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2005年8月に作成された投稿

2005年8月31日

「つくばエクスプレス」乗車レポート

昨日、初めて話題の「つくばエクスプレス」に乗って都心を往復した。

結論。期待していた割には、私個人としては、使い勝手がそれほどよくなかった。最寄りの守谷駅へのバスのアクセスが悪すぎる。守谷駅周辺の駐車場が整備されるまで、しばらく JR 常磐線を使い続けようと思う。

私は都心への往復には、常磐線を使ってきた。快速電車の終点、取手駅の近くに借りている駐車場まで車で 15分かけて行き、そこから徒歩 5分で取手駅に着く。そして上野駅まで 約 42分の乗車だ。合計 1時間ちょっと。秋葉原までなら、乗り換え時間も入れて、1時間 20分というところだ。

ところが、つくばエクスプレスを使うとなると、守谷駅周辺の月極駐車場がまだ整備されていないので、バスを使わざるを得ない。このバスが 1時間に 3本しかなく、しかも、しょっちゅう遅れる。

今日は 9時 40分に家を出て、9時 50分のバスに乗ろうとしたのだが、このバスが 5分遅れて来た。これがケチのつき始めで、守谷駅に着いたのが、10時 20分。家を出てから、なんと 40分もかかった。通勤時間帯を過ぎていたから、道が混んでいたわけでもないのに。

自分の車で行ったら、16〜7分で行ける距離だから、これはかなりストレスだ。しかも、このバスに 480円もかかるのだ。ガソリンにしたら、1リットルも消費しない距離なのに。

しかし、守谷駅から 10時 23分発のつくばエクスプレス快速電車に乗ってしまうと、それはもう、快適だった。何しろ速いのに揺れが少ない。秋葉原着が、10時 55分。たった 32分で着いた。家を出てから、1時間 15分。

しかし待てよ、これって JR 常磐線を使っていた時と、たった 5分しか違わないじゃないか。

もっと早い通勤時間帯だったら、バスはさらに時間がかかるだろう。これは確実だ。バスに時間がかかって、各駅停車に乗り合わせたりしたら、逆に、これまで以上に時間がかかりそうだ。

これまで、常総線で取手駅まで出て、そこから 40分以上かけて上野に出ていた人にとっては、手前の守谷でつくばエクスプレスに乗り換えて秋葉原まで出たら、それはもう、30分以上の短縮になるはずだ。つくばエクスプレスは、この上なくありがたいものだろう。

しかし、私にとっては、バスで守谷駅に行く限り、ほとんどメリットがないということがわかった。期待していたつくばエクスプレスだが、守谷駅周辺の駐車場が整備されるまで、あまり意味がないようなのだ。

しかも、帰りに今度は各駅停車に乗ったら、浅草あたりで止まって動かなくなってしまった。「北千住駅で、線路内に人が立ち入ったため」という。一体、何なんだよ。おかげで、守谷駅まで 1時間近くかかった。最初の印象、あまり良くなかったなあ、つくばエクスプレス。

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2005年8月30日

選挙の「公示」と「告示」

知の関節技」に置いてある "「公示」と「告示」と「総選挙」" というコラムが、時節柄、やたらとアクセスを稼いでいる。

29日は 200件ものヒットがあり、そのうちの半分でも「知のヴァーリトゥード」トップページに飛んで来てくれれば嬉しいのだが、実際は 1割程度しか来てくれない。薄情なものだ。

(30日 午後 10時 追記)
30日は、午後 10時の時点で既に 320件のアクセスがあった。トピックスとはいえ、すごいなあ。

このコラムは、選挙の施行のスタートに、「公示」と「告示」の 2通りの言い方があるが、どう違うのかという疑問から発したものである。

調べてみると、通常の国政選挙(衆議院、参議院)は、「公示」で、そのほかの地方選挙は「告示」なのだという。しかし、国政選挙でも補欠選挙は「告示」なんだそうだ。

この言い方の違いの根拠は、憲法第 7条 第 4項にあるという。ここに「天皇の国事行為」として「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と定められているのだ。つまり、「総選挙の施行の公示」は、「天皇の国事行為」なのである。

これが根拠となって、「総選挙」以外の選挙は、国会議員の補欠選挙も含め、「公示」ではなく、選挙管理委員会による「告示」でスタートすることになるというのである。

しかし、この「根拠」とされている理屈、実は大した根拠ではないということに気付かない人は、「流されやすい」人である。

今回は衆議院選挙なのでいいのだが、問題は、参議院選挙でも、「告示」ではなく、「公示」されることだ。

何度も言うが、憲法で「天皇の国事行為」として規定されているのは、「総選挙の施行を公示すること」である。しかし参議院選挙は、「総選挙」でもないのに「公示」されている。おかしいではないか。

どうも、「総選挙」の定義は、憲法と公職選挙法で違うようなのだ。憲法で規定された「総選挙」は、通常の国政選挙なのだが、公職選挙法でいう「総選挙」は、(一院単位で)すべての議員を選び直す選挙、つまり、衆議院選挙のみを指すようだ。

参議院選挙は、3年ごとに議員の半分ずつ選挙するので、「総選挙」ではないという理屈である。そのくせ、スタート時点だけは、憲法の規定によりかかって、「総選挙」扱いにして「公示」ということにしている。

なんでまた、こんなナンセンスなことで憲法違反を長年続けているのだろう。さっぱりわけわからん。

選挙というのは、わけのわからんことだらけである。そりゃあ、大切な権利だから、投票はする。しかし、特定の候補者に肩入れしたりとかはない。何となく馬鹿馬鹿しさが先に立って、あまり深入りする気になれないのである。

でも、周囲には選挙が生き甲斐みたいな人が結構いて、投票日が近づくほどに、アドレナリン出まくりで、目は輝き、肌まで艶々として、生き生きと楽しそうなのである。年中選挙だったら、きっと百まで生きるだろう。

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2005年8月29日

「ケータイ短歌」を初めて聞いた

先週の土曜日の夜、妻が例によって NHK ラジオを聞いている。私も耳を傾けてみると、何やら芝居の台詞めいたことを言っている。

「あれ、これ、ミソヒト文字になっちゃってるよ」 と言うと、「当たり前よ、短歌だもの」と言う。それで、これがかの有名な 「土曜の夜はケータイ短歌」 という番組だと気付いた。

その時聞いたのは、こんな歌である。

東京の色に染まった君と会い 止めた煙草に 火をつけていた  (山口 コウ)

最初は短歌とは気付かなかった。単にフツーの口語的言い回しが、たまたま 「五七五七七」 になっているのが面白いという気がしたのだ。

「短歌でもないのに、短歌じゃん、面白いじゃん」

そう思ったら、実は 「短歌でもないのに」 どころではない、もろに短歌として作られた作品だったのだ。山口コウさんには、大変失礼なことを思ってしまったわけだ。

このときは、「煙草を止めていた」のが「自分」なのか「君」なのか、ラジオの中でちょっと議論になって、ふかわりょうが、「東京の色に染まった『君』が煙草を吸っていたんじゃないの?」なんて、ピンぼけなことを言っていた。

この番組、聞いてると、同じような芸風の歌がぞろぞろ出てくる。ふむふむ、これが最近の歌風なのかと、納得した。

私もつたないながらネット歌人みたいなことをやっている(参照) のだが、芸風は「ケータイ短歌風」に比べると、まるでジジ臭い。何しろ、文語体で旧仮名遣いである。自分でも「短歌じゃなくて和歌」なんて言ってるのだから、しょうがない。似て非なるものである。

ケータイ短歌は、なんとなく、洋服のコットン生地で作った浴衣みたいな趣がある。形のデザインは伝統的な短歌だが、素材も柄も今風だ。それはそれで面白い。でも、なんとなく飽きそうだ。

私は昔の反物みたいな歌を詠んでみたいと思っている。それを昭和生まれで平成の御代にネットなんぞをやっている自分が現代風に着てしまうのだ。何しろ、横書きだし。

このアンビバレンツェが、私の歌の存在価値みたいなものである。

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2005年8月28日

高校野球部の身内の爆弾

高校球児たちには何の含むところもないが、私は高野連を筆頭としたアマチュア野球組織のお偉方の「超エラソー」な態度には、腹が立つというより、呆れてしまっている。

その「超エラソー」は、個別の高校野球部まで蔓延していて、ちょっとしたことで、「3−4発」だか「20発以上」だか、ぶん殴る。

ぶん殴られた部員だって、「そりゃあ、お前、少しはぶん殴られても、文句言えんだろ」程度の原因はあっただろう。それでも、殴った当人が、どのくらい殴ったんだか覚えてないなんてのは、ちょっとおかしい。

人を殴るってのは、自分の拳だってかなり痛いもんである。それは、心の痛みでもある。その痛みがわからなくなるってのは、心のマヒ加減がひどすぎる。普段から相当「エラソー」な振る舞いをしていて、それがクセになってしまっていたのだろう。

最近、高校野球の「暴力沙汰告発騒動」が目立つ。告発するのは、大体において、ベンチ入りも叶わなかった控え選手である。

野球有力校では、他地区からスカウトされた外人部隊が多い。私の郷里から出場した酒田南高校にしたって、実は関西出身者が多いという。

こうした環境では、愛校心よりは、まず「自分自身の甲子園出場」が先に立つのも道理である。その希望が叶わなければ、「学校の甲子園出場」なんて、どうでもいい。

こうなると、ベンチ入りから外れた野球部員というのは、身内に抱えた爆弾である。強豪校ほど鉄拳制裁の一つや二つ、ないわけがない。ただ、明るみに出ないだけである。それを知っているのは部員なのだから、下手したら、いくらでも告発の種はある。

ただ、レギュラー選手はどんなにぶん殴られようが、告発なんてしないだろう。甲子園出場の喜びは、ぶん殴られる痛みを補ってあまりあるだろうから。しかし、ベンチ入りもできない部員は、痛みを補う喜びからも阻害されるのだから、破れかぶれだ。

これからは、ベンチ入りできそうもない野球部員は、腫れ物扱いしなければならない。いくら野球部長さんが 「超エラソー」 でも、暴力事件の告発は最大のアキレス腱である。

そうした馬鹿馬鹿しい状況に陥らないためには、指導者と部員が、レギュラーから球拾いに至るまで、本当に心の繋がりを持たなければならない。ぶん殴ればいいというものではないのだ。

