インテリジェント・デザイン論
"「何らかの知的な存在」 が生物進化を引き起こしたと考える「インテリジェント・デザイン (ID 論)」が、随所で猛攻撃を浴びている。
曰く「科学的でない」「キリスト教右派の画策に過ぎない」「迷信」などなど。しかし私は、もうちょっと冷静に、かつ批判的に眺めてみたいと思っている。
ID 論を頭ごなしにぶった切るのはたやすい。現状では進化論が「公認の学説」であり、それ以外は「非科学的」とすることが、世間では当然とされているからである。しかし、私は「赤信号をみんなで渡るのが一番恐い」と思っているへそ曲がりなので、「ちょっと待てよ」と言いたくなってしまうのだ。
何しろ ID 論の推進者達の多くは、「インテリジェント・デザイン説は進化論に対するオルタナティヴ」であるとしていて、進化論を真っ向から否定しているわけではないようだ。それならば、我々も ID 論を単純に否定するのはアンフェアというものではないか。
話はちょっと逸れるが、「天動説と地動説」の経緯を、我々は知識として知っている。単純素朴な「天動説」は、科学的な検証を経た「地動説」 によって覆されたわけだが、現在では「天動説 対 地動説」という単純な図式も、既に超えられている。
「太陽が宇宙の中心」とする「原初的地動説」は今やナンセンスであり、「天動説」も、少なくとも理論的には否定し去ることはできないということになっている。要するに「宇宙をどうみるか」という視点の問題だ。
ただ、天動説を採用すると、宇宙モデルがめちゃくちゃ複雑になってしまうので、普段はあまり相手にしないだけの話だ。要するに天動説を排除するのは、ものすごく単純に言ってしまえば「功利主義」の産物なのである。
こうした推移を知識として知っている以上、「進化論」と「ID 論」を超える理論が当たり前に認知されているかもしれない未来に生きる子孫たちに、「21世紀初頭の連中は、幼稚な議論をしていたんだね」と嘲笑われたくないと意識しても、まんざらぶっ飛びすぎた話でもなかろう。
とはいえ、その「進化論と ID 論を超える理論」というのがどんなものなのか、さっぱりわからない現状においては、私は以下のような言いぐさでお茶を濁すことが、誠実な態度の一モデルだと考えている。
何らかの知的存在によって自分がデザインされたという考えは、否定し切ることはできない。そうでないという証明は困難だからだ。「科学的でない」という言いぐさで否定されていたことが、ある日突然「最新の科学の成果」になったりすることだってある。
「科学の地平」というものも、所詮は限定的なものだ。より高みに登れば、その先に開ける沃地が見えてくる。まあ、沃地でなくて荒地かもしれないが、それは解釈次第だ。
それならば、「生物的種としての人間」を語るときに進化論がとても有効であるように、「人間の尊厳性」ということをテーマにしたい場合は、ID 論の視点を借りて議論の出発点にすることだって、あながちナンセンスと言い切ることはできないだろう。
功利主義が重視されない哲学においては、時々「天動説的視点」を蒸し返すことが有効な議論の発端になったりすることもある。「ID 論」も、現状ではそのように捉えることはできないだろうか。
現在の「進化論」が究極的真理であるという証拠はない。もっと言えば、それが究極的真理と考えることの方に無理がある。それならば、そのオルタナティブを闇雲に否定しさえすればいいというものではない。
もっとも、ID 論者の中には「人間がサルから進化したという進化論では、人間の尊厳は守られない」なんてことを言う人がいるらしいが、それはちょっとヒステリックにすぎるだろう。
人間は「サルから進化した」というよりは、「サルと共通の祖先から進化した」らしいのである。それまで否定してしまったら、いわゆる「インテリジェントなデザイン」のプロセスまで怪しくなってしまう。
サルと共通の祖先でいいではないか。その程度で「人間の尊厳」が守られないというならば、ちょっとサルに失礼である。サルと一緒に、ミトコンドリアと一緒に、「生命の尊厳」 を楽しもうと思えばいい。
それ以上のことを現時点で言おうとすれば、村上和雄筑波大名誉教授のおっしゃる「サムシング・グレート」に言及するのも一興だが、それについてなら、私は過去に書いている (参照)。
なお、Partygirl の 「反・反進化論 (18禁)」 にトラックバックさせていただいた。
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コメント
長々と反論を書いてたら、固まって
消えちゃいました(笑)
簡単に書けということかも。
地動説は地球から見て解りやすいからと
いうのは確かにあると思います。
恒星を中心にしないと、惑星の動きが
理解しづらいですから。
ただ、ID説と進化論が、天動説、地動説ような
関係であるとは思えません。
なぜなら、ID論を理論だてる証拠がないから。
哲学だの倫理だのは、話がややこしくなるんで置いておいて、純粋に科学だとすれば、
ID論はどう説明がつくんですか?
