« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »

2005年11月に作成された投稿

2005年11月30日

ココログが重いので、その腹いせに…

近頃、夜になるとココログがお話にならないほど重くて、とてもじゃないが更新できないので、つい朝になってからの更新になる。

夜中のいの一番にチェックしてくれる方には、甚だ申し訳ないことだが、泣く子とレスポンスの重さには勝てないのである。更新だけでなく、コメントを付けるのも一苦労のようだ。

ココログは近頃、無料版を開始したようだが、無料版の方は夜になっても更新のための管理画面がサクサク動くようなのである。それに、無料版の方が有料版より高機能で、有料版のバージョンアップは 3月まで待たなければならないというのである。

ふざけるのもたいがいにするがいい。有料版のバージョンアップをし、いつもサクサク動く対策をしてから、それより機能の落ちる無料版を開始するのが、人としての道だろうが。これだけを見ても、@nifty は外道である。

私はむっちゃ腹を立てているのである。めったに怒らない私だが、ひとたび怒ると、かなり本気で怒るのである。今は忙しいし、すぐ引っ越しするのも面倒だから、取り敢えず 3月までは我慢してみるが、いずれは、本宅ごと引っ越ししてしまおうかと思っている。

と、ここまでは今日の本題ではない。ここからが本題である。

昨日に続いて、ちりんさんの「ちりんのblog」で見つけたネタだが、タイピングについてのお話だ。「女医ななこのひとりごと(大学院生になりました)」 というブログに、次のような記述がある。

東京でSEやってる友人(女子、数年前からのお付き合い)の日記をこっそり見ていたら、「病院にいって電子カルテうってる医者の手つきをみて私が打ち込んでもいいですか?といいそうになりました」と書いてあった。「電子カルテにタッチタイピングのセットもつけて売るべきだと」。

「うぅむ、その気持ち、わかる!」 と、膝を打ちたくなった。

私のタイピングは、そうムチャクチャ速いというわけではないが、以前に業界団体事務局に勤務していた頃は、会議の議事録を直接ワープロで打って、会議終了と同時に議事録も仕上がっているというぐらいのことはしていた。

こうしてコラムを書いている時でも、一応考える速さでタイプすることができると思っている。

それだけに、タイプの遅い人に付き合うのはちょっと苦痛だ。「貸せ、俺が打つ!」と言いたくなったことは何度もある。しかし、遅い人に限ってローマ字入力ではなく、かな入力だったりするので、実際に代わって打つと、わけのわからない文字の連続になって、こけてしまったりする。

そして、文字の入力でイライラするのは、なにもキーボードのタイピングだけではない。手書きの場合も同様である。

かなり以前の話だが、奥多摩の雲取山から下山する途中で、高そうなアルミ蒸着付きマウンテンパーカの落とし物を拾い、奥多摩駅前の交番に届けたことがある。

ところが、その交番のお巡りさんが、拾得物に関する書類を書くのに、とてつもなく手間がかかるのだ。落ちていた場所とか状況とかを、私の話を聞いて書こうとするのだが、基本的に字を書くのが遅い上に、漢字を知らない。

私は、奥多摩から帰る電車の時間を気にしているのである。できることならさっさと帰りたいのだが、行きがかり上、拾得物書類が仕上がるまで、この漢字を知らない若いお巡りさんに付き合わなければならない。

「貸せ、俺が書く!」と言いたかったが、相手がお巡りさんなので、やや柔らかく「私が書きましょうか?」と申し出ても、「いや、これは、本官が書かなければなりませんから」などと言って、人の好意を受けようとしない。

結局は、一言一句、私の言うとおりに口述筆記させ、ややこしい漢字はその都度、広告の裏に書いてあげて、ようやく仕上がった。

お医者さんはタイピングの練習が必要になる時代だが、交番のお巡りさんも、最低限の文章の書き方と、漢字ぐらいは勉強しておいてくれないと、落とし物を拾っても届けるのをためらってしまいそうだ。

[追記]

取り敢えず、ノー天気なブログを書いているニフティの古河社長に怒りのトラックバックをしてみた。

すると、ココログの不誠実さに関して、腹を立てている方が他にも多く見つかったので、その中のごく一部だが、以下に挙げる方にトラックバックさせていただくことにする。行って読んでいただければ、ニフティへの信頼ががた落ちになっていることがおわかりになると思う。

劇団天野屋 Part3
ココログ不具合に対するニフティの対応が極めて不誠実である

Massie's Strange Love
ふざけるな!ニフティ

とりあえずブスコパン!
ココログは障害が多くてブログ記事を書くモチベーションがさがってしまう

まるこ姫の独り言
昨日は最悪だった!

愚者の思考
ココログからの撤退....

 

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2005年11月29日

「経県値」というもの

夜中に当コラムを更新しようとしたが、ココログが重すぎて話にならない。諦めて寝てしまい、朝になってから保存しておいたテキストをアップしようとしたが、その前に面白い話題を見つけたので、書き直すことにする。

ちりんさんの「ちりんのblog」で、「経県値」 というサイトを見つけたのだ。

以前、自分の年齢と同じ数の都道府県に行ったことがあれば、立派なものだとか、いやいや、年齢の半分ぐらいが妥当なところだろうとかいう話を、どこかで読んだことがある。

自分のケースで見ると、39都道府県しか行ったことがない。まだ通り過ぎたこともない県(上空は除く)が 8県もある。

日本全体で 47県しかないのだから、年齢と同じ数という視点で言えば、すべての都道府県に行っていなければならないのに、正直に言うが、4分の 3にも達していない。甚だお恥ずかしい数字ということになる。

しかし、見方を変えると、私は多くの場合、仕事で何度も訪問して、現地の人に密着取材などをしているので、それぞれの都道府県にかなりきっちりとした印象をもっている。単なる団体旅行などでさっと通り過ぎただけというケースとは、密度の差があるという自負はある。

その点、今回紹介する「経県値」というサイトは、多少の考慮が施されている。住んだことのある都道府県に 5点のポイントを与え、以下、「泊まった」「歩いた」「降り立った」「通過した」に、それぞれ、4点、3点、2点、1点を与えるという計算法を採用しているのだ。

個人的には、「泊まった」の前に 「1週間以上滞在した」というのがあると、より公平になるのではないかと思うのだが、まあ、それは置いておこう。(なお、算出するには、残念ながら IE でないと正しく表示されないようである)

というわけで、私の「経県値」 を算出すると、155点ということになった。これは、Google で検索して他と比較してみても、高得点の部類に入る。山形、東京、茨城の 3都県に居住し、他にも泊まったことのある道府県がかなり多いことが、高得点につながったようだ。

とはいえ、本州の中でも、富山、島根、鳥取の 3県には行ったことがなく、四国も高知以外の 3県には足を踏み入れていない。そして、宮崎、沖縄の 2県は、ちょっと難易度が高いような気がする。死ぬ前に、なんとか全都道府県を制覇したいと思う。

神社仏閣好きの私としては、出雲大社のある島根県に行ったことがないというのが痛恨だ。また、なんとか沖縄に行く仕事が降って湧いてこないかなあと、ここ数年来思っているが、まだ叶っていない。

それから、世界ということになると、私の行ったことのある国は本当に限られる。米国、ドイツ、フランス、香港 (今となっては 「中国」 になったが、いわゆる中国本土には行ったことがない)の 3カ国、1地域のみである。今どき、少ない方かもしれない。

ただ、米国には 8回 (すべてニューヨークまで足を伸ばしていて、ハワイ止まりとはわけが違う)、ドイツと香港には 5回ずつ行っている。まあ、仕事でしょっちゅう海外出張している人には敵わないが。

できれば、生きているうちに東欧にも行ってみたいと思っている。

 

続きを読む "「経県値」というもの"

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005年11月28日

蕎麦としじみと、地吹雪

私は 18歳で郷里の酒田を離れて単身上京し、東京で学生生活を始めたのだが、日常生活に関しては、言葉の面も含めてまったく違和感を感じなかった。

ただ、しみじみと違いを感じたのは、蕎麦の盛りの量、味噌汁の具のしじみの大きさ、そして、冬の間の天気である。

蕎麦の盛りに関しては、それはそれは大きなショックを感じた。江戸前の蕎麦はさぞかしうまいものだろうと、某有名蕎麦屋に入り、盛りそばを注文し、目の前に現れたのは、まさに二口半で食いきってしまいそうな量である。

思わず、「これじゃあ、『おやつ』じゃないか!」とつぶやいたのだが、まさに江戸前の蕎麦とは、本格的に腹を満たすためのものではなく、小腹の空いたときにたぐる「おやつ」なのだそうだ。

太くてどっさりとした量の、まさに「腹一杯食う」ための田舎蕎麦と、ちんまりした江戸前の蕎麦とは、まったく別の世界の食い物だったのである。

しじみの場合は、驚いたというよりは、納得したという感覚である。酒田にいた頃から、しじみ汁は汁だけ吸って、実は残すのが粋だと聞いていたから、江戸っ子というのは、なんともったいないことを言うのだと思っていた。

ところが実際に東京に出て、トンカツ屋の味噌汁を見て納得した。江戸のしじみは小さいのである。この小ささなしじみの実をいちいち食っていたら、日が暮れてしまう。なるほど、出汁の効いた汁だけ味わって、貝の方は残すのも当然だとわかったのである。

翻って、酒田で食っていたしじみは、大きいのである。東京のあさりぐらいはある。あれだけ大きければ、食わなければもったいないのだ。

さらにだめ押しは、冬の間の天気である。大学 1年で初めて東京の冬を迎えたが、初めは冬という気がまったくしなかった。東京とはいえ、冬に寒くないというわけではない。当時は今よりずっと寒くて、さすがにコートを着て背を丸めて街を歩いていた。

それでも冬という実感がなかったのは、天気のせいである。かなり寒くなってから、ようやく冬であると気付いた私は、思わず独り言を言った。

「冬なのに、どうしてこんなに天気がいいんだ!?」

そう、田舎の冬は、青空なんて見えないのである。どんよりとした暗く重い雲が立ちこめ、地吹雪が舞う。それなのに、東京の冬は毎日毎日、青空続きである。同じ日本とも思えなかった。

