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2005年12月に作成された投稿

2005年12月31日

私のベスト・エントリー 2005

Ken さんの "BLOG STATION" で、「【TB企画】 あなたのベスト・エントリー2005」 というのをやっている。この 1年間に書いたブログ記事の中から、「自分のベスト」をピックアップして、紹介するという企画である。

今年の締めくくりとして、私もこの企画に乗ってみようと思う。

というわけで、自分の書いた今年の記事を辿ってみたのだが、「ベスト・エントリー」と厚かましくも声を大にして言いたいほどのものは、なかなか見当たらない。

その中で、最も反響を呼んだ記事というならば、やっぱり 11月 12日の "「女王」は「じょおう」か「じょうおう」か" ということになるだろう。何しろ、補筆して 「知のヴァーリトゥード」 の記事として挙げ、3日間で 5,000件以上のヒットにつながる呼び水になってしまったのだから。

自分で言うのも何だけど、私のサイトは「言葉系」にはちょっとばかり強みを発揮していて、ほかにも「おざなり/なおざり」「小股ってどこか」「森と林の違い」「カウチポテト/こたつぶた」「ララバイ/子守歌」「和/邦の使い分け」など、この分野ではちっとは知られたコンテンツを提供しているのだが、「女王の読み」については、この歳までまったく無意識だった。

あらら姫さんのブログ で「じょうおう」なんて読み方があり、しかもそれが「じょおう」より優勢である事実を知ってちょっと驚き、軽い気持ちで考察してみたのだが、それだけに、これほどの反響を呼ぶとは、思ってもみなかった。

だから、これをベスト・エントリーとするのは、「瓢箪から駒」的に、自分でもビックリこいたからという理由である。

ただ、このエントリーと、件の「知のヴァーリトゥード」に対する反響を見ても、「自分は "じょうおう派" だとか "じょおう派" だとかいう表面的なものばかりなのが、ちょっと不安だ。

古代の読みの 「じょわう (jowau)」 から、音便化によって 「じょをう (じょうぉう = jowo:)」 に変化し、その名残で今でも 「じょうおう」 が根強いという、多分正しいであろうと、我ながら自信満々の推論は、今イチまともに伝わっていないような気がする。

「知のヴァーリトゥード」 の補筆 の方は、さらに意識して結論を最初にもってきて強調し、さらに後で詳細に検討するという手法で書き直してみたので、以前に読んでピンと来なかった方は、年の終わりにもう一度お読みいただければ、かなりおわかりいただけると思う。

ところで、2年連続で毎日更新を達成した。健康の賜物である。来年もこのペースを維持していきたいと思っている。

ということで、良いお年を!

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2005年12月30日

何故年をとると 1年が短い?

同年代以上の仲間で忘年会をすると、必ず 「近頃、1年の経つのがあっという間だねぇ」 という話になる。誰もが、年をとると時間の経つのが早くなるというのである。

1年は子どもの頃から 365日と変わらないのに、どうしてこんなにも、実感としての時間感覚に加速度がつくのだろうか。

思えば、20歳を超えたあたりから、時間感覚は早まりつつあった。子どもの頃は「永遠」にも感じられた 1年という時間が、かなりあっさりと過ぎ去ってしまうのを感じていた。

その感覚は 30歳を超えてかなり強いものとなった。仕事の年間スケジュールが、あっという間に何回転もするのである。毎年毎年、同じことをしているに過ぎない自分が、なんとなくアホらしくなる時期でもあった。

40歳を超えると、1年なんて 1か月より短い。こんな短い 1年に、どうして 12か月も詰め込まれているのか、不思議なほどだ。そして、50歳を超えたら、それはもう釣瓶落としである。

この時間感覚の加速度の理由が、先日の忘年会で話題になった。

私は、子どもの頃の 1年は、自分の全人生の数分の 1の比重だが、20歳では 20分の 1に減り、50歳では 50分の 1に過ぎなくなる。つまり、自分の来し方との比較で、相対的に短く実感されるのではないかという推論を述べた。

もう一人の推論は、長く生きていろいろな経験を重ねるにつれて、「感動」が少なくなるので、ただ淡々と時が過ぎるだけになるのではないかということだった。

「例えば、同じ道を往復するのに、往きは長く感じても、帰り道はあっけなく感じるだろ。それは、往くときは新鮮な発見があっても、帰り道はその新鮮さが消えるからさ。それと同じようなものがあるんじゃないか」

この推論は、目から鱗である。ただ単に時間感覚が年齢と共に自動的に反比例するということではない。人生に馴れ合ってしまって、「感動」が失われることが問題だというのである。かなり反省させられる提言でもある。

いろいろなことに「どきどきわくわく」していた時代の心持ちに戻ることができたら、、1年の経つのが、もう一度長く感じられるだろうか。

そして、何より問題なのは、そのような心持ちを、1年を通じてキープできるだろうかということだ。かなりしんどそうだ。しかし、そう考えるだけで、既に案外 1年は長い。

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2005年12月29日

男の座り小便

最近あちこちで聞かれるようになった 「社会的 (?) プレッシャー」に、「男も(洋式便器で)座って小便をすべきだ」というのがある。

「へえ、そりゃ面倒な」と他人事のように思っていたのだが、ついに我が家でも、妻が「そりゃ、アナタにもそうして欲しいわよ。掃除するのは私なんですから」と言い出した。

初めは半分冗談かと思っていたが、妻は案外本気である。何と既に「男が座って小用を足すようになると、かくかくしかじかでトイレの汚れが防がれて、掃除が楽になる」というような、新聞だか雑誌だかの切り抜きがいくつも用意されていた。油断も隙もない。

さらに、有名人の誰それも、彼それも、皆、家では座って小用を足していると告白しているというのである。しかし、そんなことを告白してどうするのだ。

ただ考えてみると、私は最近、自宅を仕事場としているので、勤め人の男よりもずっと頻繁に自宅のトイレを使用している。ということは、妻にはトイレ掃除の負担を平均以上にかけているということになる。

そう考えると、妻の要求はそれほど理不尽なものではないどころか、もっともなことにさえ思われる。そこで、「座ってしないなら、アナタも応分のトイレ掃除をしなさい」などと、議論が余計な方向に発展する前に、私は大人しく「座り小便」を受け入れることにしたのである。

トライしてみると、確かに跳ね返りがない分、清潔なような気はする。それに、何となく力が抜けて、リラックスして気持ち良く排泄できるような気にもなる。思ったほど悪いものではない。

しかし、思いがけない副次効果があった。座って小便をしてみると、条件反射なのか何なのか知らないが、当初はする気のなかったウンコまでしてしまうことが、ままあるのだ。これについてはどう考えればいいのだろうか。

余計な時間がかかってしまうから、デメリットなのか、それとも、便秘にならずにすむので (元々、私は便秘症ではないが)、メリットなのか。そして、この傾向は慣れるに従って解消されるとの説もあるが、果たして本当なのか?

私はなにぶん座り小便の初心者なので、先のことについては、まったく予測できないでいる。

なお、座り小便についての詳しい情報は、以下をご参照いただきたい。

「男も座り小便をしよう運動」 とは? (ほぼ日刊イトイ新聞)
「男も座り小便をしよう運動」 調査結果があった! (同上)
〜立ちション派、座りション派?〜 「男性のトイレスタイルアンケート」 (TOTO)

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2005年12月28日

悲しみを堪え忍ぶ強さ

私はつかみかからんばかりの勢いで、人にくってかかったことがほとんどない。私とて深く憤ったことは何度もあるが、それがあまり直接的に外部に表現されないのだ。

これは東北や新潟辺りの日本海側で育った人間の、共通した性向なのではなかろうかと、東京に出てから気付いた。

世の中には「喧嘩大好き」な人がいる。何かというと、すぐに怒り出す人だ。会社などでも、ちょっと上司と意見が食い違うだけで、華々しく喧嘩をする人がいる。店のサービスが悪いといって、ことさらに大声で怒鳴る人もいる。

しかし、私はある意味、そうした声を荒げるような怒り方を知らないのである。これは、生まれた土地の「土地柄」とでもいえるかもしれない。

このことを強く感じたのは、昨年の中越地震の時だった。地震被災者たちの、行政の不手際をことさらに責めるでもなく、ただひたすら静かに堪え忍ぶ姿。避難所で何日も過ごし、ストレスが限界に達した状態でも、テレビのインタビューに、まるで他人事のようにポツポツと応える控えめな態度。

それまでひたすら無表情なまでに堪え忍んでいた山古志村の老婆が、崩れた我が家に何十日かぶりで再び訪れた時、初めて大粒の涙を流して泣き崩れた。それは、ご先祖の位牌が泥流にさらわれて失われたと知ったからだった。

自分のことならいくらでも耐えるのに、ご先祖の位牌を失うことは、耐え難い悲しみだったのだ。何というノーブルな人たちだろう。

今回の羽越線特急の脱線転覆事故でも、同じようなことを感じた。事故で怪我をした人、亡くなった方の遺族。皆、驚くほど穏やかなのだ。4月に起きた尼崎の脱線事故の場合と比較しても、その穏やかさは際立っている。

責任を追及して声を荒げることを悪いと言うのではない。それは必要なことである。しかし、私は東北日本海側の血が流れているので、あの穏やかと言えるほどの切々とした悲しみを、より深く受け止めてしまう自分を発見する。

他を圧するアグレッシブな強さではなく、悲しみを内に秘めた、堪え忍ぶ強さ。私の思い描く強さとは、そうしたものだと気付くのである。

【平成 20年 2月 5日 追記】

大分立ってからの思い出したような追記で恐縮だが、この事故の関連で、次の記事も参照されたし。

羽越線脱線事故・外伝  (同年 4月 14日)

