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2005年10月に作成された投稿

2005年10月31日

学校のサイトが「無断リンク禁止」

学校というのは、新奇のものは何でも禁止にしたがるところであると、以前に書いた(滑稽で理不尽な校則)が、インターネットのリンクも当然のように禁止になるようだ。

スラッシュ・ドット・ジャパンに、「北九州市と仙台市が小中学校に無断リンク禁止の明示を義務付け」という記事が載っている。

インターネットのハイパーリンクは、著作権の侵害にあたるものではなく、自由であるというのが、現在の一般的な考え方である。だから、いくら「無断リンク禁止」を謳っても、その法的根拠はない。

私自身のサイトに関しては、フリーリンクを宣言している。言うまでもないことなのだが、妙に遠慮する人や、いちいちリンク許可を求めるメールをくれる人がいて面倒なので、念のために言っていることだ。それでもまだ、「リンクしてもいいですか?」 と聞いてくる人もいる。

そんなメールに、「どうぞご自由に」とのレスを書くのはうっとうしいが、「リンクしました」のメールにお礼のレスを書くのは、どちらかと言えばうれしいという、甚だ自分勝手なメンタリティがあることを、ちょっとだけ告白しておこう。

フリーリンクはインターネットの世界の常識だと思っている私だが、「無断リンク禁止」を謳うサイトに、無闇にトマホークをふるうようなことはしたくないと思っている。やたらにリンクされたくないという希望を持つ人がいても、決しておかしくはないからだ。

しかしながら、「無断リンク禁止」と書いたからといっても、それは「知らない人にリンクされるのは、あんまり好きじゃないなあ」という程度の「態度表明」に過ぎないと、その管理人自身も意識していてくれないと困る。

「無断リンク禁止」を表明したからといって、その禁止自体に具体的な実効性があるわけではなく、気分としての「歯止め」にすぎないからだ。

だから、学校のサイトが「無断リンク禁止」だの「リンクの際は校長の許可が必要」だのとやたらエラそうなことを言うと、私としてもややモヒカン族に共感してしまいそうになってしまうのである。

仙台市の某小学校のサイトの 「利用上の注意」には、以下のような記述がある。(ご希望に沿って、あえてリンクはしないものの、文言をそのまま引用するんで、学校名はバレバレで、それをもって引用元を明確にしていると考えていただきたい)

  • 大沢小学校ウエブページへのリンク設置について

大沢小学校ウエブページへのリンクを,許可なく設置することは一切お断りする。
リンクの設置を許可する場合の条件は下記のとおり。

当該ウエブページが,教育目的性・非営利性・公益性を有していること。
当該ウエブページに大沢小学校へのリンクを設置することにより,設置者や本校の児童,及び本校職員の個人情報が流出し,危害が及ぶ危険性がないこと。

もっとも、リンク許可条件に 「設置者や本校の児童,及び本校職員の個人情報が流出し,危害が及ぶ危険性がないこと」 とあるが、その一つ上の項目には次の記述がある。

  • 個人情報の保護について

児童及び保護者・関係者等の、氏名・性別・年齢・学年・学級等は掲載しない。 児童及び保護者・関係者等の、個人が判別・特定されるような顔写真等は掲載しない。

原則的なことを言えば、インターネットというのは誰でも簡単に閲覧できるものなのだから、たかだかリンクされたぐらいのことでリスクが生じるようなコンテンツは、掲載しないか、パスワードで保護するぐらいの防御策は講じるべきである。

その点で言えば、この某小学校が、自サイトに個人情報を掲載しないという判断は正しい。

しかし、元々個人情報を掲載しないサイトだったら、「設置者や本校の児童,及び本校職員の個人情報が流出し,危害が及ぶ危険性がないこと」 という条件を設定する必要はない。ナンセンスに陥ってしまう。

「私の映った写真は存在しません」と言っておいて、「私の写真の在処をばらさないでください」と言っているようなものだ。

もっとも、「無断リンク」禁止条項は、仙台市教育センターからの通達によって後追いでくっつけたものだろうから、元々の項目との整合性はおかしくなって当然かもしれないが。

教育の場の内幕というのは、こんな風にしてだんだんと矛盾に満ちたがんじがらめになり、まともな動きがとれなくなっていくものなんだろうと、お悔やみ申し上げる。

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2005年10月30日

「小股」は「足指の股」だけじゃない

29日の午後 8時過ぎから 9時にかけて、当サイトの "「小股ってどこか」よりも大切なこと" というページに、6秒半に 1ヒットという猛烈なアクセスが記録された。

世界一受けたい授業」という番組で、「小股とは、足の親指と人差し指の間」だと言っていたらしいのである。

しかし、日テレには申し訳ないが、この説は甚だ怪しいのだと指摘しておこう。上述した私のページをご覧いただければわかるが、私は「小股とは、足の親指と人差し指の間」というのは、「和装・足袋業界の専門用語に過ぎない」とする立場である。

確かに、足袋などの股を「小股」というらしい。しかし、それが唯一の「小股」というわけではない。「小股の切れ上がったいい女」という場合の「小股」とは、別のものと考える方が自然である。

相撲の決まり手の「小股すくい」が、決して足の親指と人差し指の間をすくうものではないと指摘するだけで、「小股」にもいろいろあるという証明には十分すぎるほどだろう。

素直に考えさえすればわかる。足の親指と人差し指の間の股は、普通に立っていれば横方向になるのだから、「切れ上がる」といういい方自体、トゥシューズはいてつま先立ちでもしない限り、違和感たっぷりである。普通に言ったら、「切れ込む」だろうよ。

百歩譲って「切れ上がる」を認めたとしても、足指の股が深いぐらいで、どうしてそれが「いい女」になるんだ。話が飛躍するにもほどがある。(このあたりのいかにもまわりくどい説に関しては、私の上述のページで論難してある)

「世界一受けたい授業」のスタッフも、TBS テレビの「あなた説明できますか?」のスタッフのように(参照)、私のサイトに来て調べてみればよかったのだ。

私は自分のページで、「小股の切れ上がったいい女」という場合の「小股」に関しては、「小耳にはさむ」とかいう場合と同様に、「体言挟みの係り」説を原則的に支持している。要するに、「股がちょっと切れ上がった」という意味だと解釈しているのである。

「小腹が空いた」という場合、決して体のどこかに「小腹」という部位があるわけではなく、「ちょっと腹が空いた」という意味であるのと同様だ。

しかし、それでも、「小股」 ってどこかというのを曖昧にして、ああでもないこうでもないと詮索するのも、なかなか広がりがあってオツなものだと、私は主張している。「足指の股」という業界用語のみにもっともらしく固執するのは、無粋の極みである。

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2005年10月29日

ブログのお値段

ululun さんのブログ 「煩悩是道場」 で、あちこちのブログのお値段を調べてくれている。

"Business opportunities" というサイトで、 "How Much Is My Blog Worth?" (私のブログの価値はいくら?) というサービスをしており、URL を入力するだけで、たちどころにドル建て値段を出してくれるのだ。




My blog is worth $5,645.40.
How much is your blog worth?



My blog is worth $2,258.16.
How much is your blog worth?

このブログには、右の上段に示したとおり、5,645ドル40セントという値段が付けられた。日本円にして、約 65万円だ。(28日の対ドルレート 115円 30銭で計算)

もう一つの風流道楽ブログ、"Wakalog" の方は、下段に示された通り、2,258ドル 16セント。日本円では約 26万円となる。

また、 「はてな」と「楽天広場」にそれぞれのリザーブ・ブログをもっているのだが、それらはさすがに、バックアップ用のリザーブだけあって、1セントの値もつかなかった。けっこうシビアである。さらに、ビジネス用のあまり更新していないブログの方は、564ドル 54セント、日本円で 約 6万 5000円だ。

そうか、私には、合計 100万円近くの含み資産があったのか。誰も買ってなんかくれないだろうけれど、気分だけでも、ほんのちょっとだけリッチになったような気がする。

それにしても、このブログの値段というのをどのようにして弾き出しているのかが、気になるところである。ululun さんが紹介してくれているあまたのブログをみても、まったく値段のつかないものから、100万ドル以上のものまで、千差万別だ。

"How Much Is My Blog Worth?" で言及されているのは、"Tristan Louis's research" (トリスタン・ルイスの調査) にインスパイアされたということである。まあ、インスパイアされたといっても、「のまねこ」とはわけが違う。あれは「インスパイヤ」というものをされたらしいから。

トリスタン・ルイスの調査なるページをみると、それはリンクポピュラリティのコンセプトをベースにした詳細なリサーチである。AOL が Weblogs Inc. を買収したときのコストをベースに、1リンクあたりの単価を類推し、それにテクノラティで割り出したそれぞれのブログの被リンク数をかけた数字が、ブログの値段として出されているようなのだ。

このあたりは、「絵文録ことのは」で詳細に翻訳紹介されているので、参照をお勧めする。

もっとも、単純に 1リンク当たりの単価 × 被リンク数 というだけではない気もする。そうだとすると、私の道楽ブログ wakalog なんて、リンクが極端に少ないのに、値段がつきすぎだ。もう少しだけ複雑な計算式があるのかもしれない。

もっとも、値段の計算結果があっという間に表示されるところをみると、それほど複雑な検証や計算をしているわけではないだろう。

余談だが、先に紹介した「絵文録ことのは」は、1億円以上の値段がついている。他人事ながら、税務署が目を付けて、この資産に課税するなんてことのないように祈りたい。

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[追記]

右側に貼り付けた値段の表示、タブでセンタリングを指定して、プレビューで見るとちゃんと中央に表示されるのに、ブログでみると、なぜか左寄せで表示されてしまう。どうなってるんだろう?

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2005年10月28日

レーザーラモン HG、痛々しくない無理芸

しまった! 更新する前に、ラムのオンザロックとカンパリと菊正の樽酒のチャンポンで、しこたま酔ってしまった。昨日の「無門関」ネタみたいな、ハイブロウなのを下世話に語るなんて芸当は、今日は到底無理だ。

てなわけで、今日は下世話ネタをハイブロウに語ろう。レーザーラモン HG ネタである。

巷では、レーザーラモン HG が、紅白歌合戦に出場するのではないかとの噂が飛び交っている。どうやら、紅白には「芸人枠」というのがあり、その年を代表するお笑い芸人が登場することになっているらしいのである。(参照

実は、私はレーザーラモン HG をかなり評価している。今月 1日の当コラム で、「細木数子センセイの前で自分の芸風を貫き通しただけ、実はレーザーラモン、案外大モノだったりするかも」と述べているほどである。

我が家の次女も、HG の隠れファンのようで、「HG には、ずっと売れ続けて欲しいよ」なんて言っている。

「あれのどこがいいんだよ?」と聞くと、「うーん、相当無理しても、痛々しくないところかな」と言う。なるほど、いいところを突いているかもしれない。

確かに、最近は無理してみせて痛々しさを売る芸人が多すぎる中で、 HG は無理の一歩手前で、ちょっとした余裕かましてさえいる。もっとも、腰振りすぎて、腰痛になっちまったそうだが。

レーザーラモン HG、もしかしてうまく転べば、日本に新しいタイプのトーク芸をもたらしてくれるかもしれない。

もう酔っぱらって眠くなったから、尻切れトンボだが、えーい、今日はこれでおしまい。

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2005年10月27日

禅問答というもの ―「趙州勘婆」

昔から「禅問答」というのは、わけのわからないことの代表みたいに言われている。

なまじ素養があったりすると、それにこだわっちまってますます深みにはまる。だから悟り薄き衆生としては、下手に深みにはまらないように、初めから「さっぱりわからん」と匙を投げて、敬して遠ざけていたのである。

無門慧開という宋の時代の偉い坊さんがまとめた「無門関」という禅の公案集の第三十一則に 「趙州勘婆」 というのがある。こんな話である。

昔、一人の僧が五台山の麓の分かれ道まで来て、そこの茶屋の婆さんに道を聞く。しかし婆さん、無愛想に「驀直去」(まっすぐお行きな)と答えるのみである。

禅僧というのは、なまじ素養があるから、この " 「驀直去」 (まっすぐお行きな)" にひっかかり、「むむ、この婆さん、俺を試そうとしているな」なんて思って、おたおたしてしまう。

何度聞いても「真っ直ぐお行きな」としか言ってもらえないので、仕方なく、どっちかの道に恐る恐る歩を進める。すると、その婆さん、後ろから「可愛いぼんさんだねぇ、また同じような格好して行くわい」と嘲笑うのだった。

そんなことが繰り返されるので、この婆さん、ただの茶屋の婆さんじゃないぞという噂になってしまった。「もしかしたら、わしらよりずっと深い悟りを得た婆さんかもしれん」 というわけだ。

どう見てもどっちかに行くしかないところを 「真っ直ぐ行け」 なんていうのは、いかにも禅問答によくある手で、そのどっちでもないところ、つまり「凡夫の道」ではない「仏の道」を発見するための、妙なる一撃になったりするわけである。

そんな噂を聞いて、その名も高い趙州和尚が、ちょっとこの婆さんの人物を見極めに行ったというのである。

趙州和尚が同じように五台山への道を聞くと、婆さん、いつものように無愛想に「驀直去」(まっすぐお行きな)と答える。趙州和尚が自然体でそのまま行きすぎると、やっぱりいつものように、後ろから「可愛いぼんさんだねぇ、また同じような格好して行くわい」と嘲笑った。

帰ってきた趙州和尚、「お前たち、あの婆さんを買いかぶり過ぎじゃ」てなことを言ったという。

フツーの一般人なら 「この婆さん、頭おかしいいんじゃねぇの?」で済んでしまうところを、ちょっと勉強して素養ができてしまったものだから、妙に深読みしてコッチンコッチンになってしまう僧が多かったのである。それで、ますます婆さんに馬鹿にされる。

ところが、趙州和尚のような、ひとかど以上の人物が出向いても、この婆さん、まったく同じような対応をして笑ってしまったのである。要するに、馬鹿の一つ覚えで、人を見る目がなかったわけだ。それで、今度は自分の方が見切られてしまったのである。

ありがたい仏の道も、なまじちょっと囓っただけだと、単なる馬鹿の一つ覚えにさえ手玉に取られる。しかし、世間知だけでうまく世渡りしていても、いざとなると、小賢しさだけが目立ってみっともない。

で、このお話、これだけでは済まない。この話を紹介した無門和尚は、「趙州和尚、それでチャンチャンてなことで済ませちゃったら、大人げなかろうよ」と批判的なことを言う。

同じやるなら、もう一歩踏み込んで、悩んでる坊さんも、件の婆さんも、酸いも甘いもかみ分けた大人の悟りで、両方とも救ってやったらどうだったんだというわけだ。

確かにそりゃそうだが、それが上手にできたら、誰も苦労はしない。大体において、この無門和尚、いつも後出しジャンケンみたいに偉そうな評をつけるばかりで、ずるいよ、なんて言ったら、怒られるかな。

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2005年10月26日

選挙って、「おもしろい」か?

