性差と家庭
"「男らしさ」「女らしさ」にも、もっと多様性があっていい" ・・・ うぅむ、何だか素敵に感じてしまったじゃないか。
昨日の一撃、「性差と個人差」に、そういったトーンのコメントを寄せていただいた。気持ちは本当によくわかる。しかし、本当に多様化してしまったら、「らしさ」の意味がなくなる。
「○○らしさ」 というのは、ある一定の傾向を表すのだから、そこに多様性を求めてしまったら、元の言葉自体を裏切ってしまって、矛盾に陥る。多様じゃないから 「らしさ」 なのである。
鈴木清順監督の 「けんかえれじぃ」 に、高橋英樹が校長室だったかに呼び出されると、そこに大きな額が飾ってあり、仰々しく 「羅志久」 と大書してあるという場面がある (漢字はこれでよかったかなあ、間違ってたらごめんなさい)。
その学校の理想とするところは、「男は男らしく、女は女らしく」 ということなのだそうだ。そのあまりの権威的なステロタイプの滑稽さに、観客は笑ってしまうところなのである。そう、笑ってしまえばいいのである。そんなもの。
しかし、世の中にはやはり、笑い事ではない男女の区別というものがあるのである。私は今年 6月始めに "花田家の 「ねじ曲がり」" というコラムで、以下のように述べている。
誤解を恐れずに言ってしまうが、「変な家族」 のほとんどは、大人しく忍耐強い旦那と、我の強い仕切りたがりのかみさんの間に、妙に真面目な息子がいるというケースである。
本当に本当に、誤解を恐れずに重ねて言ってしまうが、世の中の家庭というものは、やっぱり、旦那の方がほんのちょっとだけえらそうにしている方が、あるいは(本当のところは)、させてもらっている方が、安泰のようなのである。
夫婦という単位で考えれば、それはどっちが主導権握ろうが、全然構わない。しかし、そこに子どもという存在が加わる「家庭」という視点では、かみさんが強すぎるとろくなことがない。
これは経験知で知ったことである。横暴な亭主というのは、それはそれで困ったことだが、まだコトは単純だ。第三者の力で、その横暴な亭主をぶっ飛ばして、ぎゃふんと言わせればいいだけである。
しかし、かみさんが仕切りたがりで、亭主が尻に敷かれっぱなしの家というのは、なかなか手に負えない。仕切りたがりのかみさんは、なかなか降参しないし、その分、子どもにかかるストレスは大変なものである。気の毒なのは、「妙に生真面目な息子」である。
私は、妙に権威的な「男らしさ」とか「女らしさ」とかを押しつけようという気は毛頭ない。毛頭ないけれども、結果が物語る場合は、その結果は雄弁である。
聖書に、イエスが「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」(ルカ 6:43) と言われたとあるのは、とても示唆的である。
健康オタクというジョークがある。例の「健康のためなら、命も惜しくない」というやつだ。私は「性差解消のためなら、家庭の幸せも惜しくない」とは、とても言えないというだけのことである。
まあ、性差解消にこだわりたいなら、家庭を持たないという選択もあるということだが、私は「持つな」と言っているわけでもない。何度も言うけれども、このことで押しつけをしようという気は毛頭ない。
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