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2005年8月27日

「レクサス」戦略の成否を予言する

トヨタの高級車ブランド 「レクサス」の広告が盛り上がっている。ホームページもやたらと金をかけているようで、動画が多いわ、階層は深いわで、見るのに手間がかかる。

この戦略、はたしてトヨタの思惑通り当たるのだろうか。私は、成功するにしてもかなり時間がかかると思っている。

以前、バブルの頃、マツダが 「ユーノス」だの「オートザム」だの「アンフィニ」だののチャネル・ブランドを前面に出したことがあった。いや、これらの新ブランドを前面に出したというよりは、意識的に 「マツダ」 のブランドを 「隠した」 と言った方がいいだろう。

これははっきり言って、マツダ自身が「マツダ」というブランドに自信がないことを示すものだった。それで、バブル期の軽薄な風潮に乗り、目新しいブランドでイメージ一新を狙ったのである。メーカーは「マツダ」に違いないが、商品にはそれぞれのチャネル・ブランドだけが表示された。

ところが自動車というのは、ティッシュペーパーじゃあるまいし、チャネルやストアのブランドで買うような 「軽い」 商品ではないのである。メーカーの信用が大きいのだ。当時、「オートザム」なんて、どこか東南アジアのメーカーかと思っていた人までいた。

要するに、安っぽいチャネル・ブランドを優位に置いて、メーカー・ブランドを隠したために、せっかくそれまで培った「マツダ」のそれなりの信用を、マツダ自身がドブに捨てたのである。

そして 1991年、あの「ルマン 24時間耐久レース」で、せっかくマツダが優勝したのに、「マツダ」の車を売る店がどこにもないので、プロモーションが展開できないという情けないオチまでついて、この戦略は完全に失敗し、今では、マツダは 「マツダ」 に戻っている。

そして、今度はトヨタの「レクサス」である。

かつての 「マツダ」 の失敗は、大衆車市場における自社ブランドに自信を持てなかったことによるものだが、「レクサス」は、高級車市場における 「トヨタ」 ブランドのステイタスに、トヨタ自身が自信を持っていないことの表れと言える。

違いは、マツダは従来の主力市場における自信のなさだったのだが、トヨタの場合は、新規市場における自信のなさということだ。そして、マツダは一度に多数の新規ブランドを打ち出したために、イメージが拡散したが、「レクサス」の場合は一点集中である。

また、レクサスはマツダの時ほどメーカーを隠してはいない。それどころか「バックにあるのは、トヨタの総合力ですよ」ということを暗に示してさえいる。

これらの違いが「救い」となって、レクサスはマツダのような惨憺たる失敗はせずに済むだろう。しかし、すぐに大成功というわけにもいかない。いずれにしても、 「負のイメージ」は、上手に隠してはいるものの、透けて見えてしまっているのだから。

ある意味、"「レクサス」は「トヨタ」の高級バージョン" という位置づけを払拭し、逆に、"「トヨタ」は「レクサス」のお買い得バージョン" というイメージにまでもってくることができれば、この戦略は大当たりということになる。

ただし、それには時間がかかる。

【平成18年 9月 12日 追記】

その後の経過は、「急ぐな、レクサス!」(H18.01.27)、「レクサスは失敗したわけじゃない」(H18.06.12) に記載されている。

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2005年8月26日

洪水地帯の汚名返上

西岸良平の昭和 30年代まんがで、昔は台風の度に洪水になった下町が、今は下水道ができたおかげで、洪水がなくなったみたいなストーリーを読んだことがある。

しかし、我が家の一帯は、昭和 50年代から平成 10年代前半に至っても、洪水地域だったのである。

東京の西荻のアパートからここ筑波の地に引っ越してきたのは、昭和 57年(1982年)の夏だった。日曜日に引っ越してきて、翌週の日曜日に台風が来た。台風一過の青空の下、道路を見るとキラキラ輝いている。何かと思ったら、道路冠水だった。

以後、ずっと台風の度に眠れない夜を過ごしてきた。大雨が降ると、我が家から県道に出る道が必ず冠水するので、その前に車を避難させておかないと、外出ができなくなる。一度は床下浸水に見舞われたこともある。

しかし、昨年に近所に遊水池ができると、この辺りは一挙に洪水地域の汚名を返上してしまった。あれから、洪水らしい洪水には見舞われていない。暮らしやすくなったものだ。

今、日付が変わって 8月 26日になったばかり。外は断続的に激しい風雨のようだ。窓に打ち付ける大粒の雨の音が聞こえる。以前なら、必死に車を避難させて、ずぶ濡れになって帰ってくるところだ。

ところが、今はこうして呑気にブログの更新などをしていられる。ありがたいものである。

あの「三丁目の夕日」で、昭和 40年代以後に下水道が整備されたために、洪水から解放された東京下町の状況が、平成 10年代後半に至って、我が居住地域にもようやく訪れたのである。

ところで、一昨日に開通したつくばエクスプレスだが、私はまだ乗っていない。早く乗ってみたいものだと思っている。乗ったらここでレポートさせていただこう。

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2005年8月25日

車と PC の共通点

昨日まで 2日半、展示会の運営でバタバタし、夜はバタンギューで寝てしまったので、今日の更新は珍しく午後を過ぎてしまった。

朝一番でも更新ができなかったのは、午前中もいろいろな雑用であちこち飛び回ってしまったからである。あちこち飛び回って、車検に出していた車を受け取って帰ってきた。

車を車検に出したのは先週の金曜日で、それから土日をはさみ、展示会運営で動きが取れない日が続いたので、受け取りが今日になってしまった。ほぼ 1週間、代車に乗っていたわけだ。

私は普段はトヨタのイプサムという車に乗っている。代替わりする前の、2000CCのやつだ。そして、今回代車に出してもらったのが、ホンダのシビック(セダンタイプ)である。

代車に乗っていて、次に買うのは 1500CC で十分だと思った。最近の 1500CCは、十分力がある。それに、今、我が家の駐車場は車であふれかえっているので(参照)、なるべくコンパクトで取り回しの楽な車がいい。

イプサムにしたのは、田舎に家族を乗せて帰るニーズがあったからだが、最近では子どもたちも皆自分の車を持ち、それぞれのスケジュールで暮らすようになった。三列シートの RV はもういらないだろう。

私は車の運転はちっとも苦にならないが、車が大好きかといわれればそれほどでもないと答えるほかない。必要だから持って使っているだけで、好きで乗っているわけではない。そのあたりは、パソコンを使い倒しているくせに、別にパソコンが好きというわけでもないとの同じである。

だから、自分の持つ車は、快適に運転するのに最低限の機能があればいいわけで、メーカーや車種に対するこだわりはほとんどない。

とはいえ、私はこの年になるまでセダンのオーナーになったことは一度もない。セダンはオッサンの乗る車だという抜きがたい偏見があって、当の自分がオッサンになってしまっても、オッサンの車には乗りたくないと思っているのである。

不思議なもので、自動車整備工場で車検の終わった自分の車を受け取り、運転席に座っただけで、なんだか自分の家に帰ったような気がする。車にこだわりがないとはいえ、愛着のようなものが生じるのは、自分の愛用のパソコンが一番しっくりくるのと同じようなものだ。

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2005年8月24日

傘のジレンマ

私は晴れ男のくせに、いつも折りたたみ傘を持ち歩いている。家を出るたびに傘の要不要を判断するのが面倒だからだ。

私のバッグはモバイル PC を持ち歩くのに便利なデザインのリュックタイプである。そのサイドポケットに、さりげなく軽量タイプの折りたたみ傘を忍ばせているのである。

折りたたみ傘のメリットは、軽くてしまいやすいということの他に、電車などに置き忘れにくいということが挙げられる。電車に乗る前に、折りたたんで専用ケースに収納し、バッグのサイドポケットにしまってしまうのだ。そうすれば、置き忘れようがない。

傘が濡れているうちに折りたたんでしまっても、いつの間にか乾いている。最近の傘は合繊 100%だから、カビが生えるということもない。

折りたたみ式でない、普通の洋傘を愛用していた頃は、傘を電車に何本置き忘れたか知れない。買ったその日に忘れたなんてことも、一度や二度ではない。

以前、傘は高い傘を買うに限るという話を聞いたことがある。本当に気に入った、いいデザインの傘を買い求めると、自ずからその傘を大切にしようという気になり、どこかに置き忘れるということもなくなるというのである。

これはもっともらしく聞こえるが、実は大嘘だった。せっかく百貨店の傘売り場で、気に入った色柄の某ブランドの傘を 1万数千円も出して買い求めたのだが、1週間もしないうちに電車に置き忘れてしまった。

確実に失ってしまうものに大金をはたくとは、愚かしいにもホドがある。

こんな経験から、私は身から離さずに済む折りたたみ式に専念することにしたのである。しかし、折りたたみ傘は置き忘れずに済むというメリットはあるが、とても壊れやすいというデメリットもある。

なにしろ、構造がか弱いのである。ちょっと風の強い日にさしただけで、すぐに骨が折れてしまう。以前は、折りたたみ式でない傘を、平均 2か月でどこかに置き忘れていたが、最近は、軽量折りたたみ傘を、平均 4か月で骨を折って使い物にならなくしている。

手元にある期間が、あくまでもおおざっぱな印象にすぎないとしても、ほぼ 2倍ほどに延長されただけでも、よしとしなければならない。

いずれにしても、傘って消耗品である。考えてみると、3000円の折りたたみ傘は、20回も使えない。大体にして、15〜6回目ぐらいで骨が折れて使い物にならなくなる。1回の使用当たり 200円近い。

だったら、普段は傘を持たずに出歩いて、雨が降ったら 100円ショップで安物を買えばいいという理屈も成り立つだろう。しかし、ここで辛うじてエコ派の意識が頭をもたげる。

確かに、雨が降るたびに100円傘を買う方が経済的かもしれないが、その度に不要な不燃ゴミを出すことになる。それなら、不燃ゴミを出すサイクルを 15〜6倍にするために、値頃な折りたたみ傘を買う方がいいだろうと判断しているのだ。

それでも、傘のジレンマはなかなか解決しない。置き忘れるにしろ壊れるにしろ、サイクルが短すぎる。

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2005年8月23日

風水って、ジーンズなのか?