朝日新聞の世論調査で、今回の総選挙を「おもしろかった」と答えた人が 52%で、「そうは思わない」の 39%を上回った。(詳細

 

「今回の総選挙はおもしろかったと思いますか?」なんて妙な設問を、あの朝日に思いつかせたほどなのだから、確かに今回の総選挙は「おもしろかった」のだろう。

私がこれまでは意識していなかっただけなのかもしれないが、大新聞の世論調査で、「選挙がおもしろかったかどうか」なんてことが聞かれた例しを知らないのである。

世の中には「三度の飯より選挙が好き」なんていう人も結構いて、とくに田舎では、選挙と聞くとアドレナリン出まくりになるオヤジもいるが、そもそも、これまでの選挙なんてものは、いわゆるフツーの人間には決して「おもしろい」というほどのものではなかった。

ところが、今回の総選挙では、「とりわけ20代では『おもしろかった』が男女とも 6割以上だった」というのだから、何かがとても大きく変わっていたのである。20歳代の若者というのは、これまで最も選挙にしらけていた層なのだから。

これについて、「若者が選挙に関心をもつようになったのはいいこと」と捉える向きもある。低投票率だと、組織票が実態以上の結果を生むという問題があるし。

しかし、朝日の報道はそれとは別の意図を持っているように思われる。(以下引用)

自民候補に投票したと答えた人は、メディアの選挙報道から「影響を受けた」と答えた比率が他党候補に投票した人より高く、一番参考にしたメディアとしてテレビを挙げる割合も高かった。与野党とも、世論を突き動かす「メディア選挙」の深化とともに、その怖さも感じ始めている。

(中略)

総選挙で一番参考にしたメディアは、「テレビ」が51%、「新聞」が40%、「インターネット」が4%だった。自民候補に投票した人では「テレビ」が56%と多く、「新聞」は39%。一方、民主候補に入れた人は「新聞」が48%、「テレビ」が44%と、対照的な結果となった。

自民党に投票した人は、テレビに踊らされた軽薄な人で、民主党に投票した人は、新聞で冷静に情報収集をした理知的な人というイメージを、言外に強調しているように思うのは、私だけかなあ。

このあたり、選挙中の「自民支持者は IQ が低くて、民主党支持者は高学歴」みたいなイメージ操作を、朝日が執念深くなぞっているような気がする。もっとも、そうした意識こそが、今回のような選挙にマッチしなかったわけなのだが。

とはいえ、「与野党とも、世論を突き動かす『メディア選挙』の深化とともに、その怖さも感じ始めている」というあたりは、確かにその通りなのだろう。イメージ戦略次第で、選挙結果が大きくぶれることになるのだ。

「若者が選挙に関心をもつようになったのはいいこと」なんて、単純に喜んでもいられない。単に雰囲気で投票する「浮動票」に選挙対策のフォーカスが移るのは当然だからだ。今後、選挙はますます「イメージ戦」になり、本質論はおざなりになる。

投票率が上がることだけを喜んで、「政治ショー」的な演出ばかりになってもいいというなら、「健康のためなら死んでもいい」というジョークと同じになってしまう。「投票しないヤツはガタガタ言うな」と割り切る方がまだましなような気がする。

「うちに 1票あり。売ろうか」と書いた故・山本夏彦氏は、女子供にまで選挙権はいらないと、フェミニストなら必ずいきり立つ警句を吐いておられた。

民主主義というのは、永遠に成熟しないどころか、下手するとすぐに堕落する制度なのだ。人間は案外堕落が好きだから、民主主義のコンセプトの中に、見えない「堕落」は既に包含されている。

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2005年10月25日

迷惑メール

ブラウザーは Firefox を使っていて、Outlook と Outlook Express の嫌いな私のメーラーは、もちろん Thunderbird である

このメーラーには、「迷惑メール」フォルダというのがついていて、スパムメールと判断されたものは、片端から自動的にこのフォルダに放り込まれることになっている。

もちろん、この処理を行うには「迷惑メールフィルタ」の機能を自分で設定しなければならないのだが、一度設定してしまえば、後はほぼ自動処理される。

この機能に気付くまで、私は毎日毎日、膨大なスパムメールと格闘していた。1回の受信でメールが 50通来ているとすると、そのうちの 30通から 40通はスパムなのである。それをいちいち手動で削除するのは本当にうっとうしい作業だった。

しかし、この「迷惑メールフィルタ」を設定してからというもの、かなり楽になった。

Thunderbird を立ち上げると、私のデフォルトのアカウントは自動的に新規受信メールを読みに行く。例えば、メールサーバには、50通の受信メールがあるらしく、それらが一挙にダウンロード中と表示される。

ほどなくして、すべてダウンロードし終え、当然にも 50通の未読メールがあると表示されるのだが、それはほんの一瞬で、次の瞬間には、未読メールは 20通とかに減っている。30通は、あっという間に指定した「迷惑メール」フォルダに強制移動させられたのだ。

残る 20通の未読メールにも、当然スパムは残っている。それを手動で迷惑メールと認識させると、次回には同じアドレスから送付されたスパムは、自動的に 「迷惑メール」 フォルダ行きになる。このフィルター機能は、常に「学ぶ」ことで不断に洗練されていく。

かくして、ふと気付くと、私の「迷惑メール」フォルダには、何百通というスパムが放り込まれているのである。改めてその中身を眺めてみると、それはもう圧巻と言うほかない。「迷惑メール」フォルダというより、「お笑いメール」フォルダといってもいいほどだ。

タイトルを見るだけで笑える。

「逆援のライオン」「30歳過ぎても・・・」「セレブの逆援交際」「ヨガり声がひびき渡る」「簡単に大金を稼いでください」「高額援助でも無理かな?(涙)」「女の子を飼いませんか?」「少ないですが、三万円なら」「電車の中でギリ×2 ○○○しませんか??」はては、「突然すみません。私の妻を犯して下さい」なんてのまである。

内容で最近目立つのは、「会員の○○子さんから、貴男が指名を受けました」なんてやつだ。以下はほんの一例である。

先ほど、お客様のアドに逆指名が入りました【ID:142573恵子】様。
このセレブ女性です。月逆◎OKとの事ですが、月2回のデート、エッチ有りをご希望されてます。

こっちから指名したこともないのに、どうして「逆指名」されなきゃいけないんだか、わからないのである。「月逆◎OK」というのも、意味不明である。

こんなのもある。

【指名者】
高瀬綾子
【プロフィール】
32歳・161cm48kg・87.59.87・年収5.000万・既婚
【コメント】
『1人セフレが居るんですけど殆んど会えないから貴方にお願いしました。
私とセフレの関係になってくれませんか?』

高瀬綾子さん、ほとんど会えないんなら、そりゃ 「セフレ」 じゃないでしょ。

「迷惑メールフィルタ」を使い始める前は、内容なんて読まずに片端から削除していたのだが、特別のフォルダに隔離してしまうと、逆にわざわざ読みに行って楽しんでいる私なのであった。

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2005年10月24日

「はに丸」で死にかけた話

「死ぬほど苦しい」という経験をしたことがあるだろうか? 20代から 30代にかけて、合気道をやっていた頃は、「口から心臓が飛び出しそう」というほどの猛稽古もしたが、決して「死ぬほど」ではなかった。

本当に「死ぬかと思った」のは、以前、「はに丸」を舞台で演じたときである。

「はに丸」をご存じだろうか? 昭和 58年から 63年まで、NHK 教育テレビで放送された子ども番組のキャラクターで、姿形は「埴輪」そのものだった。こんなのである(真ん中が「はに丸」)。

0510247

我が家の娘達がまだ幼稚園や小学校に通っていた頃、町の「子供劇場」というのに加入していた。毎月 1度、プロの劇団が巡業してきて、子供向けのお芝居を見せてくれるのである。

いつだったかは正確に覚えていないが、その月は、テレビでお馴染みの「はに丸」が町にやってくるというので、子供たちは前々から盛り上がっていた。しかし、そこにはある趣向があった。

「はに丸」を演じるのは、劇団員ではなく、地元のお父さんだというのである。そして、なぜか私に「はに丸役」の白羽の矢が立った。まあ、そこは芝居心がないわけじゃない私である。軽い気持ちで引き受けた。

子供劇場の本番当日、私は会場となる小学校の舞台裏で、劇団の担当者と挨拶を済ませた。「台詞はありませんし、とくに演技も要りません。舞台に立って、子供たちと一緒に、簡単なクイズの答えを指さしてくだされば結構です」という。なんだ、やる気満々の私には拍子抜けである。

さて、舞台が始まった。「はーい、よい子の皆さん、こんにちはぁ! 今日は、みんなの町に、はに丸くんがやってきたよぉ!」という声に、子供たちが無邪気に反応しているのが聞こえる。いよいよ、私も「はに丸」に変身である。

両手両脚は、それぞれが固いボール紙の筒である。それを肩から紐で吊って、ずり落ちないようにするのだ。両脚はギプスのようになって、膝がまったく曲がらない。ちょっと不安な感じだ。

さらにその上から胴体を着けると、腰もあまり曲がらなくなり、肩も固定されて、肘から先しか動かせなくなる。そして、最後に顔の部分をかぶる。

これをかぶると、「はに丸」の顔は私の胸の辺りにあるのだが、私自身の顔は、狭い 「兜」 の部分に辛うじて収まっている。視界は細い隙間で僅かに確保されているだけなので、足許すら見えない。ますます不安な感じだ。

その上、顔の周りの空間が狭く、ものすごく息苦しい。なるほど、これほどの不自由さでは、大した演技はできそうにない。テレビで見る本物とは違って、全体的にかなりいい加減な作りである。

劇団員はこれらをすべて私に着せ終わり、出のきっかけを再確認すると、「それじゃあ、よろしくおねがいしまぁす!」と言い残して、どこかに消えてしまった。私は不自由な「はに丸」姿のまま、一人取り残されてしまったのである。

まったくもう、ゲスト出演者に対する扱いじゃないなあ。ただでさえ不安な感じなのに。

だんだん出番が迫ってきた。私は狭くゴタゴタした体育用具室を通って、恐る恐る舞台袖に移動した。視界が狭いので、つまずかないように歩くだけで大変だ。一度転んだら、両膝が曲がらないので、起きあがる自信がない。本来なら、介添えが欲しいところだ。

用具室から舞台袖に上がるには、移動式の階段があったはずだ。しかし、狭い視界から必死に探しても、その階段がない。おいおい、誰が片づけてしまったんだよ!?

階段を一人で上ることすら不自由だろうと、ある程度の覚悟はしていたのである。それなのに、その階段もなしに、胸の高さの舞台に自力で上れというのか。これがゲスト出演者に対する仕打ちか?

