プロレスの時代的使命は終わった
長らく「プロレス・ファン」を自称し、一時は「知らないプロレス技はない」とか 「ブレーンバスターの受け身は任せろ」などと豪語していた私だが、最近はあまりプロレスに執着がなくなってしまったのが、我ながら悲しい。
プロレスへの思い入れは、「K-1」や「プライド」へのそれにとって変わってしまった。
プロレスがショーであることは、やってみればすぐにわかる。プロレスの見栄えのいい大技は、受け身を取る相手の協力がなければ成立しないものである。だから、受け身の上手なやつとでなければ、プロレスごっこだってコワくてできない。
だからプロレスというのは勝負論ではなく、パフォーマンス論である。いかに上手に技を受け合って、最後のカタルシスにもっていくかが問題なのだ。それだけにプロレスは難しい。そして、闘う者同士に信頼関係がなければならない。
この信頼関係というのは、悲しいことに、経済的な基盤によって保証されるというところが大きい。プロレスがテレビのゴールデンタイムに君臨したのは、日本の景気が上り調子の時代だった。
力道山とデストロイヤー、馬場とファンク兄弟、猪木とタイガー・ジェット・シンらは、 ビジネスとしての深い信頼関係に結ばれていたのである。
バブル崩壊以後の社会では、プロレス的名勝負を生み出す人間的信頼関係が、脆弱なものになってしまった。いかに身を削り、体を張った受けを取っても、それが十分に報われないとなると、名勝負も生まれにくい。レスラー同士の疑心暗鬼も膨らんでしまう。
一方が「あいつの技なんか、まともに受けてやるもんか」と思ってしまえば、それだけでプロレスはつまらないものになる。経済成長期は拡大再生産であったプロレスが、今は縮小再生産になってしまったのも、ある意味では当然である。
こうした縮小再生産の時代の要請に、「相手に技を出させない、技を受けない」ことによって成り立つ、いわゆる「リアル格闘技」は、即してしまっているのである。
プロレス団体は、軒並み赤字経営を迫られている。それも道理である。プロレスの時代的使命は、古き良き時代とともに、終わってしまったのだ。
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