 

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2005年12月27日

羽越線脱線転覆事故に思う

25日の夜から、ウチのサイトへのアクセスがいつもより多かったのだが、どうも特急列車脱線転覆事故のニュースで 「山形県庄内町」 と繰り返されるので、このサイトを思い出してくれる人が多かったようなのだ。

しかし、こんなことでアクセスアップしても、全然喜べないじゃないか。

事故現場は、私の実家から車で 30分も走れば行けるところだ。先日も、実家の引っ越しの手伝いに行った帰りに、まさに特急いなほ 8号(事故を起こしたのは、いなほ 14号)で通ってきた所である。

冬の庄内では、風速 20メートルというのはそう珍しいことではない。古い話になるが、昭和 51年 10月 29日の酒田大火の時にも、このくらいの風が吹いていた。それで炎が風下に向かい、地上をなめるように燃え広がったのだ。

この大火が起きたためにニュースにはならなかったが、同じ日に、庄内の海岸線では、津波のような高波の被害があったと聞く。海岸から国道を越えてきた大波に、売り物をさらわれた商店もあったらしい。

今回の脱線転覆事故では、現場近くの風速は約 20メートルと言われているが、それを記録した風速計は、鉄橋の上にあったものではないという。とすれば、鉄橋の上では、多分それを大きく上回る風が吹いていただろう。最上川が風の通り道となるからだ。

冬の庄内は、しょっちゅう「冷たい台風」に見舞われているようなものなのだ。人間の居住地としては、世界最強の地吹雪地帯といわれるのも頷ける。私も高校時代までは、ホワイトアウトした中を学校まで行ったことが何度もある。

事故に遭って亡くなられた方は、さぞ無念なことだったろう。さらに、あの猛吹雪の中で、夜を徹して救出作業にあたられた警察、消防、医療関係の方々は本当に大変なことだったろうと思う。

そして、中越地震の際にも触れたことなのだが(参照)、北陸・東北の日本海側の人たちの、不運な災害、事故に遭っても、決して恨み言を言わずにただ静かに耐えている姿には、頭が下がる。

実は、私の妹は実家の引っ越しが終わった後、26日に東京に戻る予定だったのだが、羽越線が不通になったため、本日に仙台まで高速バスで行き、そこから東北新幹線に乗り継いで帰ることにしたようだ。難儀な旅である。

亡くなられた方のご冥福と、怪我をされた方の回復を祈る。そして、このような事故が繰り返されないことも祈りたい。

【平成 20年 2月 5日 追記】

大分立ってからの思い出したような追記で恐縮だが、この事故の関連で、次の記事も参照されたし。

悲しみを堪え忍ぶ強さ  (平成 17年 12月 28日)

羽越線脱線事故・外伝  (同年 4月 14日)

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2005年12月26日

マーケティングにおける 「多様化幻想」

マーケティングのセミナーに行くと、現代は「多様化の時代」であると説かれる。さら 「今や "十人十色" どころか、"一人十色" の時代」などと力説する先生もいる。

こうしたお説の請け売りを、あちこちで吹聴するお偉方も多いが、恐縮ながら、「多様化」をあまり真に受けると、かなり危ない。

「多様化、多様化」と唱える方々は、自分の言っていることに一片の疑問も持たないのだろうか? 本当に、この世は多様化していると信じているのだろうか? 個性的な連中があふれかえっているとでも見えているのだろうか?

試しに周囲を見渡してみるといい。確かに完全に画一化されているというわけではないが、内実は見事に均質化された連中が多いではないか。この程度で「多様化」だの「一人十色」などと見えるのは、よほど前時代的な基準に照らし合わせているのではなかろうか。

本当は多様化しているのではなく、内部が見事に均質化したグループが、複数存在するだけである。こうした社会では、本当に個性的な人間になってしまうと、受け皿となる「グループ」がないので、当人がかなり強くないと生きていけない。

マーケティングの視点から世の中が多様化していると見えるのは、サプライヤー側としては、本当は効率のいいマスプロダクションで押していきたいのだけれど、なかなかそうはいかなくなって、苦労が増えたから、一見多様化していると見えるだけだ。

マーケティングの世界でよく言われることに、「日本の消費者は目が肥えている」というテーゼもある。これも真に受けてはいけない。そんなに目が肥えているなら、どうして高級ブランドの偽物がこんなに出回るのだ。

本物と偽物を見分ける目があればいいという問題ではない。ことさらな有名ブランドによりかかって自己表現したいという妙な価値観自体が、根本的な問題なのである。かくして、「多様化」しているはずの時代に、ルイ・ヴィトンが一人勝ちしてしまう。

いわゆるマーケティングというのは、基本的には「通俗社会学」の上に成立しているのだと認識しないと、勘違いをしてしまうことになる。

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2005年12月25日

停電と灯油ストーブ

このほど、実家が新居に引っ越したわけだが、最近の住宅というのは高気密・高断熱で、かなり暖かい。それでも、引っ越しの際には、「電気を使わない昔ながらの灯油ストーブは捨てないように」と注意された。

もちろん、停電になっても凍えないための対策である。

先日の新潟市の大停電では、この「昔ながらの灯油ストーブ」が大活躍したと伝えられる。新型のファンヒーター・タイプは、確かに暖かいが、電気がないと何の役にも立たない。灯油ストーブのない家庭は、かなり往生したらしい。

我が家にも、昔ながらの「対流式灯油ストーブ」というのがある。これに点火すると、ランプ代わりになる程度の明るさも確保される。普段は押入の奥にしまわれているが、いざという時には、すぐに取り出せるようにしてある。

大分前の話だが、関東地方にも大雪が降り、我が家の近くの送電線が着雪の重みで切れてしまい、かなり長い間停電してしまったことがあった。

タイヤチェーンをしっかり巻いた車で、家路に着き、我が家の近くまで来ると、世の中が真っ暗である。信号も付いていない。我が家に入ると、薄暗い居間で、家族が車座になって灯油ストーブを囲んでいた。これがなかったら、大変なことになるところだった。

翌日、近所の人の話を聞くと、灯油ストーブのない家庭では、家族全員で毛布をかぶって、ひたすら震えていたらしい。気の毒なことであった。

それにしても、酒田から筑波に戻ってきてもかなり寒いと思っていたら、気象情報を調べたところ、やはり最低気温はこちらの方が低いのだった。25日の予報で言えば、酒田の最低気温が 0度なのに、この辺りはマイナス 6度になるという。

やはり雪が積もってしまうと、それほどには冷えないのだ。筑波の里には、雪を山の向こうに置いた寒風だけが吹き付けるということなのだろう。それに、天気がいいから放射冷却もあるし。ぶるぶるだ。

ところで、1965年の秋に起こったニューヨークの大停電では、その 270日後に出産ラッシュがあったという。しかし、今回の新潟の大停電では、寒くて重ね着をする一方だっただろうから、少子化対策には全然役に立たなかったに違いない。

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2005年12月24日

何度も、いろんな言い方で言われたことだけど

さてさて、クリスマス前日である。世の中はクリスマス・ソングで包まれる。

考えてみると、私のハーモニー感覚は、かなりの部分、クリスマス・ソングで養われた。街で「ジングルベル」や「きよしこの夜」が聞こえると、無意識に低音部を付けている自分を発見してしまう。

和音という要素をあまり気にしない日本人の血を受けて、ハーモニー重視の西洋音楽感覚を身に付けるのに、クリスマス・ソングの果たした役割は大きい。それだけでなく、何となく「バタくさい」(死語だが)感覚を生活に取り入れるのに、クリスマスは大きなきっかけとなっている。

今でもセレブな住宅街では、クリスマス・イルミネーションを競うのがトレンドらしい。やれやれ。

キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うのを批判する人もあるが、構うことはない。日本人は昔から宗教的には寛容だったのだ。ほんまもんのキリスト教徒には怒られるだろうが、イエス・キリストだって、八百万の神の一柱と思っているところがある。

我が家でも、24日から 25日にかけては、CD でクリスマス・ソングを流しっぱなしにする。

数あるクリスマス・ソングの中でも、私がご贔屓なのは、その名も "The Christmas Song" という歌で、"Merry Christmas To You" というタイトルになっている場合もある。ナット・キング・コールの歌が一番ポピュラーだと思う。

やっぱり、この歌の最後の歌詞は泣かせる。

そして、僕はシンプルなフレーズをささげたい
1歳から 92歳の子どもたちに
それはこれまでも、何度も、
そしていろんな言い方で言われたことだけどね


"Merry Christmas to you"

それから、まだこのページを見ていない人、よろしければ、見ていただけるとうれしい。Click → 「サンタクロースは本当にいる

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2005年12月23日

大晦日の格闘技イベント

大晦日の恒例になってしまった格闘技イベントだが、PRIDE と K-1 の路線の違いが際立ってきているように思う。

コアなファンの反応を重視しているように見える PRIDE と、視聴率重視とも思える K-1 という図式だ。私は K-1 の方に、プロレスの悪しき血脈を感じてしまう。

K-1 で見たいと思うのは、須藤元気 対 山本 "Kid" 徳郁 ぐらいのものだ。他のカードも、そこそこネームバリューのある選手を揃えてはいるが、それほどそそられない。ホイス・グレーシー 対 所英男、永田克彦 対 レミギウス・モリカビュチス の試合は、後で結果だけ聞けばいいという気がする。

武蔵 対 ボブ・サップ、曙 対 ボビー・オロゴン のカードは、下手すると紅白に行ってしまう層にアピールして視聴率を取りたいというだけのことで、私としてはあまり興味も湧かない。

ましてや、「矢沢永吉の参戦」 などという派手なファクターをもってきても、私は、「その間、チャンネルを行ったり来たりする必要がなく、心おきなく PRIDE の方に集中できる」 ということになるだけだ。

そりゃ、永ちゃんが嫌いなわけじゃないが、私は、大晦日の夜は格闘技を見たいのだ。せっかくの格闘技が、紅白の土俵に歩み寄ってどうするというのだ。

一方、PRIDE の方は、吉田秀彦 対 小川直也 のカード以外は、いかにも地味である。視聴率では、今年も K-1 に敵わないかもしれない。それに、寝技での膠着シーンが長くなって、一般のファンにはアピールしないかもしれない。

それでも、私は PRIDE の方に期待する。とくに、五味隆典 対 桜井 "マッハ" 速人 の、ライト級トーナメント決勝戦は注目だ。願わくは、テレビがこのカードを端折って放送するなんてナンセンスをしないでもらいたいものだと思っている。

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2005年12月22日

筑波の里も寒い!

