に次ぐ。

日本の人口は約 1億 3000万人なので、アメリカはその倍以上である。しかし、アメリカが日本の 2倍トロいかというと、そうではない。アメリカは連邦制で州単位の地方分権が進んでいるからである。それに大統領が代わるごとに政府のスタッフがほとんど総入れ替えになるので、変化に慣れている。

ちなみに、世界の国別人口ベストテンは、以下の通り。 (2000年時点の資料、単位=百万人)

1 中国
127,513.3
2 インド
100,214.2
3 アメリカ合衆国
28,323.0
4 インドネシア
21,048.6
5 ブラジル
16,772.4
6 ロシア連邦
14,549.1
7 パキスタン
13,750.0
8 バングラデシュ
13,743.9
9 日本
12,686.7
10 ナイジェリア
11,522.4

 

人口世界一の中国は共産主義国家だし、残る 9カ国中で連邦制をとっていないのは、インドネシアと日本の 2国だけである。人口が世界 11位、12位のメキシコ、ドイツも連邦国家である。

日本は、自由主義を標榜する先進国で、人口が 1億人をはるかに越えていながら、地方分権が進んでいないという点では、世界でたった一つのケースである。「珍しい」どころのレベルではない。ほかに例がないのだから。

考えてみれば、日本がこれほどまでに強い中央集権的体制をとっているのは、明治以降のたかだか百数十年に過ぎず、その前は地方分権そのものだったのである。江戸時代までは、出羽、武蔵など、日本の中に「国」がいっぱいあったのだから。

日本人は、誰かが先に始めないと、自分からはなかなか新しいことを始めないという特性がある。よく 「となりが種まきを始めたら自分も始める」 ということから、「隣百姓」などと言ったりする。しかし、江戸時代までは、先に行動を起こしてくれる「隣の国」が日本の中にたくさんあったのだ。それだから、明治維新もできたのである。

明治以後、日本の中には「隣国」がなくなってしまったが、「欧米に追いつき追いこせ」という強力な目標があったので、まだやってこれた。しかし、戦後はそうした先進的モデルが、国の内にも外にもなくなってしまい、誰も皆、既得権益を守ることに汲々としているようにみえる。

これでは、変化は促進されない。誰かの利益はほかの誰かの不利益なのだから、中身のない議論ばかりが延々と繰り返されて、何も変わらない。そりゃそうだ。東京と東北を一緒くたにして考えようとするのが、そもそも無理なのである。

シンガポールやマレーシアは、先進的改革を次々と進めているが、それはこの 2国の人口が、それぞれ、400万人、2300万人と、小回りを利かせた改革をするのにちょうどいいぐらいの規模だからやりやすいのだとも言える。

日本の国土は狭いと言われるが、それは幻想で、そんなに捨てたものではない。端から端まで行くのに、飛行機を乗り換えなければならない国なんて、そう多くないのだ。さらに人口で考えたら、ひとまとめになんかとてもできないのである。

どう考えても地方分権は進めるべきだ。しかし、それをしてしまうと既得権を失うのが、他ならぬ中央官庁なのだから、なかなか進まないのも道理である。やっかいな話である。

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2004年12月20日

「サムシング・グレート」の人格性

つくば市で行われた「笑いと健康 Part 3」というイベントに行ってきた。

(財)国際科学振興財団「心と遺伝子研究会」主催、吉本興業共催で、あの "ぼんち" の漫才と、「サムシング・グレート」の本家本元、村上和雄筑波大名誉教授の講演によるコラボレーションである。

村上氏の研究については、私は以前から注目していて、昨年の今頃も「つくばサイエンス・アカデミー」主催の「科学者・技術者がサムシング・グレートを感じるとき」というセミナーに参加して、簡単な所感を書いている。(参照

村上氏は 10月に ダライ・ラマ の主催した「仏教と科学者の対話」というイベントに参加してこられたそうで、とても感動的な時を過ごされたという。

今回のイベントでは、いつも主張しておられる「眠っている遺伝子のスイッチを "オン" にする」ということに関して、"ぼんち" の漫才でさんざん笑い転げた人たちの健康状態が、どのように変わっているかをモニターするという目的もあったわけである。

村上氏は、普通の状態ではほんの 3%程度しか働いていない遺伝子情報をトータルに活性化させるのは、笑い、喜び、感動などの 「ポジティブな想念」(良いストレス)であるという仮説を主張してこられた。しかし今回は、その仮説の発展形態ともいえるお話をされたのである。

あの北朝鮮拉致問題で注目される横田めぐみさんの母、横田早紀江さんに会われた時の経験について村上氏は言及され、その中で、早紀江さんがあれほどの「ネガティブなストレス」の強い状態に長年さらされながら、人間として素晴らしい輝きを発揮する活動をされているという事実に注目している。これは、これまでの仮説では説明できないとして、「ネガティブなストレスを乗り越えたときの素晴らしさ」ということまで想定しようとしている。

これは注目すべきことである。自分自身は不幸な状態でありながら、それを真っ向から受け止めて、社会のために活動するとき、人は素晴らしく輝きを増す。人間は我欲を超越してより大きなもののために尽くすときにこそ、最もよい状態で遺伝子が活性化するのかもしれない。

もし、人間の遺伝子情報がそのように設計されているのだとしたら、その設計者である「サムシング・グレート」は、単なる自然法則というよりは、キリストの説く「愛」の心をもった、ある種人格的なまでの存在というメタファーで語ることもできよう。

つまり、それは「神」にほかならない。しかも、全ての生きとし生けるものの遺伝子の中に、完全なコピーとして内在するかもしれない神である。そのような神なら、信じる価値があるだろう。

私は「山川草木国土悉皆成仏」(すべてのものが、成仏している = 仏である)と喝破した釈迦の悟りを想起する。

「サムシング・グレート」の法則性に注目するのが科学であり、人格性に注目するのが宗教と言えるかも知れないではないか。私は科学と宗教とはそんなに遠いものではないと思っている。

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2004年12月19日

クリスマス。イルミネーション

日が沈むと、住宅街のそこかしこに色とりどりの光が見える。庭や玄関に施されたクリスマス・イルミネーションだ。

ささやかな明かりを灯して、クリスマス気分を盛り上げているのは、とてもほほえましいのだが、最近は 「ささやか」 では済まないイルミネーションが増えてきた。

Xmas

「商店街じゃあるまいし、いくらなんでもやり過ぎだろう」と言いたくなるほどの、まばゆいばかりの「電飾」を、競い合うように施しているところが何カ所かある。想像するに、費用だってかなりかけていると思われる。