私のポータルサイト、「知のヴァーリトゥード」の 10万ヒット目は、昨日午前 10時 40分頃、naokaz さんが踏んでくれた。キリプレ和歌は、近日中にアップの予定。

10時 45分頃に、「あと 20か 30までこぎ着けたかな」 と確認しに自分でアクセスしたところ、既に「100002」だったのでびっくり。自分で踏まなくてよかった。

ところで、19世紀半ばのカリフォルニアのゴールドラッシュでは、一攫千金を夢見る人がどっと押し寄せた。きっかけは、1848年にアメリカン川で砂金が発見されたことだ。このニュースが伝わり、我も我もと山師が殺到したわけだ。

ところが、多くはそれほどの金鉱に巡り会えるわけもなく、少しばかりの砂金を手にしただけで終わった。

この騒ぎで一番儲かったのは、リーバイ・ストラウスという男だった。彼は、ガラガラ蛇よけになるというインディゴで染めた丈夫なズボンを作り、それがゴールドラッシュで押し寄せた男たちに飛ぶように売れたのだった。

このリーバイ・ストラウスこそ、ジーンズの「リーバイス」の創業者である。

このエピソードの教訓は、お金を儲けようと思ったら、お金を儲けようしている人たちのマーケットに向けた商品を開発すればいいということだ。

もっとも手っ取り早いのが、「どうすればお金が儲かるか」という内容の指南本である。

今一番注目されているのは、かのホリエモンの「儲け方入門〜100億稼ぐ思考法」みたいなものだろう。これ以外にも、書店の棚を探せば似たような本はいくらでもある。読んだことがないので、具体的な書名は思い浮かばないが。

この類でもっとすごいのは、「風水」である。これは金儲けばかりではない。健康になりたいとか、恋人が欲しいとか、人間の諸々の欲望に対応して、ああすればいい、こうすればいいという指南をしている。

金儲けの本を読んだだけで金持ちになった人が稀であるように、部屋の窓際にちょっと変わった色の置物を置いただけで、恋愛成就した人というのも珍しいだろう。

なるほど、風水って、リーバイスのジーンズなのかもしれないなと思う。それによって成功するかどうかは保証の限りではないが、成功を求める人のニーズには、がっちりとフィットしているのだ。

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2005年8月22日

中国の「反腐敗教育」

多分、今日中に、私のポータルサイト、「知のヴァーリトゥード」トップページの 10万ヒットが達成されるだろう。せいぜい自分で踏まないように気を付けよう。

当サイトのキリプレは、和歌を捧げるということになっている。今どき、和歌を捧げられるという体験をするのもオツなものだと思うので、踏まれた方はご連絡いただきたい。

さて、今日の話題は、"中国で「反腐敗教育」開始" というお話である。

共産党や政府幹部の収賄、横領などの腐敗が深刻な中国で、「腐敗を防ぐには子どものときからの教育が大切と、来学期から大都市の小、中、高、大学で「反腐敗教育」が始まることになった。

ということである。

「うそをつかない、ずるをしない、無理に張り合わない、人のお金を猫ばばしない」を主なテーマに、規則の順守や公共物を大切にすること、誘惑に負けないことなどを教えるのだそうだ。

「うそをつかない、ずるをしない、人のお金を猫ばばしない」というのはわかるが、「無理に張り合わない」というのは、ちょっとおもしろい。中国人のメンタリティをみる思いがする。

彼らは、風体の見てくれや、家屋の立派さや、身に付ける時計やアクセサリーのブランドで、かなり周囲と張り合っているんだろうなあと思う。中国人は日本人よりブランド好きらしいから。

ライバルがロレックスの腕時計をこれ見よがしにしたら、自分はさらに高そうなオメガか何かを見せびらかしたい。誰よりも大きなダイヤの指輪を身に付けたい。毛足が長くて足首まで埋まりそうな高級カーペットを自宅に敷き詰めたい。贅沢な装備満載のメルセデスを乗り回したい。

こんな方面で、ライバルたちと張り合おうなんてしたら、そりゃあ、多少は嘘もつかなくてはなるまい、ズルは大いにしなければなるまい、人の金は自分の金と思うぐらいでなければ勤まるまい。

中国では、昨年 11月までの 1年間に「腐敗」を指摘されて党や政府から処分を受けた党員や公務員は 16万人以上に達するという。1日平均で 440人にもなる。これでは、処分する方も一苦労だ。

問題は、「反腐敗教育」が裏目に出はしないかということである。「ゴミを捨てるな」という看板のあるところに限って、ゴミの山になるようなもので、かえって、世の中にはいろいろな「おいしいお話」があるのだということを、子どもたちに教えてしまうことになりかねない。

「世の中には、これこれこういった『悪事』が蔓延しているけれど、それらには手を出さないように」と教育するのは、実はとてもむずかしいことだろう。

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2005年8月21日

夏風邪は馬鹿しかひかない?

夏風邪を引いてしまった。咳と鼻水、節々の痛みと、典型的風邪の症状である。

しばらくの間、冬の間でも風邪を引きかかったなと思っても、半日寝れば回復していたから、かなり久しぶりの本格的風邪である。「そういえば、風邪ってこんな感じだったな」 と、記憶を呼び覚ましてしまった。

次女がしばらく前から盛大な音を立てて鼻をかんでいた。この風邪はどうも、次女にうつされてしまったものらしい。

以下、次女との会話

私     「君にうつされてしまったらしいね」
次女  「そうみたいだね」
私     「夏風邪は馬鹿しか引かないっていうの、知ってるか?」
次女  「知ってる、知ってる」
私     「でも、立秋を過ぎてることだし、馬鹿じゃないってことにしとこうか」
次女  「あたしは、立秋前からずっとひいていたよ」

どうも、彼女は馬鹿にこだわりがあるらしい。それなら、馬鹿は馬鹿なりに、大馬鹿であってもらいたい。小利口よりはずっといい。

ところで、「馬鹿は風邪をひかない」というのは、一理あるのだそうだ。風邪をひくというのも、体のアンバランスを修正する過程と捉えることができるというのである。つまり、体にある種の負荷がかかりすぎると風邪の症状を発生させ、体を休ませて回復させるのだ。

ところが、体が鈍感だと、きちんと風邪をひくこともできないわけだ。すると、体の歪みが知らないうちに極限まで達していて、ある日突然大病になったりすることもあるという。

たまには風邪をひくのもいいかもしれん。今夜はゆっくり寝よう。

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2005年8月20日

国民新党、応援しないでもないからね

例の亀井静香さん、綿貫民輔さんらが結成した 「国民新党」 のウェブサイトができたというので、行ってみた。

うーん、これは苦しい。この人たち、本当に自民党を追い出されるとは、直前まで思ってなかったんだろうなあ。そう察するに十分な、急場しのぎの間に合わせコンテンツだ。

亀井さんたち、小泉さんがあのジョージ・ブッシュと仲良しだってことを忘れていたみたいだ。

イラク戦争が始まるときにしたって、サダム・フセインは、「大量破壊兵器」なんてものを持っているような、いないような、のらりくらり戦術で、世界を煙に巻こうとしていた。この「のらりくらり」は、アラビア商人の常套戦術だな。

ところが、ジョージ・ブッシュは、そんなゲーム感覚に付き合えるほど、頭の中が洗練されていなかった。根がカウボーイだもの、仕方がない。いきなりテーブルをひっくり返して頭をぶん殴るという無粋の挙に出たのである。

亀井さんたちも、サダム・フセインと同じ誤りをしでかしたようなのだ。傍でワイワイ、ブーブー言っていれば、少しは話に付き合ってくれるだろうと思っていたのに、やっぱり、いきなりテーブルをひっくり返されて、頭をボコボコにぶん殴られてしまったわけである。

プロレスで言えば、ロープに振ればリバウンドして戻ってきて、ラリアートの一発ぐらいは受けてくれるお約束のはずが、相手はロープに走りもせず、いきなりその腕を取って飛び付き逆十字を極めてきたみたいな話である。

「おいおい、暗黙のルールはどこに行った!?」ってなものだろうが、仕方がない。政治家の常識が通じる相手ではないのだ。なにしろ、時代の勢いに乗ったとはいえ、アマチュア感覚で首相になった人だから。

で、国民新党のウェブサイト。大体にしてからが、サイトのドメイン名が "kokumin.biz" というのが、悲しすぎる。いかにもドロ縄だったことがバレバレなドメイン名だ。

".org" とか ".net" とかは、既に誰かに押さえられていたんだろうなあ。"or.jp" というのは、空いていたとしても、取得にちょっと手間がかかってしまうだろうし。仕方なく、".biz" なんてことにしてしまったんだろう。

公約というのが、また泣かせる。以下にコピペしておこう。

国民新党(国民)の約束
1.国民の声を聞く
1.国民の命を守る
1.国民の幸せをつくる
1.国民のために働く
1.あたたかい政治をおこなう

あぁ、何という芸のなさだ。まともなブレインがいないんだろうなあ。しかも、サイトのヘッダ部分では、漢数字を使ってきちんと 「一つ書き」 をしているのに、本文ではアラビア数字を使うなんてチョンボをしているのは、やっぱり、急場しのぎだったんだろうなあ。

私は、亀井さんというのは嫌いな政治家じゃない。お酒を飲みながらの談論風発だったら、多分、小泉さんなんかよりずっと面白い人だと思う。だが、談論風発の面白い人ほど、テーブルをいきなりひっくり返されると弱い。まったくもって気の毒なことである。

願わくは、きちんと政党としての体裁を整えて、キャスティングボートを握るぐらいになっていただきたいものである。応援しないでもないから。

でも、選挙区に候補者がいなくてはどうしようもないし。比例区も、いろいろ考えてしまうし ・・・。いずれにしても、国民新党の方も、旧来の 「政治家の常識」 は捨ててもらわないと。

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2005年8月19日

中国人の大声

マナーの悪さ目立つ中国人観光客 大声で話すと苦情も」 という記事が見つかった。マナーについては、高度成長期を経たあたりに日本人も散々言われたことで、責めても仕方がない。そのうち、少しは改まるだろう。

しかし彼らの「大声」というのはものすごいもので、確かに圧倒的迫力だ。

これは「中華レストランの喧騒の 本当の意味」のタイトルで、以前に書いたことがあるので、焼き直しになるが、もう 3年近くも前のことなので、改めて書いてみよう。

私は中国本土には一度も行ったことがないが、返還前の香港には何度も出張した経験がある。その経験の中で強く印象付けられているのが、香港のレストランのすさまじいまでの喧噪だ。

香港人というのは、ほとんど「ウチメシ」を食わない。ほぼ 100%近く外食で済ます人たちである。そして、彼らが勤め帰りに連れ立って夕食を食べに行くレストランというのは、さすがに間違いなく安くて美味いのである。

ただ、安くて美味いだけならありがたいのだが、最大の難点は頭が痛くなるほどの喧噪に堪えなければならないということだ。それはもう、レストランのドアを開けた途端に、中から「ウワォーオン!!」という圧倒的な音の固まりが押し寄せてくるという感覚だ。

この「大声で話す」というのは、マナーの視点だけでは論じきれないらしい。長い戦乱の歴史を経験した民族の、自己保身の知恵だという説がある。

昔から中国では、周囲に話し声が聞こえないように小声で話をしていると、それだけで自分に不利になるらしい。悪だくみをしている危険分子のように思われるのだ。現代ならば、さしずめ共産党批判でもしているのかと思われてしまうのだろう。

