宗教行為をめぐる冒険
行為そのものや、行為のもたらした影響などよりも、問題にされるべきは行為の「意図」であり、やましい意図でさえなければ、ちょっと変な行為でも罪にはならないようなのである。
ほかでもない、神主が女子中学生の胸を触ったのが、「伝統的宗教行為」であるとして、無罪になった件である。(参照)
判決では、被告が女子中学生の胸などに触れた事実は認定したが、宗教行為について「(被告所属の宗派に) 直接肌に手を触れる形態がないとは言えず、宗教行為に当たらないことにはならない」 ということになっている。
すごい論理だなあ。二重否定の繰り返し、合計四重否定という離れ業で、無罪を認定している。この分だと、「直接肌に手を触れる形態を持たないわけではなく、それを宗教行為としないわけではない」という宗派には、神主になりたいという希望が殺到しそうだ。
「宗教行為」というテーマで最近話題になったのは、先月のブッシュの 2期目の大統領就任式である。牧師による祈祷などの「キリスト教的宗教行為」を排除することを求めた訴訟が就任式前に起こされたが、首都ワシントンDCの連邦地裁は「就任式における聖職者の祈祷は必ずしも憲法違反にならない」ことなどを理由に、訴えを棄却した。
就任式で聖書の上に手を置くのは、厳密に言えば宗教行為に他ならないが、長年の慣習として広く認められてきたため、「政教分離」を求められる場でそれを行っても、とくに問題とされるに当たらないという判断である。
日本の公共事業の地鎮祭などにおける「玉串料」も、多くの場合同様の判断がされている。
要は、「宗教行為」が信者同士の枠から離れた日常的な場面でも問題とされないためには、それが慣習として広く認められた行為であるかどうかだということなのだろう。
禅宗で、一日入門の素人だろうがなんだろうが、禅師が警策(きょうさく)という棒でビシビシ叩くなどという荒っぽい習慣があるが、あれが「暴行罪」にならないのも、世間に広く認知されていればこそ、「お互い納得済み」だからである。
ところが、今どきの小学校あたりで、教師が棒で生徒をビシビシ叩いたら、いくらその教師が禅宗の坊主で、意図が正しいものだったとしても、大問題になってしまう。世間とはそういうものである。
今回の場合は、「お互い納得済み」だったかどうか、30分も触らせておいて、後で訴えたというあたりが、微妙なところだ。それにしても、鹿児島というところは面白いところである。宗教行為として中学生の胸を触るというのが、広く認知されているようで、後で訴えるのはお門違いということらしい。
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