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2005年7月に作成された投稿

2005年7月31日

生鮮食料品のもったいない買い方

スーパーやコンビニで、牛乳などの生鮮食料品を買う時、わざわざ奥の方に並んでいる、日付の新しいものを買うのは、今日の今日まで「賢い消費者」だと思っていた。

ところが、それは独りよがりに過ぎないことだと知ったのである。地球全体の視点からは、完全に間違いだ。

買ったものを、3日も 4日もかけてようやく食べつくすような場合は別として、普通のサイクルで消費してしまうのなら、素直に手前の列から商品を取るべきだ。手前の商品を取る者がいなかったら、その商品は賞味期限切れで捨てられてしまうのである。

食品流通において、誰にも手にとられることなく、単に賞味期限切れのために処分されてしまうものは案外多いという。これは、コンビニの経営者から聞いたことだから確かだ。

食品流通においては、商品が作られた順に自然に購入されるように、新しいものは奥の方に並べられる。ところが、消費者はそれを知っていて、逆手に取る。手前からではなく、奥の方に並んだものを買い物かごに入れるのだ。

このようにして、手前に並んだ商品はついに賞味期限切れで捨て去られる可能性が刻々と高まる。

こうした事情を知ってしまったからには、態度を変えなければならない。もし同じ商品を買うとしたら、まだまだ日持ちのする商品は奥に置いておき、今、ここで自分が買わなければ、近々捨て去られてしまうだろうという手前の商品を買って、自分が食べてあげようという心情が湧いてきてしまう。

それがまさに、「もったいない」ということだ。

私はこれから、手前にある商品から素直に買おうと思うのである。

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2005年7月30日

オヤジを卑しめる CM

近頃に限らないが、テレビやラジオの CM で、やたらとオヤジを卑しめるというパターンがある。あれって、一体何なのだろう。

ちょっとしたユーモアというには、なんだか後味が悪い。それとも、オヤジを卑しめると、かみさんや子どもたちの支持が得られるとでもいうのだろうか?

こうした例は枚挙にいとまがないほどなのだが、一つだけ、一番後味の悪いのを挙げておく。

それは、カーラジオで聞いたロッテのカスタード・ケーキの CM なのだが、「ふんわり、とろーり」という、ちょっとそそられるキャッチを重ねた後に、下品なおばさんの声で、「"でっぷり、のろーり" なら、うちの主人だけど!」と言うのである。

「ふんわり、とろーり」 のカスタード・ケーキの宣伝で、どうして 「でっぷり、のろーり」 などと言って、旦那の悪口を言わなければならないのか、さっぱりわからない。せっかくのケーキが不味くなってしまいそうではないか。

好ましいユーモアというわけでもないだろう。こんなのをユーモアというなら、ロッテの製品は、私は買わない。

他にも、某家具センターの CM で、ダンナが「俺は家具を見る目があるからな」と言うと、オカンが「家具だけはね!」と憎々しげにいうというのもある。

これなんか、「家具だけしか見る目がない」というダンナに選ばれた自分の価値さえも否定することになるわけなのだから、まったくナンセンスになってしまうと思うがなあ。

家庭でオヤジの居場所がなくなっているなどと言われるが、そうした風潮にますます拍車をかけるような CM が、ユーモアだなどと思われているようでは、あまりにも悲しい。

広告代理店がそんな CM のアイデアを持ってきたら、そんな代理店とは付き合わないというぐらいの姿勢を示す企業が、あってもいいではないかと思う。

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2005年7月29日

COMIC BATON に答える

近頃「○○バトン」というのが流行っていて、私も 2つほど答えてみたが、今度はあの まこりんさん から "COMIC BATON" なるものが廻ってきた。

TB せすに「ひっそりと」廻したということだが、以前、こっちが MUSIC BATON を廻しちゃった手前、無視はできないだろうなあ。

近頃、バトンを渡すにも、私の注目しているサイトの管理人さんは、つい拾ってみたくなるように「これみよがしに落としとく」とか、今回のまこりんさんのように、スルーしやすいように、敢えて TB せずに「ひっそりと廻す」とか、涙ぐましくも芸が細かい。好ましいことである。

なにしろ「毎日更新」を謳っていると、年がら年中ネタ不足なので、バトンというのは案外ありがたかったりする。「しょうがなく答える」 風情を装いながらも、実情は見え見えだったりするのである。

さて、本題のバトンである。

    • 本棚に入ってる漫画単行本の冊数

      むむむ、10冊に満たないようだ。漫画は決して嫌いではないから、以前はもっと持っていたのだが。

      じゃりん子チエ』 とか 『博多っ子純情』 とか 『がんばれタブチくん』 とか、いつの間に処分してしまったんだろう?

    • 今面白い漫画

      困ったなあ。最近の漫画、あんまり知らないのだ。近頃の
      「クロっぽい漫画」、つまり、スクリーントーンなどがバシバシ多用されてる絵は、見るだけで疲れてしまう。

      白っぽい絵が好きなので、現在連載中のものでつい手にとってみるのは、「釣り馬鹿日誌」 とか 「山口六平太」 みたいなものになってしまう。でも、これらは買ってまで読もうとは思わない。もっと面白いの、ないのかなあ。
       
    • 最後に買った漫画

      もう 3年以上前になると思うけど
      薔薇の木に薔薇の花咲く』 (いしかわじゅん)
      文庫版なのだが、上中下巻の 3冊揃えた。これはおもしろいよ。
       
    • よく読む、または特別な思い入れのある5つの漫画

      これは、以前に 「本好きへ 100の質問」 に答えたのがあるので、コピペしておこう。

      いしかわじゅん 『薔薇の木に薔薇の花咲く』
      さくらももこ 『ちびまる子ちゃん
      佐々木倫子 『動物のお医者さん
      赤塚不二夫 『天才バカボン』 (← このサイト、なかなか面白いのだ!)
      いしいひさいち 『バイト君

      番外編として、ビンテージ版も挙げておこうか。

      前谷惟光 『ロボット三等兵
      横山隆一 『フクちゃん

      この 2作は、私の人格形成に、深く影響しているかもしれない。
       
  • バトンを渡す5名

    別に渡さないで落っことしとくから、拾いたい人は勝手に拾って。
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2005年7月28日

庄内弁の豊かな陰影

またしても、山形放送ラジオに出ることになってしまった。29日(金)朝 6時 45分からの「歌のない歌謡曲」という番組の中で、10分ほどしゃべらせていただく。

松下香織アナウンサーとの電話を通じたおしゃべりということで、生出演ではないので、既に収録は終わっている。

山形放送(TBC)ラジオとご縁ができてしまったのは、私の運営しているサブサイト「庄内力養成委員会」が、一部で評判になってしまって、私が庄内弁振興の旗振り役の一人みたいなイメージになってしまったことからだった。

5月 28日(土) に、「ドンキーのいいのぉー庄内!」という番組に、電話出演させていただいたのが、そもそもの発端である。

この時の顛末は、"「庄内力」 ラジオに進出" という事前予告コラムと、"ラジオ出演、その後の 「庄内力」"という事後報告コラムにまとめられている。

この時の放送に注目してくださったのが、松下香織アナウンサーで、私の「庄内人は『のう』と言える日本人」発言は、大受けを取ってしまったようなのだ。

そんなわけで、この放送では、私の庄内弁に関する思いを語らせていただいている。

今どきの庄内人は、誰でも共通語と庄内弁のバイリンガルなのだが、大脳皮質の外側の部分にある「理屈」の部分を担当する共通語の奥底に、より生理的、本能的、感性的な、庄内弁という豊かな深海が存在することは、庄内人の幸いなるところである。

しかも、他の方言の多くは、大抵どこでも通じてしまうが、庄内弁は、東京でそのまましゃべってもほとんど通じない。通じない感性を、通じるように翻訳するという、無意識的な作業の末に、庄内人は陰影の深い独特の感性の襞を身に付けてしまったのだ。

私は、とても難解な庄内弁の中で育ったことを無上の幸運と思っている。

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2005年7月27日

杉浦日向子さんのダンディズム

杉浦日向子さんが亡くなった。私にとっては、大きなニュースである。昨日が自分の誕生日でなかったら、このコラムは一日早くアップロードしていたはずのものだ。

私は蕎麦が好きだ。七代目団十郎で修士論文を書いた。これだけで、私の中でのこの人の重要度は、かなりなものである。

一日遅れになってしまったので、通り一遍では追悼にならない。杉浦日向子という人について書かれなければならないことは、他のブログできっちりと書かれてしまっている。

仕方がないから、私としては、杉浦日向子ダンディズムという視点で書いてみよう。

彼女の著書 『ソバ屋で憩う』 には、「昼の酒」 についての一文がある。引用してみる。

東京のソバ屋のいいところは、昼下がり、女ひとりふらりと入って、席に着くや開口一番、「お酒冷やで一本」 といっても、「ハーイ」 と、しごく当たり前に、つきだしと徳利が気持ち良く目前にあらわれることだ。

(中略)

ソバ屋で憩う、昼酒の楽しみを知ってしまうと、すっかり暮れてから外で飲むのが淋しくなる。暗い夜道を、酔って帰宅するなんて、まったく億劫だ。いまだ明るいうちに、ほろ酔いかげんで八百屋や総菜屋を巡って、翌日のめしの仕入れをしながら着く家路は、今日をたしかに過ごした張り合いがある。

「にじよじ」という言葉を広めたのも彼女である。2時から 4時までの都会の時間帯。「昼食の喧騒が去り、夕刻すぎの呑み屋状態になる前の、ぽっかりとした昼下がり」のことを言う。

この時間帯に、ソバ屋で昼酒を飲むのを、彼女は淡々と楽しんでいたように思われる。だから、3時頃に「準備中」の札のかかるソバ屋が多いことを残念がっていた。私も勤め人を辞めてから、初めてそれがとても共感されるようになった。

「にじよじ」 という言葉から、私はレイモンド・チャンドラーの 『ロング・グッドバイ』 (長いお別れ) を思い出す。ペーパーバックでしか持ち合わせがないので、以下にあまり上等ではないが、私の翻訳で引用する。

