善悪の境界線
BBS に「かっこいいお兄さん」から「鏡の左右/上下」問題に続く宿題が投稿された。今度は「善悪の境界線」という問題である。
いろいろの解答の仕方があるだろうが、私は禅坊主の孫だから、仏教的に答えてみようと思う。常識論とか「好きずき」とか法律論とかで答えてもしょうがないだろうから。
「かっこいいお兄さん」 からのコメントは、次のようなものである。
鏡問題一段落で調子に乗って第2弾。
善と悪について。
その境界線はどこにあるのか。
「良い人」と「悪い人」の境目とは?
「根はいい奴なんだけど好きになれないよな」
「本当はきっと優しいのよ」
これもロジックいじわるでしょうか。
ヒトラーは悪い人?伊藤博文は良い人?ペヨンジュンは良い人?
じゃあ,みのもんたは?
コブラツイストで極めてください。
まずお断りしておかなければならないのは、コブラツイストは有効な技とは思えないので、使わないということだ。「プライド」の試合で、コブラツイストでギブアップなんか取ったら、観客が呆れかえる。
本当に有効な関節技というのは、派手なものではなく、いつの間にか極まってしまうものである。今回の私の解答も、そんなようなものになるだろう。
取り敢えず明らかにしなければならないのは、「善」とか「悪」とかいうものが、最初から明確に存在しているわけではないということだ。それは「人間の都合 = 業(ごう)」で、後からもっともらしくくっつけただけのものである。
いろいろな「モノ」とか「コト」とかを、人間の側の諸々の「業」で、 「善」と呼んだり「悪」と呼んだりしているだけである。「業」は千差万別だから、同じ「モノ」とか「コト」とかでも、その時々で、あるいは立場によって、「善」だったり「悪」だったりする。それは単なる「結果論」である。
「普遍的な善」とか「普遍的な悪」とかいったものがあるとすれば、それは「結果」の中にはない。かといって「原因」の中にもない。「原因」も、ものごとの連続の中では何かの結果だから。
つまり「因果」 の世の中であるこの「浮き世」に、「普遍的な善悪」は見い出せないのである。どうしてもそれを求めたかったら、「因果 = 業の流転」を超越したところに見出す他はない。
釈迦牟尼如来が悟りを得た時、目の前から「悪」というのが全て消滅して、「普遍的な善」=「仏だけの世界」が現出した。それを称して「山川草木国土悉皆成仏」(すべてのものがことごとく成仏している)、また「悉有仏性」(ことごとく「仏性: ぶっしょう」 有り)という。
「仏性」とは即ち「普遍的な善」そのものだが、それは「般若」= 仏の智恵だから、形がない。形がなく、自由自在のものであるから、縦横無尽の現れ方をする。だから、一般的な言葉で「これが善だ」というように規定することはできない。ただ座して観ずるしかない。
「仏性」の未だ顕現していない状態を「無明(むみょう)という。「無明」は即ち「迷い」だから、いわば「悪」のようなものなのだが、そこに 「仏性」が顕現しさえすれば、つまり「悟り」さえすれば、即座に消え去る。
「悟り」という明かりがパチンと灯ると、「悪」は存在することができない。つまり、悟ってしまえば、悪はないということで、これを「光明遍照」という。あまねく悟りの光だけなのだ。
まとめると、まず「いわゆる普通の善悪」の基準なんてものは、時と場合によって千変万化する相対的なもので、はなはだ頼りにならない。
そして、普遍的な世界ということになると、あるのはただ 「普遍的な善」=「仏性」だけである。「悪」とは、ただ「まだ悟っていない」=「仏性がまだ顕現していない」というだけのことで、「善」の対極にあるものというわけではなく、ただ「未完成」なだけである。プロセスの現れみたいなものである。
それ故に「煩悩即菩提」ともいうのである。
| 固定リンク
「哲学・精神世界」カテゴリの記事
- 「陰謀論を信じる人」に関する「面白くない」研究結果(2023.11.03)
- 「言っちゃいけないこと」を言っちゃう「正しい人」(2023.10.21)
- アメザリを踏みつぶすことと、「いじめ」の心理(2023.09.04)
- 「頭で考えない」ことと「スパイト(いじわる)行動」(2023.01.13)
- スーパースターとなって「暫らく〜ぅ」と叫ぶ(2023.01.01)
コメント
期待どおりの答え,ではありました。
仏教的な解説(解答)については,「悟り」「仏性」に?を思い浮かべながらなるほどと相槌。
自分の中でも思っていたのは,
「相対的」というまとめ。
結局は,「好き嫌い」が,そのときそのときの「主観」が,あるいは「機嫌」や「気分」が善悪を決めることは少なくないようです。
最高裁で判決を下す裁判長が,その日の朝食のメニューのことで夫婦げんかをした,,,それがきっかけで「死刑」などというのはこまわりくんだけでしょうが。
私が問いたいのは「善人の悪意」あるいは「悪意なき悪行」はたまた「善意に満ちた犯罪」というもの。
かなり「普遍的」に良くない行為でも,本人には「フツー」のこと,というのはよくありますね。
「気付よ少しは」っていう。そういうことに目くじら立てるのは神経質過ぎるのかもしれませんが,姉葉氏やその周辺見ていると思います。
マンションの住民はきっと善派でしょう。
「境界線」でいうと,幅が200mぐらいはありそうです。
なお,小学生のころ,1歳上の兄とプロレスごっこをやっていて,よくキーロックでギブアップしていました。
投稿: かっこいいお兄さん | 2005年12月 9日 00:31
>期待どおりの答え,ではありました。
うーん、期待を裏切りたかったような気も・・・ (笑)
>私が問いたいのは「善人の悪意」あるいは「悪意なき悪行」はたまた「善意に満ちた犯罪」というもの。
そのものずばりではないかもしれませんが、昨年の秋に書いた記事をご覧下さい。
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2004/11/___1.html
>なお,小学生のころ,1歳上の兄とプロレスごっこをやっていて,よくキーロックでギブアップしていました。
キーロックは、本気で極めたら肘関節脱臼します。ただ、入るプロセスで言ったら、あんな複雑な形に入るのは大変なので、相手がゴチャゴチャ逆らっているうちに、途中でグッと肘を伸ばす方向に移行して、逆十字に入る方がいいかなと・・・。
投稿: tak | 2005年12月 9日 14:10