こうして遠景の写真でみると、それなりに綺麗に見えてしまうのだが、実際に間近に見ると、異様ですらある。この季節、ほぼ 1か月近く、夜通し満艦飾にしているのだから、電気代だってかかるだろうにと、余計な心配までしてしまう。

そりゃあ、好きずきだから、ことさらに言うつもりはないが、どうもこの類のイルミネーションは、派手になるほど悪趣味になるような気がするのだ。ありとあらゆる光り物をぶら下げて、何だか知らないが、ディズニーショップで買ったようなキャラクター・ランプまで所狭しと並べられたりしている。

センスより物量という飾り付けは、なんだか滑稽ですらある。

それに、いくらクリスマス・シーズンとはいえ、エコの観点からも電気の使いすぎはよろしくないような気がするのである。派手なイルミネーションは商業施設に任せて、家庭ではささやかな灯火をかざす方がよろしいように思う。

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2004年12月18日

究極のウソ発見器

米国テンプル大学のチームが、「究極のウソ発見器」を開発した。従来のポリグラフと異なり、発汗や脈拍などの訓練で制御可能なデータを用いるのではないという。
機能的磁気共鳴断層撮影(fMRI)とかいうものを使って、脳の働きそのものをモニターして判断するのだそうだ。

テンプル大学医学部脳機能画像センターのスコット・ファロ博士のチームの研究によると、人間がウソをつく時と本当のことを言っている時とでは、脳の活動が違うのだそうだ。(そりゃそうだろうと、ツッコミたくなるのを、ぐっとこらえて、以下を続ける)

fMRI を使って調べると、ウソをつくと、前頭葉のほか、海馬や MT野など、計 7カ所の脳の部位が活性化する。しかし、本当のことを言うと、前頭葉や側頭葉など 4カ所しか活性化しなかったという。これで、本当とウソを区別できるというのである。

以前から、脳波を調べて記憶に関する P300と呼ばれる反応を見るという手法は知られていた。これは脳の海馬から 0.3秒後に出る脳波の事で、強く刻まれた記憶が刺激されると、この脳波が出る。

つまり、実際の記憶に直結する P300脳波が出ているのに、それとは違うこと言うと、「ウソ」ということになる。今回のメソッドがこれを発展させたものかどうかは、よくわからないが。

今回のニュースは、素人考えでは、要するに「ウソをつくときの方がずっと頭を使う」ということのように読み取れる。何しろ、本当のことを言うと、脳の 4カ所しか活性化しないのに、ウソをつくと、7カ所も活性化するというのだから。

確かにそうかもしれない。それに、頭を使ったウソはばれにくい。よくできたウソというのは、騙される快感というものまで喚起することがある。

いやいや、そんなことを言いたかったのではない。

私は、「本当」と「ウソ」の本質的な差異というのが、どこにあるのか、はっきり言ってわからないのだ。「事実そのまま」が「本当」で、ちょっとでもねじ曲げれば「ウソ」ということになるのだろうか。しかし、「事実そのまま」なんてことが、人間にストレートに認識されるというのは、ほとんど不可能である。

ある一つの出来事があったとしても、そこに立ち会った人間が 100人いれば、100通りの認識があるはずなのだ。そうなると、「事実」とは何かという、とても哲学的な領域の議論にまで発展してしまう。

脳医学的見地からすれば、「それについて言及する際に、人間の脳の 4カ所しか活性化しないのが『事実』であり、7カ所が活性化してしまったら『虚偽』である」 と定義することだってできるだろう。しかし、それは本末転倒のそしりを受けかねない。

ある一つの出来事について、複数の異なる認識が言及され、しかも、そのすべてのケースで 脳の 4カ所しか活性化されなかったとしたら、一つの出来事に複数の「事実」が生じてしまうということになるからだ。

しかし、あるいはそれはそれでいいのかも知れない。プラトンの「イデア論」が想起される。本当の「真実」とは、不可視の「イデア」であり、我々が認識できるのは、そこから発生したものにすぎないというコンセプトは、新たな科学の領域で復活するかもしれない。

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2004年12月17日

Firefox を使い始めた

BBS  にも書いたのだが、話題の ウェブブラウザー "Firefox" を導入した。これまで使っていた Netscape(ネスケ)同様、Gecko エンジンなので、違和感がない。

ネスケも悪くなかったが、メーラーなどと統合されているために、何しろ重かった。その点、Firefox は軽い。

私は約 10年前にインターネットを初めて以来、ウェブブラウザーは ネスケを使い続けてきた。そういうものだと思っていた。インターネット・エクスプローラー(以後 IE と略す)は、初めのうちはいかにもちゃっちかったし、セキュリティ問題も続々出てくるので、到底使う気にはなれなかったのである。

しかし、世の中ではネスケはどんどんマイナー化の一途を辿っていた。その要因のトップは、もちろん MS が Windows に IE を強制的にバンドルしてしまったことだが、それだけでは、従来のネスケ・ユーザーまでがこれほどまでに IE に流れたりはしない。ネスケにも問題はあったのだ。

それは、ネスケの元々の開発コンセプトが「巨艦主義」だったことである。ネスケにはメーラーの他に、AOL のインスタント・メッセンジャー、「コンポーザー」という HTML エディターまで統合されている。だから、ちょっと重くて、とくに起動には恐ろしく手間がかかる。

起動が面倒なので、私はネスケを常駐させる設定にし、それでも面倒なので、他の作業をするにも常に起動させっぱなしにしていた。すると、メモリーが消費されるので、他のプログラムまで多少重くなってしまう。メモリーの小さなノート PC では、フリーズの原因になったりする。これはちょっとしたストレスだった。

かといって、今さら IE を使う気には到底なれない。セキュリティ問題だけでなく、タグブラウザーに一度慣れてしまうと、新しいページを見るたびに次々に新しいウィンドウを開かなければならない IE は、うっとうしくてたまらないのである。今や、IE は世界一危険で不便なブラウザーになってしまった。