科学は万能じゃないからとかはなし。
科学は万能でも無能でもなくて、ただ単に
そこにある自然の法則ですから。
で、進化論は『サルから人間が生まれた』というより、宇宙の彼方の星の物質から人間は生まれたとしたほうが正しいと思います。
もちろん、全ての生命が、そうですが。
地球もそうです、もちろん。
人間は炭素やカルシウムや、鉄や、ナトリウム
ありふれた物質でできた分子の塊です。
ここまで進化したのは偶然・・・と、私は
思っています。絶滅した種の多さを思えば。
進化論は様々な否定と共にあります。
というか、科学は肯定されるまでに、ありとあらゆる可能性のある否定要素を打ち砕かなければならないものだから。
究極的真理だなんて言われてはいないんじゃ
ないかと思います。
進化論という名前もまずいしね。
筑波大の教授の話も途中から?でした。
で、講義を受けた方の中にも、そういう方が
いらしたみたいですね。
デザイナー=自然ならわかるんですが。
長々とすみません。
投稿: kumi | 2005年10月 4日 04:08
あの、すみません。
読み直してみて、まるでケンカ売ってるような
ぶっきらぼうな口調で、言いたいことだけ書いて。
( ^∀^)ゲラ 「わかりきったこと書いて」って
笑っていいさ~(・∀・)
投稿: kumi | 2005年10月 4日 06:46
kumi 先生、とても誠実な反論、感謝。
>ただ、ID説と進化論が、天動説、地動説ような
関係であるとは思えません。
そりゃ、個別の話なので、すっきりと対照的な関係ではありません。単なるもののたとえと思ってください。
>なぜなら、ID論を理論だてる証拠がないから。
「ない」 ということの証明は、限りなく慎重でなければなりません。単に、まだ見つかっていないだけかもしれないので。
「あり得ない」 ということの証明も同様で、「あり得る」 ケースの条件が見つかっていないだけかもしれません。
一般論として、これ以上のことは言えないのですが、小泉流の 「はぐらかし」 とは思わないでもらえるとありがたいです。
>哲学だの倫理だのは、話がややこしくなるんで置いておいて、純粋に科学だとすれば、
ID論はどう説明がつくんですか?
このあたりなのですよね。すれ違いのもとは。
私は 「純粋な科学」 って、突き詰めるとよくわからないです。「不可知論」 に辿り着いてしまう。
そもそも、ID 論は既存の科学のオルタナティブとしての方法論を大胆に取り入れているみたいで、その意味では、まだまだしっかりした基盤がなく、幼稚です。
ただ、全ての学問が、初めは幼稚でした。
>科学は万能でも無能でもなくて、ただ単に
そこにある自然の法則ですから。
「そこにある」 ということも、哲学では大きな問題なので、「ありよう」 ということを考えなければなりません。
「ありよう」 というのは、「認識」 と不可分なので。
>で、進化論は『サルから人間が生まれた』というより、宇宙の彼方の星の物質から人間は生まれたとしたほうが正しいと思います。
ビッグバン以前には、(空間的な)「宇宙の彼方」 すら存在しなかったので、もしかしたら、時間的な過去現在未来すらも、未分化であったかも知れません。すると、もしかしたら、そこには (コンセプトとして) 「全てがあった」 のかも知れず、宇宙の歴史は、その確認的な再現 (あるいは具体的な展開、それとも芸術的表現?) に過ぎないのかも知れません。
その 「コンセプト」 ということをごちゃごちゃいじくると、ID 論とお友達関係になりそうです。
ただ、これは、なんとも言いようがありません。それこそ、測定可能な証拠がないので。
>人間は炭素やカルシウムや、鉄や、ナトリウム
ありふれた物質でできた分子の塊です。
分子の塊は、原子の塊で、それはまた陽子だか電子だか中性子だかの塊で、それはまたなんちゃらかんちゃら素粒子で、その素粒子って、測定のしかたによってあったりなかったり (現れたり消えたり) するもので、そこから先は、まだよくわからなくって・・・
となると、科学を否定するというのは極端に過ぎるけど、科学自身も、少なくとももう少し謙虚であってもいいような気がしています。
測定のしかたによってあったりなかったりするということは、もしかして、「ある」 ということは 「ない」 ということを含み、「ない」 ということは 「ある」 ということを含むという、ちょっとわけのわからないことであるのかもしれず、それを 「色即是空、空即是色」 と言い切った仏教哲理は、当時、科学よりずっと先を行ってた、ものすごい慧眼だということもできますね。
>デザイナー=自然ならわかるんですが。
「自然とは何か」 とう話になると、またむしかえしで、いろいろな解釈、認識が出てきます。
「ただ、在りて在り通すもの」 ということだと、上述した 「コンセプト」 と大差ないかもしれず、いろんな意見も、実は大した違いじゃないのかもしれません。
私、そのあたりはものすごく大雑把です。大雑把でないと、気にかかって夜も眠れなくなっちゃう。
要するに、「ようわからんのじゃ」 と、謙虚になっておくに越したことはないんじゃないかと、私はそう考えているわけです。
いろいろな現象に関する言及でも、「今のところは、そんな風にみえるし、そう考えると都合がいいけど、未来永劫そういうわけじゃないかも」 という前提で発せられるということです。
でも、究極的真理というのは、そうした個別の現象を通して推論していくしかないので、個別の現象は尊重されなければなりません。要は、「どの辺まで見えてるか」 ということでしょう。
「どの辺まで見えてるか」 ということは、「まだ見えてないことも、どれほどあるかわからん」 ということです。
投稿: tak | 2005年10月 4日 09:53
>「ない」 ということの証明は、限りなく慎重でなければなりません。単に、まだ見つかっていないだけかもしれないので。
科学的立場というのは、「ある」と主張している側に証明責任があります。
言われるように、「ない」ことの証明が不可能だからです。
ID論が科学的と見られないのは、その点が絶対的に欠けているからではないでしょうか?
