禅問答というもの ―「趙州勘婆」
昔から「禅問答」というのは、わけのわからないことの代表みたいに言われている。
なまじ素養があったりすると、それにこだわっちまってますます深みにはまる。だから悟り薄き衆生としては、下手に深みにはまらないように、初めから「さっぱりわからん」と匙を投げて、敬して遠ざけていたのである。
無門慧開という宋の時代の偉い坊さんがまとめた「無門関」という禅の公案集の第三十一則に 「趙州勘婆」 というのがある。こんな話である。
昔、一人の僧が五台山の麓の分かれ道まで来て、そこの茶屋の婆さんに道を聞く。しかし婆さん、無愛想に「驀直去」(まっすぐお行きな)と答えるのみである。
禅僧というのは、なまじ素養があるから、この " 「驀直去」 (まっすぐお行きな)" にひっかかり、「むむ、この婆さん、俺を試そうとしているな」なんて思って、おたおたしてしまう。
何度聞いても「真っ直ぐお行きな」としか言ってもらえないので、仕方なく、どっちかの道に恐る恐る歩を進める。すると、その婆さん、後ろから「可愛いぼんさんだねぇ、また同じような格好して行くわい」と嘲笑うのだった。
そんなことが繰り返されるので、この婆さん、ただの茶屋の婆さんじゃないぞという噂になってしまった。「もしかしたら、わしらよりずっと深い悟りを得た婆さんかもしれん」 というわけだ。
どう見てもどっちかに行くしかないところを 「真っ直ぐ行け」 なんていうのは、いかにも禅問答によくある手で、そのどっちでもないところ、つまり「凡夫の道」ではない「仏の道」を発見するための、妙なる一撃になったりするわけである。
そんな噂を聞いて、その名も高い趙州和尚が、ちょっとこの婆さんの人物を見極めに行ったというのである。
趙州和尚が同じように五台山への道を聞くと、婆さん、いつものように無愛想に「驀直去」(まっすぐお行きな)と答える。趙州和尚が自然体でそのまま行きすぎると、やっぱりいつものように、後ろから「可愛いぼんさんだねぇ、また同じような格好して行くわい」と嘲笑った。
帰ってきた趙州和尚、「お前たち、あの婆さんを買いかぶり過ぎじゃ」てなことを言ったという。
フツーの一般人なら 「この婆さん、頭おかしいいんじゃねぇの?」で済んでしまうところを、ちょっと勉強して素養ができてしまったものだから、妙に深読みしてコッチンコッチンになってしまう僧が多かったのである。それで、ますます婆さんに馬鹿にされる。
ところが、趙州和尚のような、ひとかど以上の人物が出向いても、この婆さん、まったく同じような対応をして笑ってしまったのである。要するに、馬鹿の一つ覚えで、人を見る目がなかったわけだ。それで、今度は自分の方が見切られてしまったのである。
ありがたい仏の道も、なまじちょっと囓っただけだと、単なる馬鹿の一つ覚えにさえ手玉に取られる。しかし、世間知だけでうまく世渡りしていても、いざとなると、小賢しさだけが目立ってみっともない。
で、このお話、これだけでは済まない。この話を紹介した無門和尚は、「趙州和尚、それでチャンチャンてなことで済ませちゃったら、大人げなかろうよ」と批判的なことを言う。
同じやるなら、もう一歩踏み込んで、悩んでる坊さんも、件の婆さんも、酸いも甘いもかみ分けた大人の悟りで、両方とも救ってやったらどうだったんだというわけだ。
確かにそりゃそうだが、それが上手にできたら、誰も苦労はしない。大体において、この無門和尚、いつも後出しジャンケンみたいに偉そうな評をつけるばかりで、ずるいよ、なんて言ったら、怒られるかな。
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