この扮装は一度身に付けてしまうと、肘から先が動くだけなので、自分では頭の部分が脱げない。頭が脱げないと、他のすべてのパーツも脱げないという構造なのだ。もし何とか脱げたとしても、今度は自分で着られない。ということは、このままの姿でよじ登るしかない。

しかし、肘から先しか動かない両腕と、膝関節がまったく動かない両脚を使ってよじ登るというのは、とてつもなく辛い。しかも、常時酸欠状態なのである。

必死の思いでくらいつき、体を横にして、なんとか舞台上に転がり込むことができた。しかし、もはやこれまで。今度は、膝が曲がらないので立ち上がれないのである。横になったまま、小さな兜の中で呼吸困難になり、金魚のように口をパクパクさせてあえぐばかりなのだ。

うつろな意識の中で、出番がどんどん迫ってくることだけがわかる。ああ、こうしてはいられない。奇妙な埴輪の姿で立ち上がろうと、必死にもがく私。

何度もいうが、膝が曲がらないし、腕も肘から先しか動かせない。その上、呼吸困難の酸欠である。これで、立ち上がれというのは、元々が無茶である。ああ、頭がガンガンする。意識が遠のく。「はに丸」を演じるのが、こんなに超肉体労働だったとは知らなかった。

そこからどうして立ち上がれたのか、自分でもよく覚えていない。気付いてみると、私はびっしょりと冷や汗をかきながらも、辛うじて立ち上がっていた。奇跡だぜ! しかし、それはまさに出番ギリギリのタイミングだった。

「さぁ、みんなで、はに丸くんを呼ぼう!」 お兄さんの声が妙に遠くから聞こえる。ああ、お願いだ。まだ呼ぶな。やばいのだ。完全に酸欠状態で、あえいでもあえいでも、酸素がちっとも肺に入ってこない感じなのだ。もうちょっと時間をくれ。今動いたら、吐きそうだ。

しかし、舞台はこちらの気も知らず、容赦がない。お兄さんが「はに丸くーん!」と呼ぶと、今か今かと舞台を見つめる子供たちの声が、どっとばかりに押し寄せてきた。

「はぁにぃまぁるぅくーん!」

ああ、この無邪気な、しかし残酷な呼び声を、どうして裏切ることができようか。私はゼイゼイいいながら舞台に進み出たのである。心臓はバクバクだが、その鼓動はほとんど空しいあがきだ。神様、もっと酸素をください、酸素を!

舞台に登場すると、そのフラフラした歩きが、図らずも芝居っ気たっぷりに見えたらしい。子供達の歓声で、どっと受けたのがわかった。アホか、吉本新喜劇じゃあるまいし。しかし、受けてしまうと私は弱い。気が遠くなりながら、つい「ノリ」の虫が騒ぐ。

「はに丸くん、早くこっちにおいでよ!」お兄さんから声がかかる。

「無理言うな! こっちは死にそうなんじゃ!」

しかし、思いとは裏腹に、私は、体全体でうなずきながら、両手を振って客席に挨拶している自分自身に気付く。何なんだ、これは!

舞台の進行とともに、私の体はなぜか本能的に反応して、ウケを取ってしまう。朦朧とした頭でクイズに答え、「正解!」なんて言われると、精一杯のガッツポーズさえ決めてみせる。

悲しい。悲しすぎる。誰がそこまでしろと言った? 兜の中では、今にも吐きそうなのに。

ああ、テレビで無理難題を必死にこなすお笑い芸人の気持ちがわかる。切ないほどよくわかる。

しばらくすると、ようやく少しは息が整ってきた。しかしその頃には出番は終わりで、お兄さんが「はに丸くん、ありがとう。それじゃ、またね」なんて言っている。おいおい、もっと何かやらせろ!

「さあ、みんなで、はに丸くんにさよならを言おう!」 

何だ、死にそうなところを無理矢理呼び出しておいて、ようやく生き返って調子の出かかったところで、引っ込めと言うのか?

「さよぉならぁ!」元気な声に見送られて、私は渋々手を振りながら舞台の袖に戻った。そこには劇団員が二人も待っていて、降りるのを手伝ってくれた。お前ら、降りるときにいて、上るときに消えてたとは、見上げた了見だ。さては、ゲスト出演者を殺す気だったな!

兜を脱いだ私は、見事に顔面蒼白だったが、誰もその理由を理解できなかった。

「今日の『はに丸くん』は、とっても演技派で、素晴らしかったですよぉ!」 劇団員は口々に言ってくれた。

冗談じゃない。それは演技派以前に、体力の勝利だったのだ。他の運動不足で軟弱なお父さんだったら、病院で白目剥いて点滴受けてるところだったぞ!

その時のステージを見ていた長女は、「あのはに丸、ウチのお父さんなんだよ、なんて言いながら見てたけど、そんな、死にそうだったなんて、全然気付かなかったよ!」と、今でも言う。

そうとも、私は不屈の役者根性で、生命の危機を乗り越えたのさ。ふんっ!

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2005年10月23日

妻には 「信じられない」 マグカップ

私はコーヒー好きである。とくに、パソコンに向かうときには、手元にコーヒーのたっぷり入ったマグカップがないと落ち着かない。

コーヒーをちびりちびりと啜りながら仕事をするのは、私の長年のスタイルになっているのだが、最近まで、コーヒーがすぐに冷めてしまうのが、不満の種だったのである。

Mug

しかし、近頃いい買い物をした。コーヒーの冷めにくいマグカップである。

これは外側が透明プラスチック、内側がステンレスの二重構造になっていて、その間は真空に近くなっているようだ。つまり、魔法瓶と同じような構造なのである。

上部にはお盆のような形の蓋がついていて、手前に吸い口となる切れ込みがあり、反対側に空気の通る小さな穴があいている。そして、蓋の上面はテフロン加工で水分を撥じき、吸い口に向かってやや傾斜しているので、コーヒーが蓋の上にたまらないようになっている。

このマグのおかげで、たっぷりと注いだコーヒーをゆっくりと 1時間近くかけて啜っても、最後まで冷たくならないので、私は大満足なのである。

ところがこのマグは、妻には信じられないものらしい。彼女にとっては、蓋の隙間からコーヒーを啜るなんて、どう考えても「変なこと」に思えるようなのだ。妻は、スタバのコーヒーでも、吸い口付きの蓋を取って飲む人で、それが「こだわり」なのである。

一方、私は仕事中に飲むコーヒーはちょっとしたリズムをつけるために、マグを手にとってコーヒーを啜るだけだから、こだわりは要らない。最後まで冷めないことの方が、よほど大切なのだ。

私たち夫婦は、大まかな価値観はかなり共通しているのだが、細部に至ると、かなり違ったテイストをもっている。18歳で出会うまで、まったく別の環境で生きてきたのだから、それは当然のことだ。それに二人とも、案外自分の美意識に頑固にこだわるところがあるし。

それでも、私たちはお互いのやり方を否定しはしない。妻は私のマグを「信じられない」と言いながら、それでも私がそれを大のお気に入りにしていることを、ちゃんと尊重してくれている。

それに、私だってパソコンの前を離れて、「真面目に」コーヒーを飲むときには、このマグを使おうとは思わない。

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2005年10月22日

盗作騒動の顛末

一昨日の一撃で触れた、当サイトのコンテンツが「牧師」さんにパクられてしまった事件の顛末は、意外な展開で幕を閉じた。

当初は、先方の 10月 1日のエントリー だけが、「魔が差した」結果だと思っていたのだが、改めて検証すると、なんと、他のほとんどの記事も見事にパクリだったのだ。

私の 20日の記事が掲載されると、その日の朝から、先方には 1分に 1回以上のアクセスが殺到したことを確認している。楽天のブログは、右上のアクセスカウンターをクリックすると、部外者でもアクセス状況がわかるという、余計なお世話的機能があるのだ。

この記事で、私は、「附記」として次のように触れておいた。

くれぐれも、先方のブログに余計な書き込みをしないように希望する。先方はきちんとした信仰を持つ方なので、必ずやまともな対応をしてくれるはずと期待している。

これは、先方の他の記事を読んでみると、かなり敬虔なクリスチャンのように思われ、それでもたまには「魔が差す」こともあるだろうと、穏便に対処したかったためである。この時点では、「敬虔なクリスチャンらしい記事」まで、ほとんどパクリに基づいていたとは、思いもよらなかったのだ。

私の希望通り、先方のブログには悪意のあるコメント書き込みは 1件もなく、僅かに「汝盗むなかれ」というモーゼの十戒からとった、短くさりげないコメントが一つ付けられただけだった。当サイトの読者の良識ある態度は、讃嘆に値すると思う。感謝するばかりである。

私としては 20日未明の段階で、この「牧師」さんのブログの該当エントリーに警告の意味でのトラックバックを貼り、当人でなければわからない、かなり遠回しのコメントを書き込んでおいた。

先方の 16日時点の日記書き込みでは、「同志たち」と地震に襲われたパキスタンに旅立つため、しばらく日記更新はできないとのことだった。そこで私としては、彼が帰国してからなんらかの誠意ある反応があるだろうと、のんびり待つ気でいたのである。

ところが、21日になり、Rtmr さんの指摘 で、この「牧師」さんが「パクリの常習犯」だったことがわかり、唖然としてしまった。

Rtmr さんが試しに Google で検索してみると、この「牧師」さんの少なくとも今月のエントリーはすべて、他サイトの「ほとんど丸写し」だと判明したのだ。私が調べたところ、9月のエントリーもほとんど同様だった。

そこで私は残念ながら、「先方はきちんとした信仰を持つ方なので、必ずやまともな対応をしてくれるはずと期待している」の部分に、 del タグで「取消線」を入れた。

「くれぐれも、先方のブログに余計な書き込みをしないように希望する」という部分にまで取消線を入れなかったのは、彼のブログを読んで、それなりに心の平安を得ている読者もいるようなので、「祭り」状態にだけはしたくなかったのである。

この願いは、前述のように、最後まで叶えられた。ありがたいことである。

そうこうしているうちに、21日の昼前後に、急に先方の私のコンテンツをパクった記事は削除され、最新エントリーとして、同じ文面のお詫びの言葉が、どういうわけか 4日分ほど連続で掲載されていた。以下は、そのお詫びの言葉の一部の引用である。

その中に、とても良い内容の童話のお話がありましたので、童話のお話内容を引用させて頂き、掲載をさせて頂きました。

「内容を引用させて頂き」 というのは、こうしたケースの言い訳の常套句だが、あれを「引用」と言ったら、世の中に「盗作」と呼べるものはなくなるとだけ言っておこう。

そこで、私は「ほかにも削除すべきものが多数あるとお見受けします」と、短いコメントを書き込んでおいた。すると、そのほぼ 1時間後には、先方のサイト自体が閉鎖されていることが確認された。

この「牧師」さんの日記には、パキスタンから帰国したとの報告もなかったのだが、不便な旅先で、かくも頻繁にインターネットにアクセスしていたのだろうか。

ことの顛末は、20日の「一撃」の「追記」としても、簡単に報告しておいたが、先方のサイトがなくなったことで、「祭り」状態になるのを危惧する必要もなくなったので、ここに安心して別ログとして報告している次第である。

ちなみに、これまで伏せておいた「牧師」さんのハンドルは、 「2004トモクルーズ」という、聖職者にしてはちょっとくだけたものだった。件のサイトは消えているが、これをキーワードにググってみれば、しばらくの間はキャッシュで見ることができるだろう。

彼のパクリに関しては、前述の「追記」に少し具体的に紹介させて頂いた。これも Google のキャッシュでしばらくは読める。もし読者の中に、これらのパクリの被害者がいたりしたら、さぞびっくりだろう。

結果として、一つのサイトを閉鎖に追い込んでしまったわけで、私としても後味の悪さが残るのだが、彼が十戒のうちの 8番目、「盗むなかれ」の戒律をこれ以上犯さざらんがためのアシストができたのだと、前向きに考ることにしよう。これも、神の栄光現れんがためだ。

彼が改めて自分の言葉で神の栄光を語り始める日が来ることを、祈るばかりである。

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2005年10月21日

煙草を吸うなら、肺の奥まで吸え!