東京の冬は最高だと思った。こんな冬なら、一年中冬でもいいと思ったぐらいである。

しかし、わからないものである。今、私は田舎の地吹雪が妙になつかしい。

どっさり盛られた太い田舎蕎麦と、大きな貝殻のしじみ汁、そして、地吹雪の吹きまくる冬こそが、私にとっての 「日本」 なのだと思うのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2005年11月27日

「あれば便利」は「普段は邪魔」の別の言い方

「あれば便利」というもののかなりの部分は、「ない方が身軽」というメリットを無視しているように思う。

昨日の手帳論議の関連で思うのだが、「システム手帳」というのは、この「あれば便利」を野放図に取り込みすぎた結果、あんなにも分厚く権威的になってしまったのだろう。

自分でもシステム手帳を使った経験があって言うのだが、あの分厚いカバーに収められたリフィルのうち、本当に重宝して使えるのは、スケジュールなどを書き込むダイアリー部分と、フリーに使えるノート部分ぐらいのものである。

ToDo リストなんていうのは、スケジュール表を工夫することで事足りるし、電話番号・アドレス帳は、今ではケータイに入っている。「読みたい本、聞きたい CD、見たいビデオのチェックに」なんていう "Book, CD, Video Check" リフィルが必要なほど、超趣味人でもないし。

ましてや、日本全国の鉄道路線図、都内の地下鉄路線図、主要駅周辺の案内図、郵便料金表、年齢早見表、海外旅行に必要な物チェック表等々は、そうしょっちゅう必要になるものではない。

確かに「あれば便利」だろうが、「常に手元になければならない情報」というわけでもない。探せばどこにでもある情報を常に自分で持ち歩くというのは、かなりうっとうしい。

システム手帳ばかりではない。台所の「便利グッズ」なんていうのも、かなりそんなところがある。ジューサー・ミキサーをきちんと使いこなしている家は少なくて、ほとんどはしまいっぱなしだとか、大根の皮むき器なんてものが、どっかの片隅にあったはずだけれど、つい手近の包丁で済ましてしまうなんていうのは、よく聞く話である。

小さいサイズの文房具をセットにしたものとか、歯ブラシや爪切りなどの旅行グッズのセットなんかを、プレゼントにするのが流行ったことがある。私もいくつかもらったことがあり、何度か出張に持っていったが、余計なものまで入っていてかえってかさばるので、すぐに止めた。

アーミーナイフに、鋏、爪切り、ドライバー、缶切り、コルクスクリューなど、ありとあらゆる機能を詰め込んだものがあるが、あれで爪を切っている人を見たことがない。今どきあんなものをポケットに入れていたら、飛行機に乗れないし。

そんなことを思いながら、改めて家の中を見回すと、あるわあるわ、「あれば便利だが、なくても全然困らないモノ」だらけである。それにここ数年、一度も使ったことのない道具だって、いくつもある。

要するに、「あれば便利」は「普段は邪魔」の別の言い方に過ぎないのである。

そろそろ年末の大掃除が近づいてくる。今のうちに、捨てる物はどんどん捨てて、身軽な暮らしにしてしまおう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月26日

新しい年の手帳

新しい年の手帳を買うシーズンである。ちなみに、私はここ 7年ほど、"「超」 整理手帳" というのを愛用している。

私は手帳は使い出したらあまり浮気はしないタイプで、気に入ったらかなり長く使う方だが、その中でもこの "「超」 整理手帳" というのは最も長く使っていることになる。

社会に出て、一番初めに使ったのは、いわゆる「能率手帳」タイプの小型手帳だった。記者生活が長かったから、一つのプロジェクトに中長期にわたって関わるというタイプの仕事ではない。その日その日の短期決戦である。だから、一日ごとのアポイントがわかりさえすればいい。

そうこうしているうちに、20年前頃から流行りに乗ってシステム手帳を使い始めた。何でもかんでも 1冊の手帳で済んでしまうので、確かに便利で使いやすいような気がしていたのである。

この頃は、記者の仕事から団体事務局に変わった時代であり、中長期にわたるプロジェクトの進捗状況が把握できることも、重要ポイントになってきた。そして、あまり出歩かないので、どんなにかさばっても不便がなかったのである。

ところがいくら出歩くことが少なくなったといっても、やはりバイブルサイズのシステム手帳は、かさばりすぎるし、重すぎる。それに第一、ご大層すぎる。よく見てみると、カバーの中に綴じ込んであるリフィルの半分以上は、不必要なものだ。

ご大層さに嫌気が差してはきたが、能率手帳タイプに戻る気もしない。そんな時に見つけたのが、"「超」整理手帳" だった。

この手帳のメリットは、「薄い」ということである。A4 四つ折りサイズだから、縦がかなり長いのだが、薄さ故に、ジャケットの内ポケットに入れても違和感がない。それに、その時々に必要なデータを A4 用紙に印刷し、四つ折りにして挟み込めるのが重宝である。

例えば出張の際などは、利用交通機関、訪問先の地図、ホテルの地図などをプリントして、挟み込んでおけば、それだけで迷わずに済み、用済みになったものからどんどん捨てて行けば、常に薄さのメリットを享受できる。

周囲を見ると、電子手帳を使ってスケジュール管理をしている人も多いが、私の場合は、そんなご大層なものを使わなければ錯綜してコントロールできなくなるほどの超過密スケジュールというわけではない。紙に手書きをするタイプで十分だ。

何しろ、スケジュール管理なんてメモ書きで事足りる。きれいな文書にするのならキーボードを使う方が早いが、メモ書きなら、さすがに手書きの方が早いのである。それに、電話番号ならケータイに入っているので、わざわざ別のデバイスに入れておく必要もない。

スケジュール管理だけなら、薄い手帳で十分なのである。

 

続きを読む "新しい年の手帳"

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005年11月25日

サンタクロースは本当にいる

そろそろクリスマスまであと 1か月ということになり、私のサイトのあるページへのアクセスが急に増える季節になった。

それは「サンタクロースは本当にいる! というページ。私のサイトの中では最も美しい言葉のページなので、毎年今頃の時期になると、自分で宣伝しているのである。

子どもに「サンタクロースって本当にいるの?」と聞かれて、どう答えたらいいかわからないという親が多いらしいが、それが私には信じられない。

私は自分に子どもができるずっと前から、答えを用意していた。

「サンタクロースは、いるよ。本当にいるんだよ」と答えればいい。ただ、それだけでは、子どもは納得しないだろうから、ちょっとした説明を付け加えなければならない。

それがどんな説明かは、私のサイトを見ていただければわかる。→ Click!

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005年11月24日

インターネットと当事者意識

インターネットの常時接続環境が当たり前になってしまうと、ダイヤルアップというのが、とてもおっくうになってしまう。

しかし、世の中には今でも常時接続していない個人や企業というのが、いくらでも存在する。彼らにとっては、インターネットなんて、せいぜいその程度のものなのだ。

私の周囲にも、ダイヤルアップでしかインターネットに接続しない個人、企業が存在する。昨日も、クライアントの一つである某企業から、「インターネットにつながらなくなったから、見てもらいたい」と電話が入った。

その企業は、ISDN のダイヤルアップでインターネットに接続している。その接続設定をみると、なぜか、常時接続用の環境を想定していて、「ダイヤルしない」にチェックが入ってしまっている。

「ダイヤルする」にチェックを入れてやると、あっけなく接続した。「こんなことで、いちいち呼び出さないでよ」と言いたくなるが、ある意味、もっと深刻なトラブルでなかっただけ幸いだ。

それより問題なのは、こうした企業のパソコンは、セキュリティ対策をほとんどとっていないことである。ほんのたまにインターネットでウェブをながめるだけで、メールのやりとりもほとんどしていない(今でも FAX がメインの通信手段)ので、その必要性を感じないらしい。

自分はインターネットの一翼を担っているのだという「当事者意識」が決定的に欠けている。

こうした企業を説得して、セキュリティ・ソフトを導入させるのは難しい。自分のところには、ウィルスなんて来ないと思いこんでいるからだ。しかし、時々ウィルスが爆発的に流行するのは、こうした無防備なパソコンを経由して広がりを見せる場合が多い。

ヘビー・ユーザーは案外しっかりと対策してある。恐いのは、初心者、たまにしかインターネットに接続しないユーザーである。ある意味、セキュリティを確保するには、ヘビーユーザーになって 「当事者意識」 を高めることだと思う。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月23日

情報は「一ひねり」してこそおもしろい

マスメディアから発信されるの情報への接し方として、「鵜呑み派」と「マスコミ信じない派」の両極、そしてその中間の、「ある程度信じる派」と「一ひねり派」の 4派に大別されると思う。

私自身は 本宅サイトで標榜しているように、当然「一ひねり派」である。

世の中で案外多いのは、「鵜呑み派」だ。これだけ価値観が多様化しているというのに、マスコミ情報をいともたやすく信じ込んでしまう。テレビの健康番組で紹介された食品が、翌日のスーパーで品切れになってしまうのは、こうした「鵜呑み派」が多い証拠である。

特定の食品を急に食ったからといって、そんなに簡単に血圧が下がったり腹の脂肪が落ちたりしたら、誰も苦労はしないのである。

卑近な例で言えば、和装業界の重鎮が「足袋の足指の股を『小股』と言います」ともっともらしく証言するだけで、「小股の切れ上がった」という成句の「小股」までそうだと信じるという、業界用語と世間一般の言葉との区別のつかない人もこの範疇に入る。

これに関しては、相撲の決まり手の「小股すくい」が、足の指の股をすくうものでないというだけで論破されると、私は 10月 30日の当欄で述べている。

「鵜呑み派」の対極に、「マスコミ信じない派」がいる。1970年代頃までにかなり多かったのは、「ブルジョア・マスコミの言うことは信じない」という左翼だったが、最近はかなり下火になってしまった。

その代わり最近では、「世界を影で動かしているのはユダヤ資本」とか、「フリーメーソンの陰謀」とかをまともに信じて、「マスコミは意図的にウソばかり流す」と言い出す種族が、けっこう増えている。これはこれで、ちょっとアブナイ。

