「申される」をめぐる冒険
去年の今頃も思いっきりツッコミを入れてしまったのだが、あの文化庁の「国語世論調査」結果が今年も報告された。今年のテーマは、漢字と敬語の使い方だという。
それによると、敬語の間違いが増えていると思う人が 8割を超え、自分の使っている敬語に自信のない人が 4割に近いのだそうだ。
敬語の代表的な誤用として紹介されているのが、「申される」という用法である。以下に朝日新聞の記事を引用する。
謙譲語の誤用とされる「ただいま会長が申されたことに」の例では、誤答の「正しく使われている」を選んだ人が 97年度に比べて7ポイント減り、正答の「正しく使われていない」が3ポイント増えた。世代別にみると、この例で誤答が一番多かったのは 60歳以上で、男女とも 6割近かった。
「申す」という動詞は、現在の教育現場では「謙譲語」ということで、ステロタイプなまでに固定化されている。従って、「申される」という言い方は、謙譲語に尊敬語の助動詞が付くはずがないということで、「誤用」と決めつけられている。
しかし、「申す」が謙譲語に固定化されるまでは、「言う」の丁寧語としても機能していた時代が長かったようなのである。大修館書店刊の 『問題な日本語』 には、以下の記述がある。
「新大納言成親卿も平に申されけり (平家物語)」 を始め、「号を見山と申される(中里介山)」 「何と申される(司馬遼太郎)」など、古典や時代小説における使用例は幾らでもある。古くから使われてきた言い方だ。ただ、「部長が申されますように」 など、現代語で使われているものは誤用とすべきであろう。
「古典や時代小説における使用例は幾らでもある」ということだが、別に古典や時代小説でなくても、戦前までぐらいの文章でも(明確ではないが、多分、戦後しばらくだって)、いくらでも読んだことがある。だから、あながち誤用と決めつけるのは気の毒な気がする。
ちょっと前までの本にはいくらでもあるのだから、60歳代の人が「申される」を正しい使い方と解答したとしても無理はない。文化庁のペーペーの青二才がそれを間違いと決めつけるのは、何となく不遜なことのように思えてしまうのだ。
私が年寄りだったら、「いつ、誰が、断りなく謙譲語一辺倒に決めてしまったんだ? 責任者、呼んで来い!」と怒り出すところである。
祝詞(のりと)の最後につくお約束の 「かしこみかしこみもまおす」が、神に対して自らをへりくだっている言葉なので、「申す」の本義は確かに謙譲語なのだろう。
しかし、だからといって、それ以外の用法を単純に否定するのは、日本語の豊かさを損なうことのように思える。私はこれこそ○×式教育の弊害だと思っている。
「誤用」と決めつけられている現代語においても、例えば、部長が社長に対して言ったことを、課長が係長に伝える場合など、「部長は、社長にかくかくしかじかと申された」と言うのは、耳慣れないかもしれないが、少なくとも理屈上ではあり得るんじゃないかと思うのだ。
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