子どもの日とジェンダーフリー
去年の今頃も書いたのだが、本来は男の子の節句だった「端午の節句」をあっさりと「子どもの日」としてしまうことに、世のジェンダーフリー論者は、異議を唱えなくていいのだろうか。
女の子の節句である 3月 3日の「桃の節句」は切り捨てていいのだろうか?
あれだけ細かいところにイチャモンをつけたがるジェンダーフリー論者である。どうして、男の子の節句が国民の祝日なのに、女の子の節句が無視されているのかと、異議を唱えてもいいではないか。
そう思っていたら、実はそこにはちょっと事情があるらしいとわかった。男の子の節句と女の子の節句が分けられていること自体が、ジェンダーフリー論者にはそもそも気に入らないようなのだ。彼らの中には、子どもの日やひな祭りそのものを廃止すべきだという意見があるらしい。
ひな祭りは、「女の子は女の子らしく」 という思想を強制するものとして、気に入らない。そして、子どもの日は、元々が端午の節句なので、「男の子は男の子らしく」 という思想を強要することにつながるという理屈だ。
しかし、ここに単純には反対しにくい複雑な事情が発生してしまっている。現代においては、「端午の節句」は「子どもの日」となってしまっていて、この点においては、既に 「ジェンダーフリー」 なのである。
しかしその背後には「男の子」こそを「子どもの代表」として位置付けたという思想が窺われる。「子どもの日」を制定するのに、何の疑いもなく男の子の節句である 5月 5日ということに決定し、3月 3日にしなかったということ、そのこと自体が、女性蔑視であることになる。
男の子の土俵に女の子を上げておいて、それで一緒くたに「子どもの日」としているのだから、勝手と言えば勝手である。クレームを付けようと思えばいくらでもつけられる。
ジェンダーフリー論者ならば、いっそ中を取って「4月 4日を子どもの日とすべきだ」との声を上げてしかるべきではなかろうか。その上で、桃の節句と端午の節句を廃止せよということにするのである。
しかし桃の節句と端午の節句は、伝統的な国民生活にしっかりと根付いてしまっている。法律的な制度ならば廃止もできようが、こればかりは「不文律」なのだから、廃止は難しい。
それに、5月 5日が祝日でなくなると、ゴールデンウィークが形成されにくくなる。これには国民がこぞって難色を示すだろう。
というわけで、この問題は、さしものジェンダーフリー論者も気軽にはイチャモンを付けにくいことになっているのではないかと、察しているのである。
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