中間派の中の「ある程度信じる派」というのは、フツーの日本語で言い換えれば、「常に流される派」ということである。一見すると常識的で穏健で無難だが、決して情報に主体的に接しているわけではない。

このサイトで目指しているのは、同じ情報でも「一ひねり加えた視点」から見ることだ。そうすることで、見えないことが見えてくることがある。悲劇が喜劇になることもある。絶望が希望に変わることだってある。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月22日

広報のあり方について考える

1990年代前半、私が某外資系団体の広報部に勤務していた頃、日本の品質管理部門と米国の広報部門は同レベルで、さらにまた、米国の品質管理部門と日本の広報部門も同レベルだと言われていた。

前者は高レベル、後者は低レベルの代表例として言われてIいたのである。

確かに、日本の品質管理(quality control)は国際的に見て高レベルだった。工業製品の品質のみならず、サービスのクォリティもそうだった。

惜しむらくは、その高いクォリティを対外的にきちんと広報するパブリシティのレベルが、国際水準より低かったので、マーケティングに十分に反映できないケースが多かった。

一方、米国の工業製品の品質は、平均的には日本のそれよりかなり劣っていた。しかし上手な広報にかなり助けられていたように思われる。

「米国の工業製品の品質は必要十分であり、過剰品質を追い求めてもコストに跳ね返るだけ」というレトリックは、ある意味開き直りでもあるが、確かに説得力があった。同じことでも「この程度で何がいけないんだ? これ以上無駄な金をかけてどうする?」などと言ってしまったら、ぶちこわしである。

品質というのは、チームワークにより地味で細かな作業をこつこつ積み重ねることで向上する。日本の場合は、コストを度外視してでも品質向上を目指すような土壌があった。「チームワークでこつこつ積み重ねる仕事は苦手だ」と思っている日本人でも、大抵の場合、平均的米国人よりは上手にこなせるものだ。

一方、広報というのもチームワークの作業ではあるけれども、個人のセンスによる部分が相対的に大きい。広報畑で 10年やってきた日本人でも、国際的な PR ということになると、米国の駆け出しにも劣ることがある。

日本の外交を見ていると、その広報下手が如実に感じられる。日本の広報は国益を最大限に確保するというスタンスがなく、さらに同じことを言うにもきちんとしたレトリックがないので、下手な言い訳にしか聞こえない場合が多い。

さらに国内的には、なぜか国益を重視するパブリシティよりも、外国の利益を代弁するパブリシティの方が力を持っている。「国益優先の傲慢を廃し、周辺諸国の声を謙虚に代弁する」ことが使命であるかのように振る舞うマスメディアというのは、いい悪いは別として、少なくとも日本特有の現象である。

広報とは、自らの利益を確保しつつ、さらに他者の理解を得るのみならず、尊敬の念すらも喚起できるようなものであるべきだ。日本の広報は、そうしたコンセプトを決定的に欠いている。それはとりもなおさず、その基盤となる哲学の欠如によるものといえるかもしれないが。

その上、あれだけ優秀だった日本の品質管理も、今では国外での生産比率が高くなってしまったこともあり、かなりレベルが落ちてきてしまった。うっかりしていると、品質管理も広報も低レベルの国になりかねない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2005年11月21日

庄内柿のパラドックス

毎年この季節になると、庄内柿が家の中にあふれる。ところが、この柿は食べ頃がとても短く、放っておくと、グニャグニャになってしまう。だから、さっさと食べなければならない。

だが近頃は、どの家でも子どもはあまり柿を食べたがらない。それで、一家の主は毎日 5〜6個ほどの「柿責め」に遭うのである。

庄内柿については、mago さんの「まったり田舎暮らし」というブログできっちりと説明されているので、ご覧いただきたい (参照)。

何しろ、庄内柿というのは不思議な果物である。買ってきた覚えもないのに、なぜか家の中の至る所に柿が鎮座ましますのだ。

いどさんの「庄内弁な日々」というブログでもひとしきり話題になっている(参照) が、そこでも「買わなくても、向こうから来てくれる庄内柿」なんて、コメントに書かれている。

とくに農家でなくても、庭に柿の木があれば、自然に家の中は柿だらけになる。そうでなくても、大抵は頼んだ覚えもないのに、親戚や知り合いから、食いきれないほどの量が送られてくる。

さらにもらいすぎて処理に困った隣近所の家が、半ば強制的に押しつけてくる。その上、コンビニなんかで「ご自由にお持ち下さい」なんて、どっさり盛ってあったりすることまであるらしい。世の中に豊富にありすぎて、庄内ローカルでは値が付かないのだ。

我が家でも先日実家から送ってもらった庄内柿のうち、半分以上を隣近所や知り合いに配り、残ったのをようやく食い終わったと思ったら、先週帰郷した際に、実家の 2軒先の奥さんから、またどっさり押しつけられた。

庄内柿というのは基本的に渋柿で、焼酎につけて渋抜きをする。これを庄内では「さわす」という。さわす期間は大体 1週間で、それを過ぎると、今度は加速度的に熟してしまい、あっという間にグニャグニャのゼリー状になってしまう。

世の中には、そのゼリー状になったものの方を好むという変わり者もいるのだが、大抵の者には、そうならないうちの方がおいしい。だから庄内柿の賞味期間というのはとても短く、一気呵成に食わなければならない。

庄内人というのは、大抵は柿好きである。しかしいくら柿好きでも、毎日毎日 5個も 6個も押しつけられては食傷してしまう。毎年食傷するくせに、それでも季節になると、庄内柿が恋しくなるというパラドックスが現出する。不思議な果物である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年11月20日

紅白にみのもんたねぇ

どうせ見ないから、あんまり関係ないけど、紅白の司会がみのもんただなんて、いいのかなぁと思ってしまう。

テレビの画面にあの顔が出てたら、私は別に理由はないけれど、確実にチャンネルを変えてしまう。だから、今年は紅白を見ない理由が一つ増えてしまった。

昨日、酒田から車で戻ってくる途中、カーラジオでずっと山形放送を聞いていた。峠道は雪模様だというので、ローカルの気象情報、道路情報が聞き漏らせないと思ったからだ。

昼過ぎ、みのもんたの番組になってしまった。なんだかエラソーにいろんなことをしゃべりまくるので、不愉快な気がしたが、なにしろローカル情報が欲しいので、ダイヤルはそのままにしていた。

彼は、ニュースにいちゃもんをつけまくっている。まず、米国からの牛肉輸入再開について、なんだかんだ言っている。こんな感じだ。(録音してたわけじゃないから、正確ではないが)

アメリカの牛は、あんまり頭数が多すぎて、管理がなってないというじゃないですか。いつの間にか、子牛が生まれてるっていう話ですよ。そんないい加減な国の牛肉、信用できませんよ! 

その点、日本の管理はしっかりしてるよ。生まれたときから耳にガチャンとシルシを付けたりして。それに比べたら、アメリカはあまりにもズサンですよ!

まあ、確かに、一理ある。いくら吉牛が復活しても、私は好んでそれを食いたいとは思わない。

その次に、最近の日本の青少年の妙な犯罪増加について切りまくっている。

若い子たちが変な犯罪に走るのは、日本の大人がしっかりしてないからですよ。本当に日本はいい加減ですから! 嘆かわしいですよ!

おいおい、「日本はしっかりしてる」と言ったその舌の根も乾かないうちに、今度は「日本はいい加減」かい。要するに、一つ一つが単なる言いっぱなしで、後は知らないってか。

確かに、これだけマスコミの体質そのものだと、「ミスター視聴率」にもなれるのかもしれない。何だか聞いてる方が恥ずかしくなってしまって、NHK にダイヤルを廻してしまったのであった。

こんなんで「紅白で 50%を狙える」 なんて豪語するのは、あまりにもリスキーじゃないかなあ。まあ、どうせ見ないからいいけど。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2005年11月19日

"Today's Crack" 10万ヒット越え

いつの間にか、私のブログ "Today's Crack" のアクセス・カウンターが 10万を軽くオーバーしてしまっている。

本宅サイトの「知のヴァーリトゥード」が 10万ヒットを達成するのに、3年半以上かかったのに、ブログの方は 1年 3ヶ月余りしかかかっていない。ブログは生意気である。

"Today's Crack" は、元々はブログを利用したものではなく、昨年の 6月までは本宅サイトの中のログでまかなっていた。ところが、それだと毎日更新して FTP するのに手間がかかってしょうがないので、7月からブログに切り替えたのである。

ブログに切り替えても、私にとっては本宅サイトのコンテンツの一部であるという意識に変わりはないので、本宅のトップページで、リード部分を示し、「続きを読む」 をクリックすると、本文が小さなサイズのウィンドウで表示されるようになっている。

このウィンドウには、右側のサイドバーは右スクロールしないと表示されない。だから、このスタイルで読んでおられる読者には、本文がブログであるということは、あまり意識されないはずだ。

そこまでして、ブログを見下しているというのに、ブログのやつは勝手放題にアクセスを稼ぎ、近いうちに本宅の通算アクセス数を追い越そうかという勢いである。痛し痒しである。

ただ、数字だけをみると、本宅がブログに凌駕されているように見えるが、実はそうではない。やはり、本宅の方に力点を置かざるを得ない状況がある。

というのは、ブログの方のアクセスカウンターは、過去ログへのアクセスでも回るのである。一方、本宅の方は、サイト内の個別記事に、検索エンジンからのリンクでアクセスがあっても、カウンターは回らない。

本宅へのアクセスは、8割が常連さんである。自分のブックマークか、アンテナから辿ってきてくれている。

それに対して、ブログの方は、常連さんは 3割に過ぎず、さらに、そのうちの半数以上は、本宅サイトのトップページから、「続きを読む」 をクリックして訪れたものだから、純粋にブログに直接訪れた数とはいえない。

残る 7割は、他のブログや検索エンジンからのリンクで過去ログに来てくれている数字だが、その中から新たに常連になってくれる確率は、本当に微々たるものだ。大方は、自分の興味が満たされれば、それだけで他に去ってしまう。

だから、見かけ上の数字は少なくても、より実質的な意味のあるのは、本宅へのアクセス数である。だから、私のホームグラウンドは、あくまでも 「知のヴァーリトゥード」 という本宅サイトである。

