右手ではこなせないこと
ちょっと旧聞だが、長嶋さんが東京ドームで野球を観戦した。その右手はズボンのポケットに入れられたまま。そうでもしないと、だらんと垂れ下がるだけだったのだろう。
そして、右手がやられたということは、左脳がやられたということ。右脳でなくて、不幸中の幸いだった。
長嶋さんの脳のダメージが、左脳でなくて右脳だったとしたら、大変だった。直観を司る右脳にダメージが残ったら、長嶋さんが長嶋さんでなくなるところだった。
ところで、私は今でこそ右利きだが、物心付くまでは左利きだったらしい。昔の田舎のこととて、三世代同居の家族だったから、暇は十分にあった祖母が、私をじっくりと右利きに矯正してしまったらしいのだ。
元々が左利きだっただけに、私は今でも妙に直観的なところがある。論理は論理として尊重するのだが、面倒くさくなるときがあるのだ。
論理構築とは、譬えて言えばレンガをイチから積み上げて家を造る作業である。一つ一つ順番にやらなければならない。時間がかかってしょうがない。
一方、直観に従えば、下に何にもないところにでも、レンガをひょいと置くことだってできるのだ。便利なものである。いちいち論理的証明の必要のないところでなら、こうした芸当でどんどん進んでいく方が、ずっといい。
ところで、右利きに矯正されてしまった私だが、今でも左でなければできないことがある。
一つは、トランプを切って配る作業だ。私がやると、なぜか右利きのやり方とは反対になってしまう。右手でカードをめくって配るなんて、危なっかしくてできないのである。
もう一つは、トイレでお尻を拭くという作業である。右手ではどこを拭いてしまうか、まったく自信がない。さすがの祖母も、トイレの中まで付いてきて矯正することはしなかったと見える。
というわけで、右手を怪我しても、大抵のことは左手で代用できるが、左手を怪我してしまうと、尻を吹くのが大変な私なのである。
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