「ケータイ短歌」 を初めて聞いた
先週の土曜日の夜、妻が例によって NHK ラジオを聞いている。私も耳を傾けてみると、何やら芝居の台詞めいたことを言っている。
「あれ、これ、ミソヒト文字になっちゃってるよ」 と言うと、「当たり前よ、短歌だもの」と言う。それで、これがかの有名な 「土曜の夜はケータイ短歌」 という番組だと気付いた。
その時聞いたのは、こんな歌である。
東京の色に染まった君と会い 止めた煙草に 火をつけていた (山口 コウ)
最初は、短歌とは気付かなかった。単にフツーの口語的言い回しが、たまたま 「五七五七七」 になっているのが面白いという気がしたのだ。
「短歌でもないのに、短歌じゃん、面白いじゃん」
そう思ったら、実は 「短歌でもないのに」 どころではない、もろに短歌として作られた作品だったのだ。山口コウさんには、大変失礼なことを思ってしまったわけだ。
このときは、「煙草を止めていた」のが「自分」なのか「君」なのか、ラジオの中でちょっと議論になって、ふかわりょうが、「東京の色に染まった『君』が煙草を吸っていたんじゃないの?」なんて、ピンぼけなことを言っていた。
この番組、聞いてると、同じような芸風の歌がぞろぞろ出てくる。ふむふむ、これが最近の歌風なのかと、納得した。
私もつたないながらネット歌人みたいなことをやっている(参照) のだが、芸風は「ケータイ短歌風」に比べると、まるでジジ臭い。何しろ、文語体で旧仮名遣いである。自分でも「短歌じゃなくて和歌」なんて言ってるのだから、しょうがない。似て非なるものである。
ケータイ短歌は、なんとなく、洋服のコットン生地で作った浴衣みたいな趣がある。形のデザインは伝統的な短歌だが、素材も柄も今風だ。それはそれで面白い。でも、なんとなく飽きそうだ。
私は昔の反物みたいな歌を詠んでみたいと思っている。それを昭和生まれで平成の御代にネットなんぞをやっている自分が現代風に着てしまうのだ。何しろ、横書きだし。
このアンビバレンツェが、私の歌の存在価値みたいなものである。
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