「俺は夕方前に店を開けたばかりのバーが好きだ。店の中の空気はまだ涼しくて清潔だし、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡を覗いて、ネクタイが真っ直ぐで、髪の毛がきちんとしているかどうか確かめている。俺は、カウンターの奥の小ぎれいなボトルと光沢のあるグラスを眺めながら、これから始まる時間について考えるのが好きだ。バーテンダーがその日の最初のカクテルを作ってパリッとしたマットに置き、小さく折ったナプキンを添えるのを見るのが好きだ。そして、それをゆっくりと味わう。静かなバーの夕刻の、最初の静かな一杯 − 素晴らしいじゃないか」

これは、この小説に出てくるテリー・レノックスというちょっと癖のある男の台詞なのだが、主人公の探偵フィリップ・マーロウは、"I agreed with him." (彼に賛成だ) と言っている。

共通しているのは、呑み助たちの喧噪状態になる前の、「のんびり」と「きりり」の匙加減がちょうどいい時間帯に、自分のペースでゆっくりと酒を飲むことだ。さしつさされつなんかとは無縁の酒である。

実はこれは、かなりわがままなことである。そのわがままを、さらりと通すのがダンディズムである。

杉浦日向子さんは、こうしたダンディズムをとても上手に通しておられた。お若いのに大したものだった。合掌

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2005年7月26日

自分自身の耐用期間

今日は私の誕生日である。何と 53歳だという。自分でも信じられない。

53歳に達したのは、今日ではないということも、私は昨年暮れから知ってしまっている(参照)。日本の法律では、誕生日の前日に歳を取ってしまうのだ。だから、私は昨日から 53歳なので、もうジタバタしないのである。

先頃厚生労働省が発表した日本人の平均寿命は、女性が 85.59歳、男性が 78.64歳なのだそうだ。大変な長生きである。自分が男性の平均だけ生きるとしても、人生はまだ 25年ほど残っている。

還暦を過ぎれば、いつお迎えが来ても不思議ではないというような時代だったら、私もそろそろ人生の総まとめにかかればいい歳だろう。しかし、さらに 25年も生き長らえるとしたら、話は別だ。

私はかなり健康な部類に入ると思うので、不慮の事故にでも見舞われない限り、多分 25年ぐらいは十分まともに生きてしまうだろうと思っている。

最近は、月日の経つのが早く感じられてしょうがないので、25年なんて、あっという間かもしれないが、何しろ、ドッグイヤーと言われる世の中である。物理的に単純な時間としては短いかも知れないが、その密度は濃いものになるだろう。あと 25年で、どんなに大きな社会変化が生じるか、知れたものではない。

とりあえず、この 10年は、IT の時代だった。IT の時代とはいうが、とくに後半 5年ほどは、インターネットの時代だった。世の中、インターネットがらみで大きく変化してきた。

幸いなことに、私はこの変化に乗り遅れないで済んでいる。乗り遅れないどころか、結構まともに流れに乗っている。

今後数年間は、この勢いで時代に乗り遅れないで行けるだろうという自信はある。しかし、問題はその後である。

自分が還暦を過ぎた頃、世の中どんなになっているだろうか。これ以上の小難しいハイテクをモノにしなければならないようだと、かなりしんどさを感じていることだろう。

できることなら、その頃には世の中全体も、そうした流れにしんどさを感じていてもらいたい。そして、ハイテクよりもハイタッチなことを論じるのが重要という世界になってもらいたい。

そうすれば、私の耐用期間も大幅に伸びることになる。

【2020年 7月 28日 追記】

「誕生日の前日に年を取る」ということに関しては、誕生日の前日になった途端に年を取るのではなく、誕生日の前日が終わらんとする一瞬(24時)に年を取るとされているようなのだ。詳しくは、2020年 7月 28日付の "人は誕生日の前日に年を取るわけなのだが" を参照されたい。

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2005年7月25日

慈悲喜捨

昨日の「一撃」で、実家が引っ越すことになったと書いた。とは言っても、引越し先は今の家の向かいに新築する家である。

現在そこにはかなり古いアパートが建っているが、それを取り壊し、土地を売りに出す。それをうちの父が買った。築 40年の今の家をたたみ、向かいの新宅に移るというわけだ。

移り先はほんの向かいだが、やはり、一切合財を移すのだから大変な作業になる。この際だから、物置にたまった何十年来のがらくたは処分しなければならない。

どんなものがあるのか、物置に入ってみると、子供の頃に見覚えのある棚やたんす、茶箱などがびっしりと積み重ねられている。いくつかの引き出しを開けてみると、見覚えのある洋服や着物が入っている。多くはもう使い物にならないから、捨てるしかない。

ところが、これらを一挙に捨てるとなると、思い出のあるものもあるので、ちょっと捨てにくい。親戚で最近引越しをした者の言うことを聞くと、捨てるときには、ちょっとでも考えてはいけないのだという。

ちょっとでも考えてしまうと、それにまつわる思い出がよみがえってきて、捨てられなくなる。だから、考える間もなく、次々に自動的に捨てなければならない。

捨てる一瞬間だけは、何かの感傷がわくかもしれないが、捨ててしまいさえすれば、そんなものはきれいさっぱり忘れてしまうのだそうだ。要りもしないもので貴重なスペースをふさぐことこそ馬鹿馬鹿しい。それを聞いてなるほどと思ったものである。

ところで、今日、物置を物色してみたら、珍しいものが出てきた。円筒形の書類入れに入った 「ガリ版用の原紙」 である。

といっても、最近の若い人は知らないだろう。ごく薄い和紙にパラフィンをコーティングしたもので、それの上から鉄筆でガリガリと書き込むと、そこだけパラフィンが取れてインクが通るようになる。それで 「謄写版印刷 = 別名 ガリ版印刷」 ということをするのである。

高校時代、ガリ版印刷でミニコミ誌を作っていたのを思い出した。その時に使い残した原紙が、30数年の時を経て現れたのである。

考えてみれば、このサイトにしても、その母胎はあのガリ版印刷のミニコミにあったのだ。

そう考えてしまうと、その原紙だって捨てられなくなる。しかし、ここは 「考えずに」 捨てなければならない。仏教でいうところの 「四無量心」 というのも、「慈悲喜捨」 である。慈悲を発揮し、他の喜びをわが喜びとし、そして、最後にはそれらをも捨てなければならないという。

モノとしての原紙は捨てても、そのスピリットは、このサイトに脈々と残そう。

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2005年7月24日

耐震構造の話

昨日の 4時半頃は、月山街道をひたすら酒田に向かって車を走らせていた。だから、東京足立区で震度 5強を記録したという地震は、まったく知らなかった。

茨城西南部は震度 4。このくらいなら、慣れっこだ。留守番の娘も、「全然大したことなかったよ」と言っている。

足立区周辺にいた人は、「ついに、『例のモノ』が来たか」と身構えたかもしれないが、幸か不幸か、今回のは「例のモノ」ではなかったようだ。「例のモノ」がこの程度で済んでくれれば、ありがたかったのだが。

私は小学校 6年生の時、新潟地震を経験した。酒田でも震度 5 を記録した。当時は、震度 5 に「弱」「強」という区分はなかったが、今の基準で言えば、間違いなく「震度 5 強」だったと思う。

新潟地震があったのは、東京オリンピックの年である。昭和 39年、1964年だ。

あの年は、その震度 5 強(だったろう)の地震で、かなりの被害が出た。地割れに落ちた女学生が死に、家々の壁には亀裂が入り、市内のほとんどが停電し、水道管は随所で破裂し、完全復旧まで 1か月以上かかった。

揺れている最中、私は戦前に建てられた木造の小学校にいたが、天地がひっくり返るような揺れで、教室の天井から塵がバサバサと落ちて煙のように広がるのを見ただけで、「思えば短い一生だった」と覚悟したほどだった。

そうした経験をしたものだから、最近のニュースで震度 5 強 とか、6 弱 とかでも、案外軽い被害で済んでいるのをみると、隔世の感がある。なんだかんだ言いながらも、最近の建物は地震に強くなり、都市のインフラも、そう簡単には壊れないようになっている。

話はややそれるが、昭和 30年代の 76歳のじいさんというのイメージは、腰の曲がったよぼよぼの老人だった。ところが、帰郷して顔をあわせる私の父は、76歳とはいえ、しゃきしゃきしている。

妙な表現だが、最近は老人まで耐震構造がしっかりしてきたようだ。その代わり、実家の建物の方が、築 40年を越えてガタがきた。

来年の 5月には、現在の家の向かいに買った土地に家を建て、引っ越すという。それを聞いて、ちょっと安心だ。少々の地震では倒れずに済むだろう。

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2005年7月23日

「深川めし」 に 2種類あったなんて!

昨年末、東京の名物駅弁 「深川めし」 の内容が落ちたと書き、昨日、その落ちた内容が元に戻ったと書いた。(参照 12

しかし本日、驚愕の事実を知ってしまった。なんと、「深川めし」には元々、穴子の蒲焼き二切れと三切れの、二つのバージョンが併存しているというのである。

それを知ったのは、「深川めし」について書いている他のサイトがないかと、Google で検索し、「深川めし対決」というページに行き当たったおかげである。

このサイトによると、「深川めし」には NRE (日本レストランエンタプライズ)のものと、JRCP のものの 2種類あり、前者は 830円、後者は 850円なのである。そして、850円の JRCP バージョンは、東海道新幹線の改札内でしか買えないらしい。

つまり、私はずっと東海道新幹線を利用する機会が多かったため、その度に新幹線の改札内で 850円の JRCP バージョンを買って満足していたのだ。

ところが、最近になってにわかに東北新幹線や上越新幹線を利用する機会が増え、昨年末に初めて 830円の NRE バージョンを買い求めて、てっきり内容が落ちてしまったものと嘆き悲しんでしまったのであった。

そして、一昨日、愛知県の一宮市に出張することになり、久しぶりで東海道新幹線の改札内で JRCP バージョンを入手し、一度落ちてしまった内容が元に戻ったものと勘違いして感激していたのである。なんだか、独り相撲を取ってしまったような気がする。

値段については、以前は 850円で買い求めていたことをすっかり忘れてしまい、ずっと 830円だったものと信じ込んでしまったのである。我ながら、お恥ずかしい勘違いである。

