「確信の悪」と「未必の悪」
このところ、BBS で続けざまに難問を突きつけてくれている 「かっこいいお兄さん」が、またしても難しいテーマを提起してくれた。
一つは "「確信」の悪と「未必」の悪の境界"、さらに難儀なのは、"「フツー」のずるさ" というものだ。彼は小学校教員をしておられるので、いつも感じる問題らしい。
二ついっぺんに考察するのは大変なので、まずは "「確信」の悪と「未必」の悪の境界" というテーマに絞ろう。「かっこいいお兄さん」は、次のように述べておられる。(改行調整済み)
小学校にいて,明らかに「悪いこと」「よくないこと」をしでかした子どもがいたとして,その行為が良くないことと知っているのにやってしまう,という心理を測りかねることがあったので,そんな問い方になってしまいました。
きっと「ちょっとしたおふざけ」「うけようと思って」したことがかなりヤバイ事態を招いて,初めてことの重大さに気づく。で,評論家的に,「そうやって子どもは成長していく」それは結果として誰にでも言えることでしょうけどね。
これは、以前に論じた "「無明」と「罪」" という問題に行き当たるかもしれない。釈尊は「知って犯す罪」と「知らずに犯す罪」とでは、後者の方が重いと説かれている。「知らない」=「無明」ということが、即ち根本的な「罪」なのだ。
無邪気な子どものすることを「罪」と決め付けるのは酷かもしれない。しかし、その「罪」=「無明」は、「知ること = 悟ること」によって消えていくのだから、いわば成長のプロセスなのである。
そう考えてこそ、「罪を憎んで人を憎まず」というテーゼが、初めて意味を持つ。
今回の京都府宇治の学習塾における殺人事件も、犯人のアルバイト講師は、年齢的には大人かもしれないが、精神的には小学生よりもまだ子どもである。
彼は取り調べに対して、「紗也乃さんがいなくなれば、楽になると思った」と供述したと伝えられる。人を殺して自分が楽になれるはずがないという単純なことに、彼は気付かなかった。なぜ気付かなかったのかといえば、彼が「無明」に耽溺して、「気付こうとしなかったから」である。
今回の事件に限らず、ほとんど全ての殺人は、そうした深刻な「無明」によって成立する。だから、「確信の悪」と「未必の悪」の間には、根本的な境界線はない。「悪」は「無明」の中にしかないからだ。
「人を憎まず」というには、殺人はあまりにも取り返しのつかない行為だが、それでもなお、「憎まず」に通すのが、宗教的態度であると、私は思う。憎悪は無明を増幅させるだけだ。
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コメント
納得です。
投稿: alex99 | 2005年12月13日 19:01
alex さん:
ありがとうございます。
投稿: tak | 2005年12月13日 22:48