「フェミニズム」「侘び寂び」「プロレス」の三題噺
昨日の当欄で、10月 31日付毎日新聞夕刊に載った上野千鶴子氏の「フェミニズムはどこへ向かうのか?」という文章について、遠回しにイチャモンを付けさせていただいた。
その記事のすぐ横に、詩人の城戸朱理氏の "「侘び」と「寂び」の意味" というコラムがあり、興味深い指摘がなされている。
城戸氏は "「何かがかけている」状態が「侘び(わび)」 、そのときに感じられる心理が「寂び(さび)」だと言ってもよい" として、次のように論じている。
このようにして、考えていくと「侘び」も「寂び」も決して曖昧なものではないのだが、このような日本的な理念が、ときとして曖昧なものとして誤解されるのは、日本語というものが、微妙なものを微妙なままに表現するような言語として生成してきたからではないかと思う。
その「非論理性」を日本語の欠陥であるかのようにいう論調がある。しかしそれは、ある意味で正しくはあるが、普遍的真理ではない。
日本語の特質というものが、論理的な表現には向いていないが、幽玄なる表現にはとても向いているということである。一面の欠陥は、他方面では大変なアドバンテージになる。
彼女は「侘び」「寂び」の美意識を 「それは欠落を孕むことで完成する、ひとつの世界なのであって、日本人に深く刻み込まれた、美意識なのだと思う」と結んでいる。
唐突に、こともあろうに、この美意識をプロレスと結びつけるのは、無茶苦茶なお話に見えるかもしれないが、どうやらそうでもないということが、Rtmr さんの 「和泉元彌師は世阿弥の再来である」 というテキストをご覧になれば、わかる人にはわかると思う。
「秘すれば花」であることを、ことさらにストレートに言うのは、無粋なのである。だから、私も昨日の記事を、ごく遠回しなイチャモンに止めておいたのであると、今日になってからもっともらしく言ってしまっては、せっかくの「侘び寂び」を台無しにしてしまっているなあ。
全てを語りきらないというテクニックは、学んでおいて損はなさそうな気がする。私のテキストは、まだまだ老獪さに欠ける。
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