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2005年6月21日

田中小実昌氏に座布団三枚!

「ポイズンピル」をめぐって、昨日に続き、もう一度冒険させていただくことにする。

流れるものと残るもの」でも触れられているが、ハードボイルド御三家の一人、ダシール・ハメットの「血の収穫」という小説に、「パーソンビル」という町が登場する。この町が「ポイズンビル」と呼ばれているという。

私は探偵フィリップ・マーロウの登場するレイモンド・チャンドラーのシリーズならほとんど読んでいるのだが、その先輩格のダシール・ハメットの方は、恥ずかしながら一作も読んでいない。「マルタの鷹」は、ボギー主演の映画で見たが。

今回は読んでいなくても書けるほどの、ササイな内容である。重箱の隅である。まず、そうお断りしておく。

「血の収穫」の日本語訳には、田中西二郎訳、能島武文訳、田中小実昌訳、小鷹信光訳があるらしい。「孤独のつぶやき」というサイトに、それぞれの冒頭部分が引用されている。

この小説は、"Personville"(パースンビル)という町があり、それを、"Poisonville" と発音する男がいたというところから始まる。ここで問題にしたいのは、その "Poisonville" が実際にどう発音されていたかだ。

上記の「孤独のつぶやき」というサイトによれば、四人の翻訳者のうち、田中西二郎氏、小鷹信光氏の二人は「ポイズンヴィル」、能島武文氏は「ポイズンビル」と表記している。「ポイズン」 の部分は 3人に共通している。

それに対して、あの田中小実昌氏だけは「ポイズン」と濁らずに 「ポイビル」と表記し (ちなみに、"Personville" の方も「パービル」となっている)、その上で、

文字で書けば、Poisonville、毒の町(ポイソンビル)ってことになる。

と、訳注めいた一文を入れて補っている。つまり発音だけでは poison(ポイズン = 毒)そのものにはなっていないということに、並々ならぬこだわりをみせているのだ。

小説では、主人公がこの町の名前を初めて耳にしたのは、とある酒場で "shirt"(シャツ)のことを「ショイツ」と発音する炭坑夫が言うのを聞いたということになっている。

つまり、あの "e" をひっくり返した形の発音記号で示される曖昧母音に "r" の付いた発音が「オイ」という発音に置き換わる訛りだ。

これは米国では案外よく耳にする。"Girl" なんかも、口の奥にこもったように「ゴイル」に聞こえる。数年前にロサンジェルスで泊まったホテルのフロント係の男も、この訛りだった。

この訛りの法則だと、Poisonville も、「パーソン/パースン」の「パー」の部分が「ポイ」に置き換わるだけだから、田中小実昌訳の「ポイソン」が、多分、いやほぼ確実に、正しいんだろうなあという気がする。

ちなみに「ポイスン」の方がより近いのだろうが、"person" を外来語の慣例に従って「パーソン」としたからには、「ポイソン」に帰着させた判断は正しい。

英語では、語尾の「ズ」の発音が弱まって「ス」に聞こえることはいくらでもあるが、"poison" が「ポイン」になることはあまりない。この場合は逆も真なりで、Personville がいくら訛っても、「ポインビル」にはならないはずなのだ。ズーズー弁じゃあるまいし。

というわけで、私は「ポイズンビル」に流れずに「ポイソンビル」とした田中小実昌氏の見識に感服するのである。なにしろ、氏は進駐軍将校クラブのバーテンダーなどを経験しているから、米国人の生の発音には、かなり親しんでおられたはずだ。

ハードボイルドというジャンルは、全体の筋以上に、細部へのこだわりが重要なのである。氏はとてもひょうひょうとして、頼りなさそうに見えたが、このあたりはとてもしっかりと芯が通っていたわけだ。

今日の結論は、「田中小実昌氏に座布団三枚!」ということである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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