「金さえあれば」というわけじゃない
ニッポン放送株買い占めで、気の毒に、ホリエモンは「金さえあれば何でもできるという風潮はいかがなものか」と、感情的なまでの批判の集中砲火を浴びている。
それは、彼の武器が「金」だけで、「公的地位」と「コワモテ」に欠けるからだ。そこが、かつての堤義明氏との違いである。
「金さえあれば何でもできるという風潮はいかがなものか」といわれている割には、この国は、それほど何でもできるというわけではない。中近東辺りの国とはわけが違う。その証拠に、金だけを武器にすると、こんなにもよってたかって周囲から叩かれる。
実際には、「金」だけでは足りないのだ。しかし、そこに何らかの「公的地位」と「コワモテ」が加われば、もう鬼に金棒、正真正銘、何でもやりたい放題になる。
かつての堤義明氏が、陰では悪い噂に満ち満ちていながら、警察からも税務署からもお呼びがかからず、「聖域」扱いだったのは、「金と公的地位とコワモテ」の三拍子揃っていたからである。
そして、今頃になってから晩節の汚しまくりになったのは、この三要素を武器にしすぎたためだ。頼りにしていた三要素に影が差すと、王様は途端に裸になる。もうちょっと他に、人間的魅力があればよかったのにね。
同じく「晩節汚しまくり」の、NHK の海老サマは、「地位とコワモテ」はまだ決して色あせていなかったが、取り巻きとその周辺が悪ノリしすぎたために、受信料が激減して、「金」の切れ目が縁の切れ目となった。
いくら裸の王様でも、王様であるうちは、誰も正面切っては「王様は裸だ」という一声を上げない。すり寄っていい目をみたいという輩が、いくらでもいるからである。悲しいかな、世の中なんて、その程度のものだ。
だから、もしホリエモンが一世一代の博打に大勝利して、この先、何らかの公的地位とコワモテまで身に付けてしまったとしたら、手のひらを返したようにすり寄りたがる恥知らずが、後から後から出てくるに決まっている。
しかし、多分そういうことにはならないだろう。新球団に名乗りを上げた時と同じことで、さんざん話題を集めておいて、最終的にはウヤムヤになってしまう公算が強い。彼は一生、公的地位とコワモテには縁がない役回りなのだろう。
でも、その分「晩節汚しまくり」という境涯になる可能性は低くなるから、よかったね、ホリエモン。
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コメント
本当に「感情的な批判」でしょうか?
むしろ「金さえあれば何でも出来る」といいながら、
色々な所に現れては、「ネットとメディア」がどうの、「資本の論理」がどうのと、聞くに堪えない小理屈を吹聴しまくる姿の滑稽さを通り越した鬱陶しさが批判されているのではないでしょうか?
もともとレベルの低い話題の中での「球団」程度の茶番なら笑って済ませるところが、ここまでくるとそろそろ辟易とし始めたというのが実情とも思われますが。
投稿: kant | 2005年2月24日 18:26
>本当に「感情的な批判」でしょうか?
もちろん、感情的な批判もあれば、そうでない批判もあります。
ただ鬱陶しいとか辟易するとかいうことでの批判であれば、
それは「感情的な批判」に近いものではないかと、
私は考えています。
念のため付け加えておきますが、
私はホリエモンには批判的な立場です。
ただ、鬱陶しいとか辟易するとかいう思いには、まだ立ち至っておりません。
投稿: tak | 2005年2月25日 13:16
言葉の使い方が悪かったですね。
「金さえあれば何でも」という理屈に対する感情的批判ではなくて、「金で他の会社を買うだけ」で自社を成長させた実績のない(要するに引っ付けてその分大きく見えるようになっただけ)の者が、「メディアとネットがどう」とか、いけしゃあしゃあと「法螺」を吹く様を批判しているので、これは感情的批判ではないと思います。(自分でフジテレビの株が欲しかったとポロっとこぼしておきながら、欲しいのはニッポン放送だとか、平気で誤魔化す、平然と嘘をつくというのも、一度や二度なら他人事で見過ごすのでしょうが。)
投稿: kant | 2005年2月26日 14:46
なるほど、納得しました。
ただ、「金さえあれば何でもできる風潮」のシンボルとして
彼を批判するのは、少々的はずれな気がします。
だって、彼は「何でも」といえるほどには、
大して意味のあることしてませんもの。
それよりも、彼の「金(資本の増大)のみを目的とした振る舞い」が、
そのことによって、逆に資本主義の脆弱さを露見させることが、
本質的な問題なのかも知れません。
マンモスの牙が大きくなりすぎて、
生存に適さなくなったと同じようなことが、
資本主義のコンセプトに、既に生じているのではないかとも思われます。
投稿: tak | 2005年2月26日 21:39