成人に占めるたばこを吸う人の割合 (喫煙者率) は、10年連続で減少しているそうだ。

日本たばこ産業 (JT) の調査によると、喫煙者率は前年比 0.2ポイント減の 29.2%だそうだ。しかし男性の場合は 45.8% (前年比 1.1ポイント減) で、このあたりが、どこに行っても煙たい印象につながっている。

女性は 13.8% だが、前年比では 0.6ポイント増で、4年ぶりに増加に転じた。年齢別で最も高いのは、男性が 30歳代の 54.6%、女性は 20歳代と 30歳代の 20.9%。道理で、最近若い連中の集まる場所に行くと、とくに煙たいわけだ。

私は禁煙してから既に 28年になるが、吸っていた頃にはきちんと肺の奥深くまで吸い込んでいた。決して口先だけでプカプカふかしたりはしなかった。

私は、肺の奥まできちんと吸い込むのは喫煙者のマナーの一つだと思っている。というのは、口先でプカプカふかす吸い方をされると、もうもうとした煙が不必要なまでに立ちのぼって、周囲の迷惑は何倍にもなるのだ。

いったん肺の奥まで吸い込んで吐き出した煙は、色も薄くなっており、それほど煙たくないし、嫌な臭いも減っている。これは、肺の細胞でニコチンやタールを吸収しているからで、つまり 「自分の肺で有害物質を濾し取っている」 わけだ。

それに肺まで吸うと、自然にゆっくりと吸い込むことになるから、煙草の先から立ちのぼる伏流煙もそれほど多くならない。一方、口先だけでふかすと、口先からあふれ出す煙に加えて、伏流煙までがもうもうと立ち上がることになる。

口先だけでプカプカやっている人は、その姿がいかにも昨日や今日に煙草を吸い始めたガキじみていて、軽薄で、さらにみっともなくもカッコ悪いものなのだということを、きちんと自覚しなければならない。同じ吸うなら、もう少しカッコつけてもいいだろうに。

自分ばかりでなく、周囲の健康にも害があることを十分に知ったうえで、それでも喫煙するからには、せめて有害物質の多くを自分の体で濾し取って、周囲にまき散らさないという配慮をするのは当然だ。

つまり、私は 「喫煙者は死ぬリスクを自らさらに高めて当然」 と、過激なことを言わせてもらっているのである。それがいやなら、煙草を止めればいいだけのことだ。肺まで吸い込んでいないのなら、習慣性に冒されてはいないはずだから、止めようと思えばいつでも止められるのである。

私なんか、肺まで深々と吸い込んで、ばっちり中毒になっていたから、止めるときは 1週間のたうち回った。それでも、止めてからというもの、ストレスが減ったのがわかる。

煙草を吸わないとストレスになるというのは逆だ。煙草を吸いつけるから、煙草が切れたり、飛行機に乗ったりして吸えない状態になると、ストレスになってしまうのだ。

吸っている間は周囲にストレスを与え、吸えないときは自分がストレスで苦しむというのは、馬鹿馬鹿しいことではないか。今の世の中、煙草なんか吸わない方がずっと楽なのである。

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2005年10月20日

「牧師」さんにパクられてしまった

やれやれ、同じパクるにしても、もう少しマシなやり方があるだろうに。

私のサイトにある「なぜソーセージをそのまま食ってしまわなかったのだ !?」というコンテンツが、こともあろうに「牧師」 さんに盗作されているのを発見してしまった。本当にもう、神様に申し訳ないなあ。

「森と林の違い」で、「林」が「生やし」であることを請け売りで書くぐらいは、笑って見逃してもいいけれど、この「牧師」さんのやり方は見逃せない。

件の私のコンテンツは、「知の関節技」のコーナーに、平成 14年 1月 16日にアップしている。このコーナーの記念すべき第 1号のコラムなのだから、愛着がある。あまり愛着があるから、「ソーセージを直接食ってしまうという発想」と題して、再度ブログでも触れているほどだ。

私のコンテンツは、ブログで以下のように要約してある。

「三つの願い」という有名な童話の中では、ばあさんの鼻にくっついてしまったソーセージを取るために、大切な三つ目の願いを使ってしまった。しかし、そんなことをする必要はまったくなかったのである。

この話を初めて聞いた幼い私は、「自分なら、ばあさんの鼻にくっついたソーセージを直接食ってしまったのに。こびり付いた部分も、前歯でこそげ取ってしまったのに。そうすれば、最後に残った三つ目の願いを、本当に有意義に使えたのに」 と、大層悔しいような思いをしたのである。こんな当たり前のことに、どうして今まで誰も気付かなかったのだろうか!

しかし、この「天啓のような」提案は、幼稚園の先生からは鼻であしらわれ、クラスでもあまり共感を呼ばなかったのである。私は幼心に、浮き世においてはあまり画期的なアイデアというのは受け入れられないのだと学んだのであった。

発想の転換は大切だが、転換しすぎると、なかなか相手にしてもらえないのである。世の中というのは、「ほどほど」 が肝心なのである。

これが、ほとんど「まんま」パクられてしまった。どんなに「まんま」かは、比べていただければわかる。

参照:

私のコラム "なぜソーセージをそのまま食ってしまわなかったのだ !? 「三つの願い」 と 発想の転換" (2002年 1月 16日付)

「牧師」 さんの 「願い」 という記事 (2005年 10月 1日付)

(このエントリーは、すかさず削除されたようなので、下の証拠物件でご確認頂きたい: 10月 21日 追記)

(証拠物件) 「牧師」 さんの記事を Google キャッシュ の形で保存したもの

件の「牧師」さんのブログが、「ソーセージを、そのまま食べてしまえばよかったではないか」という発想の紹介だけで済ましてくれれば、私としても、「おぉ、同じことを考えている人に出会えた」と、喜んだかもしれない。

しかし、幼稚園の紙芝居でこの童話を知ったとか、「天啓のような」提案が先生に軽くあしらわれたとか、子供心にシラケてしまったとか、発想の転換は大事だが、あまりユニークな転換は世の中に受け入れられないとかいう話の展開はおろか、細部のレトリックに至るまで、こうまでもろにパクられては、私としても筋を通さざるを得ないではないか。

ただ、この 「牧師」 さんが最後に述べている部分は、私も触れていないところで、オリジナルである。余計なパクリ部分を捨てて、この部分のみを強調してくれれば、(はっきり言って意味不明瞭ではあるが)それなりの記事になったのに。残念である。

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[附記]
くれぐれも、先方のブログに余計な書き込みをしないように希望する。先方はきちんとした信仰を持つ方なので、必ずやまともな対応をしてくれるはずと期待している。

[ 10月21日 追記]
上記の [附記] の後半、「先方はきちんとした信仰を持つ方なので、必ずやまともな対応をしてくれるはずと期待している」 は取り消させていただく。もはや期待しない。

先方の該当エントリーは削除され、一応お詫びの言葉が掲載されていたが、その後まもなく、ブログのアカウント自体が削除されてしまっている。

10月 1日のエントリだけではなく、この「牧師」さんの記事は(少なくとも最近の記事は)、ほとんどが他のサイトからのパクリだと判明したためだ。

ほんの数例を、Google 検索結果で挙げてみた (そのほかにも挙げるのが疲れるほど多数ある。また、検索結果は時間が経つと変化することもあることをお断りしておく)。

例 1  例 2  例 3  例 4

10月に入ってからのエントリーも、初めの方の任意のセンテンスをコピーして、そのまま Google にかけると、ほとんど他のサイトがひっかかった。

プロファイルでの自己紹介も、信憑性に疑問があった。あげられていた「国際ボランティア事業協会」 、「祈りの会キリスト教会」 という組織は、Google では当人のページ及びそれへのリンク以外には検索できなかった。故に、当初 "牧師さん" と表記していた部分は、すべて、カギ括弧付きの "「牧師」 さん" に修正した。

「余計な書き込みをしないように」 というのも、当のブログが消えてしまったので、しようにもできなくなった。ある意味、安心である。というのも、先方のブログで、それなりの心の平安を得ていた読者もいたようなので、そこが「祭り」状態になるのは避けたかったのだ。

 

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2005年10月19日

「花月マスター」 に認証された

こう見えても私は文学修士の称号をもらっていて、これは英語では Master of Arts というのだそうだ。直訳すると 「芸術マスター」 である。ちょっとカッコいい。カッコいいだけで、メシの種にはならないのが痛恨だが。

そして近頃、二つ目のマスターの称号をいただいたので、ここに報告する次第である。

新しいマスター号を獲得するのに費やした時間は、ほぼ 4か月。今年の 6月から 9月にかけてである。改めて計算してみると、1万円弱の費用がかかった。

このマスター号の取得者は、全国でほぼ 5000人だと言われている。多いとみるか少ないとみるかは、意見の分かれるところだろう。ただ、全国の文学修士の数よりずっと少ないことは確実だ。

私が今回取得したのは、「花月マスター」 という称号 (認証番号 05757) だ。認証元は、にんにくげんこつラーメンというかなり特色あるラーメンを売り物にするラーメンチェーン、「花月」 である。

今年の 6月から 9月末までの 4か月の期間に、花月でラーメンを食べるたびに、クーポン・シールを 1枚もらえた。それを 15枚ためて葉書に貼り、応募すると、「花月マスター」 という称号をくれるというので、つい乗ってしまったのである。

ここで何度も書いているとおり、私はそば好きである。しかし、ラーメンも好きなのだ。食べる頻度で言えば、そば > うどん > ラーメン となってしまうが、それでも、4か月で 15杯食うぐらいのことは普通にしてしまうのである。

花月のラーメンは、スープににんにくをたっぷり使うところに特徴がある。すり下ろしにんにくをしっかり煮込んでいるためか、匂いはほとんどない。インパクトがあって、しつこくはないという点では、なかなかのスープである。

この夏、私は 1週間に 1度、この 「にんにくげんこつラーメン」 を食したことになる。一夏を通して飽きずに食べたということは、ちゃんと美味しかったということだ。これは、信用してもらっていい。

私は 4か月で 15杯ということだが、世の中にはかなりの花月ファンがいるらしく、90杯という猛者マスターも 6人登録されている。単純計算でも、3日に 2杯以上食べたことになる。こういう人たちは、マスターではなくドクターにしてあげてもいいのに。

私のオススメは、「にんにくげんこつ塩ラーメン (620円)」 と、新たに定番メニューに加わった 「豚そば銀次郎 (680円)」 である。とくに後者は、豚骨と濃厚魚貝系をミックスさせたスープが独特だ。

花月のチェーン店は、全国で 200店舗以上あるということだ。もしかしたら、読者諸兄のご近所にもあるかもしれないので、どんなものか試してみても、失望することはないと思う (マスターの称号のお礼に、ちょっと宣伝をしてみた)。

それにしても、私としたことがこんな単純に喜んでしまうんだから、花月のこのキャンペーン、マーケティング的に見てもかなりの成功なんだろうと思う。

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2005年10月18日

ステロタイプの応酬と化した靖国問題

小泉さんの靖国参拝には、左右両翼から批判がある。それは首相にはみな想定内のことだろう。ここで私が何を言っても、他の幾多のブログで言ってることの焼き直しになるから、わかり切ったステロタイプは言わない。

むしろ私が興味を持ったのは、首相の行為に対する周囲の反応である。

昨日の夕刻、たまたまラジオのスイッチを入れたところ、TBS ラジオのキャスター、荒川強啓氏がかなり憤慨した調子で「中国が有人宇宙飛行の成功で沸き立つという特別な日にこんなことをするのは、最悪のタイミングですよ!」と述べておられた。

それに対して、コメンテーターの諸星裕氏が「私はそういう日だけに、ニュースが目立たなくていいと思いますが」と、冷静に述べると、荒川氏は 「いやいや、そうじゃないですよ、後々で効いてきますよ」と、ちょっと訳のわからない言い方をし、諸星氏は「はあ、そうですかね」と言ったまま沙汰止みになった。

この番組では、コメンテーターの冷静な発言よりも、大きな声のキャスターの雰囲気的発言の方が力をもつらしい。

多分、荒川氏のようなタイプの人は、首相がいつ靖国参拝をしても「最悪のタイミング」と言うのだろう。その特定の日に特別なトピックがなければ、近い日付の何かを探してでも言うだろうし、それでも何もなければ、「中国との関係が大切なこの時期に」と言うだろう。

首相の靖国参拝に反対する勢力にとっては、タイミングはいつだって「最悪」であり、「比較的いいタイミング」なんてことはあり得ない。そういうわけで、「最悪のタイミング論」は単に雰囲気の問題なので、この際、無視しても大勢に影響はないだろう。

タイミングということで言えば、中国は「うまいタイミングを狙いやがったな」と思っているだろう。同じやるなら、むしろ計算された「最高のタイミング」だった。外交というのはそういうものであり、日本側で「最悪」と騒ぐのは野暮以前のセンスの悪さである。

中国の王駐日大使は「これからの日中関係を損なうことは間違いない」と強く非難した。それに対し、麻生総務省は「中国・韓国の場合、靖国神社に行かなくなったから、関係が急に良くなるとも思えない」と語った。

これはこの間の事情をうまく表している。是非論を離れてみると、「靖国参拝」という行為は、最近では政治的な外交カードにすぎないものとなっているのだ。このカードがそのうち陳腐化するのを防ぐために、中国・韓国はその度に激しい非難のコメントを出す。

一方、日本の伝統派は、今回の参拝を「おざなり」と非難する。「一国の首相たるもの、昇殿もせず、ましてや二杯二拍手一拝という形式すら踏まないのでは、参拝したことにもならない」というのである。彼らの美意識に立てば当然の言い分だが、これが単なる「参拝」というよりは「外交カード」でもあるということを忘れての発言だ。

靖国問題は出口なしの様相を呈している。左右どちらの言い分を聞いても、一応もっともらしいのだが、結局はステロタイプの応酬に過ぎない。これでは何を言ってもすれ違いになるばかりで、はっきり言って付き合いきれない。最も不毛なタイプの議論である。

この閉塞状態に、無理に「出口」を作ろうとして、「A級戦犯の分祀」と「宗教色のない慰霊施設」という 2つの提案も出てきた。

A級戦犯の分祀ということは、政治の宗教に対する介入になるから、それこそ「政教分離」に反することになる。これについては、私は以前に論じている(参照)。

宗教色のない慰霊施設というのも、いかにも苦し紛れである。そんな施設を作っても結局は政治的妥協の産物で、屋上屋に過ぎないから、遺族の多くは靖国に行って、そっちには行かないだろう。多分、税金の無駄遣いだ。