今回の Firefox 導入で、私のこれまでの不満はかなり解消された。とにかく軽快に動作するのである。起動が早いので、いつでも気軽に終了させられると思っていたが、なにも終了させなくても軽いので、他のソフトにほとんど影響しない。プログラムが軽いというのは、こんなにも大切なことだったのかと改めて認識した。

まだ IE をお使いの方がおられたら(というより、かなり多いと思うが)、Firefox はお薦めである。一つのウィンドウの中に、タブで複数のページを開けるというだけで、「これまで、どうして IE なんか使っていたのだろう」 と思うはずだ。ダウンロードは簡単。これまでの IE のお気に入りなども、まったく自動で引き継いでくれる。ダウンロード・サイトは、下記。

http://www.mozilla-japan.org/

もう一つ、忘れてはならないのが、Mozzilla のメーラー、Thunderbird の導入である。これは、今まで使っていた ネスケのメーラーとほとんど同じで、起動が早くなっただけなので、まったく戸惑わずに済んでいる。ただ、これは窓の杜で入手した日本語版の β版のようで、正式の バージョン 1.0 は今月末にダウンロードできるようになる。

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2004年12月16日

特定効果音楽

英国のパブで、最も効果的な閉店放送用の曲は、クリフ・リチャードの「クリスマスの想い出(Mistletoe and Wine)」だそうだ。最も「客ハケ」がいいらしい。(参照
エルビスの「ブルー・クリスマス」、 「きよしこの夜」なども上位にランクされ、英国の飲んべはクリスマスに弱いようだ。

クリスマス・シーズンでなくても、こうした曲は敬虔な気持ちをほんの少し呼び覚まして、「そろそろ家に帰るか」という気にさせるのかも知れない。なんとなく「パブロフの犬」を連想させる。

日本の閉店放送で流れる音楽といえば、何といっても「蛍の光」にとどめを刺すだろう。日が暮れてから急な買い物に飛び込んだ店で「蛍の光」が流れているだけで、かなりあせってしまう。これも「パブロフの犬」 だ。

下校音楽で多いのは、 「夕焼け小焼け」とドボルザークの「新世界より」だそうだ。しかし、私にとってはなんといっても、スコットランド民謡の「アニーローリー」である。中学校時代、放送部に入っていたことがあって、下校時間になると、ほとんどすり切れかけたレコードで、毎日この曲を流していた。

それから、もう一つ特別な思いのあるのが、グレン・ミラー楽団の「ムーンライト・セレナーデ」である。私が少年時代を過ごした酒田という街には、当時「グリーンハウス」という洒落た洋画専門の映画館があって、上映が始まるとき、スクリーンのカーテンが開くのに合わせて「ムーンライト・セレナーデ」が流れたのである。

酒田で生まれた私たちの世代にとって、この曲は「グリーンハウス」で胸をときめかす時の音楽に他ならなかったのである。

この映画館には、「シネサロン」という 14人定員の小規模な映写室があって、大量動員は期待できないが、映画好きには堪えられないというレアな作品を常時上映してくれていた。この「シネサロン」のおかげで、我々は多くの名画を見ることができたのである。

この「グリーンハウス」は、昭和 51年の酒田大火で焼失して今はない。焼失というより、何と火元がこの映画館だったのだ。だから、あの大火は一つの時代の終わりという気がしている。

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2004年12月15日

ココログって暑苦しい

"@nifty" と" はてな" の共同企画による期間限定キャンペーンサイト 「ブログる場合ですよ!!」 がスタートした。
行ってみると、見事に「ココログ・カラー」に染められたド派手なサイトなのだった。私は自分がココログ・ユーザーであることが、ちょっと気恥ずかしくなった。

まだインターネットというものがそれほど普及していなかった時代に、 「ニフティサーブ」というサービスで「パソコン通信」なるものを利用し始めたというきっかけがあるため、私はほとんど行きがかり上、ニフティをずっと使い続けている。自分の本宅サイトも別宅サイトも、ブログも、ほとんどすべてニフティである。

しかし、正直言って、ココログのイメージはあまり好きじゃない。それはトップページに行ってもらえばわかる。何しろ、ロゴマークのデザインからして、趣味が悪すぎるし、ページデザインのカラーリングがあくどいというか、どぎついというか、暑苦しいというか、とにかく疲れる。

とくに、「トラックバック練習ページ」と称される「トラックバック野郎」というページがすごい。デザインもすごいが、少なくとも私はブログを始めた当初、このページを見ても、トラックバックというのがどういうことなのか、さっぱり要領を得ず、従って練習になんかちっともならなかった。何のためにあるページなのか、理解に苦しむのである。

私はココログのデザインをみると、前世紀の「見世物小屋」の看板を連想する。最近始まった「テンプレート」にしても、ちょっと使う気にならない。

なんだか、ニフティという会社、ココログのデザインをしているデザイナーが、ブログというものをどう捉えているかが窺われるような気がするのである。地に足の着いたメディアとして育てようというよりは、キワモノ的とまでは言わないにしろ、とにかくブームにしてしまおうといった意図を感じてしまうのだ。何となく「勘違い」的なものを感じる。

しかし、その意図すらもほとんど実現されていない。ブログ・サービスが出始めた頃は、はてなに続いて、ココログはかなりな伸びを示していたが、最近は他のサービスに抜かれ気味だ(参照)。ニフティという会社の規模からして、少なくとも健闘しているとは言い難い数字である。

それも無理からぬところと思う。ココログって、申し込もうと思ってトップページに行っただけで、何となくギトギトしていて嫌になるのだ。もう少しクールなイメージを醸し出してくれないものだろうか。

ココログを利用しているとはいえ、私は自分のサイトのカラーリングだけは、なるべくココログを感じさせないものにしているつもりなのである。

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2004年12月14日

「いろは歌」の読み方

人力検索サイト はてな」というのがある。質問をすると、参考になるサイトを寄ってたかって教えてくれるという仕掛けだ。

昨日、その中に 「いろは歌の口語訳」を訊ねる質問があった。「いろは歌」なんてものは、そのまま雰囲気でわかると思っていたので、この質問は意外だった。

「いろは歌」とは、例の「いろはにほへとちりぬるを」というアレである。弘法大師の作と伝えられてきたが、その後、いろは四十七文字が定着したのは弘法大師の存命時期よりずっと後なので、これは単なる俗説ということになった。