だから、自分の身の安全を図るためには、「私は、妙な不平不満は抱いてませんよ。誰に聞かれてもいいようなことしか考えてませんよ」ということをアピールしなければならない。他愛もない話を、周囲に聞こえるように大声で話す必要があるのだ。

中国人の夫婦喧嘩というのは、壮絶なものであるらしい。とにかく「お前は、あんたは、これこれこれだけのひどいことをした!」と、敢えて近所中に、はたまた通行人にまで聞こえるように、大声でわめき立てる。そうして自分の味方を増やすのだ。

ここが重要なところである。中国人というのは、A という人物に向かって直接話しているように見せて、実は、第三者の B に対して何かをアピールしようとしていることがあるというのである。何事も文字通りには受け取れない。

東京外国語大学名誉教授の岡田英弘氏は、中国人の行動原理には 「指桑罵槐」(しそうばかい)ということがあると指摘している。本当の目的は槐(えんじゅ)という別の木を罵ることにあるのだが、表面的には桑の木を指してイチャモンをつけているように見せるのだ。

先だっての「反日デモ」なども、それを計画・煽動した一派は、「日本に向かって」抗議をするという、文句の付けようのない行動をしているように見せて、本当は中国政権内部の揺さぶりを狙っていたというのは、既にあちこちで指摘されている。要するに、「反日」の仮面を付けた内部抗争である。

中国人の大声から、ちょっと別の方の話になってしまった。

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2005年8月18日

10万ヒット間近

私のポータルサイト「知のヴァーリトゥード」のカウンターが、ふと気付けば 99000を超えている。多分、1週間以内に 10万の大台を超えるだろう。

数字というのはわからないものである。一桁増えるだけで、「マイナー」には違いないが、「超マイナー」というわけでもなくなるぞってな感じがしてくるから不思議だ。

「知のヴァーリトゥード」がスタートしたのは、平成 14年 1月 16日である。スタート当初は「知の海に跳び込め」というベタなタイトルだったが、昨年の 10月 12日に現タイトルに変更したのは、サイトのトップページに記してある通りである。

サイトを開始した当初は、敢えて誰にも知らせずにひっそりとスタートしたので、アクセスが極端に少なかった。一日のヒット数が、更新のために自分でアクセスした回数だけという日も珍しくなかったのである。それで、5000ヒット達成にほぼ 1年かかった。

最近では、2か月ちょっとで 1万ヒットしてしまうから、夢のような話である。世の中には、1日で何千ヒットもしてしまうような超人気サイトがあるらしいが、そんなことは到底望んではいない。最近は、ユニークで 100ヒットを越す日が珍しくなくなったというだけで、もったいないほどのことである。

ここで一転して、憎まれ口を叩いてしまうが、世の中の超人気サイトや超人気ブログというものをたまに覗いてみると、面白いのも確かにあるが、「一体、これのどこがそんなに面白いんだろう」ってなものも、案外多いのである。

翻って、自分のサイトがそれほど面白いかと詰問されれば、そ、それは、その、・・・ 面白い日もあれば、つまらない日もある ・・・ としか言いようがないのだが、その「面白い日」の出現率が、今シーズンの清原の打率ほど低くはないだろうという自負はある。

まあ、面白い、面白くないは、受け取る側の感性によるから、一概には言えないが、イチローの打率なんか、問題じゃないぞという気概ぐらいは持ちたいものだ。

その気概を保っていけば、多分これからも定連さんが増えてくれるだろう。毎日毎日、何千という一見さんが来ては去るというサイトより、確固たる定連さんが来てくれるサイトでありたいと思う。「ベストセラー」ではなく「ロングセラー」を目指したい。

ところで、10万のキリ番をゲットされた方には、例によって、和歌を捧げることになっている。最近は一見さんもかなり増えてしまったので、キリ番ゲットの申告がなかなか寄せられないのだが、今回は特別な数字でもあるので、ぜひ定連さんのどなたかに捧げさせて頂きたいものだと思っている。

それにしても、この 「今日の一撃」 の運営に使っているブログの方は、最近はポータルである「知のヴァーリトゥード」の 2倍以上のヒットを集めるようになった。そのうち、ブログのカウンターがポータルを抜いてしまうのだろうなあ。

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2005年8月17日

ケータイと心臓ペースメーカー

最近 JR などで、ケータイの電源を何が何でも切れとは言わなくなった。優先席以外では、マナーモードにすればいいという。

心臓ペースメーカーへの影響に関しては、2年前には、22センチ以上離せといわれていたが、最近の総務省の調査では、8センチ離せば十分ということらしい。(参照

私は 3年前に、自分のサイトで「電車の中のケータイ」というコラムを書いている。当時は、JR の電車に乗ると、「心臓ペースメーカーに影響を与えるので、携帯電話の電源を切るように」とうるさいほどにアナウンスされていた。

これに関する 3年前の私の推論は、以下のようなことだった。

JR の車内アナウンスであれだけしつこく「携帯電話のスイッチをお切りください」というのは、ペースメーカーに影響があるのかないのかは定かではないが、もし何かあった時に、「私どもは 携帯電話については車内アナウンスで十分に注意していたのですが……」と言うためのアリバイ工作ではないかと思うのである。

PL法施行以後にどっと増えた、言わずもがなの警告表示みたいなものである。

実際問題としては、車内アナウンスを聞いた乗客が実際にスイッチを切るかどうかは、あまり問題ではないのだろう。JR にとって重要なのは、「スイッチを切るように、頻繁に呼びかけているという事実」なのである。これによって、万が一、重大な事態が発生した際の責任を逃れることができる。

これは、かなり当たっていたと思う。大体において、巨大企業の安全対策というのは、そうしたところがある。どうでもいいところに必要以上に気を遣って、肝心なところがおざなりになっていたりするのだ。

ところが、2年前に「22センチ以上離せば大丈夫」という調査結果が出た。これで、JR は言い逃れの必要すらなくなったので、しつこい車内アナウンスを止め、マナーモードにすればいいということにした。

もし何か重大事態が発生したら、今度は「22センチ以上離せばいいと聞いていたので」と言い逃れができる。この保険をしっかり手中にした以上は、面倒なアナウンスはしなくてもいい。

とはいえ、「優先席付近では電源をお切りなり……」ということは、今でも時々アナウンスしている。年寄りが妙に気にするあまり、「気のせいで」心臓がおかしくなってはたまらないので、このあたりは、まだ暗中模索段階のようだ。

以前、ケータイで通話しようとしたら、近くにいた心臓ペースメーカーを装着した人に「私を殺す気か!」とエライ剣幕で怒られたという話を聞いたことがある。「気のせい」とか「思いこみ」というのは、恐ろしいものである。

ケータイの電磁波で死ぬようならば、日本中で何人の死者が出るか知れたものではない。それに、パソコンを使って仕事をすることもできないだろう。

就職の際に、「あぁ、あなたはペースメーカーを装着しているから、パソコンを使った仕事ができないでしょう。不合格です」なんて言われたら、そりゃ、差別である。一方では、ペースメーカーを付けていながら、ケータイで長話をしている人もいる。

今回、22センチが 8センチになったのだから、このあたりの認知が進めば、もしかしたら、優先席付近でもマナーモードで済むようになるかもしれない。

そもそも、8センチにまで近づけようなんてしたら、その前に、痴漢に間違えられそうだ。世の中には「年寄りフェチ」なんていうのもあるそうだから。

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2005年8月16日

ヘンリー・フォードと畳

『さおだけやはなぜ潰れないのか』 という本が話題になり、それに関連して、「街の洋品店はなぜ潰れないのか」が話題となった際に、私は「街の洋品店は、本当はよく潰れてる」という事実を書いた。

それで、今度は畳屋である。なぜ、街の畳屋は潰れずに済んでいるのかという疑問だ。

これだけ住宅事情が洋風化して、畳の部屋が減っている昨今である。多分、街の畳屋さんも激減しているに違いない。それでも皆無にはならない。路地でひっそりと畳を作っていたりする。

畳の大量生産というのは、多分ある。柔道や合気道の道場に敷き詰められている畳は、本当の畳表ではなく、なんだか合成素材っぽいもので覆われていて、いかにも工業生産という感じである。しかし、畳の世界はそれだけではないようなのだ。

以前、ヘンリー・フォードが自動車の大量生産に関するデモンストレーションを行ったというエピソードを聞いたことがある。

彼は米国の自社工場で生産された 2台の T型フォード(だったと思う、違ってたらゴメンなさい)を英国に運び、そこで 2台とも分解して部品をシャッフルし、もう一度 2台の車を元通りに組み立ててみせ、英国人を感嘆させたという。

今でこそ当たり前の話で、何が感嘆に値するのかわからないくらいのものだが、このデモをしてみせた当時は、自動車は手作業で生産されるものだった。つまり、馬車と同様にカスタム仕様だったので、すべての部品に互換性を持たせるなんていうことは、思いもよらなかったのである。

畳の話に戻る。木造住宅の場合は今に至るまで、このヘンリー・フォードがデモンストレーションをしてみせる以前の状態のままのようなのだ。つまり、一枚一枚の畳が特注生産であり、標準という意識からは遠いようなのだ。

20年ほど前、我が家の一帯が台風による洪水に見舞われ、我が家もなんと、床下浸水ということになった。幸い、床上までは来なかったのだが、念のため一階の六畳間の畳を剥がし、二階に運んだのである。

水が引き始めて二階に上げた畳を下ろし、元のように敷き詰めようとして驚いた。適当に敷こうと思ったら、敷けないのである。つまり 6枚の畳のサイズがすべて微妙に違っていて、それぞれの畳が元の位置にくるようにしないと、部屋にぴったりと収まらないのだ。

つまり、畳というのは、部屋に合わせて特注されるモノのようなのだ。ただ合理的に考えれば、部屋のサイズを聞いて割り算することで、畳のサイズは自ずから決まる。

Tatami

しかし、そこはそれ、すっきりとした対称形を潔しとしない日本文化である。六畳間でも、単に 2枚× 3枚で並べるなんてことはしない。図のような形に並べないと、気が済まないようなのである。

これでも、少なくとも、畳 1 と 畳 2、畳 3 と 畳 6、畳 4 と畳 5 だけでも互換が利きそうなものだが、そこはそれ、そんな野暮はしない。周囲の柱の位置や障子、襖との整合性を微妙に取ってあるので、やはり元通りに敷き直さないと、収まりがつかない。