下手したら、靖国派と無宗教施設派の対立という、まったく余計な事態すら起こしかねない。あまり利口なやり方とは思われない。

こうした場合は、時間という万能の神が解決してくれるのを待つほかないと、私の経験則はそっと囁いている。

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2005年10月17日

蕎麦を打つのはむずかしい

蕎麦好きの中には、病膏肓に入って自分で蕎麦を打つのを楽しみにしている人もいるが、私はそれはとうに諦めている。

「蕎麦は誰でも簡単に打てる」 などと言う人もいるが、それはウソか、そうでなければ、その人とその周囲の人のみが、蕎麦打ちの神に特別に祝福されているのである。

私だって、過去に何度か蕎麦打ちに挑戦した。地元主催の 「蕎麦打ち教室」 なんてものに参加したことだってある。しかし、一度としてまともな蕎麦を打てたことがない。

そりゃ、蕎麦粉の比率を 7割以上にしているから、きちんとした香りの立つ蕎麦にはなる。しかし、香りだけである。まともにはつながらない。麺の長さが 15センチ以上になった例しがない。短いのは 3センチ以下のぶつ切れである。

家族に食わせても、「確かに美味しいけど、短いねぇ」 と言われるだけである。ツルツルっとすする醍醐味がない。「ツルッ」 にも達しない。せいぜい 「ツ」 ぐらいで、「ル」 になる直前に、麺はすべて口の中に収まってしまう。これでは、蕎麦を食った気がしない。

何をかくそう、私は粉をこねるのは得意なのである。我が家は自家製天然酵母のパンを作っていて、私はパン生地をこねる役割である。もう20年近くこねているから、そのへんの駆け出しのパン屋よりは上手という自信がある。(参照

その私にして、蕎麦打ちには匙を投げているのである。

蕎麦は、うまい蕎麦屋で食うに限る。自宅で食いたかったら、ちょっと値段の張る乾麺を調達してきて茹でることだ。なまじ自分で打とうなんて気を起こすより、ずっとまともな蕎麦が食える。

餅は餅屋なんていうが、私は結構まともな餅をつける。しかし、蕎麦打ちの神の特別な祝福に浴していない身としては、「蕎麦は蕎麦屋」 というテーゼには、ひれ伏すしかないと思っているのである。

ところで、そろそろ新蕎麦の食える時期が近づいてきた。今現在、「新蕎麦始めました」 なんて貼り紙を出している蕎麦屋は、北海道産の早出し品種を打っているのだと思っている。私は内地の蕎麦の方が好みだから、もうほんのしばらく、新蕎麦にはこだわらないのである。

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2005年10月16日

ムクドリのパラドックス

昨年の 6月 30日に、取手駅西口に押し寄せるムクドリの大群について述べている (参照) が、その大群は、さらに郊外の田園地帯である我が家付近にも進出してきた。

我が家の裏手の小川を隔てた向こうの農家の屋敷林をねぐらと定めた一群が、夕方になると大変なけたたましさなのだ。

本当に、野鳥というのは数が少なければ可愛らしいのだが、あれだけの大群になると、異様である。しかもムクドリの大群は、夜更けまでキュルキュルとけたたましく鳴き続けるので、付近の人には騒音被害まで及ぼす。

これはこの辺りだけのことではなく、「ムクドリ 大群 被害」 のキーワードでググってみると 340件がヒットし、その被害は北海道から九州まで広がっているのがわかる。

先日、夜遅くなって帰ってきて取手駅に下車し、ペデストリアンデッキからロータリーの木立を眺めて、たまげてしまった。たまたま木立を通してその向こうの店の明かりが透けて見える位置だったため、枝に止まって眠るムクドリのシルエットが、びっしりと浮き出ていたのである。

あの密度で止まっているとしたら、あの一本の木を、何千羽のムクドリがねぐらとしているかしれない。あの大群から分家した連中が、我が家の近くまで迫ってきているわけか。

鳴き声の騒音はいくらなんでも夜中には静まるので、眠れないというほどでもないのだが、糞害は、まさに憤慨のもとになる。シャレどころではない。私の車もしょっちゅう糞を落とされている。フロントガラスにべったりと落とされるのが一番ツラい。

多分冬になればどこかに渡って行ってしまうのだろうが、なんとか対策を講じないと付近の住民はストレスを抱えることになる。ネットで調べたら、新潟県長岡市が、「ムクドリの悲鳴」 という新兵器で効果を上げているらしい。(参照

網にかかったムクドリのあえぎを録音して、それを流すと、連中はかなり怯えて、寄りつかなくなるそうだ。全国の自治体や企業など 270ヵ所に貸し出されているという優れものらしい。

効果はあるようだが、日本中の街でこのテープを流すようになったら、ムクドリはどこをねぐらにしたらいいのだろうか。そもそもムクドリは、天敵の少ない人里を好むらしいのだが、その人里でこんなに嫌われては、自分の首を絞めることになる。

デカイ顔をして傍若無人に振る舞いすぎると、歓迎されないのは世の常なのか。

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2005年10月15日

「林」 が 「生やし」 ということは

3日続けて「森と林の違い」ネタだが、私がこのページを書いた 3年 4か月前には、ネットで検索しても、「林」が「生やし」であると指摘したページなんて見当たらなかった。

ところが、今日、Google で「森/林/生やす」で検索してみると、752件もあるじゃないか。孫引きの孫引きだらけだけど。

私が「森と林の違い」というページで書いているように、3年 4か月前は、この 2つの言葉の違いをネットで検索しても、国語辞典の引用とか、「森」と「林」の漢字の形から類推してみたりみたいなものしかなかったのである。

「林は人間の手が入ったもの」という説明はないではなかったが、それを「生やし」という語源に結びつけて論じているページは、少なくとも検索サイトにひっかかるところで調べた限りでは皆無だった。

ところが、今や、皆ごく当たり前のように、「林」は「生やし」から来ているなんて書いているのだ。それに、どうやら今回の TBS の番組だけでなく、以前に「笑っていいとも」でも同じような形で取り上げられたらしい。

これらすべてが私のページの請け売りというつもりはないが、多少は出典を明らかにしてくれてもいいだろうにと、ちょっとだけだけど、むかついている。

ここで白状しておくが、「林」の語源が「生やし」だというのは、誰に直接教わったわけでもなく、直観的思いつきなので、多分正しいだろうという自信はあるが、私にとってはあくまでも「仮説」にすぎない。

それがいつの間にか、こんなに広まってしまって、もし私が間違ってたらどうするんだ。知ーらないぞ、知らないぞ。

それに、「林」イコール「生やし」ということで一面的に捉えすぎると、ちょっと薄っぺらになる。「生ゆ」「映ゆ」(読みはどちらも 「はゆ」)などの古語や、「囃子」という言葉との関連もきちんと意識しなければならない。

要するに、現代語の感覚の「木を生やしたところ」というよりは、「生命の豊かな場所」というイメージの方がより近いんだろうなあという気がする。関連で「栄える」という言葉にしても、元々は「幸」が「生ゆ/映ゆ」ということで「栄ゆ」ということなんだろう。

「森」だって、「盛り上がった」という意味だけでなく、「神霊を守護する」というイメージの「守り」という意味合いもあるかもしれない。ある意味、「林 = 生やし」説は、通俗化して豊かな膨らみがなくなる一歩手前にあるような気がする。ここで歯止めをかけておこう。

私のサイトから広まったに違いない話題に、もう一つ 「グッピー理論」というのがある。これも、出典を明らかにしないで、自分が元から知っていたかのように書いている(どうみてもそうは思えないのに)サイトが少なくないので、私は以前、苦言を呈している(参照)。

まあ、「林」「生やし」という言葉を私が造語したわけでもないし、「グッピー理論」にしても、故人の説を紹介しただけなので、あんまり偉そうなことは言えないが、少なくともネットの世界においては、どうみても私が草分けなのだということは、ここでしっかりと主張しておこう。

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2005年10月14日

体験的 「マスメディアとインターネットの融合」

TBS 株が標的にされるという噂は、かなり前から公然のものとなっていたが、動いていたのは楽天だったのか。(参照

12日夜、TBS の番組のおかげで、ウチの「森と林の違い」に、4.5秒に 1回という猛烈なアクセスがあった(参照)ことを考えると、なるほど、テレビとネットの融合は力がある。

昨日も書いたように、TBS の「あなた説明できますか?」という新番組で、「森と林の違いを説明できるか」という設問が提示され、その影響で、ウチのページにアクセスが殺到したのである。

12日 19時からの実際の放送が始まる半日前から、番組欄をみて興味を持った人がアクセスして来ていたらしく、 1時間に 10〜20件という(このページとしては)異常な数字を記録し、放送のあった 19時台には、一挙に 807件に跳ね上がった。

これは単純計算で 4.5秒に 1回だが、「森と林の違い」の設問が放送されてからとすると、多分、3秒に 1回以上のピッチでアクセスがあっただろうと思う。20時台にはピッチは大幅に落ちたが、それでも真夜中までの 5時間だけで、1,034件のヒットがあった。

それ以後も余波は続いていて、13日の夜までには 500ヒットを突破した。普段は 1日に 1ケタのアクセスしかないページで、こちらとしては何の仕掛けをしたわけでもないのに、たまたまテレビで取り上げられただけで、この有様である。

もう本当に、事前にわかっていたら、このページに何かのバナー広告でも載せて、それからもっと面白い仕掛けもしておいて ・・・ などと、後になってから悔やんでももう遅い。多分、明日か明後日には通常通りの穏やかな状態に戻るだろう。

しかしテレビというのは、一時的なものにしろ、これだけの力があるのだから、テレビ番組とインターネットを意識的に融合させたら、それはもう、かなりの影響力を発揮できるだろう。

なにしろ今回は、番組中で答えを明らかにして完結していたにも関わらず、1500人以上の視聴者は、さらに自ら進んで検索サイトで探してまで、ウチのページに確認に来てくれたのである。ちょっと気を持たせるような内容にしたら、それこそ大変なことになる。

例えば、ウチの「知の関節技」というサブサイトのページは、それなりのキーワードで検索すると Google でも Yahoo でもトップランクになっていることが多い。裏で密かにテレビ局と手を結んで、それらしいテーマの放送をしてもらえば、12日の夜以上の爆発的アクセスは、いとも容易だろう。

そして、私としては該当ページに前もってさりげなく広告を載っけておき、なんとなくうまく発展しそうなパブリシティ的記述をプラスしておけば、おもしろい効果が期待できそうだ。

テレビ局さん、ならびに広告代理店さん、ウチは、検索サイトで上位に来るウンチクページという財産をようけ抱えてまっさかい(参照)、そないなオファーがあったら、格安でお引き受けしまっせ!(と、急に関西人になってしまう)

これは冗談としても、ライブドアがフジテレビにアタックしていた時には、「マスメディアとネットの融合」というテーマはかなり漠然としていたが、今回のケースを体験して、なるほど、きちんとした戦略で取り組めば、かなりのものになるだろうなということが見えてきた。

とくに楽天は物販をベースとしているだけに、いろいろなアプローチが可能だろう。

それにしても、三木谷さん、プロ野球への参画の時といい今回といい、ホリエモンの後出しジャンケンというイメージがつきまとうなあ。(あぁ、こんな余計なことを書くと、おいしいオファーなんて来なくなっちゃう)

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2005年10月13日

森と林と TBS

昨日(12日)の 19時台、当サイト(本宅サイト: 「知のヴァーリトゥード」)の「森と林の違い」というページに、ムチャクチャ多くのアクセスがあった。

1時間で 807 ヒット。ほぼ 4.5秒に 1ヒットという計算になる。20時台には 142ヒットに急減したが、それ以降もちょこちょこと、普段以上のアクセスがあって、余波が続いている。

このように、短時間に集中してアクセスがあるのは、何かきっかけとなる放送があった時というのは、経験則で知っているので、テレビ番組の検索をしてみたら、すぐに見つかった。

TBS テレビの「あなた説明できますか?」という新番組の欄に、「おにぎりとおむすび? デニムとジーンズ? 森と林? ウインナとフランクフルト?」というのが見つかったのである。

当サイトの「森と林の違い」というのは、語源の視点から違いを述べて日本人の感性にまで迫ったもので、「森と林」で検索すれば、Yahoo でも Google でも、トップランクになっている。ご興味があったら、ご覧いただきたい。

ちょっと思い立って、このページ限定のアクセス履歴を調べてみた。階層が深いので、普段は 1日に 1ケタのヒットしかないのだが、8月 28日から急に連続して毎日 2ケタ台のアクセスが記録されている。とくに 8月 31日には 49ヒットと、ちょっと異常な数字になっている。

2ケタの記録は、9月 10日まで続き、それ以後はさすがに 1ケタのいつもの状態に戻った。

ところが、放送前日の 10月 11日に再び 23ヒットと 2ケタを記録し、当日 12日の午後からは、1時間毎に 2ケタのアクセスがあるという、ちょっと異常な数値になっていて、これは明らかに何かの前兆だったわけだ。

当日の放送前から徐々にアクセスが増え始めていたというのは、番組欄を見て興味をもった人が、早くもインターネットで検索し始めたということか。あるいは、番組関係者の何人かが、改めて見にきたという数字も含まれているかもしれない。

