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2004年12月25日

ラグジャリーブランドと偽物と日本市場

ラクジャリーブランド商品の値段というのは、一体どういう構造になっているのか、この際、まともに考えてみたい。
価格が 20万円ぐらいのルイ・ヴィトンのバッグの偽物は、せいぜい 2万円以下で手に入る。本物と偽物の違いは、有り体に言えば、ほんの些細な部分でしかない。

専門家が「鑑定」して初めてわかるという程度の、普通に考えれば「それがどうした」程度の違いである。素材に関しては、もとより塩化ビニールなのだから、蛇やワニの皮というわけではない。塩ビは塩ビである。化成品にエンボスしてプリントしただけのものである。

縫い方が丁重だからといって、未来永劫すり切れないというわけではない。修理して再生することが保証されていると言うが、それなら普通の値段の新品を買うという選択の方が、ずっと安いし、変化だって楽しめる。

ルイヴィトンのバッグの値段というのは、そうした視点で見れば、不当に高い値段で、甚だけしからんことになるが、実はそうではない。そのかなりの部分は、モノそのものの値段ではなく、イメージ料なのである。その高いイメージ維持のために、ヴィトンはヴィトンで、かなりの金をかけているのだ。

要するに、「このバッグのイメージを、未来永劫維持してくれるんでしょうね」という保険みたいな意味まで含めての、あの高い値段なのである。プラダみたいに、イメージ維持にちょっと失敗したりすると、急に売れ行きが落ちたり、質屋でまともに引き取ってくれなくなったりする。

偽ブランド商品というのは、本物のイメージ維持努力に「ただ乗り」して商売しているわけで、それは知的所有権云々という難しいことを持ち出さなくても、「アンフェア」であるという一点だけで、十分に「恥」であり、「罪」である。

同様に、偽物とわかってそれを買うという行為も、「アンフェア」なのである。ジョークや「いじましい」というお笑いぐさでは済まない。十分にシリアスな罪であり、どうしても欲しいというのなら、本物を買うべきであるというのは、当然のことなのだ。

さあ、問題はここからである。「持ち物のイメージ維持」程度のことに高い金をかけることの意味を、肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかで、道は両極端に分かれる。大好きか大嫌いかのどちらかで、ニュートラルはあんまりない。あるとすれば無関心派である。

好きな人は徹底的に好きで、同じブランドのバッグや財布をいくつも持ちたがる。一方、嫌いな人は沽券に欠けても一つだって持ちたくない。

肯定派は「いいモノを持つと、気持ちいいじゃないの」ということになるが、否定派は「持ち物の価値に寄りかかるより、自分自身の価値を高めるために投資しなさいよ」と言いたくもなるわけである。

とまあ、こんな議論が出てくるのも、日本という国は、その辺の安い給料のおねえちゃんでもヴィトンを持って満員電車に揺られるという、世界でも希有なマーケットだからだ。

普通の市場ならば、「まあ、それなりの身なりをしなきゃいけないお金持ちの持ち物なんだから、当然の出費なんじゃないの」でケリがつくのだが、日本という国は、そうではない。いい悪いは別として、とてつもなくデモクラティックというか、無邪気なマーケットなのである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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