それにしても、たった 20円の違いならば、850円の JRCP バージョンの方が、穴子の蒲焼きが 一切れ多いというだけでなく、味や風味を含めた総合評価でもずっと上を行く。コストパフォーマンスという視点からさえもも、JRCP バージョンの方が上回るだろう。

願わくは、NRE 版の「深川めし」も 850円に値上げしてでも、JRCP バージョンのレベルに追いついてもらいたい。

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2005年7月22日

「深川めし」の復活を祝う

昨年暮れのこのコラムで、東京の名物駅弁「深川めし」のトレードオフを嘆いた(参照)のだが、製造販売元がそれを読んでくれたのかどうか、以前の中身に戻っているのを、昨日確認した。

二切れに減らされていた穴子の蒲焼が、めでたくも、三切れに復帰していたのである。

Fukagawa1

先週、岩手県に出張したときは、まだ二切れのままだったのだから、三切れに復帰したのは、ごくごく最近のことである。うれしいことだ。

その他の具も、ケチらず、ほぼ以前の状態に戻っていた。その代わり、値段がこれまでの 830円から 850円に上がっていたが、私は昨年末のコラムで、「中身を維持するために値段が 850円や 900円になったとしても、浮気なんかしない」と書いていたので、まずはめでたしめでたしである。

既に書いたことだが、私は東京の駅弁の中で「深川めし」は秀逸だと思っている。江戸前の「粋」を感じさせるこの弁当は、合成着色料たっぷりの幕の内弁当的なものの数倍素晴らしい。

そのご贔屓弁当の中身が、一時とても淋しいものになってしまったのは、非常に残念なことだったのだ。写真の上段が昨年の秋頃のもの。中段が年末からの「淋しいバージョン」である。

そして、一番下のものが、昨日買い求めた 「復活バージョン」だ。

もう一つうれしいのは、以前の「深川めし」は、せっかく趣のある蓋の絵に、品質表示シールがべったりと貼ってあったのだが、今回のバージョンでは、このシールは密封ビニールカバーの方に貼ってあって、蓋の絵は邪魔するものなく眺められるようになっていたことだ。

製造販売元は、私の年末のブログを読んでくれたに違いないと信じる。そして、期待に応えてあまりある対応をしてくれたのである。ありがたい。拍手拍手である。

(平成 17年 7月 23日 追記)

この記事は、実は勘違いに基づいているということが判明した。詳細は、こちら

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2005年7月21日

とてもエラそうな 「おひとりさま」

Reiko Kato さんの 「王様の耳はロバの耳」 の記事を読んで、「おひとりさま向上委員会」 なるサイトがあることを知った。

「おひとりさま」 とは、「人間として当たり前の個が確立できている女性のこと」 なんだそうだ。ふーむ、これって、ちょっとツッコミたくなる表現ではないか。

もっともらしく聞こえるが、要するに、よくわからんのである。

まず、「個が確立できている」ということが、「人間として当たり前」なのか。うーむ、そうだとしたら、世間には「当たり前でない人間」が多すぎると言わなければなるまい。この世は「人でなし」の王国ということになる。

「個が確立できている女性」のことを、ことさら差別化して「おひとりさま」と称するということは、他の多くの女性は「人間として当たり前のこと」ができていないということなのか。

そして「個が確立できている」と自認する女性は、「人間としては当たり前」だけれど、一方では「そんじょそこらの女性とは違う」ということなのだろうか。女性は、当たり前の人間ではないのか?

ちょっとしたパラドックスに陥ってしまう。

それから、Reiko Kato さんも驚いておられるが、このサイトのトップページでは、"「おひとりさま」 という言葉、および定義は、故・岩下久美子さんが考案し、提唱したもので、登録商標用語です。無断使用、類似表記は固くお断りしております" ということになっている。

この 「登録商標用語」 という聞き慣れない言葉は、一体何のことだ? それに、よく見ると、サイト内の 「取材・お問い合わせ」 というページには、"「おひとりさま」は商標登録申請中です" とある。おいおい、この古典的やり口は、かなり問題だぞ。

そもそも、「故・岩下久美子さんが考案し、提唱した」 のは、「おひとりさま」という言葉の新しい「定義」のようなもので、「言葉、および定義は、故・岩下久美子さんが考案し、提唱した」というのは、あつかましすぎるんじゃないかなあ。故・岩下久美子さんに申し訳ないような気がする。

さらに、この「取材・お問い合わせ」ページには、"WEBでリンクをされる場合も予めご連絡ください" とある。この委員会、かなりエラそうなのである。お生憎様、連絡なんかしないよ。

(H17.8.4 追記)

本文に、

それに、よく見ると、サイト内の 「取材・お問い合わせ」 というページには、"「おひとりさま」は商標登録申請中です" とある。おいおい、この古典的やり口は、かなり問題だぞ。

と書いたが、その後、ululun さんが調べてくれて、今年の 2月 25日に、商標として登録されたと判明した (参照)。要するに、上記のページは、半年近く更新を怠っているもののようだ (8月 4日現在、まだ更新されていない)。

外部にいろんな要求をする割には、自サイトの脇が甘い。

(H18.8.25 追記)

たまたま 「おひとりさま向上委員会」 のリンクを辿ったら、ページが消えていたので、消滅したのかと思ったが、実は、URL が変わっていたのだった。(それで、当方の本文中のリンクは更新しておいた)

何でまた、トップページの URL を変える必要なんてあったんだろう? うさんくさいなあ。

さらに、"「おひとりさま」は商標登録申請中です" という表記は、他のエラそうな文言とともに、まったく修正されていない。やれやれ。

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2005年7月20日

Cimema Baton を拾う

kumi, the Party Girl から、これみよがしに落としといた Cinema Baton を拾ってくれとのリクエストがあり、今日はネタもないので、これ幸いと拾ってみることにする。

とはいえ、学生時代は年間 100本以上映画を見ていた私だが、最近は見る本数がとんと減っているので、ちょっと心苦しい。

それでは、取り敢えず、答えてみよう。

  • 購入済みのDVDまたは録画済みビデオ本数の総計は?

    購入済み DVD というのは、レンタルを利用するから、全然少ない。5本程度。

    録画済みビデオは、よくわからない。とにかく一杯ある。妻がどんどん録画してどんどん見て、私が見ないうちにさらにどんどん上書きで録画していく。だから、棚一杯にある本数の何倍も、彼女は見ているはずである。私は数分の一しか見てないけど。

    要するに、妻は私の何倍も映画好きなのだ。
     
  • いま面白い映画はなにか?

    この質問、本当に困る。昔の映画の方がずっと面白かったと、繰り言を言いたくなってしまう。

    以前の私の上司も、やはり映画マニアックで、ものすごい本数を見ていた。私は、リアルタイムで本気で見たのはニューシネマ以降なのだけれど、「ニューシネマなんて、映画じゃないよ」 なんてクサされたものだ。

    今じゃ、最近の映画をクサしたくなっている自分を発見して、愕然としてしまう。

    歌舞伎の世界では、明治の名優、九代目団十郎と五代目菊五郎の思い出ばかり語る年寄りを、「団菊じじい」 と言い、六代目菊五郎のことばかりいう年寄りを 「六代目じじい」 と言った。私は先頃なくなった 六代目歌右衛門をバッチリ見ているので、「歌右衛門じじい」 と呼ばれたいと思っている。

    同様に、映画の世界では 「ニューシネマじじい」 と呼ばれてもいい。「ヌーベルバーグじじい」 と呼ばれるほどの本格的年寄りではないけれど。ましてや、『戦艦ポチョムキンじじい』 なんてことは、口が裂けても言えない。
     
  • 最後に見た映画は?(映画館とビデオorDVD鑑賞、双方あげてください)

    映画館で見たのは、"Ray"。この時のことは、別宅サイトの和歌ログで書いている (参照)。

    ビデオ or DVD では、あれ、何だったっけ? 他のことをしながら不真面目に見ちゃったので、ごっちゃになってしまって、タイトルが出てこない。
     
  • よく見る、または特別な思い入れのある映画を5つあげる。

    特別な思い入れのある映画ということで・・・

    卒業』 : この映画で、初めて映画というものを自覚的に見たような気がする。

    イージーライダー』 : 映画館で 10回ぐらい繰り返して見たのは、この映画だけ。

    暴力脱獄』 : 原題 "Cool Hand Luke"。誰も知らないだろうなあ。一般的な評価も余り高くない。ポール・ニューマンをかっこよく見せるためだけの映画とも言われてる。けど、誰しもあると思うのだ。「この映画の良さは、俺しかわからないんだ!」 という作品が。

    東京物語』 : 日本映画代表として、挙げておこう。

    風の谷のナウシカ』 : ジブリの作品では、やっぱりこれだな。鳥肌立った。

    (番外編として)
    サイレント・ムービー』 : メル・ブルックスの怪作。今どき、無声映画なのだ。無声映画のくせに、たった一言だけ、トーキーで台詞が入る。そのトーキーの台詞を言うのが・・・ おっと、ネタばれになるところだった。
     
  • バトンを渡すと言うよりもアンケートをお願いした方々。

    私も、その辺に落っことしとくから、拾いたい人は勝手に拾うということでお願いしたい。

以上。最近の映画を見てないなあと、つくづく思ったことである。

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2005年7月19日

未成年飲酒

中学時代バレーボール部だった我が家の三女は、このところずっと、女子バレーボールの中継に熱中していた。

フジテレビの中継では、何だか知らないがジャニーズ系のにいちゃんのグループがワイワイ騒いでいたが、この内の一人が、未成年飲酒で謹慎処分になってしまったらしい。

試合中継の終わった二次会だかで悪ノリして、このにいちゃんに酒を飲ませてしまったという、いかにも軽そうな女子アナまで、番組出演見合わせが報じられている。

世間では、18歳になって高校を卒業すればほとんど大人扱いで、酒なんて平気で飲んでいる。有名人になると、それができないというのは、気の毒と言えば気の毒な話だ。

もう 30数年経つから、十分に時効が成立しているので白状するが、我々も大学に入りたて、4月の初っぱなのコンパでは、飲み屋に繰り出して飲んだくれたものだ。そこには教授も同席していたはずである。