10世紀半ば以前は、いろは仮名は 47音ではなく、48音だったという。ア行の "i" と  ヤ行の "yi" が、きちんと区別されていたというのが、音韻学の研究の結果わかったのだ。万葉仮名ではきちんと文字も区別されていた。

そんなことは別として、「いろは歌」 は、別に口語訳なんてしなくても、何となく雰囲気でわかろうというものである。

色は匂へど 散りぬるを
我が世 誰そ常ならむ
有為の奥山 今日越へて
浅き夢見し 酔ひもせず

まんまではないか。

と、そう思っていたら、実は、最後の行の解釈に二通りあることがわかった。

一つは、私が上記で書いたように「浅き夢見し」とする説である。現代語では「浅い夢を見た」ということだ。つまり 「"有為の奥山"= "無明 (煩悩) の世界の有為転変" という "浅き夢 = 娑婆の人生" を見てしまったことだなあ」 という解釈だ。

しかし、そうではなく 「浅き夢見じ」 と読む説があることを、初めて知った。最後の「し」に濁点が付くのである。(参照) 。これだと、「浅い夢なんて、見るまい」 と拒否していることになる。合理的意志ともいうべきものが感じられる。そして、なんと広辞苑では、この「夢見じ」説をとっているらしい。

しかし、私としては「夢見じ」説には違和感がある。「いろは歌」は世の無常を歌ったもので、般若心経の「色即是空」に通じるものがある。しかし、「色」がはかなく散ってしまうものだからといって、「色」そのものを否定して「浅はかな夢なんか見ないぞ」と言ってしまっては、かえって底が浅くなるような気がする。

なぜなら「般若心経」では、「色即是空」のすぐ後に「空即是色」と続くからだ。単純に否定してしまってはならないのである。「浅き夢」とは、「娑婆の人生」そのものだ。「浅はかな夢のようなもの」とはいいながら、人生は「娑婆の修行」の舞台でもあるのである。

単純否定を否定すること、そしてさらに、それすらをも否定し尽くすことが、般若心経の哲理ではなかったか。

「浅き夢」を見た上で、「あぁ、夢であったか」と悟った悟りは、夢を一度も見たことのない悟りよりもコクがあるのではなかろうか。

【平成 23年 10月4日 追記】

2011.10.04 の記事に、古代探偵さんという方から次のようなコメントが付いたので紹介しておく。

万葉集には、過去形の「き」を体言止めの「し」で終わらせる例があります。万葉集巻1の105番の大伯皇女の歌、「我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて あかつき露に 我がたち濡れし」が体言止めです。

心強いコメントである。

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2004年12月13日

クサイ台詞

CNN のサイトで、"もっとも 「クサイ」 映画のセリフ" というのが紹介されている。「タイタニック」のディカプリオ演じるジャックの「俺は世界の王だ!」だそうだ。

「クサイ(cheesy)」セリフの選定は、英国のパンメーカーの、チーズ風味クランペットの新発売記念ということらしい。

ちなみに、英和辞書(研究社 「英和中辞典」)で "cheesy" を引いてみると、「1 チーズ質の, チーズのような; チーズの風味のある、2 《俗》 下等な, 安っぽい」という訳に行き当たる。2番目の俗語的意味は、まさに日本語の「クサイ」にぴったりだ。

その昔、アントニオ猪木がオランダのウィリエム・ルスカと異種格闘技戦を行ったとき、事前の記者会見で、ルスカが猪木にものすごくクサイチーズを贈ったことがあった。「これでも食って、少しは俺の相手にふさわしい体力をつけろ」という強烈な臭い付きメッセージだった。

猪木はそのチーズの臭いを嗅いでみて、「オエッ」となっていた。しかし、さすがにさるもので、さっそくお返しに納豆を贈ったと記憶している。クサヤやなれ寿司でなくて、ルスカは助かっただろう。

世界一臭い食品としてつとに有名なのは、スウェーデンのニシンを発酵させた缶詰「シュールストレミング」である。ウソか本当か知らないが、スウェーデンには、この缶詰を屋内で開けてはいけないという法律があるという噂まである。

ところで、クサイセリフと言えば、私は「カサブランカ」でボギーがいう「君の瞳に乾杯」にとどめを刺す思う。原語では "Here's looking at you, kid." である。"Here's to you" で「君に乾杯」 だから、うまく訳したものだが、こんな台詞、私は恥ずかしくて言えない。

【H20.8.1 追記】

カサブランカのセリフ、私はずっと "Here's looking at you, babe"だと思っていたのだが、あちこちで検索すると、どうやら "Here's looking at you, kid" らしいので、そのように訂正した。もしかしたら、何度か言っているうちに、"babe" のバージョンもあって、それが強く印象付けられたのかもしれないが。

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2004年12月12日

「深川めし」のトレードオフを嘆く

今日のネタは、我ながらみみっちいお話である。みみっちいけれども、見過ごせない気がして、書かせていただくわけだ。

私は東京駅から新幹線に乗る時は、「深川めし」という駅弁をずっと贔屓にしてきた。 値段は 830円と、駅弁にしてはお手頃で、しかも中身がシンプルでうまい。

どんな中身かというと、あさりご飯に穴子の蒲焼とハゼの甘露煮を乗せ、小茄子の漬物、べったら漬けなどを付け合せたものだ。いかにも「江戸、深川」を感じさせる粋な献立である。合成着色料たっぷりの幕の内弁当的なものの並ぶ中で、 「深川めし」はとても魅力的な選択なのだ。

しかし、一昨日岐阜方面への出張で、東京駅でいつものように「深川めし」を誂え、頃合を見て蓋を開けたとたん、私は驚いてしまったのである。先月、神戸に行った時までは、確かに穴子の蒲焼は三切れ乗っていて、私は満足して食したのである。ところがなんと、今回は二切れに減ってしまっているではないか。

Fukagawa

最近、自分の好きなものを食ったときはデジカメで記念の映像を残しておく習慣なので、穴子の蒲焼が三切れだった頃の証拠写真もちゃんと残っている。上が先月までのバージョンだ。少しわかりにくいが、右端にもあさりの身がびっしりと並んでいたのである。

