ヨハネ・パウロ 2世の死去
ローマ教皇ヨハネ・パウロ 2世の葬儀に、世界主要国の首脳が出席するか、あるいは出席を検討するかしているのだが、日本の場合は、その検討にすら至らない。
それもそのはず、日本はキリスト教徒のとても少ない国なのである。だから、今回のニュースにも案外無関心だ。
例えば、"Pope" というたった 4文字の英単語の意味を知っている日本人は、案外少ない。"The Pope" といえば、ローマ教皇のことで、欧米の新聞ではよく 1面に登場するのだが、日本ではほとんど目につかない。
第一に、"The Pope" の訳語にしてからが問題だ。日本のカソリック司教団は、1981年 2月のヨハネ・パウロ 2世の来日を機会に、その日本語呼称を 「ローマ教皇」 に統一することにして、マスコミにもこの呼称を使うように呼びかけているのだが、なかなか実現しないらしい。
日本人の感性では、「教皇」 は歴史用語で、「法王」 が時事用語となるようだ。歴史用語と時事用語はあっても、日常の暮らしの中の身近な言葉としての機能は、決定的に欠如している。つまり、暮らしの中で意識されてないのだ。
何故に、日本ではこんなにまでキリスト教が根付かなかったのだろう。社会主義を標榜する国を除いた主要先進国の中では、キリスト教信者の割合が日本は極端に少ない。一説には 1%にも満たないと言われる。
思うに、キリスト教は「信仰」を要求するからではなかろうか。日本人は、「信心」は好きだが「信仰」はあまり好きではない。何でもかんでもありがたがって拝むことには、ほとんど抵抗がないが、系統だった「教義」を生活の中で誠実に実践するという意味での「信仰」は、あまり得意ではないように思われる。
その上、キリスト教は「先祖供養」ということをあまり重視していない。ところが、日本人の暮らしの中では、「先祖供養」のない宗教は、「信心」の対象になりにくいのである。
仏教は今や「葬式仏教」などと揶揄されるほどに、実際生活の場では力を失いつつあるが、それでも隠然たる力を持つのは、「あの世」のマネジメントをほぼ一手に引き受けているからである。キリスト教には、この方面の機能が欠けている。
とはいいながら、私は今回のヨハネ・パウロ 2世の死去には、ちょっとした感慨がある。この教皇は、「とても話のわかるいい人」という印象があるのだ。他宗教との融和に、これほど積極的だった教皇は、これまでいなかったのではなかろうか。
折しも、先月末に東京で開催された「IAHR 2005 東京大会」(第19回国際宗教学宗教史会議世界大会)では、「宗教 ― 相克と平和」という総合テーマが採用された。世界宗教界の 21世紀モデルは、"Pluralism" (多元的共存) であると言われる。ヨハネ・パウロ 2世は、それを率先垂範されたように思うのだ。
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