デザイナーの存在を証明する。もしくは存在した場合に予測される事象を仮定し検証可能にする。
それをやらない限りは、科学ではなく宗教のままです。
投稿: 龍神飛翔 | 2005年10月17日 03:31
うーん、
科学の視点で言えば、確かにご指摘の通りです。
私の個人的立場としては、これが科学かそうでないかという議論にはあまり興味が無くて、宗教というなら、それはそれでいいと思ってます。
宗教を科学の一段下にあるものとも思ってないし。
最も有効なのは、従来のモダニズムの考え方のパラダイムシフトを促す考え方であるということでしょうね。
「あるかも」 という仮説に沿って、思考を組み立てるということで。
投稿: tak | 2005年10月17日 08:21
突然の書き込みに、ご返事いただき、ありがとうございます。
まず"進化論"に関しては、演繹的推論によって導きだされた理論であって、それを"絶対的真理"と考えている科学者はいないでしょう。
実際のところ、"進化論"にも派生的なバリエーションが多く、どれが現在の主流かは、私にはさっぱり分かりません。
もちろん、学校で習った事を鵜呑みにして、他の新説を頭ごなしに否定するのは感心出来ません。
では、ID論の問題点は何かと言うと、先に書いたように科学的要件を満たさないまま、それを科学と称して同列に学校で教えよと主張している事にあります。
また、それに乗せられて、実際に同列に論じてしまう人が出てきてしまうのも問題です。
たとえば、ドキュメンタリー映画とファンタジー映画を同じ土俵で評論する事は出来ません。では、もしファンタジー映画をドキュメンタリータッチで描けば同列に扱っていいものでしょうか? (ファンタジー映画制作者を追ったりしたものではなく、妖精と話す少女をCG合成してドキュメンタリー風に編集したものとしてです)
いくらそうしても、その作品がファンタジー映画に変わりはないはずです。
ところがどうした事か、科学の名を借りると、それが平然と行われてしまうのです。(少なくとも、発案者はそれを期待しているでしょう)
これでは、創造論をそのまま(宗教として)、学校で教えよと言う方が、よほど可愛げがあります。
科学の依って立つ所は、実証主義であり、反証可能性を重んじる所です。
これまで起こった様々な"パラダイムシフト"も、これを逸脱はしていません。天動説から地動説の流れもそうです。
"「あるかも」 という仮説"にも科学は門戸を閉ざしているわけではありません。中間子の発見など、先に理論があって発見されたものも数多くあります。
科学では「説明できない」ことは、「わからない」とハッキリ言います。
それをID論のように、反証不能の仮定を導入して説明しようというのは、説明できないものに名前を与えればそれで説明が済んだと思わせる錯覚に過ぎません。
言うなれば、単に"臭いものにフタ"をしているだけです。
更に言えば、それ以上の探求心を阻害しているとも言えます。
もちろん何らかの超越的な意志が存在すると信ずるのは自由です。
私の中にも「これだけ頑張ってきたんだから、もっといい思いをしてもいいはず」とか、本来は因果関係など全くないのに、思う事はあります。その延長で神に祈りたくなる事だって。
人間はどういうわけか、どんな事にでも因果関係を求めてしまいがちです。
けれど、そこをぐっとこらえて、本質を見ようとしないと、本当の解決には繋がらないのだと考えます。
というわけで、今回の記事が気になりましたのでコメントさせていただきました。
いかがでしょうか?