実家の引っ越し作業に丸々 4日間かかり、昨夜ようやく我が家に帰ってきた。

昨日は一時的に寒波がゆるんだが、夜中からまたしても寒さが厳しくなってきた。庄内の地もかなり寒かったが、ここ筑波の里も、しんしんと冷えてきている。天気予報では、最低気温がマイナス 2度になるらしい。

ここ数年、暖冬傾向とやらで、正月に帰郷しても雪が積もっていないことが多かった。最近、高校野球で、北海道、東北の高校がそこそこ活躍するようになったが、私はそれは暖冬のせいだと思っている。

昔は北海道、東北では冬は雪が積もるので野球の練習ができなかったが、最近では根雪になることが少ないので、冬でも練習ができるのだ。

しかし、今回は様相が違う。クリスマスの前に大雪になるなんてことはないだろうと、実家の引っ越しを予定していたのだが、唖然とするほどの雪になってしまった。雪かきで腰が痛くなるほどである。

私と父は晴れ男なので、引っ越し作業中はそこそこに晴れ間が出て、それほどの支障はなかったのだが、それでも、寒い中での作業は、体に負担がかかる。帰宅してホッとして、初めて疲労が実感された。筋肉が固まってしまっている。

天気図はまたしても強い冬型になり、酒田では再び雪が強くなるだろう。実家の父は雪かきが大変だ。

【午後 4時 追記】

あまりの暴風雪で停電になり、上越新幹線も新潟県内で不通になってしまったようだ。昨日のウチに帰ってきてよかった。今日だったら帰れないところだった。

考えてみると、今回の旅は、新潟出張から実家の引っ越し作業まで、大雪という割には、すべてが綱渡りのようにうまく運んだ。我ながら、自分の晴れ男ぶりに驚いている。ありがたいことである。

今し方電話したところ、酒田はそれほどひどい天気ではないという。西日本の方が大変で、酒田にはこれから吹雪が来るようだ。その間に、少し弱まってくれるとありがたいのだが。

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2005年12月21日

仕事モードに復帰

いつもは夜中のうちに更新するのだが、夕べは丸々 4日間の引越し作業でさすがに疲れ果て、ぱったりと寝てしまった。

この間、まともな情報のインプットがなかったので、「一撃」の内容もどうということのないドメスティックなものになってしまって、何となく退屈なものになったかもしれない。

さて、今朝は実家の引越し作業から離れ、筑波の自宅に帰る。雪は一休みするようなので、新幹線のダイヤも心配することはなさそうだ。何十年ぶりの大雪という割には、JR での往復も、引越し作業もほとんど支障をきたさなかった。ありがたいことである。

明日からはまた、仕事モードに復帰だ。単なる仕事モードではない、年末モードである。この移動を含め、5日間ほど仕事にならなかったから、エライ勢いでこなさないと、正月も何もなくなってしまう。

忙しくなりそうだ。

これから旅支度をして、特急に乗らなければならないので、今日のところはこれにて失礼。

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2005年12月20日

「人間性バトン」 に答える

実家の引越し作業に追われ、新規情報のインプットがないので、更新のネタに行き詰っていた矢先、まこりんさんから 「人間性バトン」 なんてものがパスされてきたので、ありがたく受けることにする。

それにしても、「人間性」 ねぇ。そんな大上段に構えたバトンに答えられるだろうか。

本当に本当に、「人間性」 って、一体何なんだろうか。悉有仏性 − ことごとく仏性ありという。全ての人には、仏の性質ってものがあるらしいのだが、人間の性質なんて、下手にあったら、七面倒くさいんじゃあるまいか。

人間世界の七面倒くささからは、できれば遠ざかっていたいと思うのだが、それはなかなか叶わないようなのである。

とりあえず、答えてみよう。

    • 回してくれた方に対しての印象をドゾ☆
       
      まこりんさん、中森明菜を男にしたような顔つきの人と思っている。それから、「平成軽薄体」なる文体の達人。
      モノゴトをはぐらかすように見せて、実ははぐらかさない人。

    • 周りから見た自分はどんな子だと思われていますか?
       
      子!? オジさんなんだけど。
      周りからどんな風に思われてるかなんて、それがわかれば苦労はない。自分から見た自分さえよくわからないのに。
      下に述べる 1 から 4 のような人と思ってもらっていたら、幸せだけど。

    • 自分の好きな人間性について5つ述べて下さい。
       
      1. 一人でさっさとメシを食える人
      2. 山の中で一人で寝れる人
      3. 笑うべきところで笑える人
      4. 天気と食い物に文句を言わない人
      5. 知らないところで面倒見のいい人
       
      5番目以外のポイントでは、私は自信があるんだがなあ。画竜点睛を欠いて、完璧なナルシストになりきれない。

    • では反対に嫌いなタイプは?
       
      1. 一人でさっさとメシを食えない人
      2. 山の中に放り出されたら、眠れなくなっちゃう人
      3. 笑うべきところで笑わないのに、笑っちゃいけないとこで笑う人
      4. 天気と食い物に文句たらたらの人
      5. 大したことしないくせに、恩着せがましい人
       
      自分が 5番目のタイプというわけでは、決してない (と思う)。

    • 自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?
       
      若いやつらに気持ちよく遊んでもらえるくそジジイ。

    • 自分の事を慕ってくれる人に叫んでください。
       
      慕ってくれる人なんて、いるのかどうかわからないけど、いると仮定して、叫ぶしかないみたいなので。
      「賢明な技なら、何でも使えぇーっ!」
        
  • そんな大好きな人にバトンタッチ15名!(印象付き)

    う〜ん、私は、バトンは放りっぱなしにしておく主義だったんだけど、今回に限っては、「印象付き」 というのが重要ポイントみたいなので、バトンタッチした方がいいみたいかな。

    (もちろん、スルーしてくださって結構です)

    15名はとても無理だけど。それに、「大好き」 ということになっちゃうみたいなので、それを笑って受け止めてくれそうな人に。

    長尺物を飽きさせない、軟らかい硬派の alex さん

    理念の正しさと現実の正しさのギャップをきちんと見つめる Rtmr さん

    イラストとエレクトーンの鬼才で巨乳  (と当人が言っている) の kumi, the Partygirl

    うなじフェチ殺しの自転車乗り、千軒町 さん

    庄内の良心、いどさん (この人の日記は、庄内弁を解しない人にはかなり難解を極める)

    きっぱりとしたおたく、ululun さん

    文士の恋女房、花まき さん

ところで、「知らないところで面倒見のいい人」 というのに、なってみたいなあ。私はまだまだ愛深くないなあ。

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2005年12月19日

晴れ男が二人いると

18日で、実家の引越し 2日目が過ぎた。応援が 6人来てくれて、向かいの新居に、箪笥や食器棚などの大モノを移動した。

天気予報は一日中雪。しかも暴風雪警報のおまけ付き。ひどい吹雪を覚悟していたが、実際には大した雪にはならず、時には青空さえのぞいた。ありがたいことである。

私が晴れ男の上に、父も輪をかけた晴れ男。晴れ男が二人揃うと、こんなものかと、笑うしかないようなものである。

気温だけはかなり低かったが、最高気温が 1度と、かろうじて一日中氷点下になるのは避けられた。

何とか予定のものは運び終わった。今日は昼過ぎに私の妻も合流する。もう二日かけて小さなものを運び込み、整理するだけだ。何とかなりそうだ。

日が暮れてから、まともな吹雪になった。古い方の実家は風に煽られてガタガタいっている。今まであった家具がなくなると、隙間風がまともに入ってくる。

この家にいるのも、あと一晩だ。さすがに疲れたので、今夜はこの辺りで失礼。

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2005年12月18日

納戸や押入れの奥は魑魅魍魎

16日の夕方頃から、酒田に来ている。実家の引越しの手伝いだ。実家が今の住まいの向かいに新居を建て、引っ越すのである。

17日は朝から雪が降ったり止んだり、時にはみぞれ交じりという、引越しには最悪の天気。とはいえ、すぐ向かいに移ればいいのだから、のんびりと長期戦である。

私は一昨日も書いたとおり、かなりの晴れ男なのだが、それはお仕事モードでは絶大な力を発揮しても、プライベート・モードでは力が落ちるのかもしれない。

12月にこんなに大雪が降るなんてことは、近頃ではついぞなかったことで、しかも 18日は、暴風雪警報 雷注意報 波浪注意報が発令されている。暴風雪警報というのは、つまり、吹雪になりますということだ。しかも、昨日から雷もバンバン鳴っている。

17日は、小さなものをちょこちょこと運んで、後は、納戸や押入れの奥に潜む得体の知れないものの整理に費やした。

それにしてもまあ、モノがあるある! しかも同じようなものがいくつもある!