一般的な伝統工法の木造家屋は、「標準化」という発想が極めて希薄なようだ。細かいところは、大工の棟梁の胸先三寸で決められるのではないかと思ってしまうほどなのである。

まあ、一度建ててしまった 2軒の住宅を解体して、床板や柱や梁をシャッフルしてまた建て直すなんてことはないので、標準化のニーズは薄いのだろう。

しかしこれでは、不要になった畳をもらってきて自分の家に敷くなんてことはできない。畳のリサイクルは、畳表を張り替えるなど、同じ家の中でしかできないようなので、ちょっと不便である。

檜造りの高級住宅などは別として、一般的な住宅は標準化された部品の組み立てという発想にすれば、日本の木造住宅はもっと安く供給されるだろうにと、私なぞは思ってしまう。それともそれは、「ツーバイフォー」の世界になってしまうのだろうか。

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2005年8月15日

民主党の「具体的な」郵政改革

いやはや大したモンだ。私もきちんとしたデータを持っていないので、ただ純粋に驚いた。

民主党のマニフェストでは、郵貯の限度額を現行の 1000万円から 500万円に下げることで、約 210兆円の郵貯総額を、100兆円削減するんだそうだ(参照)。普通に考えると、数字のマジックにもならない気がするのだが。

岡田代表は「我々の主張は郵貯の規模縮小だ。限度額が 1000万円から 500万円になれば、官から民へ金が出てくる」と強調したのだそうだ。

個人的に言わせてもらえば、俄には信じがたい。私も郵便局に貯金口座を持っているけど、残高は、1000万円はおろか、500万円にもほど遠い。いくら限度額を下げても、全然影響ないぞ。

ところが民主党は限度額を半分にすることで、郵貯総額も半分近くまで減らせるとみているというのだから、これはすごい。この主張を全面的に信頼するとすれば、郵便貯金をしている人や法人のほとんどすべてが、限度額スレスレまでの残高をもっているもののようだ。

いや、それどころではない。そういえば、今年 5月末には、限度額 1000万円を超えている貯金者が 230万人もいたなんてことが発表されていたなあ(参照)。

どうやら郵便貯金においては、私のような少額貯金者は、おおざっぱに計算すると、ほんの 5%以下の少数派で、残りの 95%ほどは、1000万円近く、あるいはそれ以上の貯金をしているらしい。

ところで、このブログを読んでくれた 100人のうち 95人が、「そんなことも知らなかったの?」なんて感想を持つのだろうか。あるいはそうでなかったとしたら、もしかしたら岡田さん、私以上に数字に弱いのではなかろうか。

まさかねえ。でも、その辺りの理屈、はっきり言ってさっぱりわからない。これでは説得力がないだろうに。このマニフェスト、本当に本当に、さっぱりわからないぞ。

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2005年8月14日

ユーザビリティにおけるマーフィーの法則

U-Site」というサイトがある。いろいろなモノ、とくに IT 機器、ウェブサイトなどのユーザビリティを論じている。

このサイトに、Jakob Nielsen 博士署名による「スクロールとスクロールバー」という 7月 11日付の記事があり、「水平方向のスクロールは避けてウェブページを作ること」 とある。

この主張には、私も大賛成である。縦方向のスクロールならば、それほどうっとうしさは感じないが、水平(横)スクロールが必要なページに行き当たると、それだけで他に飛んでいきたくなってしまう。

ところで、これは本当に好みの問題で、他人に押しつけるつもりは毛頭ないのだが、私はウィンドウを最大化して画面一杯にしてしまうのは、嫌いである。

私の Windows のデスクトップには、ほとんど常に、3個以上のウィンドウが開いていて、それが微妙にずれて重なり合っている。マルチタスクで作業をする場合が多いので、同時に開いている他のウィンドウを、常に意識していたい気持ちの表れだ。

ともあれ、世の中には、ウィンドウの最大化がお好きな方もずいぶん多いようなので、繰り返して言うが、私は自分の好みを他人に押しつけるつもりは毛頭ない。しかし、私のように、最大化しないで表示している人も、かなり多いであろうことは、疑いがない。

ここで、ようやく本題に戻ろう。件の「スクロールとスクロールバー」という 7月 11日付の記事で、Jakob Nielsen 博士は次のように述べておられる。

ユーザテストをすれば、ユーザが水平方向のスクロールを嫌っていることがよくわかる。ユーザはそれを見かけると必ず、否定的なコメントをする。顧客満足を考えるならば、水平方向のスクロールは避けて当然なのだ。

ところが、このページは多分、世界で最もアイロニカルなページの一つである。1024 × 768 ピクセルの標準的な画面では、ブラウザーのウィンドウを最大化しない限り、水平方向のスクロールなしではテキストが読めないのである。IE などで、左側に 「お気に入り」 を表示させてしまったら、最大化させても読めない。

まあ、ページの作りとしては、テキストを読み進むに分には左側のサイドバーを無視できるので、一度水平スクロールしてしまえば、後は縦スクロールだけで済むのだが、それにしても、最初の一度が痛恨ではある。

博士の名誉のために言っておく。今回の記事は彼の「Alertbox」という一連のコラムの翻訳記事の中の最新記事なのだが、それ以前の記事は全て、本文が可変サイズで表示されている。だから、ウィンドウサイズに関わりなく、横スクロールなしでテキストを読めたのである。

それなのに、今回のコラムのみが、最大化したウィンドウに最適化された固定サイズで表示されてしまっているようなのである。多分、翻訳側のスタッフの単純なチョンボだろう。しかし、そのチョンボが、こうした決定的なテーマのコラムで生じてしまうところが、世の中の恐ろしいところである。

「マーフィーの法則」というのがある。「これは避けたいな」と思いながらも、ついやっちまうこと、あるいは「ヤバいことは、こともあろうに、最もヤバいタイミングで起こる」 という、ありがたくない法則である。

自分がこんな形でマーフィーの法則にとりつかれないよう、努々気を付けよう。それから、このページの表示が速やかに可変サイズに修正されることを期待する。

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2005年8月13日

鞍馬山異聞

京都の貴船・鞍馬で非日常的な一日を過ごして、夜中に戻ってきたら、関東は土砂降り。雷が鳴りまくっているではないか。

田んぼの中の近道を通ると、雷が光るたびに、実りかけた稲穂が浮き上がる。なるほど「稲妻」とはよくぞ言ったものだと、妙なところで感心。非日常モードは継続する。

昨日の和歌ログにも書いたのだが、「京都の奥座敷」のハイキング、どうもコースの順路を間違えてしまったようだ。

叡山電鉄の始発駅、出町柳でもらったパンフレットをみると、終点の鞍馬まで行って、そこから鞍馬山に登り、鞍馬寺を経て貴船に降りるのがオススメになっている。

しかし私は一駅手前の貴船口で降りて、貴船神社を参詣し、そこから鞍馬山に登って向こう側に降り、最後に鞍馬温泉の露天風呂で締めたいと考えたのだ。このコースだと、ぞろぞろ歩く家族連れをひっきりなしに追い抜くうっとうしさもないだろう。

ところが、知らないとは恐ろしいものである。貴船から鞍馬山への取っつきは、想像以上の急な山道だった。一泊出張分(モバイル PC 入り)の荷物を背負っていることもあり、たちまち滝の汗。京都の奥座敷の涼しい空気の中で、あんなに大汗をかくとは思わなかった。

やはり、鞍馬の方からダラダラと登り、最後に急坂を慎重に下りて、貴船の川床料理屋で一服というのが、一般的なオススメになってしまうのだろう。それに、鞍馬温泉に入りたければ、もう一度叡山電鉄に乗って一駅戻ればいいのだ。

というわけで、もし読者諸兄が、鞍馬・貴船を訪れるのであれば、素直に鞍馬から貴船に降りることをオススメする。しかし、私はへそ曲がりである。貴船の方から登ってよかったと、今でも思っている。

まず、貴船に着いたのが朝の 10時頃。有名な川床料理の店が、お昼時を前に、貴船川の流れの上に誂えた「床」の準備をしている。茣蓙を敷き、テーブルを誂え、周囲の木の蜘蛛の巣払いをしている。自然が豊かだけに、一晩で蜘蛛が巣を張ってしまうのだろうなぁ。

もとより、一人で川床料理屋に入って昼メシに 5000円なにがしかの出費をするつもりは毛頭なかったので、同じ川床の光景をみるなら、旦那衆が贅沢している姿をみるより、料理屋の仲居さんがピシッとたすきがけをしてきびきび動いている姿をみる方が気持ちがいい。

貴船神社もなかなか素晴らしかった。聞けば、平安京の水源を護る神社であり、ひいては、日本中の水や雨を司る神様であるらしい。

おぉ、私がこの 30年来、出張先で傘をさしたことがないという晴れ男でいられるのは、こちらの神様のおかげもあったのか、ありがたや、ありがたやと、懇ろに参拝させて頂いた。巫女さんもきれいだったし。

大汗をかき、鞍馬寺を過ぎて由岐神社にさしかかると、女の人が一人参道に倒れていて、連れの若い男が必死に介抱している。通りがかった人がケータイで救急車を呼んでいる。

私も心配になってのぞき込んだら、呼吸は普通にしている。初めは白目を剥いていたのだが、だんだんと黒目が戻ってきた。しかし、なんだか尋常ではない。

突然、連れの男が「僕もよくわからないんですけど、こういうところだから、何か霊の関係があるのかもしれない」なんてことを言い出した。どうやら、前にもこんなことがあったようなのだ。

難儀なことである。私も何人か知っているけれど、憑依しやすい体質の人っているのだ。これって、胃弱とか、便秘とか、高血圧とか、そんなのと同じく、体質みたいなもののようなのだ。体質改善した方が、日常生活には楽だと思う。

そうこうしているうちに、麓の方から救急車のサイレンが聞こえ、参道にさしかかってからは、さすがに周囲に気を遣ってサイレンを消して登ってくるのがうかがわれた。

そんなこんなで、非日常の一日を鞍馬温泉の露天風呂で締めくくって、関東に戻ってきたのであった。戻ったところが旧盆の真っ直中。非日常モードは終わっていないが、私は京都で一日遊んでしまったので、お盆どころではない。

で、今日も、サービス画像を少し。

Krn1 Krn2
Krn3 Krn4
Krn5 Krn6
Kyoto7  Kyoto8

 