ただ、これから毎日更新を続けて、ブログの過去ログのバリエーションが増えれば増えるほど、検索サイトからのアクセスが増加して、カウンターの数字は加速度的に増えていくだろう。

その意味でブログというのは、インターネットの構造へのマッチングが非常に良くできている。確かに、これからも発展し続けるだろうという気がする。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月18日

大切なのは生き延びること

昨日、夕刻に酒田に戻った。いつものように、一人で寝たきりの母の介護をする父の応援である。

父は、いつもは雑事に追われ、ゆっくりとテレビを見ることもできないようだ。昨日は、私の妻が介護や家事をしている間、リバイバルの 「コンバット!」 を通しで見ることができた。

以前にも少し触れたが、父は特攻隊上がりである。もっとも、当時はまともに飛べる飛行機がなくなってしまって、もっぱら上陸してきた米軍に「肉弾攻撃」(今で言えば「自爆テロ」か) をしかける地上戦の猛訓練に明け暮れていたそうだが。

「自爆テロ」のようなものとは言え、当時は自動車で突っ込むのではない。爆弾を背負って延々と何キロも地べたを這いずり、夜闇に紛れて敵地に侵入し、そこで自らの命とともに爆破するというのである。とんでもない猛訓練だ。

まあ、そんな泥臭い訓練ばかりしていたので、父は「コンバット!」の戦闘シーンの感覚が我々よりもずっと共感できるようで、以前に民放で放送されていた頃から、数少ないご贔屓のドラマのひとつだった。

「コンバット」に関して、ブログ「玄倉川の岸辺」の kurokuragawa さんは、"前線の兵士にとって最重要なのは「自分たちが殺されずに任務を遂行すること」であって「敵を殺すこと」ではない" と感じたとの旨を述べておられる (参照)。

テレビを見ながら父に、そのようなことを書いている人がいると言うと、父は「その通りだ」と、次のように言ったものである。

日本が戦争に負けたのは、兵隊の命を大切にしなかったからだ。その点、米軍は、自国の兵隊がそう簡単には死なないような装備と戦略をもっていた。

一方、日本では、兵隊に「死ね死ね」とばかり言っていた。「七生報国」というのは、文字通り、生きて国に報いることなのだろうに、死ぬことばかり言い立てていた。

「死んで靖国で会おう」などと言うのが、美風のように考えられていたが、死んで靖国で会うより、生きて帰ってさらに国の役に立つ方がずっと尊いはずだった。日本はそれに気づかなかったのだ。

特攻隊として、戦争がもう少し長引けば必ず死んでいたはずの父である。そして、そうなれば、私もこの世に存在せず、このブログもなかった。それだけに、その言葉には重みを感じた。

幾百の「反戦」という言葉を連ねるより、実質的な平和へのメッセージを含んでいるように思う。

誤解のないように書き添えるが、父は愛国者である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005年11月17日

「モー味噌。」 を試食した

ラーメンチェーン花月の新作 「モー味噌。」 を試食した。何しろ私は「花月マスター」に認証されているので、新作ラーメン 1年間無料試食という特権を行使したのである。

せっかくの特権公使なので、その印象を書かないと、落とし前がつかないだろう。結論。意外にうまい。シチュー・ラーメンという感じ。

モー味噌。」というのは略称で、正式には 「モーモー味噌ラーメン。」というのだそうだ。私は味噌ラーメンはあまり好まないし、他のブログの試食レポートを見ても、「甘口すぎる」といった感想が多いので、はっきり言ってそれほど期待していなかった。

ところが、逆の意味で期待を裏切った。結構いける。

文字通り牛乳を加えた味噌ラーメンだが、味噌感覚は奥に引っ込んでいて、ポタージュかシチューかといった感じのスープ。上にたっぷりと白菜が添えられて、季節感が醸し出される。

ポテトなんか使ってないはずなのに、口の中の感覚が妙にポテトっぽい。この風合いを「甘口すぎる」と感じる人もいるのだろうが、決して「甘い」というわけではない。微かな酸味さえある。

妻の言うには、味噌に牛乳というのはとても合うのだそうだ(それにしては、食わせてもらったことがないが)。Google で検索してみると、なるほど、あちこちで「味噌と牛乳は意外に合う」というのが見つかる。例えばこれ

こんなのは今までのラーメンの常識にはなかったが、キワモノ的な感覚が勝っているわけでもない。一応、きちんとしたラーメンである。

花月といえば、ガツンとくるインパクトのあるラーメンが特徴だが、これは、かなり「ほんわか」としたラーメンという印象が強い。ぬるめの温泉に入って、ゆったりと肩でも揉んでもらっているような感覚で、「ほぇ〜〜」と気持ち良くため息つきたくなる。

これで白菜がもう少しきちんと処理してあって風味があれば、かなりのモノなのだが。

花月もついに米国進出するらしいが、ラーメンの基本にこだわらないアメリカ人には、もしかしたら受けるかもしれない。

来月は、もう一つの新作ラーメン、「真骨頂」が試食できるらしい。これは、ヤフーとのコラボレーションで作ったものという。どんなものやら、ささやかに期待しておこう。

今日は、酒田に帰郷する。途中、新蕎麦の田舎蕎麦が食える。実は、ラーメンより蕎麦の方が心躍る。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年11月16日

"「女王」 の読み" に凄い反響

驚いたことに、"「女王」は「じょおう」か「じょうおう」か?" に、ほぼ 1分に 1回の割でアクセスが集中している。

個人的には、つい 1週間前までは「女王」は「じょおう」であり、「じょうおう」と読む発想すらなかったので、このテーマがこれほどの関心を持たれるとは、予想もしなかった。

一昨日の 14日、本宅サイトのトップページに最近の平均値より 70件ほど多いアクセスがあり、どうしたことかとリンク元を調べてみると、増加分のほとんどが、自分のサイトの "「女王」は・・・" から来ているのだった。

経験値でいうと、どこからかのリンクや、検索によって当サイトのどこかのページに来てくれた読者が、そこから更にトップページまで辿ってくれる確率は、わずかに 5%程度のものである。

一昨日の時点では、"「女王」は・・・" のページではアクセス解析を実施していなかったのだが、経験値に当てはめると、多分 1400件ぐらいのアクセスがあったものと推定される。実質的には、ほぼ毎分 1件以上のアクセスがあっただろう。

・・・トップページに毎日これぐらいのアクセスがあったら、アフィリエイトで稼ぎまくるのだが。

Google で調べてみると、 「カトゆー家断絶」の 14日付で、リンクを張って紹介してくれているのがわかった。ここはかなりの人気サイトらしい。1000件レベルのアクセスを飛ばしてくれるのだから、なるほど、凄いパワーである。

昨日の昼過ぎにようやく、"「女王」は・・・" のページでもアクセス解析を始めたところ、上述の通り、1分に 1件ぐらいのアクセスがあるというデータが取れた。23時台に限れば、ほぼ 20秒に 1件のアクセスという繁盛ぶりである。

遅ればせながらリンク元を調べると、何と、少なくとも 40以上のブログがこのページにリンクを張って紹介してくれているではないか。たかがこれしきの話題が、こんなにも多くの関心を呼び覚ましてしまうとは、予想もつかなかったことである。

我が家では、私を初めとして、妻も 3人の娘も、全員「じょおう」派で、どうしてわざわざ「じょうおう」なんて読まなければいけないのかわからないというスタンスである。

ところが、"「女王」は・・・" のページにリンクしてくれているブログを見ると、かなり多くが自分は「じょうおう」派であると表明している。私の身近にはいないが、広い日本には「じょうおう」派が、掛け値なしにずいぶんと多いらしい。

現代国語の理屈で考えれば、「女王」の読みは「じょおう」以外にあり得ない。にも関わらず、これだけ多くの日本人が当然のように「じょうおう」であると思いこんでいるということは、やはり、歴史の中で遺伝子に染みこんだ感覚ということでもなければ、説明できないだろう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月15日

現代の奥に潜む古代

一昨日の当欄で、「女王」を「じょうおう」と発音するのは、いにしえの読みである「じょわう」の音便化した「じょをう」 − 「じょうぉう」 からきたとの推論を述べた。

しかし、そんな古い時代の発音が現代に影響するのかという疑問もあるだろう。その疑問に答えよう。影響するのである。

一昨年のちょうど今頃、私は 「知の関節技」 というサブサイトに、「食い合わせのフォークロア」 というコラムを書いた。その中で、私の死んだ祖母は、日本語の極めて古い発音を昭和の御代に残した人だったと述べている。(以下、引用)

彼女は、「はひふへほ」 を 「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」 と発音する人だった。これは音韻学によれば、平安時代の発音である。「歯が痛い」 というのを、「ふぁ、病める」と言った。ついでに、「かきくけこ」は「くゎ・き・く・くぇ・こ」だった。だから、「火事」は「くゎじ」と発音した。「『くゎじ』 出さねよ、『ふぃ』さ、気ぃ付けれ」(火事を出さないように、火に気を付けろ)と言うのであった。昭和の御代に、奈良時代の物言いを維持する、「生きたフォークロア」だった。

実は、この記述には、補足を加えなければならない。祖母はすべての「かきくけこ」を「くゎ・き・く・くぇ・こ」と発音したわけではなかったのである。

彼女は、「火事」のことは「くゎじ」と発音した。「観音さん」も「くゎんのんさん」と発音した。しかし、「勘定」、「堪忍」は 「くゎんじょう」、「くゎんにん」とはならずに、「かんじょ」、「かんにん」と言った。「寒の入り」 も、「くゎんのいり」ではなく「かんのいり」 と言った。

これらは、見事に旧仮名と照合するのである。(以下、括弧内は旧仮名による読み)

「火事」 − (くわじ)
「観音」 − (くわんおん 乃至 くわんのん)
「勘定」 − (かんぢやう)
「堪忍」 − (かんにん)
「寒」 − (かん)

尋常小学校しか出ていない祖母の語彙は、それほど多くなかった。だから、他の単語がどうであったかは、あまり覚えていないが、私は幼心に 「どうして、ウチのばあちゃんは『火事』は『くゎじ』なのに、『堪忍』は『かんにん』なんだろう」 と不思議で仕方なかった。

