「評価を仰ぐ」ことの危うさ
私は「知のヴァーリトゥード」の他に、「和歌ログ」というサイトを持っていて、毎日和歌を詠んで発表している。
私は自分の歌が下手の横好きと十分承知しているので、いくらけなされても「もっともだ」と受け入れられるが、世の中には「けなされる免疫」のない人もいる。
誰かが何かの作品を作り、その「評価を仰ぐ」などと称して公に発表したとする。その作品に関する感想を、制作者自身に求められたりすることがあるが、そんなとき、私は大変困惑する。
どの程度率直な意見を述べていいか、判断できない場合は、大抵の場合、日本人お得意の「本音と建前」を駆使して、建前で誉めておくのが無難である。 「けなされる免疫」のない人に対して迂闊に率直な感想を述べてしまったら、話が面倒になる場合が多いのだ。
怒り出すか、落ち込むかのどちらかになる可能性が非常に高い。下手をすると逆恨みを買ってしまう場合もある。仕方がないから、つい当たり障りのない適当な誉め方をしてしまう。すると相手は真に受けてしまって、「皆様には望外の評価をいただきました」などと言い出す場合があるので、また困ってしまう。
「建前」で誉められる日本が信用できないと言って、外国にまで遠征して「評価を仰ぐ」などという、経済に余裕のある人もいる。ところが、「本音と建前」を駆使するのは、何も日本人ばかりではない。西洋人だって、実はものすごく建前主義である。
考えてみるがいい。縁もゆかりもない東洋人が変てこな作品を持ってきて、「どう思うか」などと聞いてくる。それに対して正直な感想を述べるなどという労力を要する作業をする者などいない。せいぜい相手を傷つけないような適当なコメントをして、その場を逃れようとするだけだ。
ところが「ナイーブ」な人はその場しのぎのコメントとは受け取らず、「本場のヨーロッパでも高い評価をいただきました」などと舞い上がってしまうから始末が悪い。(この場合の「ナイーブ」は、言葉本来の「子どもっぽい」とか「世間知らず」とかいう意味である)
「評価を仰ぐ」というのは、実はそれほど難しい。本気で評価を求めたかったら、無邪気な顔をして自分で聞いたりしてはいけない。作品をほっぽり出して、世間の人がどう見るかを観察していればいい。大抵は自分が思うほど、世間の人は注目などしてくれない。要するに 「どうでもいい作品」なのである。
その「どうでもいい作品」の質を上げていくためには、本音で評価してくれる少数の「目利き」を得ることである。どうでもいいコメントしかしない 100人に聞くより、きちんとした評価をしてくれる 1人に聞く方がずっと有益である。
しかしその「きちんとした評価」を役立てるためには、「けなされる免疫」をきちんと備えなければならない。けなされるのが気にくわなかったら、初めから自己満足の域にとどまって、下手に評価なんか仰がないことだ。
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