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2005年8月12日

リアルタイムの京都旅情

京都に来ている。昨日、宇治の某企業を訪問し、その仕事は夕刻には終えたのだが、せっかくの京都なので、一泊している。

今日は幸い予定が入っていないので、京都の郊外を散策して帰るつもりだ。貴船あたりがいいかなと思っている。この贅沢の埋め合わせとして、旧盆は暇なしとなる。

今月 2日、「京都旅情」 なんてベタなタイトルの記事の中で、次のように書いた。

今度の出張では、仕事を終えたらどこかに一泊して、翌日はゆっくり一日かけて京都の街を歩いてみるのもいいような気がしている。予定の調整がうまくいくといいのだが。

つまり、予定の調整がうまくいったのである。ただ、歩くのは 「京都の街」 ではなく、郊外にしようと、考えが変わった。この暑さでは、京都市内を歩いたら頭がぼうっとしてしまいそうだ。

泊まっているホテルは、祇園のビジネスホテルである。晩メシを食べに出た際に撮った画像をいくつかアップしておこう。

Kyoto1 Kyoto2
Kyoto3 Kyoto4
Kyoto5 Kyoto6
Kyoto7_20250210183201 Kyoto8_20250210183201

このホテルは、無料の LAN が使い放題で、ブロードバンドでインターネット接続ができる。この速さは、光ファイバーだろう。

最近は、このように、無料でブロードバンド接続のできるホテルが増えてきた。ありがたいことだ。今回、画像を 8枚もアップロードする気になったのは、このブロードバンドのおかげである。

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2005年8月11日

車 4台の駐車場

我が家には今、車が 4台ある。こう書くと、何だか大金持ちのようだが、そうではない。単に交通機関の不便なところに住んでいるので、家族のそれぞれが車を持たないと、人間の暮らしができないのだ。

というわけで、私と 3人の娘がそれぞれ 1台、それに妻が原チャリを 1台持っている。

問題は、駐車スペースだ。以前は私の車 1台がゆうゆうと停まっていたところに、今は 4台が、ひしめいているのである。まるで奇跡のような状態だ。

おかげで、ウチの娘たちは多分、友達の中でもバックで車庫入れするのが最も上手な存在になっているだろう。「まったくもう、上手にならざるを得ないよ!」というわけだ。

何しろ、本来ならば 1台停まるために作られたスペースに、2台×2台の、4台を押し込むのである。それはそれは繊細なテクニックが要求される。

要求されるのはテクニックばかりではない。こうして 4台停めてしまうと、ドアを思いっきり開けることができない。人間一人、ようやく出入りすることができる程度にしか、開くことができないのである。おかげで、私はこれ以上太れないのだ。

まあ、悪いことばかりではない。どこかに出かけたときなど、駐車スペースがどんなに狭かろうが、車庫入れはお茶の子さいさいだ。我が家の駐車場に車庫入れするより難しいところなど、滅多にない。

それに、娘の一人でも結婚して家を出るようなことになっても、ホッとすることこそあれ、感傷的になるようなことはないだろう。我が家の車庫入れが楽になるのなら、大歓迎である。

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2005年8月10日

話してみないとわからない

一昨日の記事で、「夕食、何を食べたい?」という質問は、夫にとって理解不能であると書いたところ、妻は「そのことがわかったから、最近は聞かないでしょ」と言うのである。

そういえば、確かに最近は、その質問では悩まされていない。しかし、実はもう一つある。「これ、食べる?」というやつだ。

食事の途中など、中途半端なタイミングで、妻が突然冷蔵庫の中から何やら取り出し、「あなた、これ、食べる?」と聞くことがある。

普段、「ダイエットには気を付けてね」なんて言う妻が、もっともらしく「食べる?」なんて聞くから、よっぽど食べてもらいたいものだと思ってしまうのである。今、このタイミングで食べないと、腐ってしまうようなものに違いない。

私は思わずこう答える。「食わなきゃいけないんなら、何だって食うよ」

すると妻はこう言う。「だったら、食べなくていいわよ。本当に食べたい時に食べてちょうだい」

「本当に食べなくていいの?」
「そういう問題じゃないの」

だったら、どういう問題なのかと思っていると、娘までが母親に加勢する。

「お父さんたら、お母さんの作るものを、嫌々食べてるみたーい!」

いや、決してそんなことはない。妻の作るものなればこそ、腹が空いてなくても食えるのだ。嫌々だなんて、とんでもない。

というわけで、一昨日の記事がきっかけとなり、今度は 「これ、食べる?」について、じっくり話をする機会をもつに至ったのである。世の中、何が幸いするかわからない。

「おかずがなんだか物足りないかなと思った時なんか、プラス・アルファとしてどうかなと思って、聞いてるのよ」
「じゃ、遠慮なく『いらない』と言っていいわけね」
「そうよ。保存の効かないものなら、聞く前に食べさせちゃうわよ」

ふうむ。30年近く一緒に暮らしても、話してみなければわからないことって、あるものだ。

「今はダイエットで食を抑え気味なんだから、基本的に、あんまり食べさせようとしなくていいよ。物足りなかったら、自分で探してでも食うから」

これで納得かと思ったが、最後に一発、的確なパンチをもらってしまった。

「だって、あなた、冷蔵庫の中を探すの、下手なんだもの」

そういえば、そうかもしれない。冷蔵庫の中って、私が探してないものが、どうして妻が探すとあるんだろう。不思議でしょうがない。

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2005年8月 9日

政治のガラガラポン

昨日はちょっとした用で取手まで行くのに、車の運転中、カーラジオで参議院における郵政民営化法案否決の瞬間を聞いた。

これで衆院解散、総選挙になだれ込む。ラジオのニュース解説は、「郵政民営化は悪いことではないが、そこに至る首相の政治手法に問題が・・・」と、お約束の玉虫色解説。

マスコミというのは、「ああ言えばこう言う」式のごね方をして見せなければ沽券に係わるという意識があるというだけの話だから、テキトーに聞いていればいい。

強行突破で乗り切ろうとすれば、「独善的で強引な政治手法」と批判し、チマチマとした多数派工作を展開すれば「密室談合政治」と批判する。しかし、それら二つの手法を避けたら、結果は「指導力不足」ということになるだけだ。

いいじゃん、いいじゃん。「郵政民営化」をマニフェストに掲げた選挙で政権を得た政党が、こんなにゴチャゴチャするのなら、一度、ガラガラポンしてしまえばいいじゃん。

ガラガラポンのきっかけが、国民の死活問題ではなく、この程度の問題で幸いだったじゃないか。言い換えれば、この程度の問題でガラガラポンができるのだから、そりゃあ、今のうちにやっておいた方がいい。絶対にいい。

これまで私は、「どうしてこの程度の問題で、こんなにガタつかなければならないのか」と不思議に思っていたが、今、ようやくわかった。大きな化学反応をもたらすための、可能な限り無害な触媒という役割を、郵政民営化問題というのは、歴史の中で果たしているわけだな。

景気が回復しかかっているこの大切な時期に、政治的空白が生じることを懸念する声があるが、大丈夫大丈夫。政治が余計なことをしないだけ、ずっとマシだと思えばいい。それに、「空白」というほど、これまでがきっちりと充実していたわけでもあるまいし。

一度、民主党が政権についてみるのもいいかもしれない。そうすれば、政府と官僚の間にちょうどいい隙間ができて、ようやくまともな行政ができるようになるかもしれないし。

それに、自民党が分裂すれば、公明党以外にもキャスティング・ボートを握る政党ができることになる。時として、単純に多数派になるより強みが発揮できる 「キャスティング・ボートの独占」という状態の崩れるのは、長期的にはいいことだ。

政治改革を掲げた平成 3年の海部内閣は、追いつめられた時に「重大な決意」なんてことを言って、解散をちらつかせながら、結局はそれを実行できずに憤死した。

今は、当時のよう 「派閥の圧力」なんてものがないとはいいながら、やはり、「変人以上」の首相でなかったら、これほどまでの「先はどうなろうが、わしゃ、知らん」的な状況は作り出せなかったかもしれない。

時々、ちょっとした奇人変人が現れてくれないと、硬直した歴史は動かない。ここまで来たからには、下手に丸く収めようなんてことは、してくれない方がいい。

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2005年8月 8日

夫婦間の理解不能な言葉のやりとり

ドイツの外国語辞書の出版会社がこのほど、男女間のコミュニケーションをより円滑なものにするための辞書を発売した(参照)。

カップルでの買い物の時、男性が「それ似合わないよ」と言うのは、「高すぎる」という意味、「それ買いなよ」は、「もう帰りたい」という催促、などと紹介しているという。

出版元のランゲンシャイト社によると、男性は日常生活で、女性の半分程度しか言葉を発しないのだそうだ。このため、男女間の理解が困難になりがちなのだというのである。

この辞書では、「太って、醜くなっても、愛してくれる?」や「どうして私を好きなの?」、「今、何考えているの」などという質問は、決して男性にしてはならないと主張している。これらの質問は男性にとっては、理解不可能だからだ。

なんとなくわかるような気がする。幸いにして、私の妻はこんな意味のない質問を発しない。

しかしさらに言えば、私にとって理解不能な質問に、「夕食、何を食べたい?」というものがある。

「何を食べたい?」と聞かれると、あまたある食べ物の中から、何か一つを選択しなければならない。それだけでも気の遠くなるような作業なのに、その選択結果が、何らかの説得力をもつものでなければならないと考えてしまうのだ。勘弁してもらいたい。

そんな膨大な選択をするのは手に余るので、「何でもいいよ」と答える。すると、妻はダメ押しをしてくる。「本当に何か食べたいものないの?」

気持ちはよくわかる。亭主の食べたいものを料理してあげようというのである。ありがたい情愛である。もったいないほどのことである。しかし、その選択をこちらに投げられると、私としてはあまりにも負担なのである。

第一、私は今冷蔵庫にどんなものが入っているかも把握していない。私が場違いなものを食べたいなどと口走ったら、今現在、冷蔵庫にある食材の使い道がなくなって食べ頃を逸し、さらに、妻は改めて買い物に行かなければならなくなるかもしれないではないか。そんな無駄は避けたい。

結局、私のリクエストはいつでも同じことになる。「今、冷蔵庫にあるもので、適当にお願い」

しかし、妻は追及の手を緩めない。「いろいろ入ってるから、何でもできるわよ」

ああ、死ぬほど面倒なことになってきた。「じゃあ、もうすぐ賞味期限の切れそうなものから、適当に組み合わせてみて」

この返事以外に、どんな有効な選択肢があるというのだ。私には到底思いつかない。

すると、妻にはその答えが非常につまらなく、味気ないものに思えるらしい。せっかく腕によりをかけて料理してあげようという気になっているのに、夫は、なんと艶消しなことを口走るのだ。あまりにも情愛に欠けるのではないか。

とんでもない。私は妻を愛しているのである。だからこそ、ことさらに注文なんかつけない。出されたものは、どんなものでもありがたく受け入れ、おいしくいただく準備は、いつでも 120%できているのである。