少なくとも二浪しなければ成人の条件を満たさないはずだが、私を含め、クラスのほぼ半数以上を占める現役入学組は 18歳の春である。それでも、大っぴらに酒を飲んで、別に何の咎めもなかった。

世間一般では、大体はこんなものだろう。ところが、なまじ有名人になってしまうと、20歳の年を迎えるまで、人前では酒を飲めない。妙ちくりんなダブルスタンダードである。

今回の一件にしたって、このにいちゃんが、酔っぱらって妙にハイになりすぎて公園で騒ぎ、近所の人が警察に電話なんぞしてしまったから、問題になってしまったわけで、大人しく飲んで、大人しくホテルの部屋に戻っていれば、なんてことはなかった。

私だって、未成年時代は大っぴらに飲んではいたが、何かあったら問題だろうから、警察沙汰にだけはならないように、一応、心の隅で意識していた。そのくらいのことは、ごく当たり前のことである。

要するに、今回の一件は、脇が甘過ぎたというだけのことである。このにいちゃんの精神年齢が高校生以下だったわけだ。酒ではなく、フルーツパフェぐらいで我慢しているべきだったな。酒をすすめた女子アナも、男を見る目がなかったということだ。

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2005年7月18日

プロレスの時代的使命は終わった

長らく「プロレス・ファン」を自称し、一時は「知らないプロレス技はない」とか 「ブレーンバスターの受け身は任せろ」などと豪語していた私だが、最近はあまりプロレスに執着がなくなってしまったのが、我ながら悲しい。

プロレスへの思い入れは、「K-1」や「プライド」へのそれにとって変わってしまった。

プロレスがショーであることは、やってみればすぐにわかる。プロレスの見栄えのいい大技は、受け身を取る相手の協力がなければ成立しないものである。だから、受け身の上手なやつとでなければ、プロレスごっこだってコワくてできない。

だからプロレスというのは勝負論ではなく、パフォーマンス論である。いかに上手に技を受け合って、最後のカタルシスにもっていくかが問題なのだ。それだけにプロレスは難しい。そして、闘う者同士に信頼関係がなければならない。

この信頼関係というのは、悲しいことに、経済的な基盤によって保証されるというところが大きい。プロレスがテレビのゴールデンタイムに君臨したのは、日本の景気が上り調子の時代だった。

力道山とデストロイヤー、馬場とファンク兄弟、猪木とタイガー・ジェット・シンらは、 ビジネスとしての深い信頼関係に結ばれていたのである。

バブル崩壊以後の社会では、プロレス的名勝負を生み出す人間的信頼関係が、脆弱なものになってしまった。いかに身を削り、体を張った受けを取っても、それが十分に報われないとなると、名勝負も生まれにくい。レスラー同士の疑心暗鬼も膨らんでしまう。

一方が「あいつの技なんか、まともに受けてやるもんか」と思ってしまえば、それだけでプロレスはつまらないものになる。経済成長期は拡大再生産であったプロレスが、今は縮小再生産になってしまったのも、ある意味では当然である。

こうした縮小再生産の時代の要請に、「相手に技を出させない、技を受けない」ことによって成り立つ、いわゆる「リアル格闘技」は、即してしまっているのである。

プロレス団体は、軒並み赤字経営を迫られている。それも道理である。プロレスの時代的使命は、古き良き時代とともに、終わってしまったのだ。

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2005年7月17日

手の甲の汗

暑い。蒸し暑い。汗が流れ落ちる。私はどうしたわけか、手の甲に無茶苦茶汗をかく。

世の中には、手のひらに汗をかいて困るという人がいて、これを「手掌多汗症」などというらしい。しかし、私は手のひらはどうということがないのに、手の甲に玉の汗をびっしりとかいてしまうのである。

手掌多汗症というのは、試験の答案用紙や書類が濡れてしまう、ハンドルが滑る、人と握手ができないなどで、深刻に悩んでいる人が多いという。なにしろ、それほど暑くないときでも、手のひらが汗でびっしょりになるらしい。

私の手の甲の汗は、夏場の暑いときだけに限られるので、それほどの悩みというわけではないが、それでも、人と握手しなければならないときなどは、前もって汗をぬぐっておくという配慮を欠かせない。

真夏の暑い盛りに神社の参拝なんぞをする場合は、柏手を打つ前にしっかりと汗をぬぐっておかなければならない。そうでないと、ポンポンと柏手を打ったとたんに、汗がほとばしり飛ぶ。

それから、暑い外から帰ってきて、まだ汗の引かないうちにパソコンに向かうと、手の甲から流れ落ちる汗が、キーボードに悪影響を与えかねない。

不思議なことに、わたしは手の甲を別とすれば、それほど汗っかきというわけではない。周囲を見ると、シャツの胸、背中、脇の下の色が変わるほど汗をかいているオッサンがいくらでもいるが、私は、遠目には涼しげに見えるはずだ。近づいて手の甲に光る玉の汗を見たら驚くかも知れないが。

とにかく、夏の暑い日には、私の手の甲は、ひとつひとつの汗腺から表面張力で盛り上がった玉の汗がキラキラと輝いて、それはそれは壮観なものである。サラサラとした汗なので、まあ、実害はないのだが。

手のひらに大汗をかくのは手掌多汗症というのに、手の甲にかくのは手甲多汗症とはいわないらしい。まあ、それほど決定的に困るということもないので、医者も問題にしないのかもしれない。

とはいえ、今年も私の手の甲は、間違いなく汗の水分でふやけ気味になるのだろう。

【追記】

よろしければ、2019年 8月 7日付の「手の甲の汗 2」もご覧ください。手の甲にびっしりと吹きだした汗の、暑苦しい写真入りですが。

【追々記】

さらによろしければ、2020年 8月 21日付の「手の甲の汗 3」もご覧ください。

 

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2005年7月16日

Google の "Page Rank"

近頃私は、メインのブラウザーとして Firefox を使用している。以前は Netscape を使っていたのだが、乗り換えてしまった。

この 2つは、はっきり言って似たようなものなのだが、Firefox がムードに乗ってシェアを伸ばしてしまった結果、Google まで Firefox 対応の Google Bar を提供してくれた。

ムードというのは大したものである。Netscape は、以前は一世を風靡したものの、マイクロソフトの徹底した攻勢によって息の根を止められかけていた。しかし、Netscape のブラウザー機能だけを取り出して軽くしてみただけといった風情の Firefox が、ちょっとしたはずみで、順調にシェアを伸ばしているようなのである。

それで、Google としても無視できなくなって、Firefox 対応の Google Bar を提供し始めたわけだ。

Internet Explore(以下 IE)ユーザーには既にお馴染みの Google Bar の機能に、"Page Rank" の表示がある。「Google 特有の機能で、ページの重要度を示します」 と説明されている。

たまに使ってみる IE で自分のページ(「知のヴァーリトゥード」)をみると、久しく "3/10" と表示されていた。この数字は、個人ページとしては中ランクの評価なのではないかと思う。

ところが昨日、Firefox 対応の Google Bar をインストールして表示させてみると、いつの間にか "4/10" になっている。どうやら、「中の上」 程度にランクアップされたらしい。これは、それなりに嬉しいというのが、人情というものである。

人並みに嬉しがってはみたものの、この "Page Rank" というのは、いったいどういう基準でランク付けされるのだろうかというのが気になった。そこで、Google の詳細説明のページに行ってみると、急に英語表示になってしまった。

日本語で読むのもうっとうしいような持って回った説明で、結局はよくわからないのだが、手短に言えば、より多くのページからリンクされているページは重要と判断され、しかも、重要なページからのリンクほど高く評価されるというコンセプトで計算されているようなのである。

よく考えてみると、「重要なページからのリンクほど高く評価される」というのも、じゃあ、その「重要なページ」というのは、どうやって判断されているのかという疑問に行き着き、それはそれでそれなりの計算がなされているのだろうが、結局のところは、よくわからない。

よくわからないけれども、まあ、そのブラックボックスの中で、私の「本宅サイト」のランクが 1つ上がったわけである。リンクしてくださっている方々には、深く感謝する次第である。

そして、さらに深読みすると、1つだけだがランクアップしてしまった私のところからのリンクは、リンク先のランク評価にも、いくばくかの貢献ができるのではなかろうか。

それを思うと、決して偽善ではなく、自分のサイトの少々のランクアップだけをとるより嬉しい気がする。インターネットというのは、そのようにして「相互に成長する」という、民主的なメディアという側面を持っていると思うのだ。

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2005年7月15日

宮仕えの「共犯関係」

昨日は岩手県の一関市まで日帰り出張した。(家にたどり着いたときには日付が変わっていたので、厳密には日帰りではないが)

帰りの東北新幹線はそれほど混んではいなかったが、3人掛けの座席を向かい合わせにして、酒を酌み交わしているサラリーマン 6人組がいた。見るからに窮屈そうだったが。

私はいくらグループ旅行でも、座席の向きをひっくり返して向かい合わせにするのは、あまり好きではない。なにしろ 6尺近い体だし、向かい合わせなんか、御免こうむりたい。夜遅い帰路の車内ぐらいは、ゆったりと座りたいものだ。

とはいえ、私は自分の好き嫌いを他人に押しつける趣味はない。だから、他のグループが座席を向かい合わせにしようがどうしようが、酒に酔って声高になるのを謹んでさえもらえればそれでいい。

しかし、私がここで一言文句を言いたくなったのは、この 6人グループのうち、対面座席の語らいを楽しんでいるのは、どうみても年かさの 3人だけで、若手の 3人は、仕方なく調子を合わせてはいるが、見るからにうんざりという風情だったからだ。(若手 3人は、年かさグループより大柄だったし)

3人ずつに分かれて座れば、年かさの 3人は並んで会話を楽しむことができ、若手の方はそれぞれ本を読むなり、寝るなり、自由にできたはずである。何も、座席を向かい合わせて、わざわざ窮屈な思いをすることはない。

しかし、日本のサラリーマン社会はそれを許さない雰囲気があるのである。多分、このグループは新幹線の車内に乗り込むなり、年かさグループが有無を言わせず座席をひっくり返して、ホームで買い込んでおいた缶ビールを若手にも当然の如く勧めていたのだろう。

