『純粋理性批判』 の印象
自慢じゃないが、私は、あの分厚いカントの 『純粋理性批判』 を完読したはずなのである。多分 20年以上前のことだ。
しかし、その内容が理解できたとは到底思っていない。そもそも、毎晩ベッドで睡眠薬代わりに読んでは、いつの間にか寝入ってしまうという繰り返しだったのである。
前日に読んだ(はずの)部分もほとんど忘れているのに、まったく構わず、単にしおりのはさんであるところから再び読み始めるというだけだから、理解できるはずがない。そもそも、しおりをはさんであるページが、昨夜に読み終えたページという確証もないのだ。
この本は、私の睡眠導入に最高の効果を発揮しただけだったが、それでも、頭の中にはおぼろな印象とも呼べそうなものは、確かに残った。
名著というもののパワーとは凄いものである。ほとんどの名著というのは、その理解よりも、おぼろな印象を得ることの方が重要だと、私は思ってしまうのである。
『純粋理性批判』 の 「おぼろな印象」 をメタファーとして表現すると、こんなことになると思う。
算盤は電卓より優れているというテーゼがある。算盤では暗算が可能だが、電卓では不可能だからだ。
しかし、そもそも算盤の暗算というのは、実際の「数」のプロセスを頭の中の珠の上げ下げに還元しているというだけで、すでに「虚構」である。それは、電卓内部の電子的処理と同じぐらい「虚構」である。
じゃあ、「リアル」とは一体何なのか? それは、「虚構」と見えるものの狭間から、垣間見るしかないものかもしれない。
何だか禅問答じみているが、『純粋理性批判』の字面のみを毎晩ぼんやりと追ううちに、こんなような漠然とした考えが、浮かんだのである。
私のこの印象が、「純粋理性批判」 を正しく要約しているとは思えない。しかしもしかしたら、当たらずといえども遠からずぐらいのレベルにはなっているかもしれない。
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コメント
私にとって『純粋理性批判』は、一種のオカルト本でありました。
夢中で読んでいた頃、キューブリックの『シャイニング』が公開され、キューブリック好きの私はいさんでみにいったのでしたが、あの映画をみたとき、「これはカントのいう<シャイン>と同じだ!」「キューブリックはカントが好きなんだ!」と訳もなく興奮したことを、くっきりと覚えています。
今あらためて読み返すとすると、大いなる勘違いだと思うのですが、当時の私にとってカントは、親しく近しい思いを抱ける哲学者の一人ではありました。
投稿: ぽん太 | 2005年11月 7日 07:41
>ほとんどの名著というのは、その理解よりも、おぼろな印象を得ることの方が重要だと、私は思ってしまうのである。
----
同感です。
それにいわゆる名著を読むのは、一般人にとっては、無謀な?若い頃に限りますしね。
投稿: alex99 | 2005年11月 7日 07:47
ぽん太さん:
>私にとって『純粋理性批判』は、一種のオカルト本でありました。
その感覚、わかります。
>今あらためて読み返すとすると、大いなる勘違いだと思うのですが、
あわわ・・・、私にはあれを改めて読み返す体力ありません。拾い読みなら大丈夫そうですが ^^;)
alex さん:
>>ほとんどの名著というのは、その理解よりも、おぼろな印象を得ることの方が重要だと、私は思ってしまうのである。
>----
>同感です。
>それにいわゆる名著を読むのは、一般人にとっては、無謀な?若い頃に限りますしね。
一般人の私としては、もう、無謀さがなくなってしまって、上記の通りになってしまいました ^^;)
投稿: tak | 2005年11月 7日 11:03