あけおめメール
近頃の若い子たちは、年賀状を出さなくなっているようだ。ウチの娘たちも、今年はほとんど出していない。
その代わり、ケータイでメールをやりとりしているらしい。それを「あけおめメール」と称している。なるほど、時代の変わり目というのは、今まさに来ているようなのだ。
メールで新年の挨拶なんてと、眉をひそめる向きもあるかもしれないが、時代とはそんなものだ。そもそも、年賀状という風習だって、時代を遡れば、失礼なものと思われていたようなのだ。
元々は、新年の挨拶というのは「年始回り」と言って、直接相手の家に出向いてするものだった。遠方の者には仕方がないので飛脚に文を託すということもあったようだが、直接会って挨拶するのが原則とされていた。だから、元旦の江戸の街は、年始回りの人でごった返したようである。
明治に入っても、それは同じだった。遠方の知己には郵便で済ませても、同じ地域の中で年賀状を出すなどというのは、失礼なことと考えられていたようである。それが、明治 27年 8月から翌年 3月まで続いた日清戦争を機に、「戦時中に呑気に年始回りでもあるまい」ということで、郵便での挨拶が急増したと言われている。
年始回りをせずに葉書で済ませるというのは、当初は「戦争だから仕方がない」という言い訳がたって初めて普及したのだが、人間は、一度楽を覚えてしまうと、後戻りはきかない。戦争が終わっても、郵便による新年の挨拶は、一部の顰蹙をよそに増える一方となった。
そのため、ついに日清戦争の 5年後の明治 32年には、元旦に一斉に届けるという年賀郵便の制度が発足してしまったのである。こうなると、実際に正月に顔を合わす同士でも、年賀状のやりとりをしない方が失礼のように感じられるまでになってしまった。
最近の「あけおめメール」は、この日清戦争を境にした変化のぶり返しみたいなものだ。葉書の年賀状だって、元をたどれば楽を求めた革新派だったのである。変化に弾みをつける要素としては、楽に勝るものはないのである。
年賀状とメールは、しばらく併存状態が続くだろうが、次第にメールが優勢になっていくだろう。葉書の優位性は、今や「お年玉」くらいのものかもしれない。
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