日本の宮仕え社会に長く生きながらえたオジサンというのは、仕事が終われば、皆一緒に酒を酌み交わして下らない話をしながら、一種独特の 「共犯関係」 を構築、醸造するものだと思いこんでいる。それを望まない者がいるなどとは、夢にも思わない。

そして、この「共犯関係」があればこそ、ちょっとした不正や、ちょっとしたというレベルを超える談合なども、そんなに悪いこととは自覚されずに繰り返されるのである。

もう一つ、グループでの出張でホテルに泊まる場合の部屋割りも、これと根っこを同じくする。

欧米のホテルでは、グループ旅行者の泊まる部屋をバラバラに散らしてくれる。ところが、日本では 90%以上の確率で、連続した部屋を与えられる。

海外の展示会などに、グループ・ツァーで参加することがあるが、そんな場合、「どうしてこのホテルは、同じグループなのに、続き部屋を用意してくれないのかねぇ」なんて不満を言う人がいる。

とんでもない。同じグループだからこそ、あえて部屋が隣同士になんてならないように配慮してくれているのだ。

知り合いや同僚であるからこそ、隣同士の部屋でシャワーやトイレの音を聞かれたくないというのは、人情だと思うのだが、どうやら我が国では、そうした人情を越えた 「別の人情」 があるらしい。

トイレの音を聞き合うまでの、濃密な共犯関係が望まれているようなのだ。

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2005年7月14日

リンドン・ジョンソンの選挙キャンペーンソング?

ウッディ・ガスリーはアメリカの第二国歌といわれる "This Land is Your Land"(邦題:「我が祖国」)で知られるが、その息子、アーロ・ガスリーも、見過ごせないところがある。

彼の代表作は 「アリスのレストラン」 ということになっていて、その映画化作品には、あのピート・シーガーも出演していた。

「アリスのレストラン」が注目された直後だから、多分 1968年頃のリリースだと思うが、彼のライブハウスでのパフォーマンスを録音した "ARLO" というアルバムがある。これがなかなか面白い。

3曲目に "Try Me One More Time" という何の変哲もないカントリーソングのスタンダードを歌うのだが、曲の前フリに、「次の曲は、リンドン・ジョンソン じいさんが大統領選挙キャンペーンに使った歌です」 と言って、歌い始める。

その歌は、翻訳すると、まあ、こんな歌である。

そうさ、わかってる、俺はいい加減だったよ
君を何度も何度もだまし続けてきたさ
でも、今はどうか俺に慈悲を垂れてくれ
俺を引き戻して、そしてもう一度試してくれないか

最初の行は、原詩では "Yes, I know I've been untrue" というのだが、この部分を歌い終えるか終えないかのうちに、客席は大爆笑に包まれる。

いうまでもないが、リンドン・ジョンソンは、ジョン・F・ケネディが暗殺されたために、自動的に副大統領から大統領の地位にスライドした人である。そして、ケネディの残りの任期を勤め終えた後も大統領選挙に勝ち、合計 6年間米国大統領の地位にあった。

このアルバムは、彼の大統領任期が終わりに近づいていた頃に録音されたものである。ベトナム反戦運動の盛り上がりもあって、彼はかなりのレイムダックぶりだったから、この前フリのあとの歌は大受けしてしまったわけだ。

2行目の歌詞は、本歌は "And I have hurt you through and through" (何度も君を傷つけ続けてきた) だが、アーロは "And I have been cheeting you through and through" (何度も君をだまし続けてきた) と歌っていたように思うのだけれど、今、LP を再生するハードがないので、確認できないのが痛恨だ。

アメリカのベビーブーマーズ、とくにフォークソングなぞを歌う層は、民主党びいきが多いのだが、ジョンソンはベトナム戦争を拡大させたために、民主党支持者からも嫌われた。

単なるやさぐれ男が、恋人に愛想づかしをされそうになり、「頼むから、もう一度チャンスをおくれ」と哀願する歌を、時の大統領の選挙キャンペーンソングだったというあたりが、アーロのジョークの冴えているところだ。

日本にはこうしたジョークに使えそうな歌謡曲がないなあと、当時の私はアメリカの音楽シーンをうらやましく思いながら聞いていたのであった。

最近は CD の時代になってしまったので、当時購入した LP を聞くことができないのが残念だ。手持ちの LP の中で、また聞きたいものだけでも CD で買い直したいものだが、それをしたら、多分、50万円ではすまないだろうなあ。

レンタル CD 屋なんて、ベストセラーとコミックしか置いてない書店みたいなもので、欲しい CD はまず見つからないし。

【2024年 10月 24日 追記】

最近はインターネットで聞けるようになったので、よろしければどうぞ(参照)。

05714

 

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2005年7月13日

「申される」をめぐる冒険

去年の今頃も思いっきりツッコミを入れてしまったのだが、あの文化庁の「国語世論調査」結果が今年も報告された。今年のテーマは、漢字と敬語の使い方だという。

それによると、敬語の間違いが増えていると思う人が 8割を超え、自分の使っている敬語に自信のない人が 4割に近いのだそうだ。

敬語の代表的な誤用として紹介されているのが、「申される」という用法である。以下に朝日新聞の記事を引用する。

謙譲語の誤用とされる「ただいま会長が申されたことに」の例では、誤答の「正しく使われている」を選んだ人が 97年度に比べて7ポイント減り、正答の「正しく使われていない」が3ポイント増えた。世代別にみると、この例で誤答が一番多かったのは 60歳以上で、男女とも 6割近かった。

「申す」という動詞は、現在の教育現場では「謙譲語」ということで、ステロタイプなまでに固定化されている。従って、「申される」という言い方は、謙譲語に尊敬語の助動詞が付くはずがないということで、「誤用」と決めつけられている。

しかし、「申す」が謙譲語に固定化されるまでは、「言う」の丁寧語としても機能していた時代が長かったようなのである。大修館書店刊の 『問題な日本語』 には、以下の記述がある。

「新大納言成親卿も平に申されけり (平家物語)」 を始め、「号を見山と申される(中里介山)」 「何と申される(司馬遼太郎)」など、古典や時代小説における使用例は幾らでもある。古くから使われてきた言い方だ。ただ、「部長が申されますように」 など、現代語で使われているものは誤用とすべきであろう。

「古典や時代小説における使用例は幾らでもある」ということだが、別に古典や時代小説でなくても、戦前までぐらいの文章でも(明確ではないが、多分、戦後しばらくだって)、いくらでも読んだことがある。だから、あながち誤用と決めつけるのは気の毒な気がする。

ちょっと前までの本にはいくらでもあるのだから、60歳代の人が「申される」を正しい使い方と解答したとしても無理はない。文化庁のペーペーの青二才がそれを間違いと決めつけるのは、何となく不遜なことのように思えてしまうのだ。

私が年寄りだったら、「いつ、誰が、断りなく謙譲語一辺倒に決めてしまったんだ? 責任者、呼んで来い!」と怒り出すところである。

祝詞(のりと)の最後につくお約束の 「かしこみかしこみもまおす」が、神に対して自らをへりくだっている言葉なので、「申す」の本義は確かに謙譲語なのだろう。

しかし、だからといって、それ以外の用法を単純に否定するのは、日本語の豊かさを損なうことのように思える。私はこれこそ○×式教育の弊害だと思っている。

「誤用」と決めつけられている現代語においても、例えば、部長が社長に対して言ったことを、課長が係長に伝える場合など、「部長は、社長にかくかくしかじかと申された」と言うのは、耳慣れないかもしれないが、少なくとも理屈上ではあり得るんじゃないかと思うのだ。

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2005年7月12日

ナガシマさんの漢字表記

10日付の当コラムで、あのお方のことを「長島さん」と書いてしまった。どうも「長嶋さん」の方が本当のところらしいが、それを指摘しようとしてくれた Rtmr さんが、蹈鞴(たたら)を踏んでおられる(参照)。

メディアには 「長島」 「長嶋」 の両表記があり、要するに、どっちでもいいようなのだ。

鬼の首を取ったようにチョンボを指摘したりはしないところが、さすが Rtmr さんである。きちんと検索して確認の労をとっておられる。

私はと言えば、どっちが本名か知りもせず、漠然と「長嶋さん」が正しいのかなあなどと思いながらも、コラムを書く段になると、先に変換された「長島さん」のまま、校正もしていなかった。お恥ずかしい。

Rtmr さんが紹介している "「長島」 か 「長島」 か?" というページによると、本名はやはり 「長嶋」 のようだ。そして、以下のように説明されている。

現在入手できる本で、この名前表記問題について一番細かく記述しているのは、近藤唯之氏の『プロ野球 新・監督列伝』(PHP文庫)である。

これによると、本名は「長嶋」で、立大時代は各新聞社まちまちの表記だったが、'58年プロ入りの折、記録テーブル統一の必要性から、当時の東京運動記者クラブ代表幹事・好村三郎氏 (立大野球部OB、朝日新聞)が長嶋に「テーブルを作るのに簡単な “長島” で統一したいが」と申し込んだという。

そして本人が 「はい結構です、よろしいように」といともあっさり了承したため、そのまま第一期監督期終了の'80年までずっと「長島」だったのだ、とか。

そして、同じページに順序は前後するが、次の記述 (孫引き) がある。

マスコミ報道(TV・新聞)では基本的に、当用漢字しか使用しない、という規定があったはずです。(中略)
しかし、長嶋監督の場合、たしか平成4年秋に就任が決まった際、自分から「ボク、戸籍上は『長嶋』なんだから…」と報道陣に頼んで、特例中の特例として当用漢字外の「長嶋」表記になった……と記憶しちょります。

さらに、次の記述がある。

加えて、驚くことに現在の長嶋監督は、ゲンかつぎの目的で'99年から 「長島茂雄」 に再改名しているのだ、という。

なかなか錯綜したお話で、要約すれば、戸籍上は「長嶋」だが、立大時代は、新聞によって表記はまちまちだった。プロ入りを機に、当人の了承の元に新聞では「長島」が主流になったが、平成 4年には当人直々の希望で「長嶋」になり、そのわずか 7年後にはその当人がゲンかつぎで「長島」に戻してしまったと、そういうことだ。