下が今回のバージョンである。ご覧の通り、視覚的にもずいぶん貧弱で淋しくなってしまった。心なしか、メシが少なくなっているような気もする。

製造元の日本レストランエンタプライズは、どうやら 830円という価格を優先して中身を犠牲にするという「トレードオフ」を行ってしまったようなのだ。これは甚だ残念なことである。少なくとも私に関しては「深川めし」を選択する要因は価格ではなく中身である。だから、中身を維持するために値段が 850円や 900円になったとしても、浮気なんかしないのだ。

値段を優先するというのなら、何も駅弁なんか買わない。構内に入る前に、コンビニで 350円ぐらいの弁当を買えばいいのだ。つまり駅弁というのは、今や値段ではないのである。「深川めし」の場合は、トレードオフをするなら、中身を優先して値段を犠牲にした方がよかったと思う。これは、マーケティングの視点からも重要な問題だと思うのだ。

(平成 17年 7月 23日 追記)

この記事は、実は勘違いに基づいているということが判明した。詳細は、こちら

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2004年12月11日

toto のお粗末

サッカーくじ toto が低迷しているらしい。開始以来 4年間の売り上げは、01年が 604億円、02年が 408億円、昨年は 202億円と減り、今年は 160億円だそうだ。
おかげで、当初の目的とされていたスポーツ振興への助成金拠出がままならないという事態に追い込まれている。

売り上げ低迷の原因については、あちこちで語り尽くされている。要するに、販売窓口がわかりにくい上に、予想にやたら手間がかかる割にはさっぱり当たらない(当選確率 160万分の 1)というわけだ。これでは、マニアしか手を出さない。個人的にも、まったくそそられない。

私はサッカーは野球より好きだが、くじにはとんと興味がないので、toto の売り上げがどうなろうと知ったことではない。しかし、スポーツ振興という謳い文句が空念仏に終わってしまうというのでは、見過ごせない。

何しろ、売上額から払戻金と経費を差し引くと、助成金として支払えるのは 0円となるため、当たっているのに引き換えられずに時効となった 2億円をかき集めて助成金に充てるというのである。

「スポーツ振興」どころか、ほとんど関係者が食うだけのための事業になってしまっている。これではまたしても、無意味な天下り先が増えただけということに他ならないではないか。

一番呆れたのは、toto 開始前のリサーチ結果である。改めて Google で検索してみると、toto 開始にあたって、関係者はその市場規模を、「全国で2832万人が利用し、1600億~2000億円の売り上げを見込んでいる(参照)としていたようなのである。

ところが、蓋を開けてみると、最初の年の売り上げが見込みの下限の 38%に過ぎず、あとはどんどん減る一方で、4年目で 10%である。当初のリサーチがでたらめだったのか、その後のプロモーションがいい加減だったのかは知らないが、民間企業がこんなことをしていたら、すぐに潰れてしまう。

文部科学省もようやく危機感をもったようで、抜本的改革をしようとしているらしいが、ある意味、これぐらいガタガタに破綻してしまわないと、改革という話が出ないというのも、寂しい話である。民間の感覚からすると、少なくとも 2年遅い。

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2004年12月10日

ヨン様の像とおしんの像

韓国でヨン様の像を造ったはいいが、悪評紛々で、廃棄されそうというニュースには、かなり笑ってしまった。

しかし、他人事ではない。我が故郷の酒田市でも、以前似たようなことがあったのである。それは、JR 酒田駅前に設置された「おしんの像」である。

昭和 58年にスタートした NHK の連ドラ「おしん」は爆発的なヒットとなり、酒田は「おしん ゆかりの地」として、観光事業も少しは潤ったようである。私も「庄内出身」というと、判で押したように「あぁ、あの『おしん』の・・・と言われたものである。

そうこうするうち、里帰りすると酒田駅前に、「おしんの像」が建っていたのである。それは子守りをしている少女時代のおしんをかたどったものだったと記憶する。

しかし、これが酒田市民にさんざんな悪評だったのだ。「おしんはあんなにブスじゃない」というのである。

私はしげしげと眺めたわけではないので、その悪評が妥当なものであったかどうかはしらないが、少なくとも、名のある彫刻家の手によるとかいうものではなく、誰かが「適当に造っちゃった」という程度のできだったという印象はある。

そして、何ヶ月後かにその像の首の部分だけすげ替えられて、少しはマシになったというオチまで付いたのだが、その後、その「おしんの像」はいつの間にか、うやむやのうちに撤去されてしまっていたのである。そして、後で知ったのだが、その像は、山居倉庫の博物館に終の棲家を得て展示されているようなのだ。(参照

それにしても、あんなに評判を呼んだものを、いともあっさりと表玄関の酒田駅前から撤去してしまうあたり、さすがに移り気で諦めの早い酒田の人らしいエピソードである。

そんなことがあったので、今回の「ヨン様像騒動」はあまり笑ってはいけないと思ったのだが、画像をみたら、やっぱり吹き出してしまった(参照)。「おしんの像」は、まだずっとマシのような気がする。

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2004年12月 9日

「観楓会」というもの

最近「観楓会」という言葉を初めて知った。読みは「かんぷうかい」で、音だけ聞くと 「寒風会」 に聞こえる。

当初は、北海道では「紅葉狩り」のことをこう言うらしいと解釈していた。しかし、どうや 「観楓会」と「紅葉狩り」とは微妙に違うらしい。

いにしえの都では、「観楓会」 というのはかなりポピュラーだったようで、国宝の屏風絵にも狩野秀頼筆の『高雄観楓図』というのがある。それをみると、今の紅葉狩りのような風流な遊びをしていたらしい。

そして、山形県で「芋煮会」が当たり前の行事であるのと同様に、北海道では「観楓会」が現在でも人気があるらしいのだ。しかし、聞くところによると、それはいにしえのような風流な行事ではないようなのだ。

もっとも典型的な形の「観楓会」というのは、近くの温泉地などに夕方から一泊二日ででかけ、飲めや歌えの大宴会を行うということのようである。紅葉の様を観じて風流さを楽しむというようなものとは、だいぶ趣を異にする。

内地では春先に花見でどんちゃん騒ぎをするが、北海道では、秋にも「観楓会」でどんちゃん騒ぎをすることになっていると思えば間違いないようだ。花見の頃は、冬から暖かくなりつつある季節なので、屋外でも OK だが、「観楓会」の頃は、秋の深まりとともに寒くなっているので、屋内になるのだろう。

そうなると、どうせ屋内ならば、温泉だなんだかんだとなるのも人情である。自然、一泊してどんちゃん騒ぎになる。

厳しい冬を目前にして、熊が冬眠のための栄養を貯えるように、人間もお楽しみの貯えをしておきたくなるのもわかるような気がするのである。

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2004年12月 8日

見てはならんぞ!