それが決して気まぐれやでたらめではなく、伝統的読みという極めて明快なバックグラウンドに基づいていると気付いたのは、彼女が亡くなってかなり経ってからである。祖母は、旧仮名のベースとなった古代の発音を、論理ではなく、生理のレベルでしっかりと受け継いでいたのであった。

こんな例があるのだから、「女王」(じょわう)が、「じょをう」 − 「じょうぉう」 − 「じょうおう」になるぐらいは、十分あり得るだろうということなのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2005年11月14日

大峰山強行登山は、洒落になるか、ならないか

先日、女人禁制の山、大峰山に、地元の抵抗を押し切って女性ら 3人が強行登山を決行し、各方面で物議を醸している。 (参照)。

ジェンダー問題については、私も何度か当コラムで触れたが、このケースに関しては、ちょっと馬鹿馬鹿しい気がする。しかし、世の弐チャンネラーたちは敏感に反応した。

以下は、弐チャンネルに立てられたスレッドの中で交わされたコメントの一部を 無断コピペしたものである。

1 :大峰山ネイティブ :2005/11/08(火) 04:55:27 ******
    ああいうことされると、うちら、ほんと困るんすけど。

2 :フェミニスト:2005/11/08(火) 04:56:47 ******
    ああら、何が困るっていうのよ。

3 :呆け老人:2005/11/08(火) 04:58:18 ******
    大峰山ネイティブさん、ご安心下さい。
    女人禁制は、まだ破られてはおりません。
    あの人たち、女に似て非なる生物ですから。

4 :時の氏神:2005/11/08(火) 05:00:02 ******
    はっはっはぁ、なぁるほど、これで八方丸く収まったな。

5 :じぇんふり:2005/11/08(火) 05:03:18 ******
    何が 「はっはっはぁ」 ですか。洒落になりませんよ。

6 :呆け老人:2005/11/08(火) 05:03:58 ******
    おぉ、もちろん、洒落なんかじゃないっす。
    どっからでもかかってらっしゃい。

7 :時の氏神:2005/11/08(火) 05:04:18 ******
    呆け老人、お前、心底呆けとんのか?   

(中略)

32 :め組の火消し:2005/11/08(火) 13:05:25 ******
    え、えれぇこった。
    呆け老人さんのブログが、炎上しちまって、
    おいらの手にも負えねぇ状態だぁ!

33 :ノンシャラン:2005/11/08(火) 13:07:18 ******
    え、えぇ〜〜?
    世の中には、そんなに洒落のわからんヤツが多いのか。

34 :じぇんふり:2005/11/08(火) 13:08:12 ******
    だからぁ、呆け老人ってやつが、
    自分で、「洒落じゃない」 って言ってんじゃん!

35 :フェミニスト:2005/11/08(火) 13:09:45 ******
    確かに、全然洒落になんない。

36 :め組の火消し:2005/11/08(火) 13:10:03 ******
    ま、まぁ、そんなマジにならないで・・・、
    洒落にしといてやってよ。

37 :呆け老人:2005/11/08(火) 13:11:05 ******
    洒落じゃないって、言ってんだろ!

38 :時の氏神:2005/11/08(火) 13:11:05 ******

    てめぇ、せっかく助け船出してるんだから、

    洒落ということにしといたらどうだ!

39 :フェミニスト:2005/11/08(火) 13:12:01 ******
    それで収まると思ったら、大間違いでしょ!

以後、洒落になるかならないかで、不毛なコメントの応酬が延々と続くのでありました。

この問題、なんだか議論が不毛になりやすい遺伝子みたいなモノを持ってるんじゃないかと思ってしまう。

(なお、この記事はフィクションであり、実在の個人、団体とは何の関係もありません)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月13日

喫煙は、病気? ビョーキ?

出張やら何やらで慌ただしく、つい見落とすところだったが、「禁煙指導を医療保険対象に 厚労省、給付費抑制狙う」というニュースが 11月 9日に流されていた。(参照

「生活習慣病対策の推進で医療給付費抑制を目指す同省の医療制度改革の一環」だそうだ。うぅむ。

これって、つまりこういうことだろう。「喫煙は生活習慣病の原因となり、そのために医療給付費が増えてはかなわんから、喫煙を減らすために、医療保険を使いましょう」 と。

これについては、「医療給付費を減らすために、新たに医療給付費を増やしたら、結局はトントンじゃないか」とか、「自分が好きで吸い始めた煙草を止めるために、公的な保険金を使うのはおかしい」とか、いろいろが議論があるだろう。

まあ、お金のことだけを考えたら、煙草を吸わない私の払った保険金を、自分の意志だけで煙草を止められない軟弱モノのために使われるのは、ちょっとむかつくけれど、それで周囲の煙草の煙が少しでも減るのなら、よしとしようと思う。

要するに「喫煙は病気」という認識を、政府が取り始めたということなのだろうと。これはある意味、前進じゃなかろうか。

ただ、「病気」としてのニコチン依存症は、医療行為を通じて治ることもあるだろうが、「病気」ではない「ビョーキ」の方が治るかどうかは疑問だ。

「ビョーキ」というのは、肉体的にはニコチン依存症ではないにも関わらず、単なる「クセ」で煙草をふかす連中のことだ。このことについては、当ブログの 10月 21日付「煙草を吸うなら、肺の奥まで吸え!」で触れている。

肉体的にはいつでも止められるくせに、ただ口先だけでプカプカふかしまくる連中の方が、周囲にはずっと迷惑なのだ。

こんな連中にまで保険金を使われたら、そりゃ、むっとしてしまう。

お医者さんのちりんさんも、ブログで「あれはニコチン中毒が本質ではなく、行為に対する依存という面が最も大事だと思っている」と述べておられる。(参照

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年11月12日

「女王」は「じょおう」か「じょうおう」か

あらら姫さんの日記(参照)を読んで、「女王」に「じょおう」「じょうおう」の二通りの読みがあることを知り、驚いてしまった。

あらら姫さんは「じょうおう」だと思いこんでいたようだが、私は「じょおう」以外の読みがあるとは想像も付かなかったし、他人の発音が「じょうおう」と聞こえたことすらない。

このことは、二つのポイントを含んでいる。

一つは、人間の聴覚というのは、かなりいい加減なものだということだ。あらら姫さんは "「う」のない【じょおう】なんて聞いたことも見たこともなかった" と書いておられるが、同じ日本に暮らしている私の意識としては上述の通り、「じょうおう」という発音を聞いたことがないのである。

人は他人がどんな発音をしようと、自分の発音に取り込んで聞いてしまうもののようだ。

Google で「じょおう/じょうおう」をキーワードに検索してみると、この問題を論じたページで、次のような指摘があった。(参照

アメリカで行われた心理学の実験で,地図に関する文章の 「map」 という発音をすべて「nap」に置き換えて読んでも,聞かされた人間はほとんど全く気が付かないという報告があるそうな。だから,たとえば,あなたが “じょおう” 派だったとして,会話のなかで,相手が “じょうおう” と言っても,「ああ,“じょおう” と発音してるんだな」と理解してしまって違いに気づかない。

なるほど、これは、かなり納得である。

二つ目のポイントは、国語辞典を引いても公式の読みは「じょおう」ということなのだが、これはかなり発音しにくいということである。そもそも、「う」という字が入るのは表記上の問題で、実際の発音は「じょおー」ということになるのだが、これを無意識に発音すると、「じょー」 と区別がつかない。

「じょー」と区別するためには、二つの方法がある。一つ目は「声門閉鎖」である。これは、「ことばや教え方の質問箱−掲示板2−」というサイトの、"No.7600「女王」は「じょおう」か「じょうおう」か" で紹介されている概念である。(参照

まあ、このサイトでも「閉鎖」という表現が適切かどうかということで議論があるようだが、要するに「じょおー」を「じょ・おー」と、ほんの気持ちだけ区切るようにして、ナカグロの部分でちょっとだけ声門を緊張させるのである。

「女王」の読みを「じょおう」とする場合は、この「声門閉鎖」とアクセントの合わせ技で解決しているという結論じみた指摘がなされている。ある意味、発音上の高等テクニックである。

これほどの高等テクニックを使わなくて済むのが、二つ目の方法、「じょうおう」である。

ただ、以上の考察は現代人の感覚から出発した分析である。これだと、ややもすると「じょおう」が正しくて、「じょうおう」はその変形みたいな解釈をしてしまいがちになるが、そんな単純なものではないような気がする。きっと、もっと深い事情がある。

というのは、「女王」 の古典的な振り仮名は「じょわう」である。「王」は本来「わう」であり、実際、古代においてはそのように発音されていた。

「わう」が音便化すれば「をう」になり、この本来の発音は "wo:" である。つまり、「女王」は歴史におけるかなり長い間、 「じょうぉう」 に近い発音だったはずなのだ。

私としては、現代的な意識で「じょ」と「おう」をくっつければ「じょおう」以外にないじゃないかと思っていたのだが、よく考えてみれば、日本人の意識の底には「じょうぉう」が連綿と流れており、それが今日「じょうおう」の読みになっているのだとも考えられる。

「女」 を 「じょう」 と読むケースは「女王」以外に ないといわれるが、それは勘違いに基づいている。「じょうおう」は、「じょう・おう」ではなく、「じょ・うおう」なのだから。

つまり、現代的正論の「じょおう」があまりにも発音しにくいがための、ちょっとした「先祖返り」である。先祖返りだけに、とても根強い。多分これが結論だろう。

ちなみに、落語などでは「女郎買い」を「じょうろかい」なんて発音したりする。これなんか、本来の表記は「じょらう」だが、後ろに 「買い」が付いたりすると「じょうろ」と音便化(というか 「音転」 との合わせ技?)する方が発音しやすかったのだろう。

[追記]

この問題、「知の関節技」 の定番として、やや掘り下げた形で改めてアップしたので、お時間があればご覧いただきたい。(参照

さらに、2021年 4月 21日に、この問題のまとめ記事 "「女王」の読み「じょおう/じょうおう」のまとめ" を書いたので、よろしく。

| | コメント (21) | トラックバック (0)