これ以上の愛情表現がどこにあるというのだ。

しかし、それが妻には理解不能であることも、私はきちんと理解している。それだからこそ、「夕食、何を食べたい?」などという、私にとって理解不能な、途方もない質問は、どうか避けてもらいたいと願うのである。

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2005年8月 7日

甲子園の黙祷

原爆投下 60年目の昨日、甲子園の高校野球開会式前、高陽東(広島)の選手が原爆投下時刻に合わせて全代表校の選手に黙祷(もくとう)を呼びかけたいとの申し出にからんで、ゴタゴタがあったようだ。(参照

高野連が「原爆は広島だけのこと」と言った、言わないなどの情報も乱れ飛んだ。

これに関して、東京弁護士会の落合洋司氏が、自身のブログでいきり立っている(参照)。ただ。落合氏のいきり立ちの原因となった毎日新聞のニュース・ログへのリンクをクリックしても、「記事がありません、既に削除された可能性があります」と表示されるので、裏で何らかのかけひきがあったものと推察するに十分な状況だ。

それに、落合氏のいきり立ち方が、とてもステロタイプな決め付けに満ち満ちているので、私としては何となく「アンビバレンツェ」なんていう言葉を何年ぶりかで使いたくなるような、複雑な気分になった。(以下引用)

こういう愚かな人間は、世界中で何が起きても、どんな悲惨なことが起きて大勢が苦しんでいても、自分たちさえ野球ができれば満足なのでしょう。

(中略)

日本の戦後60年が、こういった人間を生んでしまったことを、我々は深刻な問題として受け止めるべきだと思います。

同じいきり立つにしても、もう少し自分の言葉でいきり立ってもらいたいなあと、一言だけ言わせていただこう。

毎日新聞の記事がチョンボだったのか、本当に高野連が「原爆は広島だけのこと」と言わなかったのか、それは今となっては誰にもわからない。それでも、この間に、何らかのぐちゃぐちゃした思惑がはたらいたということは事実だろう。

そして、朝日新聞の「ごめんなさい、すべて、ウチの言葉足らずがいけなかったのよ」的な、例の NHK とのバトルにおける態度とはうって変わったしおらしさにも、ものすごく嫌らしい政治的判断の臭いを感じる。

高野連って、NHK よりずっと強いのだなと思うのである。「"あぁ言えばこう言う" 的な文科系エラソーより、"問答無用" 的体育会系エラソー」の方が、この国ではずっと強いのだということが露呈されてしまった。

原爆犠牲者を悼むというごく当然の心根が、こんなことに埋没してしまうのは、とても悲しい気がしてしまうのである。

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2005年8月 6日

ヤバヤバ弁証法

先月末、かの有名な「言戯」というブログの「ヤバイは案外楽しいかも」という記事にコメントを付けたのを思い出した。

最近、「ヤバイ」の新用法として「素晴らしい」とか 「メチャクチャおいしい」とかの意味で用いられることが、とくに若い連中の間で目立っている。このことに関する考察だ。

私はこの記事に対し、「この用法、十分に『あり』だと思います」 とコメントした。その根拠を、ここでより詳しく書いておこう。

「ヤバイ」の新用法に関連して、私は、他人に物を贈る際の「つまらないものですが・・・」という言い方を想起する。

多くの外国人及び単純外国かぶれの日本人は、「世の中に『つまらないもの』をもらって喜ぶ者などあるだろうか。日本人は謙遜にもほどがある」などと、極めて短絡的なことをいう。

しかし、新渡戸稲造の『武士道』にも書かれてあるように、本来これは、「あなたのような立派な方には、どんな高価な物もふさわしくない。だから、この品物の価値ではなく、私の心のしるしとして受け取って頂きたい」という言外の意味をもつ。日本人は、"モノ" より  "人" の方を尊ぶのである。

「やばい」は、このシチュエーションとは逆で、「俺みたいな者には釣り合わない。危険なほど素晴らしすぎるぜ!」という意味合いになると考えられる。この「均衡/不均衡感覚」は、ある意味、日本語の伝統的なコンセプトではなかろうか。

上記のコメントには書きそびれたが、もうひとつ、名古屋弁の「いかんわ」という言い回しも連想された。

名古屋弁では、「とても美味しい」という場合、「どえりゃー うみゃーて いかんわ」などと言ったりする。これを極めると「でら みゃーてかんわ」になるらしいのだが。

上田君の名古屋分析」 というページには、次のように説明されている。

「でら、おもしろくていかんわ」

「でら」=「非常に」
「いかんわ」: 本当にダメなわけではない。とてもいいとゆうこと。訳すと、「ものごっつおもしろい」となる。

この「いかんわ」という言葉のニュアンスは、「ヤバイ」の新用法と共通する点がある。もともとは否定的な意味を持ちながら、それを逆転させて、とても肯定的なニュアンスで用いているのである。

これも、ある種の「不均衡」感覚から発せられる言葉だと考えられる。通り一遍のレベルを越えた非日常的なまでの素晴らしさは、それまでの日常的な均衡を破り、一時的な不均衡感覚をもたらす。それ故に、「ヤバイ」 「いかんわ」と感じられるのだ。

ちなみに、「言戯」管理人、寿(とし)さんの相方(彼女)さんは、かなり強い名古屋弁の影響下にあるらしい(参照)。それゆえに、「ヤバイ」 「いかんわ」感覚は、既にかなり身近なものとなっているのではあるまいか。

「やばさ」を乗り越えてこそ、人は成長し、新しい均衡を得るのだろう。いい意味にしろ悪い意味にしろ、「ヤバイ」経験を豊富に積んだ人には、奥行きというものがある。

私はこれを「ヤバヤバ弁証法」と名付けたいと思うのである。

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2005年8月 5日

ブログの寿命

Rtmrさんが書いておられたので知ったのだが、ブログの平均寿命というのは、38.2日なのだそうだ(参照)。セミの5倍半程度だ。

リンク先のタイトルは「ブロガーの平均寿命」になっているが、これはちょっと正確さにかける表現だろう。生まれてから 38.2日では、ブロガーになることすらできない。

あまたのブログの最初の ping から、最後の ping までを寿命とみたて、平均値を出すと、38.2日なのだそうだ。ちなみに、寿命が 1秒以上のブログの平均寿命は 60.8日、中間値が 5.2日。

もっとも、生存中のブログも、集計時点までを生存期間と見なしているため、実際はもっと長くなる可能性が高いという。つまり、上記の数字は、集計時点で一度全ブログが「死んだ」という設定になっているわけだ。ちょっと無理矢理な話ではある。

3日以内で昇天するのは、47%だそうだ。要するに、3日目までに大病にかかる可能性が高く、半分はそこで死んでしまうが、それを持ちこたえて全快すれば、2か月以上は生き延びる可能性が高いということだろう。

ものすごく衛生・医療事情が悪くて嬰児死亡率が極端に高い国の平均寿命みたいな話だ。

私の「今日の一撃」なんか、ココログで 1年以上続けているし、ココログに移行する前からの分を含めれば、3年半近くになる。この世界で 3年半といえば、もうほとんど「永遠」である。三日坊主との落差は、かなり激しいのである。

ただ、同一人物が長寿と短命の両方を演じていることが多いのではないかと、私は見ている。

私自身、何ヶ月か前に、画像容量の大きいことに惹かれ、Goo ブログを一つ作成したことがある。しかし、操作の不安定さに音を上げて、半日で解約した。これで、図らずも平均寿命を少々下げてしまったわけだ。

こんな例は案外多いかもしれない。最初に作成したブログのサービスがなんとなく性に合わなくて、3日後に別のブログに乗り換えたとしたら、平均寿命は下がる。しかし、乗り換えた先のブログで ずっと続けたとしたら、今度は平均寿命の伸びに貢献する。

38.2日という平均値には、あまり意味がないようだ。要は、三日坊主も多いが、地道に続けているブロガーも多いということでしかない。

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2005年8月 4日

そばのニューウェーブ

雑誌「男の隠れ家」9月号が、そばの特集をしている。この手の雑誌のそば特集は、秋口がお約束みたいになっていたが、今回は、一番乗りを狙ったか。

この特集、定番の、並木の藪とか、神田のまつやとかは出てこない。いわゆるニューウェーブのそば屋に焦点が当てられている。

そば好きの私だが、このニューウェーブのそば屋というのは、実は案外疎い。どこからどこまでが「ニューウェーブ」なのかということも、定かではない。私が時々食べているあの店も、この店も、もしかしたら、ニューウエーブなのかもしれないし。

山形県で生まれた者は、大抵がそば好きなのだが、私の父は「そばはあまり好きじゃない」という。寺の生まれの父は、子どもの頃、近所のオバサンたちが集まる「念仏講」で振る舞われる手打ちの田舎そばを食わせられた。それで、そばが苦手になったという。

「つなぎの入らない、太くてモソモソしたヤツを食わせられたからなあ」というのだが、同じものを食わせられた父の兄弟姉妹は、そば好きなのだから、それは理由にならないだろう。

その父も、たまにうまいと思うそばがあるらしい。よく聞いてみると、粗挽きで香りの高いそば粉を使って、細打ちにし、きりっとした辛めの汁で食うのであれば、大丈夫のようなのだ。そばが嫌いな割には、かなり贅沢なことを言う。

それは、この雑誌の特集で、「食べ歩きの達人」として紹介されている大野祺郎氏のおっしゃるところの「ニューウェーブ蕎麦屋の最新キーワードは、『粗挽き』と『手挽き』。粗いそば粉ならば十割でなくても美味しい」というトーンに通じる。

へぇ、うちの親父、図らずも、ニューウェーブだったのか。

私もあちこちでそばを食うが、細かく挽いたそば粉を使ってきっちりとした打ち方をする一茶庵系のそば屋が台頭している中で、どちらかというと、少々「やんちゃ」な趣のあるそばの方が好きだ。そのあたり、山形の田舎そばの系譜を引いている。

人間の舌で味を感覚する味蕾は、50歳を超えると、20代の頃の半分もなくなるのだという。つまり、歳をとると味がどんどんわからなくなるのだ。我々は、実際のところは「昔の記憶」でものを食っているのである。