都市伝説というものがある。代表的なのは、「口裂け女」や「ハンバーガーが猫バーガー」といった類のお話である。
その中に、「見てはならんぞ」系のお話というのがある。多くのケースでは、田舎に行き、見てはならない「もののけ」などを、つい見てしまうというものだ。

「見てはならんぞ」系の代表的な都市伝説(里帰り伝説?)には、「くねくね」と「犬の幽霊」が挙げられるだろう。

とくに、「くねくね」はなかなか面白い。もしお暇があったら、リンク先に飛んでご覧いただきたい。ツッコミどころ満載なのだが、「くねくね」をまともに見て気の狂ってしまった「兄」を 「田んぼに放してやる」なんていうあたりは、かなり「都会視点のフォークロア」っぽい。

我が家の次女は、今年の夏、この 「くねくね」 にはまって、Google の画像検索で「くねくね」の画像を探し廻ったが、当然ながら見つからなかった。もっともらしい画像を創作して、それらしくアップロードしたら、きっとかなりのアクセスを稼げるだろう。

「見てはならん」で思い出したが、インターネット・アーカイブ というサイトには、古今東西のウェブページがごっそりと保存されている。ここを見ると、今ではいっぱしのデザインになっているサイトでも、昔はこんなにダサダサだったのかと、ばれてしまったりする。

一昨年あたりに、自分の本宅サイト(当時のタイトルは「知の海に跳び込め」)が保存されているかどうか、試しに検索してみたら、URL だけはノミネートされていたが、アーカイブとしては未保存だったので、残念に思った記憶がある。

しかし、今日検索してみたら、本宅サイトのトップページが 2002年 6月 4日から今年 1月 28日までの間に、7回も保存されていたのである。

ついでに、別宅「和歌ログ」も調べたら、今年 2月 3日時点のトップページが保存されていた。私のサイトも、ついにインターネット・アーカイブに保存されるまでに成長したかと、感慨深いモノがあったのだが、一番初期のページを見て、我ながら驚いた。

ダッサイのである。こんなものが公衆の面前に晒されていては、お恥ずかしいのである。整形したタレントが、昔の素顔をすっぱ抜かれたら、こんな気がするだろうかというほどである。

まさに「見てはならんぞ!」と言いたくなってしまう。

ただ、少し言い訳させて頂くとすれば、アイコンとして使っているボタンのデザインがバラバラになっていて、まるで統一性がないのは、インターネット・アーカイブのサーバに保存されているイメージファイルが、かなり古いデザインと、後に修正されたデザインが、混在しているためである。中には、今現在のものを呼び出しているものまである。

だから、保存された当時のデザインにしても、実際にはあそこまでダサくはなかったのである。いくら何でも、もう少し素材の統一感はあったのである。あれは、実際よりかなり崩れた姿である。

それにしても、やっぱりちょっとお恥ずかしい。

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2004年12月 7日

再び、何が "Real" なのか

ニューズウィークの調査によると、米国民の 79%が、聖母マリアの処女懐胎を信じているとということだ。(参照

一昨年の今頃、当コラムで、「何が "Real" なのか」 ということを論じた。英国 BBCの、「処女懐胎は迷信」との立場でのドラマ放映に関連したものだった。

BBCのドキュメンタリードラマ「聖母マリア」では、「マリアはローマ人兵士にレイプされてイエスを身ごもった」と受け取れる場面が放映されたため、世界中から抗議の電話が殺到した。バチカン市国の広報官も「真実をねじ曲げた罪深い番組」と抗議声明を発表した。

一方、同年同月 22日付の英日曜紙サンデー・テレグラフの独自調査によると、英国国教会の聖職者のうち、4分の 1以上は「処女懐妊を信じない」とする「現実派」ということだった。

私は一昨年のコラムで、「少なからぬ聖職者までがそれ(処女懐胎)に懐疑的であることに驚いている」と述べている。

今回のニューズウィークの調査によれば、米国の一般国民でさえ、英国国教会の聖職者よりも聖書の記述をずっと素直に信じているというわけだ。さらに、キリスト教徒に限れば、87%が処女懐胎を信じているとレポートされているから、米国のキリスト教徒は、さらに敬虔であるということになる。

さすがに、英国からよりピュアな信仰を求めて渡ってきた人たちの子孫といえるかもしれない。

さて、何が「リアル」であるかということだが、マテリアル(物質的)なリアルさと、スピリチャル(精神的)なリアルさとは違っていても構わないと思うのである。私は究極的には「スピリチャルなリアルさ」の方を取る。

日本の国の中でこう言うと、かなりエキセントリックに思われるかも知れないが、米国では(いや、米国に限らず、西欧社会では)この感覚こそ、多数派なのである。だから、私をあまり「変わり者」と思わないでいただきたい。私を「変わり者」と思う人こそ、国際社会では「変わり者」と思われかねないという認識だけは、持っていていただきたい。

最先端の物理学でも、我々が「リアル」と思っている「物質」というものの「あやふやさ」は徐々に明らかになってきているようだし。

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2004年12月 6日

地吹雪が思い出される

昨日は日曜だというのに、終日屋内に閉じこもって仕事をしていたので、そんなに気温が上がったとは知らなかった。
昼過ぎまでは、エアコンの暖房のおかげで暖かいのだと思っていたが、ふと気付くと、20度に設定したエアコンは、ほとんど作動していないのだった。

関東の内陸部では軒並み夏日になったが、一方で、北海道ではドカ雪になったところが多かったらしい。「知のヴァーリトゥード」 で相互リンクさせてもらっている「おはよう富良野」の BBS でも、雪かきで疲れ果てたと書かれている。

雪国はご苦労なことである。多分、たっぷり湿気を含んだ雪だったのではなかろうか。

雪と言えば、高校時代まで過ごした酒田のことが思い出される。酒田の雪は深く積もることは滅多にないのだが、地吹雪が凄い。いや、地球温暖化の時節柄、今はどうだか知らないが、少なくとも 30年前は凄かったのである。