2005年11月11日

サービス市場は極端に振れる

10日の夕刻に盛岡から帰宅して、一息ついて初めて気が付いたのだが、ちょっと体調を崩したみたいである。これ以上無理したら、本格的に風邪を引いてしまいそうだ。

どうやら、ホテルの暖房が効きすぎて、温度調節がうまく行かず、かえって寝冷えしてしまったような気がする。

これからの季節、よくあることなのだが、ビジネスホテルの暖房の効き過ぎが、悩みの種だ。「強・中・弱」の 3段階あるうちの、「弱」 にしても温度が上がりすぎる。ホテルの中は空気が乾燥しているから、汗をかいてもすぐに蒸発してしまい、むやみに体が火照るばかりだ。

こんな時は、暖房を切ってしまうに限る。自分の部屋の暖房を切っても、両隣の部屋の暖房が入っているおかげで、ちょうど良い温度に保たれることが多いのだ。

しかし、今回の盛岡の夜は違っていた。自分の部屋の暖房を切っても、まだ暑いのである。部屋の窓を少し開き、外気を取り入れて調節する。冷えすぎる。窓を閉める。なまじ気密性がいいので、すぐにまた暑くなる。窓を開ける、また冷えすぎる。その繰り返し。

諦めてベッドに入れば、かかっているのは分厚い羽毛布団。こんなに暖かいのなら、アッパーシーツに毛布 1枚で十分なのに、これでは、眠っているうちに、どうしても布団を蹴飛ばしてしまう。

おかげで、暖房が効きすぎるために、汗をかいて寝冷え気味になるという、奇妙なジレンマに陥ってしまうのだ。朝、目覚めたときに何となくかったるい気がしたのは、そのせいだったろう。

逆に、真夏には冷房が効きすぎることが多い。和室スタイルの宿では、冷房をキンキンに効かせながら、分厚い羽根布団をかけて眠らされるところが案外多い。

省エネ、省エネと言う割には、ホテルというところは、かなり無駄にエネルギーを使っている。

多分、夏には極端な暑がりのオッサンが冷房を強めるようにクレームをつけ、冬には冷え性の女性が暖房を強めるようにクレームをつけるのだろう。それで、温度設定は極端に走る。

困ったことに、クレームをつけたがるのは、極端な暑がりと寒がりで、普通の体質の人はだまって耐えてしまう。こうして市場はいつの間にか極端な声に誘導されてしまう。

これは、ホテルのエアコンの話だけではない。サービス市場というのは、極端な要望に対応しがちなので、普通のユーザーにとっては 「そこまでしなくてもいいのに」 と、違和感を覚えることが案外多い。

一例を挙げると、百貨店の開店直後に入ると、社員・店員がずらりとならんで最敬礼して迎えられることがある。あれなんか、私は気持ち悪くてしょうがないんだが、意識が横並びだから、他がやってる以上、止めるに止められないんだろうなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年11月10日

寒い盛岡で蕎麦を食す

昨日書いたとおり、盛岡に来ている。新幹線ホームに降りた途端、「うわっ、顔が冷たい !」と思った。ここは完全に冬である。

午前中は雨が降っていたようだが、私が着いた昼過ぎには止んで、青空が広がった。私の「晴れ男伝説」は健在だったが、とにかく寒い。岩手山はしっかり雪化粧している。

日が暮れて一仕事終え、徒歩でホテルに向かったが、赤信号で止まって待っているとき、足踏みしたくなるほど寒い。ホテルのテレビを点けると、「現在の盛岡の気温は 4.6度」 言っていた。寒いはずだ。関東では真冬の気温である。

夕食は同行したカメラマンと一緒に、蕎麦料理を食べに行った。地元では有名な蕎麦屋、東家である。「そば振舞い」という蕎麦会席、一人前 2,500円に、地酒を注文。冷酒を勧められたが、恐縮ながらあまりの寒さに「お燗にして」と、軟弱な所望。

メニューは、そば菓子、そばの実とろろ、そばの和風クレープ、そば掻ぇ餅(そばがき)、そばかっけ一升漬添え、そばの鬼揚げ、季節のそば二種(きのこ種のかけそばと、きのこの天ぷらを添えた盛り)、揚げそば饅頭というそば尽くし。

そばかっけというのは、そばをのして三角に切ったものをしゃぶしゃぶにして冷やしたもの、そばの鬼揚げは、そばがぎの揚げ物と言ったらいいだろうか。

蕎麦好きの私も、これほど一度にいろいろな蕎麦料理を食したのは、生まれて初めてである。うぅむ、蕎麦は奥が深い。カメラマンと二人で、「こりゃ、当たりだったね」と満足していると、斜め向かいのテーブルで、若い女性 2人が、「わんこそば」に挑戦し始めた。

実際の「わんこそば」進行場面に遭遇したのは、これが始めてである。2人で呆然と見とれてしまった。

とにかく、店員さんが付きっ切りで、客の椀にそばを放り込んで行く。放り込んで空いた小さな椀は、テーブルにどんどん積み重ねていく。

店員さんは「さあ、がんばってぇ」「はぁい、どんどん」「そぉれ、じゃんじゃん」と、のどかながらも有無を言わせぬ迫力で、どんどん蕎麦を放り込む。それに応えて、かの 2人の女性も、かなりな勢いでどんどん食っていく。

しかし、80枚を過ぎたあたりからペースが目に見えて落ちる。それでも店員さん、容赦がない。「はぁい、逃げちゃいけませんよぉ」なんて言いながら、どんどん食わす、食わす。無理やりでも食わす。

蕎麦というのは消化がいいから、食いすぎて腹を壊したというのを聞いたことがない。それで、とにかく量を食わすというのは、伝統的な発想では最大のもてなしなのだなと思い当たる。

ついに、2人とも 100枚ちょっとずつ食べた。拍手拍手。ずらりと積み重ねられた 200枚以上の椀を前にして、記念写真のシャッターを押してあげた。もちろん、シャッターを押したのはプロのカメラマンの方である。彼女たち、かなりの幸運だった。

我々も俄然、挑戦意欲を掻き立てられた。「次に来たときには、ぜひ挑戦して、200枚食おうな!」と誓い合った次第である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年11月 9日

盛岡に旅立つ

日付が変わったばかり。これから眠って、朝一番で盛岡に出張だ。

天気予報は、9日から全国的に冷え込むと言っている。Goo で調べたら、9日の盛岡は「曇り一時雨か雪、最高気温 9度」だそうだ。おいおい、それじゃ、一気に冬じゃないか。軽い気持ちの旅支度では追いつかない。

実は、私は昨日までは夏用のジャケットで過ごしていた。冬用の裏付きのジャケットでは、関東では暑すぎるのである。しかし、もうそんなことは言っていられない。何しろ、関東の冬の気候の土地に、いきなり飛び込むのだから。

慌てて冬用のフラノ地のジャケットを引っ張り出し、薄手のセーターもバッグに詰め込んだ。念のため、マフラーも持った。いくら何でも、これで凍え死ぬことはなかろう。

私は岩手県には何度も足を踏み入れたが、行ったことがあるのは、一関、中尊寺、早池峰、小岩井農場、北三陸である。盛岡は通り過ぎたことしかない。だから、市内の様子はさっぱり知らない。

せっかく盛岡に行くのだから、当地の美味しい蕎麦でも食って帰ろうかと、インターネットで検索してみたら、盛岡の蕎麦といえば、「わんこそば」が名物だということに気が付いた。しかし、わんこそばは一人前で 2,000円以上するらしい。なるほど、量を喰うのだからそれぐらいにはなるだろう。

しかし、なにもそんなに量を喰う気はないから、普通の蕎麦で十分である。わんこそばというのは、多分、「ハレ」 の蕎麦なのだろう。何かの時にわーっとやるという感じなのではなかろうか。

明日は早出だから、今日のところはこれにて失礼。盛岡については、明日と明後日で旅日記的に書くつもりである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 8日

「フェミニズム」「侘び寂び」「プロレス」の三題噺

昨日の当欄で、10月 31日付毎日新聞夕刊に載った上野千鶴子氏の「フェミニズムはどこへ向かうのか?」という文章について、遠回しにイチャモンを付けさせていただいた。

その記事のすぐ横に、詩人の城戸朱理氏の "「侘び」と「寂び」の意味" というコラムがあり、興味深い指摘がなされている。

城戸氏は "「何かがかけている」状態が「侘び(わび)」 、そのときに感じられる心理が「寂び(さび)」だと言ってもよい" として、次のように論じている。

このようにして、考えていくと「侘び」も「寂び」も決して曖昧なものではないのだが、このような日本的な理念が、ときとして曖昧なものとして誤解されるのは、日本語というものが、微妙なものを微妙なままに表現するような言語として生成してきたからではないかと思う。

その「非論理性」を日本語の欠陥であるかのようにいう論調がある。しかしそれは、ある意味で正しくはあるが、普遍的真理ではない。

日本語の特質というものが、論理的な表現には向いていないが、幽玄なる表現にはとても向いているということである。一面の欠陥は、他方面では大変なアドバンテージになる。

彼女は「侘び」「寂び」の美意識を 「それは欠落を孕むことで完成する、ひとつの世界なのであって、日本人に深く刻み込まれた、美意識なのだと思う」と結んでいる。

唐突に、こともあろうに、この美意識をプロレスと結びつけるのは、無茶苦茶なお話に見えるかもしれないが、どうやらそうでもないということが、Rtmr さんの 「和泉元彌師は世阿弥の再来である」 というテキストをご覧になれば、わかる人にはわかると思う。

「秘すれば花」であることを、ことさらにストレートに言うのは、無粋なのである。だから、私も昨日の記事を、ごく遠回しなイチャモンに止めておいたのであると、今日になってからもっともらしく言ってしまっては、せっかくの「侘び寂び」を台無しにしてしまっているなあ。

全てを語りきらないというテクニックは、学んでおいて損はなさそうな気がする。私のテキストは、まだまだ老獪さに欠ける。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年11月 7日

「女女格差」と「男男格差」

10月 31日付の毎日新聞夕刊で、上野千鶴子氏が「フェミニズムはどこへ向かうのか?」という文章を書いておられる。

"ネオリベの下で広がる「女女格差」/男に有利な社会は変わっていない" という見出しだ。フェミニズムの新思潮は、同性の中に新たな「敵」を見出すことのようにさえ見える。