一度納戸の奥にしまいこんでしまうと、その品物は「ない」ということになってしまって、また新たに買い求めてしまう。そしてその新たに買ったものをまた押入れの奥にしまい、またまた「ない」ということになってしまって、さらに同じものを買う。

かくして、引越しのときには、あちこちから同じようなものが、次から次に発掘されることになる。充電式小型掃除機、スリッパ山ほど、魔法瓶型の水筒、タオルケット、毛布、小鉢セット、湯呑みセット、土鍋、卓上コンロ、座布団カバー、目覚まし時計、灰皿、花瓶、旅行バッグなどなど。

その他、いかにも贋作っぽい掛け軸十数本、武者小路実篤の「仲よきことは美しきかな」の額、中元で貰ったタオルが熨斗紙付きのまま百数十本、結婚式の引き出物で貰った陶器、漆器の類は数知れず、何とか友の会の積み立てで買ったまま、使いもしない電気毛布、健康器具の数々。

わけのわからなさではトップクラスの、「海軍精神注入棒」なんてものもある。これは、親父が予科練時代にけつをぶん殴られたバットみたいな棒のレプリカだそうだ。こんなことをしてたから、戦争に負けたのだと、親父も言っている。

引越しのときにまとめて捨てるために、長年の間、後生大事にしまいこんであったようなものだ。収納スペースはないよりはあった方がいいが、ありすぎると、とんでもないことになる。

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2005年12月17日

「処世術」と「処世訓」

いわゆる処世術で始まって処世術で終わるというような話には、興味がない。どうすれば金が儲かり、どうすれば出世でき、どうすれば人に尊敬されるかといった話のみで、そこから先のない話は、徹底的につまらない。

それが高じて、一時は処世術に関するテーマで始まる話というだけで毛嫌いしていた。

しかし最近になって、ようやくのことで、そこまで極端ではなくなった。処世術で始まって、処世術以上のことで終わる話というのもあるのだと、理解し始めたからである。

優れた芸術家が芸術の話から説き始めて普遍的なテーマに及ぶのと同じように、企業人が金儲けの話から説き始めて、人生の機微、哲学的真理に及ぶ話も、稀にはあるのだとわかったのである。要するに、話の糸口が別なだけだ。

企業人の話が面白いか、面白くないかというのは、「処世術」で終わるか「処世訓」にまで高められているかの違いだと思う。たった一文字の違いだが、小さな違いが大きな違いである。

「処世術」 というのは、所詮は一時的なものである。「うまくやれば、当面はうまくいく」程度のものだ。一方、「処世訓」ともなると、後世にまで語り継がれるに足る普遍的な何物かを含んでいる。

近頃話題の内河健という人などは、「処世術」ということでは、かなりギリギリまでうまくやった人なのだろう。あんまり長生きしないでおけば、「先生」として尊敬されたままあの世に行けたかもしれない。そうなっても、死んで何年かしたら、ボロクソ言われるだろうが。

彼のやり方は、「処世訓」 としてではなく、「否定的教訓」 としては、とても大きなものがある。

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2005年12月16日

晴れ男の面目躍如

出張で新潟市に来ている。15日の朝に発ち、昼過ぎに新潟駅に着いた。

あれだけ天気予報やニュースで 「大雪、大雪」 と言っていたのだから、新潟市も相当な雪と思っていた。ところが、越後湯沢のあたりで新幹線の窓の外を見ると、確かに雪景色ではあるが、空はきっちりと晴れている。

既に何度も書いていることなので、常連の読者諸兄はご存知だと思うが、私はかなりの晴れ男である。この 20数年、出張先で傘をさしたことがほとんどない。

今年の 10月に岡山に出張した時、ちょっとした小雨で傘をさした(参照)ぐらいしか記憶にない。この時だって、予報では一日中雨降りのはずだったのだが、実際には夕方にちょっと降っただけだったのだ。

しかし、今回だけはいくらなんでもだめだろうと諦めていた。何しろとてつもない冬型の気圧配置である。冬の日本海側で、雪か雨にならないわけがないではないか。

ところが、なんと申し訳ないことに、晴れてしまったのである。上天気である。しかも、時が経つほどに快晴に近くなってしまったのである。

地元の人もびっくり。「こんな上天気は、来年の春までないかもしれない」と言っていた。私も東北日本海側の生まれだから、その気持ち、よくわかる。

我ながら笑ってしまうほどの、晴れ男の面目躍如である。

今日はプライベートモードになって、新潟から羽越本線で酒田に入る。実家の引越しを手伝わなければならない。できることなら雪の中の引越しは避けたいところだが、さて、どうなるか。

[16日 朝 追記]

15日の夜から新潟も雪になったようで、朝目を覚ますと、ホテルの外は雪景色だった。明け方は雨に変わっていたが、しばらくすると、それも止んで、青空ものぞいてきた。

Niigata

それにしても、昨日は屋外での撮影もあったので、千載一遇のチャンスだったわけだ。ありがたいことである。

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2005年12月15日

「パパのウンコ」 再録

昨日、「知のヴァーリトゥード」 トップページのアクセスカウンターが、おかげさまで、めでたく 12万を超した。

14日は、午後にニフティがサーバ・メンテナンスを始めてしまって、閲覧できない状態だったため、どうかなと思ったが、終わってみれば、何のことなく夕方には達成していた。

近頃では、4時間近くアクセスできない状態になったとしても、1日のアクセス数がユニークで 100を下ることは滅多にない。さらに、ブログの "Today's Crack" の方も合わせたら、確実にユニークで 300以上のアクセスを集めるようになった。

つまり、私のテキストは毎日 300人以上の目に触れているわけである。夢のような話である。こうなると、1日のアクセスがせいぜい 20とか 30とかの時期に書いたテキストが、過去ログの中に埋もれているのがもったいないような気がすることがある。

私は同じネタを 2度書かない主義でこれまで来たのだけれど、こうして 3年半以上も毎日更新していると、似たネタというのは何度か出ている。ならばいっそ、復活ネタがあってもいいのではないかと思うようになった。

以前書いたネタで、もう一度より多くの読者に紹介してみたいという衝動に駆られるのは、何といっても一昨年の 2月 10日に書いた 「パパのウンコ」 である。当時は 1日のアクセスがやっと 30を越えた頃だ。今来てくれる 10倍の読者に、是非とも改めて読んでもらいたいのである。(以下、再録)

先日、上野駅のトイレで用を足していたら、小さな男の子を連れた若いオトウサンが飛び込んできて、「大」 の方に入り、ドアをバタンと閉めた。

取り残された男の子は、心細そうに 「パパァ」と呼びかけた。

パパは 「大」 の中から、「すぐ出るから、そこで待ってなさい」と応えた。

すると、小さな男の子は、「パパァ、すぐになんか出なくていいよぅ。ちゃんと一杯ウンコするんだよ。ゆっくり、一杯するんだよぅ」と健気にも呼びかけたのだった。

周り中、とてもほのぼのとした雰囲気に包まれた。

この子は、きっといつもママにそう言われているのだろう。「大」の方に入ったら、きちんと一杯ウンコをするのがいいことで、それをちゃんと外で待っているのが 「優しさ」 だと感じているのだ。

だから、見知らぬ場所に取り残された心細さを我慢してでも、パパが一杯ウンコをするのを待っていなければならないと思ったのだ。きっと優しいいい子に育つだろう。

いかがだろうか。私が是非とも再録したくて堪らなかった気持ちが、少しでもおわかりいただけただろうか。

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2005年12月14日

「フツーのずるさ」

さて、今日は BBS に「かっこいいお兄さん」から提示された「公案」の「フツーのずるさ」について考察してみよう。

二者択一の質問をしても、どっち付かずの「フツー」と答える子どもたち。極めて中途半端な手応えのなさ。これを「フツーのずるさ」と見る視点は、とても鋭いと思う。

さらに、BBS には「かっこ悪いお兄さん」まで乱入し、別の視点からの指摘をしてくれた。まさに、当サイトは「ヴァーリトゥード(禁じ手なし)」である。うれしいことである。

「かっこ悪いお兄さん」は、"「フツー」はずるさではなく、社会の矛盾に立ち向かう、子供達にすれば立派な知恵" という見方も提示してくれた。なるほど、そうした見方も可能だ。

彼の指摘は、以下のような裏付けを伴っている。

(いわゆる「フツー」でない)言動が個性的な子ども達は、「出る杭は打たれる」式に潰されていくか、反抗や非行や犯罪といった、メディアが非難するだけで根本的な「教育問題」に言及しないニュースに次々に登場していっている・・・

そうならないように、子どもたちは「フツー」を装う「立派な知恵」を身に付けているというわけだ。

ただ、これが「立派な知恵」かどうかは議論の余地がある。時と場合によっては、「猿知恵」だったり「狡猾さ」だったりもするからだ。それが小学校の先生である「かっこいいお兄さん」のいう「フツーのずるさ」という見方につながる。

結論をいえば、「フツー」は、本質的には善くも悪くもない。「相対的な善悪」が、人間の都合による言い方にすぎないのと同じで、「フツー」は、時と場合によって、善くも現れれば悪くも現れるというだけのことだ。

ただ、ちょっとだけ意地悪な見方をすれば、「フツー」は多くの場合、隠れ蓑である。人は個性的だと、誉められもする代わりに叩かれもする。しかし、「フツー」を装えば、とても安全なところに身を隠していられる。