酒田の雪は上から降るのではなく、下から、横から吹き付けるのである。だから、雪に関する動詞は「降る」というより「吹く」という方がしっくりきた。

学校に行くにしても、一寸先の見えない地吹雪の朝が、一冬に何度かあった。通い慣れた道なので、勘を頼りに前のめりになって一歩一歩進んでいくと、目の前にぼうっと学校のシルエットが現れるのである。関東の都会であんな状態になったら、迷わず休校になっているだろう。

すきま風の吹き込むオンボロ校舎だったので、机の上に うっすらと雪が積もっている。その雪をかき落として、ストーブに火を付ける。昔の酒田の子どもは、学校に早く着いたものが、自主的に教室のだるまストーブに火を入れていた。だから、子どもでも火付けは上手だった。というか、それができなかったら、寒くて凍えてしまうから、自然上手になるのである。

新聞紙に火を付け、細い薪からだんだんと太い薪に点火していき、ある程度の炎になったところで、石炭をくべる。このタイミングを間違えると、折角の炎を石炭で埋め尽くして一瞬にして消してしまうことになるので、慎重に作業を進める。

冬場にこんな作業をしているから、秋の芋煮会で野外のたき火をするなんてのは、朝飯前である。だから、酒田で育った子どもは、基本的にアウトドアライフは OK である。

大学に入って東京に出てきた最初の冬は、あまりの天気の良さに天国だと思った。しかし、今はあの地吹雪が妙に懐かしくなることがあるのである。

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2004年12月 5日

ウェブブラウザーの栄枯盛衰

Web ブラウザー市場で、Internet Explorer(以下「IE」)のシェアが 90%を割り込んだとレポートされた。(参照
私は今では超マイナーと化した Netscape (以下「ネスケ」)派なのだが、レンダリング・エンジン(Gecko) を同じくする Mozilla や Firefox が健闘しているらしい。

タブ・ブラウザーを使い慣れると、一つのウィンドウに単独のウェブページしか表示できない IE が不便でしょうがない。セキュリティ問題を別としても、タブブラウジングの可能な他のブラウザーにユーザーが流れるのは、理の当然である。

先月発表されたオランダのOneStat.com の調査結果は、以下の通り。

1 Microsoft IE 6.0
80.95%
2 Microsoft IE 5.0
4.18%
3 Microsoft IE 5.5
3.66%
4 Mozilla Firefox 0.1
2.79%
5 Mozilla 1.x
2.77%
6 Mozilla Firefox 1.0
1.79%
7 Opera 7.x
1.29%

W3Schools のサイトでは、Mozilla が 19.9% まで上昇していることになっている。

いずれにしても、IE のシェアが落ちつつあるのは確かなようだ。

私はインターネットをやり始めた時からネスケを使っており、IE はセキュリティに問題がありすぎると思うので、そのままずっとネスケ・ユーザーのままで今日まで来ている。世の中には、IE でないとまともに表示されないという困ったサイトがあるので、そんなサイトに行き当たった時だけ、IE を起動させている。

マイクロソフトは、なんだか IE の新規開発意欲を失ってしまったようで、今では IE は世界一危険で不便なブラウザーとなっている。それなのに、世の中でまだ トップシェアを占めているというのは、他のブラウザーをダウンロードしてインストールするという、ちょっとした手間を厭うユーザーが多いということだ。

ネスケは今では超マイナーになってしまったが、ブラウザーとメーラーの統合された使いやすさは、捨てがたい。そして、今度のネスケは、レンダリングエンジンを、Gecko と IE の使い分けが効くものになるという。(参照) これで、表示がおかしくなってしまうサイトを見るのに、いちいち IE を起動させなくてもすむことになりそうだ。期待してもいいかもしれない。

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2004年12月 4日

不人気投票のシステム自体に不満の一票を

国土交通省は、不満が大きい路上工事についての、インターネットによる「不人気投票」を、東京23区内の主要国道を対象に、11月 27日から始めたらしい。(参照
http://www.ktr.mlit.go.jp/michi/ に行って、工事現場に記された 8ケタの「問い合わせ番号」を入力すればいいという。

指定のサイトに行ってみると、「道の相談室」というタイトルになっている。ところが、「不人気投票受付」という字句はどこにも見当たらない。「問い合わせ番号」の入力欄もない。普通は、ここで「なんだ、こりゃ」と諦めてしまうだろう。

しかし、よくみると、下の方に「路上工事検索はこちらから」というボタン(決して「不人気投票はこちらから」ではない)があり、それをクリックすると、"路上工事ひとつひとつには「問合せ番号」がついています。その「問合せ番号」を使って、工事情報を簡単に調べる事ができます" というページが現れる。

実は「不人気投票」はここからできる。しかし、とにかくわかりにくい。ページの上の方は「路上工事検索」の表示しか見えず、「不人気投票」の入力欄は下の方にあって、スクロールしないと見えないのだ。

つまり、ウェブサイトから「不人気投票」をするには、指定のページに行き、あまりのわかりにくさにめげず、試しに当てずっぽうで「路上工事検索はこちらから」というボタンをクリックし、さらに、試しにスクロールしてみないとできないことになっているのである。まあ、お役所のやることだから、せいぜいこんなものか。

そもそも、この「不人気投票」を始めるというニュースを聞いた時からして、「車の運転をしている最中に、8ケタの番号をどうやって記憶しろというのだ?」と疑問に思った。もしかしたら、工事渋滞で停車中にゆっくりとメモしろということなのかもしれない。

なるほど、それほど余裕をもってメモできるくらいに渋滞するような工事なら、不人気投票に一票を投じたくもなるだろう。

しかし、実際は上記の通り、もっとずさんだった。不人気投票するにも、かなりわかりにくいのである。まるで、あまり投票されないように、ちょっとしたフィルターをかけてあるようなものだ。

もともと「気休め」でしかなさそうな措置だという気がしていたが、蓋を開けてみると、実は気休めにもならず、逆に神経の逆なでをするばかりのようなのである。

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2004年12月 3日

羽田第二ターミナル開業で心配なこと

ANA 系の便が発着する羽田空港の第二ターミナルが、ようやく 12月 1日から運用を開始した。
これまでは、バスで飛行機の場所まで運ばれることが多かったが、これからはほとんどの場合、ゲートから直接搭乗できるそうで、ありがたいことである。

