« 広報のあり方について考える | トップページ | インターネットと当事者意識 »

2005年11月23日

情報は「一ひねり」してこそおもしろい

マスメディアから発信されるの情報への接し方として、「鵜呑み派」と「マスコミ信じない派」の両極、そしてその中間の、「ある程度信じる派」と「一ひねり派」の 4派に大別されると思う。

私自身は 本宅サイトで標榜しているように、当然「一ひねり派」である。

世の中で案外多いのは、「鵜呑み派」だ。これだけ価値観が多様化しているというのに、マスコミ情報をいともたやすく信じ込んでしまう。テレビの健康番組で紹介された食品が、翌日のスーパーで品切れになってしまうのは、こうした「鵜呑み派」が多い証拠である。

特定の食品を急に食ったからといって、そんなに簡単に血圧が下がったり腹の脂肪が落ちたりしたら、誰も苦労はしないのである。

卑近な例で言えば、和装業界の重鎮が「足袋の足指の股を『小股』と言います」ともっともらしく証言するだけで、「小股の切れ上がった」という成句の「小股」までそうだと信じるという、業界用語と世間一般の言葉との区別のつかない人もこの範疇に入る。

これに関しては、相撲の決まり手の「小股すくい」が、足の指の股をすくうものでないというだけで論破されると、私は 10月 30日の当欄で述べている。

「鵜呑み派」の対極に、「マスコミ信じない派」がいる。1970年代頃までにかなり多かったのは、「ブルジョア・マスコミの言うことは信じない」という左翼だったが、最近はかなり下火になってしまった。

その代わり最近では、「世界を影で動かしているのはユダヤ資本」とか、「フリーメーソンの陰謀」とかをまともに信じて、「マスコミは意図的にウソばかり流す」と言い出す種族が、けっこう増えている。これはこれで、ちょっとアブナイ。

中間派の中の「ある程度信じる派」というのは、フツーの日本語で言い換えれば、「常に流される派」ということである。一見すると常識的で穏健で無難だが、決して情報に主体的に接しているわけではない。

このサイトで目指しているのは、同じ情報でも「一ひねり加えた視点」から見ることだ。そうすることで、見えないことが見えてくることがある。悲劇が喜劇になることもある。絶望が希望に変わることだってある。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

|

« 広報のあり方について考える | トップページ | インターネットと当事者意識 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 情報は「一ひねり」してこそおもしろい:

« 広報のあり方について考える | トップページ | インターネットと当事者意識 »