「善人なほもて往生をとぐいはんや悪人をや」と親鸞は喝破した。「善人」とは、「俺は決して悪くない。悪い奴らは他にいる」と思っている「フツーの人」である。それよりも、「俺って、結構悪いかも」と己をきちんと省みることのできるヤツの方が、極楽往生を遂げやすいというのである。

「無自覚なフツー」は、「無明 = 迷い」そのものなのだ。それがわかれば、「悪人正機説」とは、昨日触れた "「知って犯す罪」より「知らずに犯す罪」の方が重い" というテーゼの、別の言い方であるとわかる。

「善人」を 「フツーの人」 、「悪人」を「フツーでない人」と読み替えてみよう。「俺、フツーじゃないかも」と、自惚れでなく、きちんと自覚できるヤツの方が、そりゃあやっぱり、ちょっとしたものなのだ。

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2005年12月13日

「確信の悪」と「未必の悪」

このところ、BBS で続けざまに難問を突きつけてくれている 「かっこいいお兄さん」が、またしても難しいテーマを提起してくれた。

一つは "「確信」の悪と「未必」の悪の境界"、さらに難儀なのは、"「フツー」のずるさ" というものだ。彼は小学校教員をしておられるので、いつも感じる問題らしい。

二ついっぺんに考察するのは大変なので、まずは "「確信」の悪と「未必」の悪の境界" というテーマに絞ろう。「かっこいいお兄さん」は、次のように述べておられる。(改行調整済み)

小学校にいて,明らかに「悪いこと」「よくないこと」をしでかした子どもがいたとして,その行為が良くないことと知っているのにやってしまう,という心理を測りかねることがあったので,そんな問い方になってしまいました。

きっと「ちょっとしたおふざけ」「うけようと思って」したことがかなりヤバイ事態を招いて,初めてことの重大さに気づく。で,評論家的に,「そうやって子どもは成長していく」それは結果として誰にでも言えることでしょうけどね。

これは、以前に論じた "「無明」と「罪」" という問題に行き当たるかもしれない。釈尊は「知って犯す罪」と「知らずに犯す罪」とでは、後者の方が重いと説かれている。「知らない」=「無明」ということが、即ち根本的な「罪」なのだ。

無邪気な子どものすることを「罪」と決め付けるのは酷かもしれない。しかし、その「罪」=「無明」は、「知ること = 悟ること」によって消えていくのだから、いわば成長のプロセスなのである。

そう考えてこそ、「罪を憎んで人を憎まず」というテーゼが、初めて意味を持つ。

今回の京都府宇治の学習塾における殺人事件も、犯人のアルバイト講師は、年齢的には大人かもしれないが、精神的には小学生よりもまだ子どもである。

彼は取り調べに対して、「紗也乃さんがいなくなれば、楽になると思った」と供述したと伝えられる。人を殺して自分が楽になれるはずがないという単純なことに、彼は気付かなかった。なぜ気付かなかったのかといえば、彼が「無明」に耽溺して、「気付こうとしなかったから」である。

今回の事件に限らず、ほとんど全ての殺人は、そうした深刻な「無明」によって成立する。だから、「確信の悪」と「未必の悪」の間には、根本的な境界線はない。「悪」は「無明」の中にしかないからだ。

「人を憎まず」というには、殺人はあまりにも取り返しのつかない行為だが、それでもなお、「憎まず」に通すのが、宗教的態度であると、私は思う。憎悪は無明を増幅させるだけだ。

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2005年12月12日

言葉の膨らみのない 「ロック・ミュージック」

元 (?) 筋肉少女帯大槻ケンヂ が、TBSラジオ「伊集院光 日曜日の秘密基地」に出て、面白いことを言っていた。

「ロック・ミュージシャンって、インタビューに応えて簡単に『わかんない』って言うけど、ああいうの聞くと、『おい、そりゃないだろう、もっと膨らませろよ』なんて思う」んだそうだ。

うーん、気持ちよくわかる。ロック・ミュージシャンって、ちょっと深い部分に及ぼうとすると、言葉感覚なさすぎで、お話にならないことが多い。

大槻いわく、「そんな時、当人に聞いてみると、『だって、本当にわかんないんだもん』なんて言うんだよね。そっかぁ、ロック・ミュージシャンてそうなんだ。あんなに簡単に『わかんない』なんて言っちゃっていいんだ。サービス精神なんか要らないんだと思ったね」

そうか、言葉を尽くすって、ある意味「サービス精神」だったんだ。てことは、文系人間て、そっけなく見えても、実はかなりサービス精神旺盛な存在なんだな。なにしろ、手を替え品を替えわからせようとする。

さんざんわからせようとした挙げ句、それでも通じないと、初めて泣く泣く諦める。

その点、(いわゆる)ロック・ミュージックってのは、「わかるヤツだけわかればいい」というところが価値といえば価値だから、言葉を尽くして説明しようなんて姿勢は、元々もっていない。いや、もっと言えば「わかる/わからない」なんてことより、生理的に「ノレる/ノレない」というだけのことだ。

このカテゴリーの中では、下手にサービスしちゃうとダメらしい。「サービス精神」がなくても、「ノレる」連中からは「ロックスター」として祭り上げられる。ただし、「言葉の膨らみ」はない。それがないから、残らない。

そうなんだなあ。だから最近の(いわゆる)ロックの歌詞は、つまらないのだ。ただ単に、音に乗っかりやすい言葉を連ねているだけだから。「韻を踏む」とか称しても、ダジャレのレベルがほとんどだし。

最近の(しつこようだが、「いわゆる」)ロックが文科系にアピールしない理由というのは、この辺りにあったのだな。ロックよりお笑いの方が、ずっとレベル高かったりするぞ。

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2005年12月11日

「ありがとう」のバリエーション

素敵なサイトを見つけたので、紹介したい。 "Jennifer's Language Page!" (ジェニファーの言語ページ!) というサイトだ。

"Thank you" だけで、世界の 500以上の言語での言い方が紹介されている。何しろ日本語だけでも 12種類の異なった言い方が載っているという充実ぶりだ。

このサイトは、Jennifer Runner さんという人が、ちょっとしたフレーズを世界中の言語で言うとどうなるかを紹介しているもので、"Thank you" 以外でも、例えば、800以上の言語での "Hello" の言い方、450以上の言語での "Goodbye" の言い方、425以上の言語での "How are you?" の言い方などが紹介されている。

中でもうれしいのは、やはり "Thank you" のバリエーションである。感謝の言葉は、世界中のどんな言葉でも最も美しいものだからだ。

私はこれまで、日本語、英語、ドイツ語、広東語、韓国語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語の「ありがとう」を実際に使ったし、それ以外でも、多くの言い方を知識として知っているけれど、こんなに多くの「ありがとう」を目の当たりにすると、それはもう、陶酔してしまいそうだ。

日本語でも、以下の「ありがとう」が掲載されている。

Japanese (Japan)                           Arigato
Japanese (Japan)                           Domo arigato
Japanese (Japan) [act of thanks not ended] Arigato gozaimasu
Japanese (Japan) [act of thanks has ended] Arigato gozaimashita
Japanese [Izumo] (Japan)                   Dan san
Japanese [Kansai Ben](Kansai, Osaka Japan) Ookini
Japanese [Kansai Ben](Kansai, Osaka Japan) Ookini arigatou
Japanese [Kumamoto] (Japan)                Kora doshi
Japanese [Kyo Kotoba] (Kyoto Japan)        Ohkini
Japanese [Shodoshima] (Shodoshima Japan)   Ookini
Japanese [Tohoku Ben] (northeast Japan)    Oshoshina
Japanese [Uchinaaguchi] (Okinawa Japan)    Nihwee-deebiru

この中に庄内弁の 「Mokkedano (もっけだの)」が見当たらないのがいかにも残念なので、さっそく投稿しておいた。Jennifer さんはとても忙しいらしいが、そのうち新たに登録してくれるだろうと期待している。

似た趣旨のサイトだが、Merry Christmas in over 350 languages (350以上の言語での 「メリー・クリスマス」) も、時節柄お勧めだ。

[12月12日 追記]

Rtmr さんのサイトで、【Japanese  [Izumo]  (Japan)  Dan san(出雲弁 で 「だんさん」) というのは、「だんだん」 のタイプミスではないかとの指摘があった(参照)。

そういえば、私も 「だんだん」 という言い方はどこかで聞いたことがある。

しばらく待って修正されなかったら、投稿で指摘してあげようかな。それとも、「だんだん」のバリエーションで「だんさん」という言い方もあるのかしらん。

それから、日本語の 「ありがとう」 のバリエーションは、こちら が圧巻。

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2005年12月10日

まぶたのぴくぴく

ぴくぴく、ぴくぴくぴく ・・・ 私の左目の上まぶたが痙攣している音である。いや、音じゃない、擬態語なんだけど、私にとっては、まさにこんな音が聞こえるような気がするほど、ちょっとイライラするのである。

近頃、原稿に追いまくられてパソコンに向かいっぱなしなのがいけないのかなあ。

昔から睡眠不足だったりすると、こんな風にまぶたがぴくぴくいうことがあった。思い起こせば、高校時代からかもしれない。いや、決して勉強しすぎたせいではない。夜遊びのせいである。

大学時代は夜遊びが恒常化してしまって、常に寝不足気味だったから、しょっちゅうまぶたぴくぴくだった。それが落ち着いたのは、結婚して子供ができてからである。最近はこの症状は、年に 2回ぐらいに減った。

「まぶた/ぴくぴく」 をキーワードに、Google で検索してみると、529件がヒットした。ほとんどは、疲れたときや精神的ストレスがたまったときによく起こる現象で、あまり心配することはないとされている。数日か数週間で治る場合が多いというのだが、数週間も続いたら、かなわんなあ。

一過性でないのは、「顔面ミオキミア」という症状だそうだ。「脳幹部の腫瘍や炎症、多発性硬化症、外傷による顔面神経損傷の後遺症」によって引き起こされるなんて、恐ろしいことが書いてあるが、これは下まぶたに多いらしいので一安心だ。私の場合は、上まぶた専門である。

一番いいのは、睡眠をとって体を休めることだそうだが、それができるくらいなら、苦労はしないのである。年末ぎりぎりまで 「ぴくぴく」 と付き合うことになりそうだ。

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2005年12月 9日

ブログのテキストは、コンパクトにしたい

ブログのテキストの長さって、どのくらいが適当なんだろうか?