上記引用部分にある「マスコミ報道(TV・新聞)では基本的に、当用漢字しか使用しない、という規定」という部分については、私も専門的なことは知らないが、たとえそのような規定があったとしても、固有名詞に関してはその限りではないはずだ。

そんなきついシバリがあったら、「轟(とどろき)さん」や「轡田(くつわだ)さん」 、 「塙(はなわ)さん」は、浮かばれない。だから、「長嶋」程度の表記が「特例中の特例」というわけでは決してない。

業界新聞記者上がりの私の経験からすると、社長の名前の 「島/嶋」 などで誤表記があったりしたら、社長本人はのほほんとしていても、社の広報部長あたりからきついクレームが来たりする。だから、氏名の表記の確認にはことのほか気を遣っていた。

そんなわけなので、ナガシマさんがプロ入りした当時の記者クラブが、「簡単な “長島” で統一したい」という申し入れをしたなどというのは、「ずいぶんいい加減なお話だなあ」と、呆れてしまう。そもそも、立大時代には新聞によってまちまちだったなんて、どうなっているのだろう。あるいは、スポーツ報道の世界というのはその程度のものなのだろうか。

本名とは違う「長島」という表記への統一に対して 、当の本人が "「はい結構です、よろしいように」といともあっさり了承" したなんていうのも、また超テキトーなお話である。多分、プロ入り以前からの表記がまちまちだったのは、当人が自分の名前を書くのに超テキトーだったからではないかと、私は疑っている。

新聞記者なんていうのは、氏名の表記に関しては、普通は当人に確認するだけで、戸籍に当たったり履歴を辿ったりなんぞはしないから、当人が超テキトーでは、どうしようもない。

発端が超テキトーだった上に、また後になって「長嶋」だと言ったり「長島」だと言ったりしているわけだから、もうお手上げである。まあ、その超テキトーさが、ナガシマさんのナガシマさんたる所以なのだが。

この上なく 「いい人」 なのだが、上司にもったら部下の気苦労は並大抵ではなかろう。だから、現在の「象徴」としての存在は、理想的なポジショニングである。

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2005年7月11日

「もったいない」という言葉

近頃、にわかに「もったいない」という日本語が脚光を浴びている。ケニアの女性環境保護活動家のワンガリ・マータイさんが、来日した時に感銘を受けた言葉として、世界中に広めようとしておられる。

Mottainai Tシャツ」 なんてものまであって、私も 1着欲しい。

確かに「もったいない」という言葉は貴重な言葉である。私は外国語は英語しか知らないが、少なくとも英語では「もったいない」という言葉のニュアンスをちゃんと表現する言葉がないと思う。

辞書を引くと、確かに "wasteful" とい単語が出てくる。"Waste" というのは「浪費(する)」とか 「廃棄物」という意味で、"wasteful" は、そこから派生した形容詞である。「浪費的」とは、どちらかというば論理的な言葉だ。

"What a waste!" という英語はよく使われるようで、「もったいない」に最も近いかもしれない。しかし、何となく無駄遣いしてしまったものに対する結果論的なニュアンスがある。

それに対して「もったいない」は無駄遣いする前に戒める言葉という側面があるように思える。そして、論理的と言うよりは観念的で、「思い」から発する言葉である。

日常生活では、人は時として論理を裏切る。私も、「こうすればうまくいく」というのがわかっているのに、腰があがらなかったりする。しかし深い「思い」というものは、なかなか裏切ることができない。「もったいない」を深い思いとすれば、環境破壊は少なくとも減速される。

そんなことでうまくいくものかと言う人もあるだろうが、私はそこまで人間に失望してはいない。

ところで、「もったいない」というのは、「勿体ない」である。「勿体」とは、Goo 辞書では、以下のように出てくる。

(1) 態度などが重々しいこと。威厳があること。
 「―がある」
(2) 態度や品格。風采。
 「遣手にしては―がよし/歌舞伎・助六廓夜桜」

「もったいぶる」とか「もったいをつける」 などというと、嫌らしい意味になるが、本来はいい意味の言葉のようだ。ところが、この意味で 「勿体ない」というと、「威厳がない」ということになってしまう。

日本語の「もったいない」は、この直訳的流れではなく、言外の深い意味合いがありそうだ。それは、「そのもの本来の威厳(価値)が生かされない」ということで、それを惜しむというニュアンスなのだろう。

ところで、私の持っている三省堂の携帯新漢和中辞典には、「勿体」は「物体」とも書く(読みは「もったい」のまま)とある。「物体」は、近代では 「ぶったい」 の読みになって、物理的な「もの」という意味となった。

ここからのインスピレーションで、『般若心経』の「色即是空、空即是色」が浮かんでくる。

宇宙の全ての現象(「色」)の真の姿は「空」であるが、その「空」とは決して「虚無」ではなく、「空」の現れとして「色」があるのだから、現象の姿の深奥に宇宙の本質はうかがわれると、釈尊は説かれている(と、私は解釈している)。

「物体」は、「もの」の姿をしてこの世に現れているが、単に「もの」というだけではなく、その本質は仏の慈悲の顕れなのだから、あだやおろそかにはできないというわけだ。

なお、昨年に書かれた記事のようだが、紐育日記の "「もったいない」 に込められた気持ち" にトラックバックさせていただいた。

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2005年7月10日

右手ではこなせないこと

ちょっと旧聞だが、長嶋さんが東京ドームで野球を観戦した。その右手はズボンのポケットに入れられたまま。そうでもしないと、だらんと垂れ下がるだけだったのだろう。

そして、右手がやられたということは、左脳がやられたということ。右脳でなくて、不幸中の幸いだった。

長嶋さんの脳のダメージが、左脳でなくて右脳だったとしたら、大変だった。直観を司る右脳にダメージが残ったら、長嶋さんが長嶋さんでなくなるところだった。

ところで、私は今でこそ右利きだが、物心付くまでは左利きだったらしい。昔の田舎のこととて、三世代同居の家族だったから、暇は十分にあった祖母が、私をじっくりと右利きに矯正してしまったらしいのだ。

元々が左利きだっただけに、私は今でも妙に直観的なところがある。論理は論理として尊重するのだが、面倒くさくなるときがあるのだ。

論理構築とは、譬えて言えばレンガをイチから積み上げて家を造る作業である。一つ一つ順番にやらなければならない。時間がかかってしょうがない。

一方、直観に従えば、下に何にもないところにでも、レンガをひょいと置くことだってできるのだ。便利なものである。いちいち論理的証明の必要のないところでなら、こうした芸当でどんどん進んでいく方が、ずっといい。

ところで、右利きに矯正されてしまった私だが、今でも左でなければできないことがある。

一つは、トランプを切って配る作業だ。私がやると、なぜか右利きのやり方とは反対になってしまう。右手でカードをめくって配るなんて、危なっかしくてできないのである。

もう一つは、トイレでお尻を拭くという作業である。右手ではどこを拭いてしまうか、まったく自信がない。さすがの祖母も、トイレの中まで付いてきて矯正することはしなかったと見える。

というわけで、右手を怪我しても、大抵のことは左手で代用できるが、左手を怪我してしまうと、尻を吹くのが大変な私なのである。

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2005年7月 9日

おへそとパンツ

先日、電車の座席でちょっと居眠りをして、ふと目を覚ましたら、目の前におへそがあって、何事かとまじまじ見つめてしまった。

実は、私の前に立っていた女の子が、網棚に荷物を載せているところだったのだが、最近の女の子は、へそを出したりパンツを覗かせるのに、全然平気である。

とにかく、シャツが短めでパンツがローライズだから、伸び上がればおへそが見えるし、しゃがみ込めば後ろからパンツ (こっちは下着の方) が見える。それでも、まったく頓着していない。

私は若い子がおへそを出したからといって、妙に道徳ぶって「はしたない」などと眉をひそめたり、逆にもろにオヤジ丸出しで喜んだりということはないのである。

何しろ、我が家には妻の他に年頃の娘が 3人もいるので、若い子のへそだの尻だのは見慣れてしまっていて、特段の思い入れはなくなってしまった。

ところで、最近は「付け乳首」というのがあるらしい。英語では "nipple enhancers" という。直訳すれば、ぽっちん増大器というところか。ちなみに、複数形であることに注意である。

要するに、ノーブラでいるときに、ぽっちんが強調されるというやつだ。最近の子たちは、へそを直接出してみせるのを気にしないのだから、間接的なぽっちんぐらいは全然平気なのかと思ったが、実は日本ではほとんど売れないのだという。

欧米の街を歩くと、ぽっちんなんか珍しくも何ともないが、日本の心理ではかなり抵抗があるらしい。わからないものである。だったら、しゃがみ込んだときにパンツが見えることこそ、何とかしてもらいたいもんである。

おへそは見慣れたが、パンツの方は見せられる方が嫌になるのである。

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2005年7月 8日

「おばんざい」を巡る冒険

「おばんざい」という言葉がある。何だか知らないうちは、「何でまた『万歳』に "お" を付けるんだ?」 なんて思っていたが、どうやら、メシ関係の京都弁らしいと知ったのが、30歳を過ぎてからのこと。

35歳を過ぎた頃に、「おばんざい」を売り物にした店で実食デビュー。結構おいしかった。

その時の印象から、「おばんざい」とは、会席料理のような肩肘張ったものではなく、要するに京都の家庭料理なのだなと思ったのだった。私はそうした料理が好きなので、歓迎である。

というわけで、私は「おばんざい」とは、日常の晩ご飯のお総菜ということで、「お晩菜」なんだろうなあと、勝手に思いこんでいた。

ところが、このほど本宅リンクページの 「今月のお薦めサイト」で、萌野さんのブログ「むしやしない」にリンクさせてもらったのを機に、「おばんざい」の意味をちゃんと知ろうとしてみたところ、一筋縄ではいかないということに気付いたのである。

そもそも、この「むしやしない」という京言葉からして、なかなか奥が深い。小腹が空いたときにちょっと食べるものという意味のようで、漢字で書けば「虫養い」なのだろう。京都人というのは「腹の虫」と、長年の共存共栄関係を築いているもののようだ。