つまり、この番組自体はかなり前から企画されていたのだろうが、具体的な設問に関しては、8月末から準備に入っており、当サイトの「森と林の違い」というページも参考にされたのだろうということは、想像に難くない。

それにしては何の挨拶もないが、まあ、インターネットで資料を漁るたびにそのサイトの管理人に挨拶をしていたら、テレビ局は菓子折を何個用意しても足りないだろうから、固いことは言わないでおこう。

今回の現象を通じて、テレビ番組製作の裏側をちょっとだけ垣間見たような気がする。ひょっとして、あなたのサイトも、テレビのネタに使われていることがあるかも知れませんよと言っておこう。

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2005年10月12日

「二人前」 の正しい読み方

「二人組の強盗」の正しい読みは、「ふたりぐみのごうとう」ではなく、「ににんぐみのごうとう」である。少なくとも、NHK のアナウンサーなら、そのように読むことになっている。

ただこの場合「ふたりぐみ」 でも間違いとは言えない。しかし「二人前」を「ふたりまえ」と読むのは、明らかに間違いだ。

「二人組」が 「ににんぐみ」となるのが自然であるという根拠は、「三人組」が「みたりぐみ」ではなく「さんにんぐみ」だからである。「一人組」(ひとりぐみ)というのは理論上あり得ないから、「三人組」に引きずられて「ににんぐみ」になる。 「ににん」と読むのは決して特殊なことではない。「二人三脚」「二人称」「二人羽織」など、みな「ににん」である。

「二人前」が「ふたりまえ」でないのは、より明確である。「一人前」が「いちにんまえ」であって「ひとりまえ」ではないからだ。

しかし、近頃テレビやラジオで「二人前」を「ふたりまえ」と言ってはばからない風潮がある。中には、アナウンサーまで「ふたりまえ」と言っているケースまである。嘆かわしいことだ。

以前にも書いたが、「一段落」を「ひと段落」と誤読するケースも、近頃増加している。これは「いちだんらく」が正しいので、MS-IME では、「ひとだんらく」では 「一段落」 に変換されない。それで、「ひと段落」が正しいと思いこんでいる人がワープロで入力変換すると、「ひと段落」という表記になってしまうのである。

「一段落」ならば「いちだんらく」と正しく読む人もあれば「ひとだんらく」と誤読する人もある。しかしはなから「ひと段落」と表記してあれば、「ひとだんらく」が正しいと思いこむ人が増えてしまって当然である。

ATOKなどは「ひとだんらく」でも「一段落」と変換するようになってしまった。「ら抜き言葉」には厳しいくせに、妙なところで妥協してしまったものである。MS-IME も ATOK に倣えば、「ひとだんらく」の入力で「一段落」 に変換され、結果、「ひとだんらく」の誤読は逆に減るかもしれない。

しかし、「二人前」を「ふたりまえ」と誤読するのは、今後増え続けるだろうと思われる。

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2005年10月11日

自分自身に名前を付ける行為

2歳になるまで名前を付けてもらえず、自分で自分の名付け親になった女の子が米国にいるというニュースには、ちょっと驚いた。

戸籍にはずっと "baby girl"(女の赤ちゃん)と記されてきたが、2歳の誕生日を前に、どういう風の吹き回しか、自分で "Alice" と名乗ったのだという。(参照

アリスの父親が次のように語ったというのが興味深い。(以下引用)

「あるとき、“いないいないばー” をして遊んでいたら、彼女が自分で顔を隠して ”アリスはどこ?アリスはどこ?” って言ったんですよ。だから「アリスって誰だい?」と聞くと、「私よ」と自分を指差したんです。

自分で名前を決めた、その時のアリスの笑顔は素晴らしかったですよ。今までに笑ったことがなかったかのように。遂に自分が誰だかわかったような…」

私は心理学は全然専門じゃないから詳細には書けないけれど、人間には鏡像段階という時期があるとされている。鏡に映る自分の像を通して、自己の身体の同一性を認識する時期で、それは生後 6か月から 18か月とされている。

アリスの場合は、その鏡像段階をとっくに経過して、自己の身体の同一性のみならず、「自分という存在」のアイデンティティを強烈に求めていたに違いない。そのソリューションが、「自分自身に名前を付ける」という行為だった。

蛇足だが、自分に与えた名前が、"A" という最も基本的な母音から始まる単純な 2音節の名前だったというのは、とても示唆的なことだ。2歳の女の子が自分に与える名前の選択肢には、"Patricia" とか " Veronica" などはあり得なかったと思う。

命名のもう一つの意義は、他との「差異」を認識するということだ。差異を認識しないところには、命名の必要性がない。アリスの求めた最初のアイデンティティは、とりもなおさず、命名による他との差別化だったのだ。

鏡像段階を経て自分自身の物理的範囲を限定し、そこに「名前」を付けることで、新しい次元の「解放」を得たのだ。つまり、差異を明確化する「限定」は「解放」への第一歩だった。

こんなことをくどくど書いたのは、今月 8日にここで書いた "最先端技術と融合する 「生命」" への千軒町さんのレスが、とても興味深かったからだ。彼女は、次のようにコメントしてくれた。(以下引用)

双子が同じ性格にならない最大の理由は、「一緒に生活をするから」なんてのがあります。自分と同じ顔した人と生活をともにするというのは性格を形成する上、重要な意味も持ちます。自我を形成をする大切な時期に、性格まで相手と同じになっちゃうのは許せないわけで、無意識ながらも違う人間になろうとするわけです。相手との区別こそ、自我の存在理由(アイデンティ)の確立に繋がるという考え方です。

一卵性双生児というのは、遺伝子的にはまったく同じなのに、別個のパーソナリティを持つ。その大きな理由が、同じ顔をした相手との差別化を要求するからというのが、おもしろい。彼女は、さらに、このようにも書いてくれた。

面白い研究結果に、生まれてからすぐに離ればなれになった双子の研究があります。彼ら(彼女ら)は、お互いの存在を知らないのにもかかわらず、同時期に結婚したり、同じ嗜好を持ったりすることがあるそうです。一緒に生活をしなかったら、もしかすると双子は同じパーソナリティになりやすいかも?なんてね…(^^;

アイデンティティの初歩的な認識のしかたは、「私は、あなたとは違う」ということのようなのだ。違っていなければ、アイデンティティの喪失につながり、とても不安になってしまう。だから、人間は他と 「違いたがる」 のだ。

しかし、違いすぎると、それはそれでまた、別の不安要素になる。日本という国は、どうやら差異を認める文化的許容範囲が狭いようだ。異質なものを排除したがる傾向がある。

ここで、ネット社会の「匿名性」ということに軸足を移そう。日本におけるブログは、社会に排除されずに、「特異性」を発揮できる「場」である。だから我々の多くは、米国の小さな少女アリスのように、自分自身の「名付け親」である。

自分自身に名前を付けることにより、我々はネット社会で「より率直な自分自身」であり続ける保証を得る。実社会では排除されかねない自分自身を表現するのだから、ネット社会は、ある意味「悪場所」である。

昔は、芝居小屋、遊郭など、公認の悪場所があり、社会のバランスを保つ機能を果たしていた。現代社会では、物理的悪場所は浄化されてしまったから、バーチャルなところにその機能を求めるのが手っ取り早い。

実名でブログを書くことを強制されたら、毒にも薬にもならないものばかりになるに違いない。

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2005年10月10日

会議というのは眠いもの

国会中継の様子を見ると、確かに居眠りをしている議員が少なくない。それを見て、鬼の首でも取ったように非難する人がいる。

しかし、それは会議というものを知らない人である。会議は眠くなるものなのだ。1時間や 2時間の会議で眠いのだもの、数時間ぶっ通しの国会は、さぞかし眠いだろう。

私にしても、当事者としてよほど密接に運営に関わっていたり、議事録を録る担当者だったりしたら話は別だが、ただ単に員数合わせで出席したりした会議では、1分たりとも眠らないということは、まずない。

会議の眠さを知るものとして、ほとんど筋書きのできたフツーの国会なんぞでは、眠るなという方が無理だということを、私は心から理解できる。

むしろ、60歳や 70歳、あるいは 80歳をも過ぎた老体で、リクライニング機能もない(ように見える)旧式の座席に閉じこめられて、よくもまあ何時間も辛抱できるものだと、ほとほと感心している。

だから、代議士が多少居眠りをしていたところで、それをして責める気には到底なれない。彼らが眠らずにいたからといって、国会審議が大きく変わるわけではないし、むしろ寝るのを無理に我慢していては、ご老体に障る。

ただ、代議士というのは会議のプロなのだから、もう少し上手に居眠りしてもらいたいという気はする。

私なんぞは、会議で眠る名人である。いかにも資料に目を通しているようなそぶりで、すっと眠る。そして、決して熟睡はしない。

人は熟睡しかけた瞬間、往々にして頭が「ガクッ」となり、それを越すと、いかにも力の抜けた俯きっぱなしになって、見た目にも「ぐっすり」 状態がバレバレになる。

代議士のセンセイ方には、せいぜい見物人を意識して、常に周囲に警戒を怠らない野生の草食動物の眠りに近い居眠りを、できることなら心がけていただきたいと思うのである。

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2005年10月 9日

「妬み」 と性差

「嫉妬深い」というと、とてもネガティブな印象があるが、それは「負けず嫌い」と同じ根っこを持つのではないかと思う。要するに、他より劣りたくないという気持ちの顕れである。

同じ根っこが、よく顕れたり、困った形になって出てきたりする。人間社会の面倒くささとは、とりもなおさずこのことである。

「他よりも劣りたくないという」という気持ちは、とても自然なものだ。それがあるからこそ、人間はお互いに切磋琢磨して、向上することができる。

しかし、その気持ちが、自分の努力を促進する方向ではなく、相手への攻撃というか、足を引っ張るというか、そんな形に転化されると、「嫉妬」とか「妬み」ということになる。

だからスポーツ選手というのは、かなり嫉妬深かったりもする。元々が「負けず嫌い」という傾向を強く持っているので、それがほんのちょっとねじ曲がると、驚くほどの「妬み」という感情として表れることが少なからずある。

次のパラグラフ、とても因習的な言葉遣いを、敢えてさせていただくが、本心ではないので、誤解しないでいただきたい。

スポーツ選手というのは、一般にとてもすがすがしくて「男らしい」と思われがちだが、ちょっと深く付き合うと、とても「妬み深い」ところがあったりして、実は、「女々しい」 存在だったりするのである。

こうして表現してみると、なるほど、女の身でなくても、むっとするところがある。ポジティブな傾向を「男らしい」とし、ネガティブな傾向を「女々しい」とする文化が、かなり続いて来たことは否定できない。

しかし、よく観察すると、「女々しい」という形容詞は、女に対してはあまり使われないのである。男を非難する場合に使われるのが、ほぼ100%に近い。女性にしてみれば迷惑な話だが。

「女々しい男」は存在するが、「女々しい女」というのは、存在しない。

男は「女々しい」と言われたくないがために、「男らしい男」になる努力を要求される。女は、「女々しい」と非難される可能性が低いので、「凛とした女」になる努力をことさらには要求されない。

このあたりでジェンダー意識は堂々巡りになって、ちょっと意識的にならないと、悪しき相乗効果を発揮するばかりである。ある意味、男も女も、単なる「性差」を超えた固定観念の犠牲者である。

それがより強く意識されるのが、今の社会では、女ということになってしまうのは、致し方ないが、その底流では「男もつらいよ」という部分があるのだということを、世のフェミニスト達には理解していただきたいのである。

そうでないと、時として単なる「妬み」ということに陥ることがある。「男ばかりがうまい汁を吸ってるのは、けしからん」という意識では、世の中、ちっともよくならない。

まあ、こんなことは良識ある女性には、当然のこととして理解されていると思うけど、世の中にはそうでない人もいるし。

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2005年10月 8日

最先端技術と融合する 「生命」

一卵性双生児は、まったく同じ遺伝子から生じた別個の人間である。遺伝子は完全に同じでも、別のパーソナリティをもつということは、一体どういうことなんだろう。

"著名発明家が予測 「人類は最先端技術と 『融合』 する」 (上)" というニュースを読んで、そのことについて考えた。

コンピューター科学者としても知られるレイ・カーツワイル氏は、人類の未来について記した新刊書、『シンギュラリティーは近い』 (The Singularity Is Near) の中で、そう遠くない未来に、テクノロジーと生物学は 1つにまとまり、非生物学的な生命を生み出すだろうと予測している。

その根拠となるのは、遺伝子工学 (G)、ナノテクノロジー (N)、ロボット工学 (R)、すなわち 「GNR」 が数十年後に 1つにまとまるという予測である。

この考えに基づき、「シンギュラリティー以降は、人間と機械の区別も、物理的現実と仮想現実の区別もなくなるだろう」 と、カーツワイル氏は述べている。

彼のアイデアが実現されれば、「15年後には、新しいテクノロジーによって寿命の延長が始まり、われわれは 21世紀の終わりまで生きられるようになり、さらには永遠の寿命を手にするかもしれない」 というのだ。