他のブログを見てみると、ほんの5〜6行から、延々と縦スクロールが求められるのまで、ピンキリで千差万別だ。短くても読む気しないのもあれば、長くてもつい読んじゃうのもある。

私自身のテキストで言えば、近頃の「一撃」は、初期の頃と比べると、ほとんど 5割増しぐらいに長くなっている。一昨年あたりのテキストは、せいぜい 20〜30行程度だったが、最近は 30〜50行ぐらい書いてしまっている。

私は、できることなら 30行以下にしておきたいと思っている。毎日毎日、ちょっとした時間を見つけてアクセスしてくれる読者諸兄には、30行を読む以上の負担をかけたくないという気持ちがある。何しろほんの「一撃」なのだから、コンパクトなことも価値の一つだ。

ところが一昨日なんか、50行以上も書いてしまっている。まだまだ文章が練れていない証拠である。きっと、凝縮して書けば短くて足りるところを、それでは言葉足らずなような気がして、無駄を取り混ぜてつい長く書いてしまっているのだ。

それは、きっと読者の読解力を信じていないからに違いない。誠に失礼千万、恐縮な話である。足りないのは読者の読解力ではなく、実は、自分の文章力である。

自分自身が他のブログを読みに行って、本当にきちんと付き合えるのは、やはり 30行ぐらいのものである。それ以上だと、流し読み部分が多くなる。30行以上の文章を読んでも、30行分の理解しかできない。それ以上きちんと読むには、それ相応の時間を取って読まなければならない。

私のブログなんぞは、仕事の合間のちょっとした隙間時間で読んでもらえればいい。そんなに本腰を入れて読むようなものじゃない。だったら、長いテキストは読者に余計な負担を強いるだけだろう。

今後は、できるだけコンパクトなテキストを心がけたいと思う。長い文章が必要な時は、「知の関節技」にフィーチャーすることで、棲み分けを図りたい。

続きを読む "ブログのテキストは、コンパクトにしたい"

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2005年12月 8日

「爪切り」の比較文化

昨日は「仏の悟り」なんていう広大無辺なテーマを書いたせいで、ちょっと疲れてしまったので、今日はとても些細なテーマである。

某所で「シナプス」についてちょっとだけ論じたところ、それについて 以前に書いたコラム をきっかけに、「日米の爪切りの違い」ということを思い出してしまったのである。

「爪切り」 は英語で "nail clipper" という。もっとも、鋏形式のものは複数形で "nail clippers" というのだが、あの、てこの原理を応用した形のモノは、単数形でいいようだ。

一昨年の夏、その "nail clipper" を米国のドラッグストアで買った時のことである。ニューヨークのごく普通の規模の(ということは、日本的発想からは「かなり大型」の)ドラッグストアの売り場には、3種類の "nail clipper" があったのだが、どれもみな、爪の飛び散るのを防ぐサイドカバーが付いていないのだった。

日本で爪切りを買ったら、今どきよっぽどの安物でない限り、サイドカバー付きでない方が珍しい。米国人は何しろ大雑把だから、切った爪が部屋中に飛び散ったところで、あまり気にしないのだろうと思ったわけである。

さらに、ライフスタイルの違いがある。

日本の家屋は靴を脱いで上がるので、畳や床に飛び散ったものは、小さなものでも気になってしまう。しかし、靴のまま部屋まで入る米国では、切った爪程度なら無視できる。後で掃除の時に、他の小さな塵と一緒に掃除機で吸い取ってしまえばいい。

それにいくら米国でもサイドカバー付きの "nail clipper" がないわけではないようなのだ。しかしそうした商品は、ごく一般的というより、ちょっとした「アイデア商品」扱いに近いようなのである。

例えば、"Nail Clipper with Grip Handle" (取っ手付き爪切り)というものがある。わざわざ 「切った爪が飛び散らないように "ネイル・キャッチャー" 兼用の取っ手を付けた」みたいな説明があり、何と、メーカーは "Seki" という日本の企業ではないか。

さすが、蛇の道は蛇である。その「取っ手」というのがちょっとだけ大げさなのが笑えるが、こんなのが通販で 19ドル 95セント(2000円以上)もする。

同じアイデア商品でも、"Table Top Finger Nail Clipper" というのは、机の上にどっかと置いて、おもむろに爪を切るという、冗談みたいなタイプだ。値段は 10ドル 95セント。日本なら、こんなものに 1000円以上も出すアホはいない。話のタネにというなら別だが。

この商品、写真で見ると本体がベースに半分ほど埋め込まれているが、きっちりと覆われているわけではない。爪の飛び散り方は減るだろうが、皆無とはいかないだろう。米国人というのは、よっぽど大雑把である。床ならまだわかるが、テーブルの上に爪が飛び散っても平気のようだ。

同じタイプでも、英国製の "Nail Clipper Board" は、28ドル 52セントもするだけに、ちょっと高級感がある(ような気がする)。しかし、こんなに高くても、やはりサイドカバーがなく本体むき出しで、とことん大雑把だ。いくら米国でも、3000円以上も出してこんなもの買う人がいるんだろうか?

こうした商品を眺めていると、米国人は気質が大雑把な上に、手先が不器用なんじゃないかと思う。よっぽどの不器用じゃなかったら、たかが爪を切るぐらいのことで、据え置きのテーブルトップ・タイプなんか使うという発想すら湧かない。

そしてそれほどまでに不器用なので、 "Seki" の商品のサイドカバーは、あれほどまでに大げさな取っ手タイプになったのだろう。ちまちまっとしたサイドカバー付きでは、米国人の無骨な手にはしっくり来ないということが、マーケット・リサーチでわかったのかもしれない。

(12月23日追記: このほど実家に帰ったら、この "Seki" の爪切りがあった。なんと、ものすごく切れ味がいい。爪切りの世界ではちっとは名の知られたメーカーらしい。もしかしたら、「関の孫六」 の伝統を引いたメーカーか)

「たかが爪切り、されど爪切り」 である。

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2005年12月 7日

善悪の境界線

BBS に「かっこいいお兄さん」から「鏡の左右/上下」問題に続く宿題が投稿された。今度は「善悪の境界線」という問題である。

いろいろの解答の仕方があるだろうが、私は禅坊主の孫だから、仏教的に答えてみようと思う。常識論とか「好きずき」とか法律論とかで答えてもしょうがないだろうから。

「かっこいいお兄さん」 からのコメントは、次のようなものである。

鏡問題一段落で調子に乗って第2弾。
善と悪について。
その境界線はどこにあるのか。
「良い人」と「悪い人」の境目とは?
「根はいい奴なんだけど好きになれないよな」
「本当はきっと優しいのよ」
これもロジックいじわるでしょうか。
ヒトラーは悪い人?伊藤博文は良い人?ペヨンジュンは良い人?
じゃあ,みのもんたは?
コブラツイストで極めてください。

まずお断りしておかなければならないのは、コブラツイストは有効な技とは思えないので、使わないということだ。「プライド」の試合で、コブラツイストでギブアップなんか取ったら、観客が呆れかえる。

本当に有効な関節技というのは、派手なものではなく、いつの間にか極まってしまうものである。今回の私の解答も、そんなようなものになるだろう。

取り敢えず明らかにしなければならないのは、「善」とか「悪」とかいうものが、最初から明確に存在しているわけではないということだ。それは「人間の都合 = 業(ごう)」で、後からもっともらしくくっつけただけのものである。

いろいろな「モノ」とか「コト」とかを、人間の側の諸々の「業」で、 「善」と呼んだり「悪」と呼んだりしているだけである。「業」は千差万別だから、同じ「モノ」とか「コト」とかでも、その時々で、あるいは立場によって、「善」だったり「悪」だったりする。それは単なる「結果論」である。

「普遍的な善」とか「普遍的な悪」とかいったものがあるとすれば、それは「結果」の中にはない。かといって「原因」の中にもない。「原因」も、ものごとの連続の中では何かの結果だから。

つまり「因果」 の世の中であるこの「浮き世」に、「普遍的な善悪」は見い出せないのである。どうしてもそれを求めたかったら、「因果 = 業の流転」を超越したところに見出す他はない。

釈迦牟尼如来が悟りを得た時、目の前から「悪」というのが全て消滅して、「普遍的な善」=「仏だけの世界」が現出した。それを称して「山川草木国土悉皆成仏」(すべてのものがことごとく成仏している)、また「悉有仏性」(ことごとく「仏性: ぶっしょう」 有り)という。

「仏性」とは即ち「普遍的な善」そのものだが、それは「般若」= 仏の智恵だから、形がない。形がなく、自由自在のものであるから、縦横無尽の現れ方をする。だから、一般的な言葉で「これが善だ」というように規定することはできない。ただ座して観ずるしかない。

「仏性」の未だ顕現していない状態を「無明(むみょう)という。「無明」は即ち「迷い」だから、いわば「悪」のようなものなのだが、そこに 「仏性」が顕現しさえすれば、つまり「悟り」さえすれば、即座に消え去る。