子どもの頃から馴染んだ食べ物が一番旨いというのは、実はそういうことなのではないかと思っている。

うちの親父は、そのあたりでもやはりちょっと変わっている。

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2005年8月 3日

段落の表記

Rtmr さんが、「段落」について論じておられる。「段落初行一字アキ」原則を守った表記が、ネット上では少数派になっていることについてだ(参照)。

私も、ご覧の通り、行頭を一字下げるなどという原則はすっかり無視してしまっている。これにはいろいろな要素が絡まっている。

手っ取り早く言ってしまえば、Rtmr さんが次のように書かれていることに、私も全面的に同意する。

空行をはさまずに段落を連ねたり、意味段落と形式段落の使い分けにこだわるのであれば、字下げをするしかないだろう。だがそうでなければ、どちらでもよいのではあるまいか。そこに段落が存在することが分かればよいのである。

そもそも、日本語の文章にはもともと段落ごとに行頭を一字下げるなんていう風習はなかった。古文書を見れば一目瞭然。グニャグニャの草書体と変体仮名で、字の大きさだってテキトーなものである。

あんなものをよく読めたものだと思うのは、活字文化に慣れた近代以降の人間の感覚で、江戸時代の人間からは、現代の活字は味も素っ気もないつまらないものに見えるだろう。

段落ごとに行頭を下げるのは、多分ヨーロッパ言語圏における表記習慣の影響だと思う。私も、英語で文章を書く必要があった頃の初期には、段落を変えるごとにタイプライターのスペースキーをダダダっと 5回ほど打って、行頭を下げていた。

ところがある時期から、手元に廻ってくる英語の文書に、行頭を下げないものが目立って増え始めた。その代わり、段落を変える場合は、1行分空けてある。このスタイルの文書を初めて受け取ったとき、私は、「これは読みやすい!」と感激したのを覚えている。

英語というのは、今や英語を母国語とする国民だけの言語ではない。事実上、世界共通語である。その世界共通語を、ネイティブ・スピーカーでない人間にも読ませるには、見た目の「読みやすさ」、もっと言えば、「読み取りやすさ」 が求められる。

段落ごとに 1行空けるという表記は、「読み取りやすさ」を大幅に向上させる。そして、1行開けることで段落が明確になるのだから、わざわざ行頭で字下げをする意味合いはなくなったというわけだ。行頭がでこぼこするより、揃っている方が見た目にもきれいだし。

さらに、インターネットの時代になると、段落ごとに 1行開けることの意味合いはますます大きくなった。PC のディスプレイに表示される文章というのは、紙に印刷されたものと比べて、明らかに読みづらい。ネイティブでも、エイリアンに近くなってしまう。

だから、今や 1行空きの段落は、インターネットのデフォルトとみていい。他のソフトではどうだか知らないが、私の使っている Dreamweaver では、改行キーを押すと、自動的に <p> と </p> でくくられて、1行空きの段落として表示される。

インターネットのユーザビリティを論じたサイトの多くでは、段落は 5行以上続けると、とたんに読みづらくなるとされている。私は 5行でも長すぎると思っていて、自分のサイトでは、できるだけ 3行ごとに改行して、1行開けることを心がけている。

これは、意味段落だの形式段落だのという問題ではなく、単に「読み取りやすさ」の問題である。

多分、同じ文章を紙に印刷するとしたら、段落はかなり修正しなければならないだろう。そして、当然にも、段落ごとに 1行開けたりはしない。そのかわり、行頭を 1字下げる。インターネットと同じ表記にしたら、かなり紙の無駄遣いになる。

最近の通俗マーケティングでメシを食っている先生の中には、1行程度で段落を変えながら、理屈ではなくリズムでたたみかけるというスタイルも、かなり多く見受けられる。これなんかは、あんまり行きすぎだと思ってしまうのだが。

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2005年8月 2日

京都旅情

今月の中頃、京都に出張することになった。仕事そのものは半日で済むので、日帰りで十分なのだが、何しろ相手は京都である。半日で帰るというのは、いかにも惜しい。

昨年の夏も、京都に日帰り出張したのだが、夕方の新幹線のホームで、なんとなくもったいない気がしたのを覚えている。

中学校あたりから、あちこちほっつき歩くのが好きだったが、本格的な一人旅をしたのは、高校 3年の夏休みに京都に行ったのが最初である。

その旅は、大学進学を控えて、東京の大学というものを直接見てみるのもいいだろうということで、親が旅費を出してくれたのである。宿泊は、東京在住の親戚宅 3軒に順番に泊まった。

この時に親が旅費を出してくれたのは、東京の往復までである。しかし、私は帰郷予定の日に、何の気まぐれか、上野駅から酒田に向かう特急の切符をキャンセルして、東京駅から京都に向かう新幹線に飛び乗ってしまったのである。

何しろ金はないから、まともな旅館やホテルには泊まれない。最初の夜はドヤ街の簡易宿泊所(一泊 420円ぐらいだったかなあ)に泊まったが、それももったいない気がして、2泊目は同志社大学だったかの学生寮に泊めてもらった。

今はどうだか知らないが、当時、大学の学生寮は、夏休みの間ガラガラになるので、貧乏学生を泊めてくれたのである。しかし、学生運動活動家が青臭い議論をふっかけてくるうっとうしさに耐える必要があった。

それで、3日目の夜は京都駅ででごろ寝し、翌朝、鈍行列車を何本か乗り継ぎ、24時間以上かけて家に着いた。さすが若さである。ちっとも疲れなかった。ただ、帰ってから、せっかく京都まで行ったのに、どうして大阪で開かれていた万博に行かなかったのだと、周り中に言われた。

70年の大阪万博は大変な反響で、連日大入りが報道されていたのである。しかし当時の私は、そんな官製イベントなんて無視するのが 「カッコイイ」 ことだと信じて疑わなかったのである。

大学時代にも何度か京都に行ったが、まともなホテルや旅館に泊まったことはない。何しろ、新幹線にすら乗らなかった。鈍行列車の乗り継ぎか、ヒッチハイクである。行く度に何らかの出会いがあって、泊まる場所はなんとかなった。いい時代だった。

思えばあれから 35年、仕事では何度も京都に行ったが、その度に時間に追われ、街をゆっくり歩いたことがない。今度の出張では、仕事を終えたらどこかに一泊して、翌日はゆっくり一日かけて京都の街を歩いてみるのもいいような気がしている。予定の調整がうまくいくといいのだが。

ただ、京都の夏は暑いだろうなあ。

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2005年8月 1日

街の洋品店は、本当はよく潰れてる

私は見たことがないのだが、「世界一受けたい授業」というテレビ番組があるらしく、その番組で今年の 5月頃『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』の著者・山田真哉氏が、講師として登場したらしい。

その中で彼は、「街の洋品店はなぜ潰れないのか?」という質問にも答えたという。

いつ見ても誰一人として客の入っていないような街の洋品店が潰れないのはなぜかという質問に、「彼らは地元の金持ち夫人を相手にしたダイレクトセールスで生計を立てているのです。つまりは外商ですね」というような答え方をしていたらしい。(詳細は、こちらのブログ

彼らは街のお金持ちマダムを固定客としてがっちりと抱えており、いわば「ソフトな押しつけ販売」をしているというのである。そういえば、私の母なんかも、たいしてお金持ちというわけでもないのに、お友達のブティックのおばさんが持ってくる洋服を、言われるままに毎シーズン買っていた。

その代わり、そのブティックのおばさんもうちの実家の商売物をしょっちゅう買っていた。「そんなことなら、毎月の売った買ったの差額だけ、月末にどちらかが請求すればいいんじゃないの?」と言ったことがある。多分、1万円以内の請求額で済むだろう。

しかし、すべての洋品店がそうして商売を維持しているわけではない。

これは、kumi, the Partygirl のブログのコメントにも書いたのだが、自分のブログでもきっちりと書かせて頂こう。

街の洋品店は、実はよく潰れる。本当によく潰れる。この方面に特化した資料は経済産業省にもないので、だれも正確にはわからないが、実感としては多分、毎年全体の 2割以上の店が潰れている。私は以前、アパレル関係の団体に勤務していたので、その辺は詳しいのだ。

昭和 40年代のアパレル発展期に開店した街の洋品店のオーナーの多くは、既に 60歳を越え、70歳に近づいた。このあたりの店は今、バタバタと店を閉めている。ただでさえ物が売れない時代なのだから。息子や娘が後を継ぐというのは稀だ。

ところが世の中には、頭は悪いけどお金と暇だけは余ってるというオバサンがいくらでもいて、「あたくしも、ブティック経営なんかしてみたいわぁ」というおばかな夢を持っていたりする。

アパレル団体に勤務してた時、「あたくし、子どもの手も離れたので、昔からの夢の、ブティックを開きたいんですけど、さしあたり商品はどこから仕入れたらよろしいんですの?」なんて、ノー天気な問合せ電話が、しょっちゅうあった。

普通の感覚なら、「どこから仕入れたらいいかも知らずに、よく商売始める気になるなぁ」と思うところだが、何しろ「ファッション」のお話である。そんな生臭いことより、夢の方がずっと大切ということのようだ。

「あたくし、世の中の流行よりも、自分のセンスで本当にいいと思ったお洋服だけを取りそろえて、自分の好きな人たちに売りたいと思ってるんですの」なんてことを、いともあっさりと言う。「武士の商法」も真っ青なのが、「ファッション・オバサンの商法」だ。

こうした金持ちのオバサンの好きそうな一流ブランドは、昨日や今日オープンしたばかりの店になんか、絶対に品物を卸さない。だから本当に気に入った商品を仕入れるには、自分の足で探し廻らなければならない。電話一本で済まそうなんて、了見違いも甚だしい。

こちらとしては「失っても諦めのつくお金がどっさりあるのでなければ、止めときなさい」というような意味の返事を、失礼のないように遠回しに言うのだが、ほぼ 100%のケースで、こちらの真意は通じなかった。

というわけでこの市場の実体は、頭の悪い小金持ちのおばさんが次から次に参入して、次から次に挫折し、撤退していくのである。撤退しないまでも、赤字をこきながら見栄と体裁で続けていたりする。

このようにして、亭主、あるいはどこやらの「悪いパパ」の稼いだ尋常ならざる額の金の一部は、世間に還元されるのである。世間に還元されるならまだいい。多くの場合は、仕入れ先のアパレル・メーカーへの支払いが滞ってしまうので、メーカーは大迷惑なのである。

店は潰れても別のオーナーが引き継いだりするので、潰れたとは気付かれない場合も多い。よく見ると、店の名前が変わっていたりする。

この分野では「おしゃれの店 絵留座」とか 「モード 真美衣奈」とか、「族」上がりかと思うような名前の多いのも大きな特徴だ。(これらの名前は思いつきで挙げただけで、同じ名前の店があったとしても、他意はないので、そのあたり夜露死苦)

いずれにしても、全体としては街の洋品店は急激に減少しつつあるのである。これで、こちらのブログ の管理人さんの疑問にも答えられたと思う。

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