投稿: 龍神飛翔 | 2005年10月17日 21:19
龍神飛翔さん:
とてもクールなコメント、ありがとうございます。
科学という視点に立てば、確かにご指摘の通りです。私自身も ID 論を 「科学」 と主張するのは無理があると感じています。
それは、「古事記」 を 「歴史」 として教えろというエクストリームに、「おいおい、それはちょっと」 と思う気持ちととても共通しています。
私自身は、「古事記」 は非常に大切な文化遺産であり、日本文化の基盤として教育の場で取り上げるのは当然だと思っていますが、それは 「歴史」 じゃなくて 「国語」 あるいは 「古文」 だろうと思っているわけです。
ID 論を学ぶのが 「理科」 とか 「生物」 の授業であるとすると、いくら私でも、「おいおい、それはちょっと・・・」 と思うでしょう。
考えてみると、今の教育体系には、こうしたことを学ぶに適切なカテゴリーがないように思われます。
学問分野としても、適当なカテゴリーがないですね。「生物学」 でもないし (まさに実証主義からかけ離れるので)、ID 論者自ら 「宗教」 ではないと言っているし、「哲学」 とも言えないし。「論理学」 には近い気がするけれど、ちょっと違和感があるし。
結局は 「ID学」 というしかないのか、あるいは、学究的態度の精神的バックボーンのひとつと位置づけるか、私は、当分の間は、後者としておくのがいいと思っています。
どうしても 「科学」 であると主張するエクストリーム故に、妙な方向に行くことは、私自身危惧しています。
投稿: tak | 2005年10月18日 01:25
科学が「そこにある自然を研究する」というのは飛躍があるよ。
投稿: | 2005年10月23日 03:11
神の存在を肯定するという点で最初から問題外だとおもう。
ID信仰者は自然科学の発展で宗教の影響力がどんどん弱まっていくのが我慢ならないんでしょうな。
敬虔だよねwww
投稿: 名無し | 2005年10月25日 14:23
上の 2つのコメントにレスするのを、2年以上も忘れてました。
(あまりくだらないので、忘れてた)
名前を書いてない人 さん
>科学が「そこにある自然を研究する」というのは飛躍があるよ。
「そこにある自然を研究する」なんて、カギ括弧でくくってあるけど、よく確かめてみなさい。
このエントリー (コメント含む)では、そんなことは、誰も (あなたしか) 言ってません。
不愉快。
名無し さん:
>神の存在を肯定するという点で最初から問題外だとおもう。
そうしたコメントを、ノー天気にするという点で、あなたの方が最初から問題外です。
投稿: tak | 2007年12月 8日 09:36
>ID 論を学ぶのが 「理科」 とか 「生物」 の授業であるとすると、いくら私でも、「おいおい、それはちょっと・・・」 と思うでしょう。
日本のキリスト教系高校では理科の教師が授業中にID論というよりずばり「神によって生命は創造された」と教えています。
ID論もアメリカでは進化論と両論併記と求めているのですから、教えるのは理科の授業でしょう。あまり良い状況とは言えないように非キリスト教徒の私は感じてしまいます。
投稿: GOA | 2008年11月 6日 17:07
>日本のキリスト教系高校では理科の教師が授業中にID論というよりずばり「神によって生命は創造された」と教えています。
日本の“ある”キリスト教系高校です。
すべてのキリスト教系高校が教えているわけではありません。
誤解を招く文章ですので、訂正してお詫びいたします。
投稿: GOA | 2008年11月 6日 17:09
GOA さん:
>日本のキリスト教系高校では理科の教師が授業中にID論というよりずばり「神によって生命は創造された」と教えています。
>日本の“ある”キリスト教系高校です。
>すべてのキリスト教系高校が教えているわけではありません。
>誤解を招く文章ですので、訂正してお詫びいたします。
誤解を恐れずに言えば、すべてのキリスト教系高校で、理科の時間に、理科の教師が授業中に 「神によって生命は創造された」 と教えているわけではないということの方が、私には驚きです。
そのように教えなければ、キリスト教系である意味がないじゃないかと思います。
投稿: tak | 2008年11月 6日 23:15
色んなのがやって来て管理人さんも大変ですねえ。
思慮分別の無い信条はキ○ガイに刃物と同じですね。
投稿: たまご | 2013年12月 9日 15:25
たまご さん:
既に権威ある定説がある問題において、それに関するオルタナティブを提示すると、「オルタナティブ」であると断ってあるにも関わらず、ムキになって否定しに来る人が必ずいます。
こちらは 「権威ある定説」を知らないとか否定したいとかいうわけじゃないのに、改めて 「権威ある定説」 を中途半端に力説されてもねえ。
よっぽど 「権威ある定説」 がお好きな人が多いんでしょうね。
投稿: tak | 2013年12月10日 00:02