「悟り」という明かりがパチンと灯ると、「悪」は存在することができない。つまり、悟ってしまえば、悪はないということで、これを「光明遍照」という。あまねく悟りの光だけなのだ。

まとめると、まず「いわゆる普通の善悪」の基準なんてものは、時と場合によって千変万化する相対的なもので、はなはだ頼りにならない。

そして、普遍的な世界ということになると、あるのはただ 「普遍的な善」=「仏性」だけである。「悪」とは、ただ「まだ悟っていない」=「仏性がまだ顕現していない」というだけのことで、「善」の対極にあるものというわけではなく、ただ「未完成」なだけである。プロセスの現れみたいなものである。

それ故に「煩悩即菩提」ともいうのである。

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2005年12月 6日

何故かちょっとだけ抑制が効いたマスコミ

近頃のニュースは、耐震強度偽装問題と、幼児誘拐殺人事件の話題でもちきりだ。

前者は一つの温床から悪役が次々と芋づる式に登場し、後者は似たような猟奇的事件が連続しているという点で、いかにもマスコミに乗りやすいネタだ。だから、両方とも暗い話だが、マスコミだけは生き生きとしている。

誤解を恐れずに言えば、マスコミというのは大抵の場合は「楽な立場」にいるのだ。どんな事件があっても、「いわゆる正論」に基づいたトーンで記事を書き続ければいい。「いわゆる正論」は、大事件ほど「正論らしさ」が増幅され、それを抵抗なく受け入れるユーザー(つまり読者や視聴者)が増えるから、マスコミは大事件が起きると生き生きして見える。

ただ、今回のマスコミの「生き生き度」は、少し抑制が効いているような印象がある。過日の宝塚線の脱線事故では、マスコミ全般が過熱しすぎて、ブログ界では大ヒンシュクだったことを思うと、今回は炎上ネタが影を潜めている。

今回の二つのネタで、「いわゆる正論」をアドレナリン出まくりでガンガン吹聴できないのは、それをすると自分の方にも火の粉が降りかかってきそうな気配があるからかもしれない。それは避けたいところだろう。

マスコミというのは、攻勢に出ると強いが、守勢に回ると打たれ弱いところがある。普段はぶん殴るばかりで、あまりぶん殴られることがないから、それは仕方のないところである。

耐震強度偽装問題に関しては、あまりディープに書きすぎると、社会の暗部にものすごい摩擦を生じることになりかねないようで、そんなことをしたら、自分の社でも何が起こるかわからないという感じのようだ。

このことについては、こちら の ブログを紹介しておくにとどめよう。まあ、私んとこの何十倍もアクセスのある人気ブログだから、既に知ってるかもしれないけど。

連続幼児誘拐殺人事件では、幼い子どもを持つ父母たちの不安を必要以上にかき立てすぎると、マスコミお得意の「人権問題」「在日外国人問題」に抵触する。

大体、あの事件の犯人がペルー人でなくて某国人だったら、ネットワークがしっかりしてるから、すぐに高飛びされてしまって、ひょっとしたら捕まらなかったかもしれない。まあ、仮定の話はあまり掘り下げないようにしておくけど。

その辺の裏まで読まないと、この年末は、何が何だかわからないということになりそうだ。

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2005年12月 5日

情報収集のための11の質問に答える

煩悩是道場」の ululun さんが、「情報収集のための11の質問」という 「バトンみたいなもの」 を廻してくれている。

この 「バトンみたいなもの」 は、かなりディープな質問が 11個もあって、私なんぞはちょっとたじろいでしまうのだが、せっかくのご指名だから、恐る恐る乗ってみようと思う。

ちなみに、このディープさ加減は、どうやらほんの少し 「はてな趣味」 みたいな雰囲気が漂う気がする。私自身は、「はてなあんてな」だけはかなり以前から使用しているけれど (あ、それから、このブログのリザーブも置いてるか)、「はてな趣味」からはちょっと距離を置いているんじゃないかと思う。

  1. RSSリーダーを使っていますか? (y/n)
    使ってません。理由は、積極的に使おうと思うほどの理由が見つからないから。そのまた理由は、不精だからなんだろうなあと思う。必要に迫られることがあれば、すぐにでも使うと思うけれど。

  2. アンテナを使っていますか?(y/n)
    使ってます。はてなアンテナ。もう少しで 100サイトというぐらい登録して、結構重宝してる。

  3. ソーシャルブックマーク(SBM)を使っていますか? (y/n)
    使ってません。理由は、RSS の場合と同じ。

  4. その他情報収集に使っているツールはなんですか?
    まったくベーシックなお話になるけれど、Google、ポータルサイトのニュース。そして、テクノラティジャパン。

  5. 他人にこれはお勧め!と思う方法は?
    人にはそれぞれの好みがあるんで、別にお勧めというのはない。ただ、気にかかったサイトから、ちょっと執念深くリンクを辿ってみると、面白い情報が発見されることがある。どのあたりにどの程度まで執念深さを発揮するかは、各人の勘と経験と好み (3K?) によると思う。

  6. 逆にこれはお勧めできないな、と思う方法は?
    別になし。

  7. 情報収集で良く参照するサイトは?
    はてなアンテナに登録したサイトは、けっこう満遍なく廻ってる。

  8. 自分のブログで良く言及・リンクするサイトは?
    特定のサイトは敢えて挙げないけれど、日常感覚からひょっとしたことを掘り下げてみせてくれるサイトは、かなり好き。ちょっとした「ひねり」とか「ねじれ」とかを見せてくれると、なおいい。

  9. 逆にここは参照してはいけない、と思うサイトは?
    特になし。

  10. WEB以外で良く情報源にするものは?
    ラジオ、いろいろな雑誌、人との会話 (案外、激しくアナログ)。
    ただ、最近 TBS ラジオで 「ブジオ」 なんてのをやってるけど、あれは趣味よくないと思う。(「ブジオ」 という名称からして)

  11. 最後にあなたが情報収集方法を知りたい人は?
    特になし。というか、個人そのものが既にいろいろなネットワーク上の存在で、飛び交ったり停滞したりする情報の顕現みたいなものだから。情報って、別に収集しようとしてどうこうするより、普通に暮らしていれば降り注いでくるもののなかから、意識的/無意識的に取捨選択したり身をかわしたりしているのだと思う。
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2005年12月 4日

昭和の歌、平成の歌

同年代同士でカラオケに繰り出すと、歌われるのはほとんど「昭和の歌」である。「平成の歌というシバリをつけようぜ」なんていっても、結局誰も歌えないのである。

オリコン・チャート」とやらを覗いてみても、知ってる歌が見つからない。さらに歌だけではなく、歌手の名前もわからない。

40歳になる前は、「最近の歌は、何を聴いても同じに聞こえる」というオッサンの言いぐさを笑っていたのだが、今や自分がそうなってしまったのだから、世の中恐い。

小沢昭一氏は「おじさんには今歌う歌がない」と歌ったが、幸いなことに、私の世代には歌う歌がいくらでもある。多分、10年後にも残っている歌の数で言ったら、今の若い連中より私の方がずっとレパートリーが多いだろう。

だから、今の歌を知らなくても全然悲しくはない。何しろ、ビートルズのヒット曲なら大抵歌えるというだけで、私は圧倒的アドバンテージを確保している。「どうだ、文句あるか」というぐらいのものである。

「オリコン・チャート」というサイトを見ると、B'z というグループが圧倒的に強いらしいが、私はその男の子二人組らしいグループの曲のタイトルを、1つも挙げることができない。多分、それは珍しい存在でもなんでもなく、45歳以上の人間なら、かなり多くがそうだろうと思う。

さすがに、彼らの歌がカーラジオから流れてくると、「ああ、B'z だな」とは思う。しかしそれは、「口の端からよだれが垂れそうな発音で、各フレーズの最後が、ロックのくせにムード歌謡っぽく裏声にひっくり返る歌唱法」で判別できるだけの話だ。B'z ファンには甚だ恐縮だけど。

私の世代は、音楽的にものすごく恵まれていたのだと思う。30年、40年経っても全然古くならない、きら星の如き名曲をリアルタイムで聞き込んで、もう十分にお腹一杯なものだから、薄っぺらな新曲にそんなに貪欲に向かって行かなくても済んでいる。

だからカラオケで「平成の曲しばり をかけても、私が歌えるのは「ヨゾラノムコウ」と「大きな古時計」ぐらいのものだ。おっと、「大きな古時計」は平成の曲じゃなかったか。

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2005年12月 3日

鏡の像の、左右と上下の謎

ウチのサイトの BBS 「知の海を泳げ!」 に、「かっこいいお兄さん」 から、"何十年も前からの不思議。「鏡に映すと左右が反対になるのに,上下はそのまま。どうして?」" というコメントがあった。

知の関節技」 での考察に期待してくれているようなのである。

この問題は、私なんかがしゃしゃり出なくても、いくつものサイトで手を変え品を変え、説明し尽くしてくれている。Google で 「鏡/左右/上下」 というキーワードで検索してみると、なんと、238,000件がヒットする。

しかし、その中のページを眺めてみても、「なるほど!」 と膝を打って納得するような説明には、なかなかお目にかかれない。小難しい数学理論で説明されても、多分きっちりと正しいのだろうが、私のような理数系白痴は、「ストンと体感的に納得する」 までに至らず、つまりは、「腑に落ちない」 のである。

その中でも、その名も 「aranxp: 鏡が左右を反転するのに上下を反転しない理由」というブログの説明には、私も「なるほど!」と思った。(参照

私自身はこれまで、「それは、自分が逆立ちしないから」と、いとも直観的に、しかし、論理的考察を尽くさないままで、中途半端に納得していたが、それは、「当たらずといえども遠からず」というところだった。