彼の言う 「永遠の寿命」 というのは、「生命体」 というもののコンベンショナルなコンセプトを 「パラダイムシフト」 させたもので、つまり、「物質でできた肉体に宿る生命」 という考えから離れたものになるだろう。

ここで私は、カート・ヴォネガットという作家が 「人間はロボットであり、機械である」 「私は人間を巨大なゴム製の試験管にみたてることもある」 というコンセプトに基づいて書いた 『チャンピオンたちの朝食』 という小説を思い出す。

彼の小説にあるのは、人間は肉体構造の変化のみならず、頭の中で起こる 「想念」 とか 「感情」 とかいう現象、さらに 「誰かが誰かに恋する」 ということさえも、すべて脳内物質の化学変化によってもたらされるというアイデアだ。

世の宗教者は、こうしたアイデアに本能的に反発する。我々の営為がすべて化学変化で説明できるということになったら、「人間の尊厳」 が、守られないと感じるのだ。

むむむ。私はまたしても、ヴァルネラブル (vulnerable : 攻撃誘発性のある)なことを書こうとしている。あちこちで書かれていることだが、「政治」 「宗教」 「ジェンダー」 は、ネットの三大タブーなんだそうだ。これらについて書くと、荒れやすいらしい。

そんなことを言ったら、私なんて三大タブー冒しまくりである。これで、多少の波風が立つことがあっても、コメントがそれほど荒れることがないのだから、ウチの客種 (きゃくだね) はとてもクールでレベルが高いと、本心から感謝している。

話題を元に戻そう。この観点から見ると、いわゆる宗教者の論理には自己矛盾がある。アインシュタインは、「神はサイコロ遊びをしない」 と言って量子論を退けようとした。つまり、彼は煎じ詰めれば、「全てのことは (神の創造した) 物質の動きによって決定づけられる」 と言いたかったようなのだ。

しかし、その直後に量子論の正しさが証明されるにいたり、「神はサイコロ遊びをする」 のだということが、わかってしまった。一つのきっかけが、その後の過程において予測不能の現象を次々に引き起こすというわけだ。

とても比喩的に言えば、「サイコロ遊びをしない神」 つまり、「自由な現象を認めない神」 は否定されたが、「サイコロ遊びをする神 − 自由を認める神」  は、まだ否定されていないのである。

以前、別個の 2つのプロジェクトに関わってむちゃくちゃ忙しいときがあり、自分一人でそれをこなすのが大変な負担に思われたことがあった。

その時、私は思わず 「ああ、俺が二人いてくれたらなあ」 と独り言を言ったのである。「クローン人間開発はダメなんて、固いことは言わないからさぁ」

それを聞ききつけた知人の女性が、こう言った。「気持ちはわかるけど、それはだめよ。(遺伝子がまったく同じ) クローンでも、宿る魂が違うから、同じ人間にはならないわ」

「宿る魂が違う」 という指摘に、この時の私は、なんだか妙に納得してしまったのであった。肉体と霊魂を別個に考えるという伝統的な発想は、私の中で消えずに残っているのだ。

この発想を発展させれば、人間は肉体から離れて、より高度な自由を得てもいいではないかということになる。

カーツワイル氏の言う 「シンギュラリティー以降は、人間と機械の区別も、物理的現実と仮想現実の区別もなくなるだろう」 というアイデアは、「肉体から離れた霊魂」 とそれほど遠くない気がする。かなりリスキーだが。

彼の著書には 書名を記した広告をぶら下げたカーツワイル氏 が収められており、それは自身で 「この写真は、私が言っていることと、[キリストの再臨を信者たちが街頭で呼びかける] 千年期の予言との、表面的な類似性を茶化したものだ」 と、説明している。

このことは、とても示唆的だ。単なる 「茶化し」 ではなくなる可能性がある。今後は、宗教の 「原理的側面」 よりも 「倫理的側面」 が強調される必要に迫られるかもしれない。

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2005年10月 7日

後楽園の 「流店」 は、いい!

せっかく岡山に出張したので、日本三名園のひとつ、後楽園に足を運んだ。すっきりしなかった一昨日とは違い、上天気に恵まれた。

初日は終日雨の予報だったのに、日暮れに少しだけ小糠雨に降られただけで、二日目はすっきりと晴れたのだから、私の晴れ男ぶりはまだまだ健在ということにしよう。

後楽園は、備前藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じ、14年を費やして元禄13年 (1700) に一応の完成をみたと伝えられている。この津田永忠という人、かなりのセンスがあったとみえて、とてもすっきりとした庭園だ。

中央に築山があって、それ以外はほぼ平面。曲水が巡らされていて、四季の花々が池の水面に映るという趣向である。

私が気に入ってしまったのは、「流店 (りゅうてん)」 というもの。これは休憩小屋の中を曲水の水路が縦断していて、その両側が板の間になっている。自然のエアコンルームだ。右がその 「流店」 の中の写真。

庭園のほぼ中程にあって、藩主が夏の散策の折など、ここに立ち寄って涼を求めたという。左がその外観だ。

時には、板の間に腰を下ろして、足を水に浸したりもしていただろう。さぞかし気持ちがよかっただろうなあ。

この趣向は、ありそうでいて、実は日本中探してもここにしかないのだそうだ。まったくグッドアイデアである。私も欲しいぐらいだ。まあ、到底無理だが。

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2005年10月 6日

岡山旅情

仕事で岡山に来ている。一昨日の予報では、5日の岡山は一日雨ということだったが、日中は曇ったまま雨は降らず、私の 「20数年出張先で傘をさしたことがない」 という晴れ男伝説は、まだまだ続くように思われた。

ところが、一仕事終えて日が暮れてからホテルに行こうとしたら、小糠雨が降り出した。

この雨にしたって、大した降りでもなく、駅からホテルまでちょっとだけ歩けばいいだけだったので、あえて傘をささずに行って行けないこともなかったのである。そして、「出張先で傘をさしたことのない自己記録更新!」 と、意地を張ることもできた。

しかし、昨日の私は、妙に素直になってしまって、喜んで折り畳み傘を開いたのである。

「晴れ男記録」 だって、まさか死ぬまで続くこともあるまい。同じ破られるなら、昨日のような秋の小糠雨によって破られる方が趣きというものだ。しみじみとした秋の日暮れの雨に、喜んでお付き合いさせていただいたわけである。

先ほど予報をみたら、6日の岡山の天気は、一転して晴れるそうだ。多分時間が取れると思うので、後楽園に寄ってみたいと思う。

日本三庭園といわれる後楽園、偕楽園、兼六園のうち、後楽園だけは行ったことがなかった。これですべて踏破することになる。

さて、疲れてしまったので、今夜はこれで寝ることにしよう。

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2005年10月 5日

道案内の下手な女 (性差 その3)

仕事で初めての会社を訪問する時、最近なら Mapion でピンポイントで確認してから行くので迷わないが、以前は最寄りの駅から電話をして道案内してもらったりしていた。

ところが、電話の向こうで道案内してくれるのが女性だと、なかなか要領を得ないことが多かったのである。

わなわな。私はまたぞろ性差なんて物騒な問題に触れようとしている。君子危うきに近寄らずというのに、私って、よくよく君子じゃないのか。

だって、しかたがないのである。電話の向こうで道案内をしてくれるのが女性だと、2割ぐらいは、しどろもどでさっぱりわからないし、それほどではないにしても、なかなか要領を得ないというのも、4割ぐらいはいる。

しどろもどろの女性を見かねた営業マンか誰かが電話を替わってくれると、ものすごく単純明快によくわかったりする。同じ道順を説明するのに、どうしてこうも差がつくかなあと思う。個人的印象だが、要するに女性の半分以上は道案内が下手なんじゃないかと、私は思ってしまっている。

ところが、電話に出た女性が実に要領よくスマートに、しかも明確に自分の言葉で道案内をしてくれたりすることもある。こんな時、私は思わず「おぉ、女なのに、エライ!」と思ってしまったりしたということも、ことのついでに白状してしまおう。

「女なのに、エライ」 ・・・ ああ、とんでもないことを書いてしまった。こういうのを「ヴァルネラビリティ(vulnerability: 攻撃誘発性)」 というのである。こと性差の問題になると、なんてヴァルネラブルな私。

これは、単に傾向値的な印象をいい方向に裏切られた時の心地よい驚き故に、ついそんなふうに思ってしまったというお話である。道案内の上手な女性は 「女なのに上手」 と誉められても嬉しくはなかろうし、逆にカチンと来たとしても、それは、そんな失礼な誉め方をした方が悪い。

知的な女性は、こうした「世間の既成観念」に対してかなり勇ましく反発する傾向がある(ように見える)。それは、世間の既成観念というものが、知的な女性に不利に働くことが圧倒的に多いという環境があるので、当然といえば当然だ。身に降る火の粉を払うのに、遠慮する必要はない。

逆に男の方は、世間の既成観念を逆利用して仕事を運んだりすることができるので、そのあたりは、かなりいい気なものである。いい気な分、女の苦労を知らない。

いい年をしたオッサンが、「女は出しゃばるな」とか「女は感情的で手に負えない」とか言うのを聞くと、その傲慢さに対して、私は掛け値なしに腹が立つ。

「お前みたいな単細胞が社会に出しゃばる方が、日本の害毒だ」と思うし、「感情的なモノの言い方では、お前だって負けていないし、その上、権威的な分、最悪だ」ということをわからせたいとも思う。(それは容易なことじゃないが)

しかし女の中にも性差の既成観念に甘えてしまうようなのもいるので、全面的に免罪符が与えられているわけでもない。化粧品とエステとファッションに金をかけて、男をたぶらかしさえすればいいというような、性差の下にさらに座布団を十枚ぐらい敷いたようなのもいるし。

分からず屋のオヤジと、気配り上手なオバサンがいたとする。分からず屋のオヤジは困りものだが、しかし、いざというときには、単純に体を張ってまで周囲を守ってくれたりするかも知れない。

気配り上手なオバサンは、実は、その気配り上手という隠れ蓑の陰で限りない自己満足に酔いしれるのが好きなだけで、周囲がその気配りをありがたがらないような暁には、掌を返したように、我の強い仕切屋の本性を現すかも知れない。

この喩えは、いわゆる性差という既成観念の実態はニュートラルなものに過ぎず、それがいい方向に出たり困った方向に出たりするというだけのことというのを表現したつもりで、決して個別の問題を言っているわけではない。もしうまく伝わらなかったら、それは私の言い方が下手なせいである。

私自身は、性差というものをあるがままに認め、尊重しつつ、自分自身はそれをいい意味で裏切りたいと思っている。性差を換骨奪胎して、上手に裏切っている女性をみると、私は好ましく思ったりする。

こういう書き方すらも、かなりヴァルネラブルなものかも知れないという自覚はあったりするけれど。(私がフェミニストだったら、あちこちツッコんじゃうところだな)

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2005年10月 4日

本屋に行って便秘が治るか?

本屋に行くとなぜかウンチがしたくなってしまうというのは、各人の実体験に基づいて、かなり広く認知された現象のようだ。(参照

かくいう私も、本屋に立ち寄り、ちょっと新刊書のチェックなんてしているうちに、それどころじゃなくなったことが、とくに昼休みにランチを食べた後なんかに少なからずある。

「本屋ウンチ」 に関する世の中の共感が、想像以上に大きいためか、「便秘を治すには本屋に行けばいい」 というもっともらしいお話まで取りざたされている。ちょっと冗談ぽいが、あながちでたらめでもなさそうだ。

インターネットで調べてみたら、多少は納得できそうな説が見つかった。Goo のやっている DOKIDOKI ダイエットというページである。(以下引用)

それは自律神経の働きとアドレナリンやノルアドレナリン、ドーパミンなどのカテコラミンの作用でしょう。(中略) 緊張や興奮という状況で腸の動きが活発化することがあるわけです。ならば、本にとても興味のある人は、本屋でドキドキわくわくできますから、それが自律神経を刺激して、便意をもよおすと考えるのが妥当です。とっても本が好きな人はそういうことがあっても不思議ではありません。

なるほど、とにかく 「ドキドキわくわく」 することが大切なのか。

ありがたいことに、私は世の中のあちこちでドキドキわくわくする機会に恵まれているためか、これまで便秘に苦しんだことがほとんどない。だから効果のほどは確認できないが、「本屋ウンチ」 は、本好き限定の便秘解消法といえるかも知れない。

ただし、よく考えてみると、そこには大きな落とし穴がある。

本屋でウンチがしたくなっても、トイレの個室がふさがっている場合がとても多いのだ。とくに、昼休みの時間帯、本屋のトイレの稼働率は異常に高い。

以前、こんなことがあった。

某大型書店の 1階で 「大」 の方の催しを覚えたが、トイレは 2階より上にしかない。おもむろにエスカレーターで 2階に昇ると、1つしかない個室は使用中で、しかも、ドアの前で青ざめつつ足踏みするオッサンがいる。こりゃ、ダメだ。

3階に昇る。そこも個室のドアノブの下には、無情にも 「使用中」 の赤い文字が。それならばと 4階に行く。女性用トイレしかない!