いやいや、今回は「おばんざい」の話なのであった。「虫」の話はまた今度にしよう。

「おばんざい」の漢字表記は「お晩菜」のほかに、少なくとも 2つの説があるということを発見してしまったのである。

まず、「お番菜」である。これは、善右衛門さんという方が、ご自身のブログで紹介されている。(以下引用)

おばんざいというのは「お番菜」と書きます。この番というのは「番茶」などに使う字で、「通常の」とか「上等じゃ無い」という意味があり、常日頃に食べるおかずの事で、本来はお客様には絶対食べさせられない「おはずかしい」おかずだったのです。
  (中略)
京の織物業界を代表とする商人の家では奥様も働き手ですから、少しの時間を見てそのとき安い物(旬のもの)で作り置きできるおかずを用意する必要がありました。そこから生まれた料理法や工夫が今に伝えられているのです。

ということだ。なるほど、雰囲気はものすごくよく伝わる。まさにそうしたものなんだろうなあ。

しかし、「番茶」の「番」は、Goo 辞書によれば "古くは「晩茶(遅くつんだ茶)」の意で品質が劣るとされた" とされており、「上等じゃない」というのが本来の意味というわけではない。だから、まったく外れているわけではないが、ちょっとだけ苦しい気がしないでもない。

「晩茶」説に従えば、本来は「お晩菜」ということになってしまうが、「晩ご飯のお総菜」という意味からはちょっとずれてしまう。

もう一つの説は、「お万菜」である。ORBIS PICTUS というサイトの「京都駆け足紀行」というページに、以下の記述がある。

おばんざいとは「お万菜」と書きまして、要は煮物などの和風のお惣菜をいいます。ただ、京都らしく薄味で仕上げてあり、関東風の煮物よりは上品な感じ。

ふぅむ、「よろずの菜」というわけか。必然性の観点から言うと、別に「万」でなくてもいいような気もするが、もしかして、「お総菜」の「総」の代わりに「万」なのかもしれない。似たような意味だし。

ちなみに、Google の検索結果は、 「お晩菜」617件、「お番菜」590件、「お万菜」367件だった。

しかし、圧倒的に強いのは何といっても「おばんざい」で、84,200件である。やはり、漢字で決めつけたりせず、「おばんざい」は「おばんざい」なのかもしれない。ところが試しに、にごらない「おばんさい」でも調べたところ、4,200件もヒットした。

うぅむ、またわからなくなってしまった。

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2005年7月 7日

政治の袋小路

現・小泉内閣は、戦後政治史の中では特異な存在である。これまでの首相というのは、党内で確固たる基盤をもつボスか、そのボスに担いでもらっているイエスマンだった。

ところが、小泉首相はそのどちらでもない。大衆人気があるというだけで、選挙に弱くなった自民党に、仕方なく担がれているのだ。

自民党は、以前のように金集めの上手な派閥の親分が子分を従えて群雄割拠するという構造ではなくなってきている。大臣や代議士の世界から地方の末端に至るまでの「親分 - 子分」の関係が薄くなってしまったために、選挙弱くなってしまっている。

そんなだから、ここしばらくは、親分から配られる雀の涙みたいな金よりも、小泉さんの大衆人気の方が使いでがあったのだ。

今、日本の景況がやや回復しつつあるらしい。そうなると、大衆人気なんていういい加減なものより、金の力が少しずつ復権することになるのかもしれない。「小泉政治の終わりの始まり」なんていう言われ方がされるようになったのも、その現れか。

ところで、その小泉首相を引きずり降ろすための最大の焦点が「郵政民営化」という、ピンぼけなものであるというのは、日本の不幸である。はっきり言って、そんなものは既得権の絡まる少数の連中を除いては、どうでもいいことだ。

その程度のことに反対論陣を張った民主党が都議選で躍進し、国会では自民党の一部まで造反している。

小泉首相を引きずり降ろすにはいい状態になったかもしれないが、下手すると、自民党自体までが引きずり降ろされかねない。何とかして政権与党にとどまるためには、選挙でがんばらなければならないが、いかんせん、まだ軍資金調達能力が完全に回復したわけではない。

そして、その軍資金不足をイメージで補おうとすると、またぞろ小泉さんに頼らなければならないという、奇妙なパラドックスが生じる。他に頼りになるものがないのだから、小泉さんのイメージを徹底的に落としてしまうのは、リスクが大きすぎる。だから、自民党が混乱すればするほど、小泉首相には「奇妙な追い風」が吹くことになる。

要するに、政治の状況自体が、元々袋小路に追い込まれているだけの話である。

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2005年7月 6日

煮ても焼いても食えないお兄ちゃん

ワイドショーを見まくったわけでも、週刊誌を買いまくったわけでもないのに、気分だけは若貴ウォッチャーしていた私だが、勝氏の相続放棄のニュースには、コケてしまった。

それならそうと、早く言ってくれればいいのに、単純な弟の独り相撲を晒し放題にしてたなんて、結構やってくれるじゃないか。

ゴシップ・マスコミも、裁判ウォッチングなどでもっと先まで引っ張れると思っていたかもしれないが、はい、もうおしまい。あるいは、このドタバタ劇の裏の裏をほじくることで、雑巾を絞り切るところまで絞るかもしれないが、ゴシップ・バリューとしては、だいぶ落ちてしまうだろう。

私は 7月 2日の当コラムで、"貴乃花という男は、「自分が正しい」と信じすぎている。頭の悪い証拠である" なんて書いてしまって、ちょっと直球すぎたかなと、やや反省気味だったのだが、結果的には、ちょうど適当な表現だったみたいである。

今回の騒動の結果は、貴乃花は遺産をすべて手中にするものの、それに伴うシガラミも含めて、一切をひっかぶらなければならなくなったわけだ。傍から見ても、あんまり美味しい結果ではないだろう。

何にも増して、みっともない独り相撲をし過ぎてしまったので、少なくとも「あまりお利口さんではない」ことを世間にさらけ出してしまったのが痛い。この期に及んで、まだ何だかゴチャゴチャ言ってるようだが、いくらなんでも、そろそろ止めといた方がいい。

今さら、兄貴と実母と父の内縁の妻とやらに「お裾分け」を押しつけても、起死回生の逆襲にはならないだろうし。

一方、勝氏の方は、できることならそれなりの配分には預かりたいところだったろうが、ここまでこじれてしまった以上は、あっさりと諦めて見せた方がイメージ確保にはいい。「損して元取れ」といったところか。もしかしたら、生命保険の受取人ぐらいにはなっているかもしれないし。

それに、同じ相続放棄をするにも、しばらくとぼけていて、弟が勝手に自爆する様を世間に晒すなんていうのは、よくよくの意趣返しである。相続放棄の代償にこのくらいのことをしても、罰は当たるまいと踏んだか。

このお兄ちゃん、現役時代の相撲と同様、煮ても焼いても食えないところがある。

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2005年7月 5日

キャットウォークとキティウォーク

「キティちゃん」は、固有名詞になってしまった観があるが、本当は "kitty" というのは、英語の幼児語で「子猫ちゃん」という意味の一般名詞だというのは、ご存じの通りである。

猫好きの米国人が子猫を「キーリ、キリキリ」なんて呼んでいたりするが、あれは、"kitty, kitty, kitty" と言っているわけだ。

毎日新聞に渡辺明日香さんが連載しているファッション・コラムは、タイトルを「東京 Kitty Walk」という。「キティウオーク」とは洒落たタイトルだ。

というのは、ファッション・ショーで、ステージの真ん中から突き出した花道のような誂えを、英語では「キャットウォーク」という。「猫歩き」である。このキャットウォークを、モデルがしゃなりしゃなりと、あるいは、スタスタと、またはぶらぶらと歩くわけだ。

ごくおおざっぱに言って、しゃなりしゃなりと歩くのは、オートクチュール系かコンサバ・ファッション系、スタスタと歩くのは、コンテンポラリー・ファッション系、ぶらぶらと歩くのは、ストリート系だ。

東京のファッションというのは、欧米系に比べると、ものすごくヤング系であることに特色がある。ヨーロッパのファッションというのはバアサンのためのもので、アメリカのそれがオバサンのためのものであるとすれば、東京のファッションは、「女の子」のためのものである。

それだけに、欧米のファッションが歩く道をキャットウォークとすれば、東京のそれは、確かに「キティウォーク」なのだろう。

ファッション関係の仕事をしている米国人の知り合いに、なぜ "catwalk" なんて名前がついたのかと聞いたことがあるが、彼女も "No idea" (わからない) と言っていた。なんでも、ファッションショーに限らず、高い所にある細い通路は大抵 "catwalk" というらしい。猫が塀の上を歩くのを連想させるからかもしれない。

試しにググってみたら、キャットウォークというのは、ファッションよりも建設関係で一般的な言葉のようだ。ダムの前面に設置されたものなど、高いところにある狭い通路のことをキャットウォークというらしい。

ちなみに、英語で "kittywalk" をググると、文字通り、ペット用の網で覆われた散歩道のような道具が出てくる (参照)。

東京の女の子たちは、あんな中を歩かないだろうが。

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2005年7月 4日

「こだわり」 を巡る冒険

「素材選びからこだわった味の追求」なんてことを売り物にしている店があったりする一方で、「こだわってなんかいるうちは、まだまだだ」なんて喝破する人がいたりする。

「こだわり」という言葉に関しては、とてもいい意味で使う人と、どちらかといえば低レベルの意味と受け取る人がいて、おもしろい。

「こだわる」という動詞を Goo 辞書(三省堂「大辞林」)にあたってみると、次の 4つの意味が表示される。

  1. 心が何かにとらわれて、自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。
  2. 普通は軽視されがちなことにまで好みを主張する。
  3. 物事がとどこおる。障る。
  4. 他人からの働きかけをこばむ。なんくせをつける。

本来の意味は「1」で表示されていることで、どちらかといえば、あまりいい意味ではなかった。「3」と「4」の意味を見ても、それはうかがえる。

ところが、最近になってにわかに 「2」の意味が台頭してきて、「こだわりの店」なんてものが増えてきたのである。言葉は生き物という証しである。

とはいえ、「弘法筆を選ばず」 というように、「こだわり」のあるうちは本当の本物の一歩手前なのである。そして、本当の本物の域に達するには、やはり「徹底的にこだわる」という段階を経なければならないもののようなのだ。