しかし、心配なことがある。私は JAL よりも ANA が好きで、10回に 9回は ANA を使っているのだが、そそっかしい私のことなので、慣れるまでは、モノレールを第一ターミナルの方で降りてしまいかねないと思うのだ。一度手前で降りてしまったら、第二ターミナルまで行くにはどんなルートが一番早いのだろう。

世の中には同じようなことを考える人がいるもので、昨日の朝の TBS ラジオで、徒歩、無料シャトルバス、モノレール、タクシーの 4ルートでどのくらいの時間がかかるのか、実験レポートをしていた。正確な数字は覚えていないのだが、徒歩が 9分 40秒台、バスが9分 50秒台だったという。

モノレールは、たまたま一本ギリギリで乗り遅れ、次の便を 8分間待ってしまったため、16分台ということだった。ということは、たまたまタイミングよく乗れたとしても 8分台。待ち時間が2分で済んだとしても、10分以上かかるということだ。お金を払う割には、案外時間がかかる。

もちろん一番速いのはタクシーで、6分台で着くのだが、その時の運転手さんは客待ちに 3時間も並んでいたので、初乗り 660円の水揚げにしかならないのでは、あまりにも気の毒というオチが付いていた。実際問題として、タクシーは選択肢から外した方がいいだろう。

とすると、バスとモノレールは何分待たされるかわからないという不確定要素が大きいので、10分弱で着ける徒歩が一番確実ということになる。しかし、今回の実験では、「徒歩」 というより 「小走り」 に近い大急ぎだったそうで、体力のない人はもっと時間がかかるだろう。

となると、最大公約数的には無料シャトルバスが正解か。しかしバスに乗るには、ウロウロ探し回らないように、乗り場をしっかり確認しておかなければならない。

結局、自分の利用する航空会社をしっかり確認して、モノレールの駅を間違えないで降りることと、羽田で乗り継ぎをする場合は、できるだけ同じ航空会社の便を使うことが、重要ポイントと言うことだ。

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2004年12月 2日

流行語大賞へのツッコミ

今年の流行語大賞が発表された。この賞、昨年から 「ユーキャン流行語大賞」という名称になっていたみたいなのである。「ユーキャン」て何だ?と思ったら、生涯学習の通信教育屋さんだという。
何だかよくわからない。このスポンサリング、効果があるのかなあ。

今年の流行語大賞は、アテネオリンピック水泳で金メダルを取った北島康介選手の「チョー気持ちいい」だそうだ。私自身、8月 17日の当コラムで「今年の流行語大賞候補が、また一つ増えたな」と書いたが、実際問題としては、「話題」にはなったが、「流行語」という名に値するほど流行ったかといえば、それほどでもないような気がするのである。

最近の「流行語大賞」は、何だか選考基準というか、ノミネートの基準自体に疑問を感じるのである。

例えば、安易に固有名詞が入りすぎていることだ。今回も「セカチュー」と「冬ソナ」が入っている。両方とも正式なタイトルを短くして流行語化したと言えば言えなくもないかも知れないが、所詮、その言葉に意味があるのではなく、元の小説とドラマの方がブームになっただけで、 「セカチュー」と「冬ソナ」という言葉が独立して新しい意味をもったわけではない。

同様に、一昨年の「タマちゃん」、「W杯(中江津村)」なんてのも、「流行語」というよりは「話題になった物や現象の名前」というだけにすぎない。

極めつけは、1993年の「Jリーグ」、94年の「関空」、95年の「インターネット」など。「こんなの、『流行語』じゃなくて、単に『新し物の名称』じゃん!」と思ったら、この企画、一昨年までは 「ユーキャン流行語大賞」 ではなくて、「新語・流行語大賞」 だったことに気付いた。

なるほど、それで「新語」も含まれるわけか。でも、それ以後は、「流行語大賞」という名称になってるし、どうもこの企画のコンセプト自体がアバウト過ぎるな。

それに、「関空」「タマちゃん」「W杯 (中江津村)」「冬ソナ」 なんていう固有名詞は、「新語」とも言うのも異論があるのではなかろうか。「当社の『現代用語の基礎知識』に新しく載せた言葉大賞」というのなら、よくわかるが。

ストロングスタイルの「流行語」と言えるのは、やっぱり、今年の「言うじゃな~い」とか、昨年の「なんでだろ~」「へえ~」とか、古くは 94年の「同情するなら金をくれ」とかの、「ナンセンス系」や「決め台詞系」だろう。それから、今年の「自己責任」や、昨年の「毒まんじゅう」などの時事ネタだ。

「セカチュー」とか「冬ソナ」が「流行語」だなんて言われると、連想ゲームで「カレーライス」に対して「おいしい!」とか「好き」なんて反応してるオツムの中身の薄いアイドルタレントみたいな感じがして、 「そりゃ、マンマじゃねぇか」とツッコミたくなるような芸のなさを感じてしまうのだ。

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2004年12月 1日

サンタクロースは本当にいる!

ついに今年も 12月である。12月と言えばクリスマス。私のサイトのあるページへのアクセスが急増する季節である。

それは、「知のヴァーリトゥード本場所」の37番目のコラム、「サンタクロースは本当にいる!」というページ。このサイトで、最も美しい言葉のページである。

このページは、我ながらちょっとしたものなのである。Google で検索すると、「サンタクロース」「本当にいる」の2つのキーワードで、965件中の 1位。ちょっとだけひねって 「サンタクロース」「本当にいるの?」でも、622件中の 1位である。だから、これら 2語のキーワードでググッたら、たいていは私のところに来てくれることになっている。

内容は実際にリンク先に行って読んでいただければいいので、あえて繰り返さないが、要するに、「サンタクロースは本当にいる」 ということを、子供にどう説明したらいいかを書いている。単に「夢の世界」で信じろというのではない。本当に「愛の波動」として存在するのだということを言いたいのである。

常にはひねたことばかり書いている私だって、たまにはこのくらいの純なことも書けるのである。

「サンタクロースなんて、嘘っぱちだよ」なんて、うそぶいている人がいたら、どうか考えを改めていただきたいのである。決して嘘っぱちなんかではないのだから。

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