上野氏は、今回の総選挙で女性国会議員が史上最多の 43人に達したことを挙げ、「わたしたちはこれをもって、自民党が『女にやさしい』政党に変身した、と解釈していいのだろうか?」と疑問を投げかけている。

聞くだけ野暮である。そんなはず、ないではないか。

当然それがわかっているから、上野氏自身、「女ならだれでもいいのか? 今度の選挙ほど、この古くからある陳腐な問いが、新たな意味をもったことはない」と重ねて述べている。この「陳腐な問い」が、そんなに「古くからある」とは知らなかったが。

この問いにも、同じ答えを繰り返すほかない。「聞くだけ野暮である。そんなはず、ないではないか」 と。「男ならだれでもいい」というわけないのと同じである。

上野氏はさらに次のように述べている。

ネオリベのもとで拡大する格差に、女もまた巻きこまれている。男女格差だけでなく、女女格差が拡大し、「勝ち組」のなかに参入する女性が増えるいっぽうで、「負け組」の女は「自己責任」とされる。

皮肉なことに、上野氏の指摘する 「女の中の "勝ち組"」 として 「少子化・男女共同参画担当相」 に就任した猪口邦子氏は、先月中頃の外国人記者クラブでの記者会見で、 "Mr. Koizumi is the most gender-minded prime minister." (ANN の翻訳字幕では  「小泉総理は男女差別の意識のない人です」 )と言い放ち、外国人記者は、その発言にどっと湧いていた。(参照

この外国人記者団のどっと湧いた笑いの中でも、最もシニカルな笑いに、上野氏は同調しているようにみえる。「勝ち組」のいう "gender-minded" という要素など、信じるに足りないことのようなのである。

ここでは、"「自己責任」とされる「負け組」は、女だけではない" という、当たり前すぎて言うまでもない事実を、敢えて言っておこう。「男男格差」だって相当のもので、男であるからというだけで「有利」というほど、世の中は単純に甘くない。

もう一つ付け加えるとすれば、上野氏はこの文章の末尾に近いところで 「女が家族の外でも、ひとりで安心して子どもを産み育てることができる社会を」と述べておられるが、「女はひとりで安心して」も、私には、子どもが本当に安心して育つかという視点が抜け落ちている点で、一方的な言い方のように感じられる。

ここから先の議論は、私ははっきり言って腰が引けている。というか、リスク覚悟でまともに切り込むほどの意義を見いだせないでいる。

【平成 19年 6月 21日 追記】

「女女格差」 ということばが、1年半も経ってから AERA の記事のせいで、にわかに生き返ってしまったようだ。その件については、こちら

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年11月 6日

『純粋理性批判』 の印象

自慢じゃないが、私は、あの分厚いカントの 『純粋理性批判』 を完読したはずなのである。多分 20年以上前のことだ。

しかし、その内容が理解できたとは到底思っていない。そもそも、毎晩ベッドで睡眠薬代わりに読んでは、いつの間にか寝入ってしまうという繰り返しだったのである。

前日に読んだ(はずの)部分もほとんど忘れているのに、まったく構わず、単にしおりのはさんであるところから再び読み始めるというだけだから、理解できるはずがない。そもそも、しおりをはさんであるページが、昨夜に読み終えたページという確証もないのだ。

この本は、私の睡眠導入に最高の効果を発揮しただけだったが、それでも、頭の中にはおぼろな印象とも呼べそうなものは、確かに残った。

名著というもののパワーとは凄いものである。ほとんどの名著というのは、その理解よりも、おぼろな印象を得ることの方が重要だと、私は思ってしまうのである。

『純粋理性批判』 の 「おぼろな印象」 をメタファーとして表現すると、こんなことになると思う。

算盤は電卓より優れているというテーゼがある。算盤では暗算が可能だが、電卓では不可能だからだ。

しかし、そもそも算盤の暗算というのは、実際の「数」のプロセスを頭の中の珠の上げ下げに還元しているというだけで、すでに「虚構」である。それは、電卓内部の電子的処理と同じぐらい「虚構」である。

じゃあ、「リアル」とは一体何なのか? それは、「虚構」と見えるものの狭間から、垣間見るしかないものかもしれない。

何だか禅問答じみているが、『純粋理性批判』の字面のみを毎晩ぼんやりと追ううちに、こんなような漠然とした考えが、浮かんだのである。

私のこの印象が、「純粋理性批判」 を正しく要約しているとは思えない。しかしもしかしたら、当たらずといえども遠からずぐらいのレベルにはなっているかもしれない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年11月 5日

北朝鮮帰りのおねえさん

こんな話題、馬鹿馬鹿しすぎると思って、4日の夜までは無視していたのだが、「報道ステーション」の「独占インタビュー」というのを見て、俄然考えが変わってしまった。

例の北朝鮮亡命帰りの 「北川和美さん(31歳)」である。今どき珍しい、やたらキモおもろい天然素材ではないか。

この人、元オウム信者なんだそうだ。ふぅむ、さもありなん。どえらいエキセントリックだもんなあ。でも、こう言っちゃ何だが、オウム教団内部でも、あんまり使い道なかったんだろうなあ。お荷物だったんだろうなあと、恐縮ながら想像される。

教団内部でお荷物だったのに、教団がガタガタになってしまうと、世間から好奇の目で見られる。気の毒である。確かに日本国内ではいたたまれなかっただろう。しかし、だからといって、川に飛び込んでまで北朝鮮亡命とは、極端すぎる。

それに、そこまでして亡命したかったのに、そのわずか 2か月後には「帰りたい」と何度も伝えたのだそうだ。この辺りが、世間から「勝手にしろ」と冷たくあしらわれる所以である。

例の独占インタビューでは、「川をどのくらい泳いだんですか?」という質問に、真面目な顔して「10メートルです」なんて答えるんで、私は椅子からずり落ちそうになってしまった。

話を聞くまでは、相当の大河を命がけで泳いだのかと思っていたよ。まあ、「たった 10メートルの決死行」では、2か月後に里心ついてもしかたがないかもしれない。

北朝鮮では極めて「人道的に」処遇されたそうだが、日本人の私が「この人、疲れるなあ」と思ったほどだから、多分、向こうの担当者(世話係?)は、よっぽど疲れちゃったんじゃないかと思うのだ。

北のエライ人: 「どうや? あのキタガワという女、使えそうか?」
北の世話係:  「勘弁してください、どうにも使い物になりません」
北のエライ人: 「そんなにあかんか?」
北の世話係:  「なんだか、ぽーっとして、つかみ所なくて・・・」
北のエライ人: 「しゃぁないなぁ、いつまでも無駄飯食わしとけんぞ」
北の世話係:  「とっとと、強制送還してください。私、もう疲れました」
北のエライ人: 「よっしゃ、一番いいタイミングで送り返したろ」

てなことになったというのが、単純だが、実際のところなんじゃないかなあ。

それで、日朝協議再開のタイミングを見計らって、日本に最大限「貸し」を作りつつ、インタビューでは北朝鮮が「人道的だった」とアピールするように言い含めたのだろうが、いかんせん、役者が大根すぎた。

あんな調子で「日本は過去の清算をすべき」なんて言うと、完璧な逆効果である。そのあたりまで読んで、彼女の再入国を許可したのだとしたら、小泉さんもずいぶん食えないお人である。

それにしても、「支援者」の芸能プロ社長というのは、一体何者なんだ? 今回の件では、一応点数稼いだことになるのかもしれないが、あのぽーっとしたおねえさんを、きちんと最後まで面倒見てくれないと困るよ。

このおねえさん、ヴァルネラビリティ(攻撃誘発性)に満ち満ちすぎている。これ以上、インタビューだのなんだので表に出さない方がいいだろう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2005年11月 4日

「三丁目の夕日」への複雑な思い

映画 「Always 三丁目の夕日」がヒットしそうだ。物語は、昭和 33年が舞台。それは『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言した 2年後の、ちょっと特別の年だった。

長嶋茂雄が巨人に入団し、東京タワーが完成し、さらに、団塊の世代が、まさに思春期にさしかかろうとしていた年である。

力道山がロサンゼルスでルー・テーズを破り、インターナショナル選手権者となったのもこの年。2年前に「太陽の季節」で鮮烈にデビューした石原裕次郎が、「錆びたナイフ」「陽のあたる坂道」「風速40米」と立て続けにヒットを飛ばして、大スターになったのもこの年だ。

全てが右肩上がりである。昨日より今日、今日より明日は、きっといい日になると信じられる時代だった。なるほど、団塊の世代は、日本の一番いい時に一番いい時代を過ごしたわけだ。

彼らはその後、エルヴィス・プレスリーを知り、学生運動に無邪気なまでに飛び込み、社会に出て当然のように企業戦士となり、オイルショックを経て、バブルに浮かれている最中に、そのバブルが崩壊し、茫然としているうちに還暦に近づいてしまった。

彼らが自分の足元を見つめ直そうとした時、最初に立ち返るべきところが、昭和 30年代、それも、昭和 33年という、あの特別な年だったのだろう。普段は映画などに縁遠い定年直前のサラリーマンも、この作品には心を引かれるかもしれない。

さて、団塊の世代が自我に目覚め始めていたこの頃、私はようやく小学校に入学した。私にとって本当に意味のある昭和 30年代とは、その最後の年、昭和 39年というたった 1年である。

前年秋には、ジョン・F・ケネディ暗殺というショッキングな出来事があったが、この年の 6月には、新潟地震で死ぬ思いをした。秋には東京オリンピックで胸を熱くし、その直後にビートルズ旋風が日本でも全開で吹き始めた。ようやく私のアルバムのページが、まともな体裁を取るようになった。

私にとっての「オールディズ」は、中学校入学以降の、昭和 40年代の記憶である。昭和 39年は、30年代最後の年というよりは、40年代への入り口だったにすぎない。

全てが前向きで希望に溢れていた時代から少し進み、アメリカではベトナム反戦運動が台頭した。「ちょっと待てよ」、「立ち止まって考え直せ」という疑問に満ちた時代になってしまったのだ。