日本の芸事では、よく「習うてそれを忘れよ」などという。基本を徹底的に習い、身に付け、その上で、そこから離れて自由になった者が、名人、達人なのである。

仏教でも、菩薩は三十三身に身を変えて、衆生救済のためには地獄の底まで降りていくなどと言われている。いくら衆生救済のためとはいえ、地獄の底まで身を落とすのは、さぞかし苦痛なことだろう。しかし、菩薩ともなると、そんなことにこだわらず、どこまでだって行くのである。

ところが一方では、「こだわりなんかもっているうちは、まだまだだ」なんていう人は、実は「こだわる」という言葉の悪い方の意味に「こだわっている」ことが多い。自家撞着である。

突き詰めて言えば、「こだわる」だの「こだわらない」だのいうことに対する「こだわり」さえ捨てなければならず、さらに、その「こだわりを捨てる」ということにすらこだわらないという、絶対自由の境地こそが、本当の本物である。

そんなことを言いながら、どうでもいいような細かいことにこだわったりしている自分がここにいるわけだが、まあ、「本当の本物」への長い旅路の一里塚と思って、そのことを云々することには、あまりこだわらないことにしよう。

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2005年7月 3日

つくばエクスプレスの時刻表発表

ローカルな話題で恐縮。今日は「つくばエクスプレス」のお話である。ついこないだまでは、「常磐新線」の仮称で呼ばれていた。

これまで鉄道がなく、陸の孤島だったつくば学園都市 (駅名:「つくば」) から都心の秋葉原までを結ぶ第三セクター路線が、いよいよ 8月 24日に開通する。

このつくばエクスプレスの運賃と時刻表が、このほど発表になった。当初は本数が少なくて使い物にならないんじゃないかと心配していたのだが、そんなこともなく、守谷 - 秋葉原間などは、朝夕の通勤時間帯には、2分から 5分間隔の運行という大奮発ぶりである。

しかし、守谷始発という便がやたらと多くて、守谷以北になると本数は激減する。つくばから乗れるのは、通勤時間帯でも、1時間に多くて 5本という寂しさだ。つくばの人にはお気の毒だが、私はこの線を使うとすれば、最寄り駅が守谷になるので、なんとか使い物になる。

運賃は、守谷 - 秋葉原間が 800円。現行の JR で取手 - 秋葉原間が 690円なので、プラス 110円。しかし、所要時間が 49分から 30分に大幅短縮されるのは魅力だ。これなら、私も、現在の JR 利用から鞍替えする可能性が大である。

しかし、問題は Suica が使えるかどうか、まだ何ともアナウンスがされていない点である。JR でなくても、浜松町から羽田空港までのモノレールとか、お台場にいくりんかい線など、Suica の使える路線はないではない。

つくばエクスプレスも、使えるようだとありがたいのだが、この時点になってもアナウンスがないということは、多分ダメなのだろうな。Suica
 は専用改札が必要なので、もし使えるのであれば、今のタイミングで公表されていていいはずだ。

Suica が使えないようなら、パスネットでもいいから使えるようにしてもらいたいものだ。いくら第三セクターでも、そのくらいの気は利かせてもらいたい。

いずれにしても、守谷までは車で行くことになる。ということは守谷駅周辺で駐車場を確保しなければならないということだ。やれやれである。

開通したら、なるべく早めに試乗レポートを書かせていただこう。

 

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2005年7月 2日

花田家の相剋

今さらながら、花田家の兄弟のドタバタの蒸し返しを書かせてもらう。この愛憎劇は奇矯な普遍性を暗示しているように思うのだ。

単に「兄弟は仲の悪いもの」というレベルの話ではない。しかし、例えばギリシャ悲劇のオイディプス王の、父を殺し、母と姦通するというほどの凄みがあるわけでもない。

兄弟の仲の悪いのは、今に始まったことではない、神代の昔の海幸彦、山幸彦や、源頼朝、義経の時代から、そういうものなのだという人がいる。確かにそうは言えるが、花田家の場合は、どこかおもむきが違う。

花田勝氏、つまり三代目若乃花については、私は彼が現役時代から、その相撲の品のなさについて批判的だった。横綱のくせに正々堂々とした立ち会いをしない。それは、相手の呼吸を「はずす」などという立派なものではない。立ち会いに至るまで、卑屈なまでに呼吸を「はぐらかして」ばかりいた。

体格的なハンディを補うためといっても、それは大関までしか許されない態度である。仮にも横綱というのは、あのような見苦しいことをするものではない。

若乃花の相撲の品格を批判していた私だが、貴乃花の相撲については、文句の付けようがなかった。しかし、相撲では文句の付けようがなくても、人間としてはまったく魅力を感じなかった。それは今でも変わらない。

一緒に酒を飲んで楽しいのは、確実に花田勝氏の方だろう。貴乃花と酒を酌み交わすなんていったら、気詰まりでしょうがないと思う。

貴乃花という男は、「自分が正しい」と信じすぎている。頭の悪い証拠である。真面目で努力家で誠実でストイックな自分を一面的に愛おしむだけで、多面的な検証をするという甲斐性がない。昔から「正しすぎる奴」にろくなものはいないのだ。

世間一般の兄弟関係で普通に見られるのは、真面目で大人しい兄と、やんちゃな弟という設定だ。こういう普通の兄弟ならば、仲が悪いとはいえ、ギリギリのところで和解にもっていける余地がある。

ところが、花田家の兄弟の場合は、ちゃらんぽらんな兄と、妙に真面目すぎる弟という、世にも珍しい役どころなのである。このせいで、「兄弟は仲の悪いもの」という下世話な一般論だけでは割り切れない悲劇を形成してしまっているのだ。冒頭で「奇矯な普遍性」と言ったのは、このことである。

兄弟の相克というのはよくあるテーマだが、花田家の場合は兄弟の役回りが逆転しているために、名作悲劇にできるようなレベルの高い普遍性とは言い難い気がするのである。

今は週刊誌のおいしいネタになっているが、そのうちに、馬鹿馬鹿しくて付き合いきれなくなりそうだ。

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2005年7月 1日

「実名/匿名」 をめぐる冒険

昨日は、都議選関連と日本人の宗教観に関する調査結果をダシにして、 「みんな一緒、以心伝心、お互い様」を根本教理(?)とする「日本教」にまで話を進めた。(参照

これは、最近新たな議論のテーマとなっている「blog における匿名性」に関する私の意見のバックグランドでもある。

この議論の発端(あるいはそれに近いもの)になったと思われるのは、『実名でのネット活用を促す 総務省「悪の温床」化防止』(共同通信) という記事である。これは、時が経つと消えてしまうかもしれないので、今のうちに以下に引用しておく。

総務省は 27日、自殺サイトなど「有害情報の温床」ともいわれるインターネットを健全に利用するために、ネットが持つ匿名性を排除し、実名でのネット利用を促す取り組みに着手する方針を固めた。匿名性が低いとされるブログ(日記風サイト)や SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)を小中学校の教育で活用するよう求め、文部科学省などと具体策を詰める。

まあ、はっきり言って短絡的思考である。まともなネットワーカーの間では笑いものになってしまうのもいたしかたない。

しかし、その直後に藤代裕之@ガ島通信さんの「ブロガーの増加が「匿名」を吹き飛ばす? 米国の例に学ぶ」という記事が出て、実名/匿名論争は、ワンステージ上に行ってしまったように思う。

この記事では、米国の記者の指摘として、実名でキャリアを明確にしてエントリーすることにより、信用度と影響力が向上することに、アメリカのブロガーたちは気付き始めたということを紹介したわけだ。

なるほど、もっともな話である。同じような主張が実名と匿名で発信されたとしたら、実名の主張の方により説得力があるだろう。

しかし、問題は日本と米国の社会性の違いを無視することができないということだ。

  1. 日本のブロガーが 「社会に対する影響力」 を行使したがっているか?
  2. 社会に影響力が行使されたとして、その後始末まで責任を負う覚悟があるか?

を考える必要がある。

まず、日本のブロガーの大多数が「社会に対する影響力」を行使したがっているとは思えない。単なる日記サイトである場合が多いからだ。

しかし、非常に強い自己主張を展開して、社会変革を目指しているかのように見えるブロガーも確実に存在する。しかしそれを実名で主張したら、たとえより高度な「社会に対する影響力」は行使できたとしても、日本の社会においては、「世間からのしっぺ返し」 がより強い形で現れることが容易に想像される。

「みんな一緒、以心伝心、お互い様」を旨とする社会において、多少なりとも先鋭的な主張をするためには、匿名性は有効なツールとなるのだ。 「社会に対する影響力」を多少犠牲にしてでも、「身に降る火の粉を避ける」方を選択することに、何の言い訳が必要だろうか。

総務省が実名でのネット使用を勧めるのであれば、本当の意味で「言論の自由」を保証してくれなければ困る。少なくとも、政治的立場や宗教的立場を明確にしたぐらいのことで、地域や職場で、まともな議論とはまったく別の方向で排除や差別につながることがあれば、それだけで、とりもなおさず「人権侵害」であることを認めなければならない。

悲しいことに、今の日本の「世間様」は、違いを認め合えるほどには成熟していない。だから、「違い」は「世間の外部」で主張する方が安全なのだ。ただ、何しろ「世間の外部」だから、フォークロアでいうところの「悪場所」でもある。確かに怪しげなところでもあるのだ。

ちなみに私の場合、「庄内拓明」というハンドルを使っているが、この名前はネット利用以前から、活字媒体において「ペンネーム」として使用していたものである。だから、「庄内拓明」が何物であるかを知っている人は、世の中にいくらでもいる。

だから、私は「庄内拓明」あるいはその省略形の "tak-shonai" の名において展開した主張に、リアルにおいても全面的責任を負う。私が本名を使っていないのは、多分に「趣味の問題」である。

なお、ululun さんの関連記事にトラックバックさせていただいている。
ohima7_toki2 さんの関連記事にもトラバ返しをさせていただいた。

 

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