「ガバナビリティ」 について考える
近頃 「ガバナビリティ」 ということについて考えてしまう。この言葉が流行ったのは 1970年代後半だっただろうか?
「"Governability" は一時『統治能力』と誤訳されたが、実際には『被統治能力』のことで、日本人の『被統治能力』は非常に高い」といった文脈だったように思う。
つまり、日本人は江戸末期から明治維新にかけてや、太平洋戦争後の混乱期に、非常に高い「ガバナビリティ = 被統治能力」を発揮し、国難を克服したというような主張が、渡辺昇一氏らによってなされたように記憶している。
この場合の「ガバナビリティ」とは、国民が極端な私利私欲に走ることなく、政府の方針を素直に受け入れ、ベクトルの方向性をある程度一定に保った努力を行える資質といった意味で用いられたわけだ。
一方、現在のイラクの情勢をみるにつけ、 「ガバナビリティ」の欠如が露わになっている。「和を以て尊しとなす」という日本的な感覚からは信じられないほど、いろいろな勢力がてんでバラバラに争い合っている。大局的にみれば、自分たちが疲弊するだけなのだから、これは愚かしいことである。
その意味で、日本人のみせた「ガバナビリティ」の高さは、世界でも類を見ないもので、賞賛されてしかるべきものだという主張はもっとなことのように思われる。
しかし、その一方で、"governability" を「被統治能力」と訳すのは意訳のしすぎで、本来の意味は、単に「従順さ」とか「なびきやすさ」とかいうことで、けっしてその資質が高いからといって誇れるものではないという議論もある。
私は "governability" という言葉の意味合いをどうこう言えるほど、英語に精通しているわけではないが、ごく常識的に言えば、一つの言葉で「良い意味合い」と「悪い意味合い」があり、前者は「聞き分けがいい」とか「分別がある」といったニュアンスに近くなり、後者は「言われるがままの主体性のない態度」といったことになるのだと解釈している。
要するに、言葉としてはニュートラルで、好ましく現れる場合と悪く現れる場合があるだけだ。日本の場合は、少し前までは主としてその好ましい側面が現れていたが、時代の変化に従って、「リーダーシップと主体性の欠如」というディスアドバンテージが際立ってきた。戦後 60年間「ガバナビリティ」だけでやってきて、まともな議論を後回しにしてきたツケである。
しかしいくら何でも、イラクの場合はもう少し「ガバナビリティ」があっても良さそうなものに見える。「ガバナビリティ」は、ありすぎても現代の日本の状況を現出してしまうが、なさ過ぎても国内が混乱するだけだ。要するに程度問題という、単純な結論になってしまう。
ありすぎてもつまらないが、まったくないよりは、ずっとましということだろう。
| 固定リンク
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- トランプと旧統一教会分派、そして日本の自民党(2024.11.02)
- 「ゴミ」と「ケツの穴」のどっちがヒドい?(2024.11.01)
- 「利権で動く裏政治」の構造が風化しつつあるようだ(2024.10.28)
- 世界はきな臭いが、米国と日本が踏ん張らなければ(2024.10.01)
コメント