しかし、いくら切羽詰まっても性差を尊重するのは 4日前の私自身と同様である。それに、女性用トイレは拡充した方がいいと、一昨年の冬に書いてしまった手前、性差別だなんて、無粋な文句は言わない。

可能な限りのさりげなさを装って、三途の川の渡し場、最上階の 5階に昇る。使用中。地獄の一丁目を垣間見る。ヤケクソ気味 (なんて暗示的なメタファー!)に、あえて再び 3階に降りる。しかし、そこが人生の機微である。その頃には、便意はウソのように引いてしまっていた。

もうおわかりだろう。便秘に悩む迷える子羊が本屋に行き、せっかく久しぶりの天啓のような便意を催しても、天国に辿り着くには、なお狭き門をくぐらなければならないのである。

便秘になる原因の一つに、排便を我慢する習慣が上げられる。ということは、ここで我慢してしまっては、せっかく治りかけた便秘がますますひどくなるばかりではないか。気の毒な限りである。

「本屋ウンチ」 で便秘解消を狙いたい人に忠告する。少なくとも、来店の多い昼休みは避けた方がいい。

それに、大型書店は売り場に高そうな椅子をわざとらしく置くよりも、トイレを質量共に充実させる方が、より実質的な顧客サービスになると認識してもらいたい。

何しろ本屋のトイレは需要が高い。そして、本屋でトイレに入る客は 「本好き」 である確率が高いのだから、ウンチだけでなくお金だって、きっと落として帰るだろう。

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2005年10月 3日

インテリジェント・デザイン論

"「何らかの知的な存在」 が生物進化を引き起こしたと考える「インテリジェント・デザイン (ID 論)」が、随所で猛攻撃を浴びている。

曰く「科学的でない」「キリスト教右派の画策に過ぎない」「迷信」などなど。しかし私は、もうちょっと冷静に、かつ批判的に眺めてみたいと思っている。

ID 論を頭ごなしにぶった切るのはたやすい。現状では進化論が「公認の学説」であり、それ以外は「非科学的」とすることが、世間では当然とされているからである。しかし、私は「赤信号をみんなで渡るのが一番恐い」と思っているへそ曲がりなので、「ちょっと待てよ」と言いたくなってしまうのだ。

何しろ ID 論の推進者達の多くは、「インテリジェント・デザイン説は進化論に対するオルタナティヴ」であるとしていて、進化論を真っ向から否定しているわけではないようだ。それならば、我々も ID 論を単純に否定するのはアンフェアというものではないか。

話はちょっと逸れるが、「天動説と地動説」の経緯を、我々は知識として知っている。単純素朴な「天動説」は、科学的な検証を経た「地動説」 によって覆されたわけだが、現在では「天動説 対 地動説」という単純な図式も、既に超えられている。

「太陽が宇宙の中心」とする「原初的地動説」は今やナンセンスであり、「天動説」も、少なくとも理論的には否定し去ることはできないということになっている。要するに「宇宙をどうみるか」という視点の問題だ。

ただ、天動説を採用すると、宇宙モデルがめちゃくちゃ複雑になってしまうので、普段はあまり相手にしないだけの話だ。要するに天動説を排除するのは、ものすごく単純に言ってしまえば「功利主義」の産物なのである。

こうした推移を知識として知っている以上、「進化論」と「ID 論」を超える理論が当たり前に認知されているかもしれない未来に生きる子孫たちに、「21世紀初頭の連中は、幼稚な議論をしていたんだね」と嘲笑われたくないと意識しても、まんざらぶっ飛びすぎた話でもなかろう。

とはいえ、その「進化論と ID 論を超える理論」というのがどんなものなのか、さっぱりわからない現状においては、私は以下のような言いぐさでお茶を濁すことが、誠実な態度の一モデルだと考えている。

何らかの知的存在によって自分がデザインされたという考えは、否定し切ることはできない。そうでないという証明は困難だからだ。「科学的でない」という言いぐさで否定されていたことが、ある日突然「最新の科学の成果」になったりすることだってある。

「科学の地平」というものも、所詮は限定的なものだ。より高みに登れば、その先に開ける沃地が見えてくる。まあ、沃地でなくて荒地かもしれないが、それは解釈次第だ。

それならば、「生物的種としての人間」を語るときに進化論がとても有効であるように、「人間の尊厳性」ということをテーマにしたい場合は、ID 論の視点を借りて議論の出発点にすることだって、あながちナンセンスと言い切ることはできないだろう。

功利主義が重視されない哲学においては、時々「天動説的視点」を蒸し返すことが有効な議論の発端になったりすることもある。「ID 論」も、現状ではそのように捉えることはできないだろうか。

現在の「進化論」が究極的真理であるという証拠はない。もっと言えば、それが究極的真理と考えることの方に無理がある。それならば、そのオルタナティブを闇雲に否定しさえすればいいというものではない。

もっとも、ID 論者の中には「人間がサルから進化したという進化論では、人間の尊厳は守られない」なんてことを言う人がいるらしいが、それはちょっとヒステリックにすぎるだろう。

人間は「サルから進化した」というよりは、「サルと共通の祖先から進化した」らしいのである。それまで否定してしまったら、いわゆる「インテリジェントなデザイン」のプロセスまで怪しくなってしまう。

サルと共通の祖先でいいではないか。その程度で「人間の尊厳」が守られないというならば、ちょっとサルに失礼である。サルと一緒に、ミトコンドリアと一緒に、「生命の尊厳」 を楽しもうと思えばいい。

それ以上のことを現時点で言おうとすれば、村上和雄筑波大名誉教授のおっしゃる「サムシング・グレート」に言及するのも一興だが、それについてなら、私は過去に書いている (参照)。

なお、Partygirl の 「反・反進化論 (18禁)」 にトラックバックさせていただいた。

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2005年10月 2日

民主党のメディア戦略

日清・日露戦争で武勲を立てた東郷平八郎が、連合艦隊司令長官になったのは、当時海軍首脳だった山本権兵衛が明治天皇に 「東郷は運のいい男ですから」と奏上したからだというのは、ちょっと有名なお話だ。

ところで、民主党の新代表、前原さん、それほど運が良さそうに見えないのだが。

「運」なんてもので話を進めようとすると、またぞろ細木数子センセイみたいなんて言われそうだが、火星人だの水星人だのいう話ではなくて、人生の歯車がきっちりかみ合ってうまく廻ってる状態を 「幸運」 というとすれば、やっぱり「運」は無視できない。

それで、民主党の人たちの顔を見ると、あんまり運のよさそうな顔立ちが見当たらないのである。以前、私は民主党には「一緒にお酒を飲んで楽しそうな人がいない」と書いたが、それは、一緒にお酒なんか飲んだら、自分の運まで逃げていきそうな気がするからかもしれない。

このほど、"「前原ブログ」 開設検討 … 民主、メディア戦略を強化" なんてことが報じられた(参照)。さすがに、ドッグイヤーの時代である。小泉さんがメルマガなら、ブログで上を行こうということか。(以下、Yahoo News より引用)

民主党は党機構改革の一環として、メディア戦略の強化に乗り出す。

同党は衆院選で64議席を失った敗因を「自民党が改革政党で、民主党は抵抗勢力だというレッテルを張られた」(前原代表)と分析。特に若者や主婦らを含む「インターネット世代」に対するPRで、自民党に水をあけられたことが大きな要因と見ている。

(中略)

党内に「メディア戦略室」(仮称)を新設し、HPや機関誌の刷新や、前原氏による日記形式の簡易HP「ブログ」を始めることなどを検討している。

これだから、運が良さそうに見えないんだなあ。「幸運の神様には前髪しかない」と言われる。後ろ髪がないので、通り過ぎてしまってから追っかけても、掴めないのだ。

「メディア戦略室」のメンバーを選定して、資料収集して、会議を開いて、報告書なんか作っている間に、時間はどんどん過ぎ去ってしまうじゃないか。ブログなんて、その気になれば 30分もかからずに作れるのだから、「検討」なんてしてる暇があったら、さっさと始めちゃえばいいのである。

"「前原ブログ」始めました!" と、まだ「前原」というキーワードの鮮度が高い今のうちにマスコミに発表すれば、その日の内に 1万や 2万どころでないアクセスがあるだろうに。

「検討している」なんて呑気なことを最初に言っちゃったもんだから、「どうせ始まっても面白くも何ともないだろう」なんて、下手な予見を与えてしまって、実際に始まる頃には、新代表の鮮度も落ちているというわけだ。

民主党って、先の選挙の、岡田さんが暗い顔して自ら歩いて画面の外に去るという、極めて予言的な TV メッセージといい、本当にプロモーションがお下手だ。

自民党の強さというのは、「検討」なんてことより「現実のおいしさ」を十分知っていることなのである。

それに前原さん、「自民党が改革政党で、民主党は抵抗勢力だというレッテルを張られた」なんていう敗因分析をしゃべっちゃったらしいが、「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と言いたくなってしまうじゃないか。(このギャグを知ってる人は、相当古い : 参照

こんなこと自分で言ってたら、広報効果としては「自民党は改革政党で、民主党は抵抗勢力です」 と、自ら認めてしまったのと変わらない。もうちょっとましなブレーンはいないのだろうか。

実際は「自民党が自前で、与党と野党、改革勢力と抵抗勢力の役割を全部演じちゃったので、野党の出る幕なくなったんです」というのが、本当のところである。これってまさに、プロモーション下手がばっちり露呈してしまったということじゃないか。

「メディア戦略の強化」なんて、そんなもの、呑気に討議しているより、河村たかしさんみたいな芸達者に、あちこちのテレビやラジオにバンバン出てもらいさえすればいいのである。少なくとも、他のオッサンが辛気くさい顔をして暗い話をするより、何百倍も効果的だ。

そうすればどんどん反響が返ってくるから、それに対して現実的な対応をして行く内に、いやでも学べる。ごちゃごちゃ机の上で検討なんかしているより、軽いフットワークでテレビやラジオにホイホイ出る方が、「ずっとおいしい」 ことに気付くはずだ。

とはいえ、河村さん、ピン芸は得意だけど、政治討論会みたいな場所に出ると思いのほか目立たない。この人、自分の話の邪魔をされる時の不愉快さを知ってるので、人の話の腰(うっとうしい話でも)も折りたくないみたいで、案外行儀が良すぎるのだ。(そのあたり、私は好感持ってしまうのだが)

周り中、人の話の途中に大声で割り込む行儀の悪い人ばかりなので、そういう場ではちょっと埋没気味になって、残念である。だからこの人、討論会要員ではなく、バラエティ要員と考えれば、大した戦力になる。

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2005年10月 1日

大物論

昨日の記事への反響で小さなな胸を痛めていたら、階下で妻と次女が、折しも細木数子ネタで盛り上がっているのが聞こえてきた。

テレビで長井秀和が、「自分が大物かどうか知りたければ、細木数子に占ってもらえばいい。誉められたら大物、けなされたら小物。間違いない!」 と言ってたそうだ。なるほど。

というか、そういうのって、日本語では 「強きを助け、弱きを挫く」 というんではないか。細木数子センセイ、確かに、「大物」 を敏感に察知して取り入るのはうまそうだ。彼女の経歴がそれを見事に証明しているか。

さらに、次女の細木ネタは続く。

レイザーラモン HG が細木数子に占ってもらったとき、細木センセイ、大股広げてふんぞり返って座る彼の姿にぶち切れて、「それが人に話を聞く態度か」 と怒ってしまったそうだ。ということは、レイザーラモン、図体は大きいけれど、実は小モノ (ここでカタカナにしたのは、深い意味はない) だったのか。

しかし、大股開いてムチャクチャするのがレイザーラモンたるものの芸風だもの。基本的にフィクションで成り立つテレビに出ている以上、それを怒ってもしかたがなかろう。芸風を離れてマジに話をしたかったら、テレビカメラのないところでサシで話すしかない。

しかし、テレビカメラの前ということをしっかりとわきまえていながら、そこでことさらに怒ってみせるのもまた、細木数子センセイの芸風である。つまり、芸風と芸風のせめぎ合いだが、細木サイドが限りなく素に近いだけ、迫力にも見え、あるいは無粋とも映る。

そもそも、細木数子センセイの前で自分の芸風を貫き通しただけ、実はレーザーラモン、案外大モノ (このカタカナにも、深い意味はない) だったりするかもしれない。細木センセイ、単に彼の大モノぶりが理解できなかっただけという可能性もある。

いや、本当のところは、細木センセイ、べつに大物を見分ける眼力があるわけではなく、単に好きずきで判断していて、たまたま、彼女の好みが 「大物風味」 を漂わす人物であるというだけのことなのかもしれない。

いやいや、もっと掘り下げれば、「大物」 の定義そのものを問題にしなければならないだろう。"「大物」 の新しい定義 = 基本的にはイケメンで、その上ちょっと世慣れて如才なく、オバサンをヨイショすることに長けた人物" とかね。

そして、 「イケメン」 という条件は、財力の多寡によって大幅に緩和されることもある。やれやれ、「大物」 のコンセプトって、かなり予定調和的なものなのかもしれない。

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