ここで私なりに、より直観的な文科系のレトリックで説明するとすれば、次のようになる。

もっともわかりやすい基本ケースとして、自分の背後にある時計が鏡の中に、自分自身の像の肩越しに映った場合を想定する。

まず、想像の中だけでいいから、後ろにある実物の時計に振り返り、正対して見てみよう。これは、この問題を考察するのに忘れられがちだが、実は最も重要なファースト・ステップである。このステップを踏まないと、この先、文科系は何も理解できない。

実物の時計に正対してみれば、時計はありのままに見える。当たり前である。この当たり前をまずしっかりと確認する。

そして、次のステップとして、おもむろに回れ右 (左右/前後方向の逆転) をして再び鏡を見る。すると、鏡の中の時計の像は左右反転している。しかし、それは時計の像が裏返ったというよりは、自分自身の 「視線の方向」 が回れ右して、 「左右/前後方向」 に裏返ったのである。

これは、相対的に置き換えれば、透明ガラスに時計の絵を描き、自分自身がガラスの絵の向こう側に行って振り返り、絵を裏側から見たのと同じ結果になる。

同じことをよりわかりやすい別の言い方に翻訳すると、次のようになる。

自分が後ろを振り向けば、時計は本来なら視界から消えてしまうはずなのに、たまたまそこに鏡があるので、時計はそこに右も左もなく、ただ単純平行的に像を結んでいる。しかし、それを見る自分の視線の方向が裏返っているので、透明ガラスに描いた時計の絵を裏から見るのと同じように見えるのである。

これでも腑に落ちないという人のために、えーい、ここまできたら、最終兵器的なレトリックでダメ押ししよう。これでも理解できなかったらどうしようもないというほど、単純明快な説明である。それは、こういうことだ。

もしも、半透明の鏡があったとしよう。いわゆる「マジックミラー」でもなく、あくまでも半透明なのである。その鏡は、モノを映して像を結ぶが、なにしろ半透明だから、向こう側の景色も見えるし、映った像を裏側から見ることもできるのである。

というわけで、この半透明の鏡に映った像を、「鏡の裏側」から見てみよう。すると、あーら不思議、結ばれた像の左右は反転していない。しかしそれは、不思議でもなんでもなく、「視線の方向」 が、実物の時計を見るのと同じ方向になってしまったのだから、当たり前の話なのだ。

ところが、その同じ像をフツーに「鏡の表側」から見ると、「視線の方向」が逆転しているので、あたかも時計の裏側から見たように見えるのである。

要するに、同じものを裏表からから見ているだけなのだ。フツーに鏡を見る視線は、延長してみれば、実物を裏から見ているのと同じ方向の視線なのである。

私同様、理数系白痴の文科系諸君、どうだ、わかったか。裏返ったのは、鏡に映った時計の像ではなく、あくまでも、自分の「視線の方向」なのである。

ところで、ここまでの説明で、「上下の逆転」については、まったく触れていない。ということはつまり、鏡の像の上下が反対にならないのは、人が鏡を見るときに「回れ右」をするだけで、逆立ちしないからである。「回れ右」と同時に、逆立ちもしてしまえば、鏡に映った時計の像は、左右だけではなく、上下も逆に見えるのである。

ただその場合、人は「逆さまになったのは自分の方であって、時計の像が逆さまになったわけではない」と、頭の中で余計な翻訳をしてしまうかもしれない。そんなことはどっちでもいいのに。ましてや、「回れ右」した時に自分の「視線の方向」が逆さまになったという重要ポイントについては、まったく無意識だったくせに。

そういうわけで、以上の考察は、2つの教訓を含んでいる。

1つは、ものの見え方というのは、「自分がどう見るか」という「視線」にかかっているということ。あるのはただ「視線」のみである。

2つ目は、人間の視線というのは、かくも重力を前提とし過ぎていて、「左右」は簡単にひっくり返るが、「上下」という観念には、容易には逆らい難いものがあるらしいということだ。

この問題に関しては、x軸、y軸、z軸なんていう七面倒くさい概念を使わなくても、文科系の日常的な言葉だけで、これだけの説明ができるのである。文科系の論理というのも、大したものなのだ。

もう少し時間ができたら、「知の関節技」 で、もっと詳細にきちんとレビューしたいと思っている。

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2005年12月 2日

世界地図では、誰もが多少はおバカ

今年の 3月に、「バカ日本地図」というのを紹介したが、今度は「バカ世界地図」ができたようだ。同じ「借力というサイトの労作。

某書店では、「ワールドワイドの方がきょ、強烈です・・・やはり」 と、そこはかとなく販促しているらしい(参照)が、世界地図となると、誰もが少しはおバカなんじゃなかろうか。

私だって、東欧とか、アフリカの真ん中あたりとか、南米のペルーとかの込み入ったあたりとかになるとお手上げだし、バルト三国なんてどれがどれだかわからない。

まだしもわかるのは、行ったことのある国ぐらいのものだろうが、私は 3日前にも触れたように、外国で行ったことがあるのは、米国とドイツとフランスと、中国に返還される前の香港ぐらいのものである。それでも、香港と上海のどっちが北にあるのか、最近まであやふやなものだった。

今となっては、そんな便に乗るのは誰もいないだろうが、20年ぐらい前に、それしか安い切符が取れなくて、南回りコースでドイツに行ったことがある。それはそれは、疲れ果てる長旅だった。

夕方に成田を発って、いったん西に沈んで地球の裏側を通って東から追いかけてくる太陽から、周回遅れのランナーの如く必死に逃げつつ、延々と西に飛ぶのである。一度給油のために熱風のダッカに降りた時間も入れて、20時間ぐらい必死に逃げまくり、やっと太陽に追いつかれ、そして完全に追い越されたところが、暦の上では翌朝のフランクフルトだった。

つまり、それはそれは、うんざりするほど長い長い夜だったのである。

その間、飛び越えたはずのアジア、中東、東ヨーロッパの国々の位置関係なんか、全然覚えていない。確かに、真っ暗な地上のそこここに光る街の灯はきれいで、あれがバグダッドか、あれがイスタンブールかと、その時は痛く感動したものの、残ったのは、もう二度と同じコースを飛びたくないという感慨だけだった。

世界というのは、うんざりするほど大きなものである。

1970年にサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結したとき、私の母は、「ベトナムってどこにあるのか」と私に聞いた。「ベトナムを知らないのか」と聞くと、「知らない」という。

「うーんと、ほら、昔は、フランス領インドシナと言ったあたりが、ベトナム」と言うと、「ああ、なんだ、仏印(!)のことか」とすぐに納得した。それまで連日のようにベトナム戦争のニュースを聞いて、一体どこの世界のことだと思っていたのだろう。

母の脳内世界地図には、戦後 25年を経ても、「フツイン」が生き続けていたようなのである。今でも、頭の中に「ソ連」の生き続けている人は、多分、世界中に何百万人もいると思う。

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2005年12月 1日

姉歯のオッサンの件で考える

姉歯建築士とやらの耐震強度偽装問題は、そろそろ他人事ではなくなってきた。このオッサン、日本中の安いビジネスホテルの耐震強度計算も、かなり引き受けていたらしい。

私なんぞは、こんな仕事だから、日本中のあちこちに取材で出張する。そして、安いビジネスホテルに泊まる。ちょっと恐い話である。

問題は、姉歯というオッサンが飛び抜けて悪かったのか、あるいは、うじゃうじゃいる偽装建築士の中の氷山の一角かということだ。もし彼が氷山の一角で、日本中至る所に耐震強度を偽装したホテルが乱立しているとしたら、もう、安いビジネスホテルには安心して泊まれない。

ただ、ちょっとだけ安心かなと思うのは、九州の建設会社である木村建設なんていう会社が、千葉市川くんだりの (市川市の人、すまん!) 姉歯建築設計事務所に耐震強度計算を発注しているという点だ。

偽装のプロが日本中にいるのなら、わざわざ九州の会社が千葉の会社に発注したりはしないだろう。つまり、姉歯のようなオッサンが日本中にゴロゴロいるというわけではないので、手近で済ませるわけにいかなかったと私は推定しているのだが、それは甘いだろうか。

姉歯建築士に頼んだのは東京支店だなんてツッコミをされたら、またぞろ不安になるが、このオッサン、本社や他の支店の発注と思われるのも、結構こなしてるみたいだし。あぁ、どうなんだろう。

このケースを裏から見れば、「耐震強度をごまかして建築コストを抑えたいなら、市川市のオッサンに強度計算を頼めばいい」ということが、はるか九州まで知れ渡っていたということなんじゃなかろうか。「耐震強度偽装界にこの人あり」というぐらいのものか。

おまけに、民間審査機関のイーホームズの方は、審査が飛び抜けて甘いことで有名だったという話もあるし、こんなんでは、誰かがタレコミしてしまうのは時間の問題だっただろう。

不運にもカス・マンションを掴まされた人には甚だ気の毒だが、今回のケースは、下手にごまかしをしたら、バレた時に会社が潰れてしまうぞ、責任者が命を落としてしまうぞという実例として、日本中に警鐘を鳴らす役割を果たしたと考えれば、少しは腹の虫も収まる。

しかし、ごまかしをしたら会社がおかしくなるなんてことは、以前の牛乳、牛肉、三菱自動車などのケースでわかっていたはずなのに、ちょっと業界が変わると、自分への警鐘だとは思わないらしい。

こんなことでは、すべての業界で似たようなごまかしが発覚しないと、日本の産業界はクリーンにならないんじゃないかとまで思ってしまう。

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