子どものミニ列車に 「仏道の極意」 を学ぶ
『般若心経』では、「色即是空、空即是色」という。形あるものはすべて「空」に帰すが、「空」であればこそ、如何様なる形にも現れるということだ。
ただ、この説明ではあまり単純化しすぎなので、深い哲理の入り口程度で、当たらずとも遠からずというところではあるが。
それでは、もっと深い理解とはどういうレベルなのだろうかと考えてみる。ところが、こうしたことは、ちょと考えてみれば、「考えるだけ無駄ということがわかる。考えすぎると、志向が硬直してしまうからだ。「硬直」というのは、仏から最も遠いところにあるコンセプトである。
ある日、某ショッピングセンターの広場で、子どもをたくさん乗せた「ミニ列車」の走るのを見た。そして、ちょっとした発見をした。
5~6両連結のその列車が、広場の端に近づき、先頭の機関車が U ターンをしたのである。つまり、機関車の向きは、それまでの逆になった。
ところが、それに続く客車は、機関車が方向転換をした地点まではそのままの向きで走り、機関車とまったく同じ軌跡を辿りながら、方向転換をしたのである。
つまり、何秒かの間は、先頭を行く機関車と、最後の方の列車とは、まったく逆方向を向いて走っていたのだ。レールも何もない広場を、ただ機関車に引かれて走っていただけなのに。
その間、後方の客車は機関車とは逆方向を向いて走りながら、決して機関車に逆らっていたわけではなく、しかるべき地点で見事にカーブを切ったのである。
こんなのは、物理学の法則では当然の話なのだが、目の前で見せられると、とても不思議な気がしたのである。
もし、これが連結された列車という構造でなければ − 例えば、ソリッドな構造のトラックか何かであったなら、内輪差が大きすぎて、こんなスムーズなカーブは切れない。無理に曲がろうとしたら、周囲にゴツゴツと衝突したあげく、終いには横転してしまうことになる。
それが、フレクシブルな連結器で、「ひょいとつかまっているだけ」という構造のおかげで、見るも見事に、先頭から最後まで、同じ軌跡を辿ってカーブを切ることができるのである。
「仏道の極意は、これかも知れん」と思ったわけである。いくら高尚な真理が説かれていようとも、それにしがみつきすぎて、あまりにも硬直化してしまったら、自由な軌跡は辿れない。「ひょいとつかまっているだけ」 で、しかし「根本的なものだけは絶対に離さない」という態度だと、こんなにも滑らかなのである。
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