「実名/匿名」 をめぐる冒険
昨日は、都議選関連と日本人の宗教観に関する調査結果をダシにして、 「みんな一緒、以心伝心、お互い様」を根本教理(?)とする「日本教」にまで話を進めた。(参照)
これは、最近新たな議論のテーマとなっている「blog における匿名性」に関する私の意見のバックグランドでもある。
この議論の発端(あるいはそれに近いもの)になったと思われるのは、『実名でのネット活用を促す 総務省「悪の温床」化防止』(共同通信) という記事である。これは、時が経つと消えてしまうかもしれないので、今のうちに以下に引用しておく。
総務省は 27日、自殺サイトなど「有害情報の温床」ともいわれるインターネットを健全に利用するために、ネットが持つ匿名性を排除し、実名でのネット利用を促す取り組みに着手する方針を固めた。匿名性が低いとされるブログ(日記風サイト)や SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)を小中学校の教育で活用するよう求め、文部科学省などと具体策を詰める。
まあ、はっきり言って短絡的思考である。まともなネットワーカーの間では笑いものになってしまうのもいたしかたない。
しかし、その直後に藤代裕之@ガ島通信さんの「ブロガーの増加が「匿名」を吹き飛ばす? 米国の例に学ぶ」という記事が出て、実名/匿名論争は、ワンステージ上に行ってしまったように思う。
この記事では、米国の記者の指摘として、実名でキャリアを明確にしてエントリーすることにより、信用度と影響力が向上することに、アメリカのブロガーたちは気付き始めたということを紹介したわけだ。
なるほど、もっともな話である。同じような主張が実名と匿名で発信されたとしたら、実名の主張の方により説得力があるだろう。
しかし、問題は日本と米国の社会性の違いを無視することができないということだ。
- 日本のブロガーが 「社会に対する影響力」 を行使したがっているか?
- 社会に影響力が行使されたとして、その後始末まで責任を負う覚悟があるか?
を考える必要がある。
まず、日本のブロガーの大多数が「社会に対する影響力」を行使したがっているとは思えない。単なる日記サイトである場合が多いからだ。
しかし、非常に強い自己主張を展開して、社会変革を目指しているかのように見えるブロガーも確実に存在する。しかしそれを実名で主張したら、たとえより高度な「社会に対する影響力」は行使できたとしても、日本の社会においては、「世間からのしっぺ返し」 がより強い形で現れることが容易に想像される。
「みんな一緒、以心伝心、お互い様」を旨とする社会において、多少なりとも先鋭的な主張をするためには、匿名性は有効なツールとなるのだ。 「社会に対する影響力」を多少犠牲にしてでも、「身に降る火の粉を避ける」方を選択することに、何の言い訳が必要だろうか。
総務省が実名でのネット使用を勧めるのであれば、本当の意味で「言論の自由」を保証してくれなければ困る。少なくとも、政治的立場や宗教的立場を明確にしたぐらいのことで、地域や職場で、まともな議論とはまったく別の方向で排除や差別につながることがあれば、それだけで、とりもなおさず「人権侵害」であることを認めなければならない。
悲しいことに、今の日本の「世間様」は、違いを認め合えるほどには成熟していない。だから、「違い」は「世間の外部」で主張する方が安全なのだ。ただ、何しろ「世間の外部」だから、フォークロアでいうところの「悪場所」でもある。確かに怪しげなところでもあるのだ。
ちなみに私の場合、「庄内拓明」というハンドルを使っているが、この名前はネット利用以前から、活字媒体において「ペンネーム」として使用していたものである。だから、「庄内拓明」が何物であるかを知っている人は、世の中にいくらでもいる。
だから、私は「庄内拓明」あるいはその省略形の "tak-shonai" の名において展開した主張に、リアルにおいても全面的責任を負う。私が本名を使っていないのは、多分に「趣味の問題」である。
なお、ululun さんの関連記事にトラックバックさせていただいている。
ohima7_toki2 さんの関連記事にもトラバ返しをさせていただいた。
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