団塊の世代の「行け行けドンドン」ムードに、どうしても付いていけないのが、昭和 30年代に「みそっかす」でしかなかった、私の世代である。どうしても、ちょっとだけシニカルになってしまう。一方で団塊の世代は、当時の反体制運動にさえ「行け行けドンドン」だった。

だから、「三丁目の夕日」には、複雑な思いがある。昭和 30年代の、あの疑うことを知らないノスタルジックなムードの、尻尾だけは掴んでいたような気もする。しかし、両手を広げて懐かしがるのは気恥ずかしい。決して自分のホームグラウンドではないという気がするからだ。あの頃、私はまだ私自身のベースに乗っていなかった。

あんなもんで、ほろっときてたまるかという気がする。なまじ近いだけに、かえって違う気がしてしまうのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2005年11月 3日

方言ブームと「もっけだ」の意味

どこの国の言葉でも、感謝を表す言葉は美しい。「ありがとう」は、日本語で最も美しい言葉の一つである。

さらに、「ありがとう」より美しい感謝の言葉として、私は庄内弁の「もっけだの」を挙げたいのである。「もっけだの」は、「ありがとう」以上に豊富なニュアンスを含んでいる。

今年の 1月 20日の当欄で、私は次のように書いている。

「もっけだの」は「ありがとう」である。道理のわからない余所者は、「庄内人は人に何かしてもらうと、すぐに『儲けた』
なんて、はしたないことを言う」などと言う人もあるが、これは決して「儲けた」の訛りではない。「もっけの幸い」の「もっけ」 であり、意味は「滅多にないこと」である。つまり、その心は「有り難い」と同じなのである。(ちなみに「儲けた」は「もげだ」 と訛るので、違いは明らかだ)

つまり、私は「もっけだの」(語尾の「の」は、共通語の「ね」とほぼ同じ)が「ありがとう」と同じであると書いたのだが、実際は、イコールではない。厳密に言えば少し違ったニュアンスがある。

確かに、庄内人は、人に感謝してお礼を言うとき、「あいや、もっけだちゃ、もっけだちゃ、本当で(本当に)、ありがどのぉ(ありがとうね)」なんて言うことがある。「もっけだ」と盛んに感謝を述べつつ、最後にまた「ありがとう とだめ押しをする。

「ありがとう」という言葉が、自分が主体となって相手に感謝の意を表すというニュアンスが強いのに対して、「もっけだ」は、あくまでも相手が主体で、まず相手側の「もっけ (希有)」であるところの好意を立てる。その好意に対するねぎらいという意味合いが勝っているのだ。

庄内人はまず第一に、「もっけだ、もっけだ」と言うことで言外に相手をねぎらい、その次に「ありがとう」を付け加えて感謝を表すという態度表明をするのだ。決してことさらな表現ではないが、なんと控えめで奥ゆかしいことであろう。

ちなみに、「もっけだ」には、もう一つ別の意味合いがあり、「済まない」という恐縮の意を述べる際に使われる。「あの時は済まなかったね」というような意味合いで、「あん時だば、もっけだけのぅ」と言うのである。

大変に恐縮する時には 「大(おお)もっけだけのぅ」 なんて言う。この場合も、「ごめんね」と、許しを請うているわけではなく、ただひたすらに、相手が堪えてくれたことや、好意でしてくれたことに対する恐縮と感謝の意を表しているのである。

かくも率直で、しかも我欲を表に出すことをよしとしない高貴な文化の土地に生まれ育ったことを、私は誇りとするものである。

近頃、方言がブームだという。共通語だけでは表しきれない陰影に富んだニュアンスを伝えることで、日本語がより深く豊かになるのであれば、それはいいことだと思っている。

【平成 22年 5月 15日 追記】

「もっけだの」 の最もふさわしい訳は、「ありがとう」よりも「恐縮です」かもしれないと気付いた。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2005年11月 2日

猪口邦子先生はすごい!

内閣改造という年中行事(?)の度に、業界記者としてのキャリアが長かったせいで、経済産業大臣が誰になったかということ以外には、しばらく興味が失せていたのである。

しかし、今回は少々 「おや?」と思うことがあった。猪口邦子さんの「少子化・男女共同参画担当相」というポストである。

いや、別に、猪口さんのあの青いお姫様ドレスに「おや?」と思ったというわけではない。あのドレスには「おや?」というよりは、「うわっ!」と思ってしまったので、また別の問題だ。女性誌では、片山さつきさんの「聖子ちゃんヘア」を凌ぐ話題になるかもしれない。

調べてみると、こうした職位は平成 13年の中央省庁再編に伴って制定された「特命担当大臣」という制度によるもので、以後、「男女共同参画担当大臣」というポストはずっと存続して、福田康夫氏、細田博之氏が歴任している(参照)。へえ、不勉強なもので知らなかった。

話を元に戻そう。私がどうして「おや?」と思ったかというのは、先月、マドンナ議員 3人(猪口邦子、片山さつき、佐藤ゆかり、敬称略)が外国人記者クラブで、英語で記者会見したというニュースが流れたことを思い出したのである。

この記者会見で、猪口さんは "Mr. Koizumi is the most gender-minded prime minister." と口走り、この発言でどっと湧いてしまった外国人記者団を、「何がそんなにおかしいのよ!」とでもいうように、目を剥いてにらみつけていらしたものである。

この発言だが、ニュースの字幕(ANN系)では「小泉総理は男女差別の意識のない人です」と翻訳されていた。まあ、文字通り直訳すれば、「小泉さんは最もジェンダー意識をもった首相です」ということになるのだが。

問題は "gender-minded" という言葉の意味合いで、インターネットで検索したところ、「男女差別意識をもつ」という意味合いと、「ジェンダーに配慮した」という意味合いの両方で用いられているようなのだ。(以下、用例の紹介、翻訳は当管理人)

those heterosexuals or more traditionally gender-minded folks ...

異性愛者(管理人 注: つまり、いわゆるノーマルな連中)または、より伝統的な「ジェンダーマインディッド」な民衆は・・・

feminist or at least gender minded musical scene

女権主義者、あるいは、少なくとも 「ジェンダーマインディッド」 な音楽シーンでは・・・

このように、"gender-minded" という言葉は、文脈によって正反対の意味になってしまいがちな、かなり要注意な言葉のようなのである。

まあ、このどちらの意味に取られたとしても、「小泉さんは最も "gender-minded" な首相」と、突然大見得を切られたら、どっと湧いてしまう外国人記者たちの気持ちは、よくわかるような気がする。

それから、この記者会見があったのは先月の中頃だったわけだが、ここで猪口さんがとってつけたように、「小泉さんは最も "gender-minded" な首相」という発言をしたということは、この時点では既に「少子化・男女共同参画担当相」というポストへの打診があったのではなかろうかと、想像逞しくしてしまうわけである。

今回の内閣改造の少なくとも半月前には、内密にいろんな打診をしていたのかなと思ってしまうわけだ。猪口さん、代議士になってすぐに閣僚になっちゃうのがうれしくて、トボケ通すのにちょっと我慢ができなかったのかも。

どっと湧いた外国人記者団をにらみつけていたのは、「あんたたち、私のこの発言の意味のわかる日が、おっつけ来るわよ」ということだったのか。はいはい、確かによくわかりました。

ところで、「玄倉川の岸辺」というブログの記事(参照) で知ったのだが、上智大学の猪口教授の顔写真、ものすごい (恐い物見たさで行ってみたい人は、このページの 「基本写真1」 をクリック。 Firefox の場合は、拡大してみられたし)。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年11月 1日

ウォームビズの成否を占う

もう 11月。古い言い方では 「霜月」 で、いかにも寒そうだが、旧暦でいえばまだ 9月(長月)30日で、明日からようやく 10月(神無月)になる。急に冷え込んできた気がするが、本格的な寒さは、まだまだ先だ。

今日は 11月 7日の立冬を前に、「ウォームビズ」の成否を占ってみよう。

この夏、「クールビズ」はヒットして、アパレル業界でも多少は潤ったようだが、これ、本来の「省エネ」を実現するためというよりは、別の要素が大きい気がする。それは、「クールビズ」を大義名分に、男たちがネクタイの束縛から解放されたということだ。

それで今度は「ウォームビズ」である。こんなもん、成功するだろうか。なにしろ、ネクタイ着用に逆戻りなのである。積極的な開放感がないではないか。いっそ、冬でもネクタイしなくてもいい提案にしてくれ。

何しろ、近頃の都会の冬は、それほど寒くない。それどころか、場合によっては「暑い」のである。朝夕の通勤ラッシュに乗り合わせてみるがいい。ただでさえ人いきれでむんむんしているのに、座席の下からは暖房の熱気がこれでもかというように迫ってくる。

窓ガラスは外気との温度差で曇り、満員の乗客は額と鼻の頭に玉の汗をかきながらふうふう言っているのが、都会の朝夕の通勤風景である。電車の中は、夏が寒いほどで、冬になると、逆に暑苦しくてたまらなくなるのだ。

こんな時に、「ウォームビズ」なんかで、暖かい下着にウールのベストを着て、その上にコートなんか重ねてみるがいい。会社に着くまでに大汗かいて消耗してしまう。ただでさえ、オジさんたちは暑がりの汗っかきなのだ。

もしかして需要があるとすれば、レディスの「ウォームビズ」である。冬でも厚ぼったくならないために、保温性のある機能性肌着かなんかは売れるかもしれない。さらに夏のオフィスの過剰冷房対策に、年間通して需要があったりするかもしれないではないか。

「ウォームビズ」が大ヒットするとしたら、石油価格という要因が考えられる。石油高騰で暖房コストが大幅に上がったりしたら、どこもかしこも暖房設定温度を下げる。そうなったら、オジさんもネーチャンも関わりなく、皆「ウォームビズ」に走るだろう。

ただ、これって、実は本末転倒である。本来は CO2 削減のために「ウォームビズ」を促進するはずだったのだが、結果的には、背に腹は代えられないということで、暖かい服を着ざるを得ないということになるかもしれないのだ。

でもまあ、それならそれで OK と言っておこう。通勤電車でサウナ状態を我慢しなくて済む方がありがたい。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »